定期検査の日だった。
ナーブギアによる脳損傷。
後遺症の経過観察。
SAO事件から解放され二年間寝たきりで衰えた体のリハビリと並行して何度も頭の検査を受けた。
退院後もこうして病院へ通うのは、もう半ば義務みたいなものになっていた。
正直面倒だが、実家を離れ一人暮らしを続ける上では必要なタスクだった。
受付を済ませ、無機質な廊下を歩く。
消毒液の匂い。
白い照明。
遠くから聞こえる足音。
その時だった。
曲がり角の向こうに、見覚えのある栗色の髪が見えた。
男の足が止まる。
――アスナ。
瞬間、反射的に身を引いていた。
近くの自販機の陰へ滑り込む。
自分でも驚くほど自然な動きだった。
「……何やってんだ、俺」
小さく呟く。
心臓は別に高鳴っていない。
焦りも恐怖もない。
ただ、“会うと面倒だ”と思った。
説明を求められる。
期待される。
過去を重ねられる。
SAOの時と同じ様に距離を詰めてくる。
今の自分には何一つ返せない。
だから避けた。
廊下の向こうでは、アスナがゆっくり歩いていた。
以前より少し痩せた気がする。
時折立ち止まり、誰かを探すように周囲へ視線を向けていた。
その横顔は、どこか寂しそうだった。
ログの中で何度も見た少女。
《キリト》が命を懸けて守った相手。
きっと彼女は、今でも“キリト”を探している。
けれど。
男は物陰からそれを眺めながら、妙に冷めた頭で考えていた。
――出くわしたら面倒だな。
それだけだった。
胸は痛まない。
駆け寄りたいとも思わない。
慰めたいとも思えない。
その事実を理解した瞬間、男はふっと乾いた笑みを漏らす。
「……やっぱ違うな」
自嘲だった。
もし本当に《黒の剣士》なら。
もし本当に“キリト”なら。
あんな顔をしたアスナを放っておけるはずがない。
たとえ記憶を失っても、身体が勝手に動いたのかもしれない。
駆け寄って、理屈ではなく心から心配しただろう。
でも自分は違う。
隠れて、やり過ごそうとしている。
ただ厄介事を避けるみたいに。
「そりゃそうか」
壁にもたれ、小さく息を吐く。
「中身がないんだから」
アスナが遠ざかっていく。
最後までこちらには気付かなかった。
男は彼女の姿が見えなくなるまで待ってから、ゆっくり歩き出す。
白い廊下を進みながら、不意にガラス窓へ自分の顔が映った。
少し伸びた前髪。
黒い瞳。
無表情。
そこにはもう、《黒の剣士》の面影すら残っていない気がした。
「やっぱ俺はあんな風にはなれないな」
SAOのログで見た愛する者のために戦い抜いた英雄は、もうどこにもいない。