夜風が冷たい。
男は、どこをどう歩いたのかも分からないまま街を彷徨っていた。
コンビニ前で記憶のフラッシュバックが起きてから、混乱状態だ。
頭の奥がずっと痛い。
断片的な映像。
笑い声。
小さな手。
《ママ》。
その手を握り優しく笑うアスナ。
《パパ》
そんな二人を傍で見守っているこの視点は、恐らくSAOの頃の黒の剣士だった自分だろう。
何度も何度も脳裏を掠める。
「……っ」
また頭に響くような痛みが走る。
男は駅前の壁へ手をつく。
呼吸が浅い。
記憶が戻った?
違う。
全部じゃない。
ほんの一部。
でも。
“感情”だけが、生々しすぎた。
ユイを抱き上げた感触。
アスナと笑い合った空気。
それが、自分の中へ無理矢理流し込まれてくる。
「……なんなんだよ」
掠れた声。
自分は空っぽだったはずだ。
《キリト》とは別人だと思っていた。
SAOのログを見たって何も感じなかった。
アスナと再会して、あのアパートで過ごす時間が増えてからも、多少思うことは増えた。
それでもまだどこか遠い世界のように感じてたのに。
なのに今。
胸の奥が、あの家族の記憶でぐちゃぐちゃに掻き乱されている。
スマホが震える。
また。
画面。
《結城明日奈》
着信履歴。
その下には大量のメッセージ。
『まだ帰らないの?』
『大丈夫?』
『何かあった?』
『お願い、返事して』
『もしかしてトラブルに巻き込まれた?』
気が付けばいつもの帰宅時間をとっくに過ぎていた。
きっと帰りが遅い自分を心配して連絡をよこしたのだろう。
今までスマホの着信音にも気づかないくらい放心していたのか。
男は無言で画面を閉じる。
今は無理だった。
会いたくない。
あの顔を見たら、何かが壊れそうだった。
怖い。
記憶が戻ることも。
戻ってしまった自分が、今の自分を飲み込むことも。
男はふらつく足で駅へ入る。
終電間近。
ホームには人も少ない。
スマホがまた震える。
着信。
男は一瞬だけ画面を見る。
アスナ。
震える指で、電源を落とした。
静寂。
それだけで少し息がしやすくなる。
電車が滑り込む。
男は何も考えず乗り込んだ。
どこへ行くのかも決めていない。
ただ。
今だけは、誰にも会いたくなかった。
ドアが閉まる。
適当な座席に座り込む。
窓へ映る自分の顔は、ひどく青ざめていた。
電車が動き出す。
揺れる車内で、男は小さく頭を抱える。
脳裏にまた、あの声が響いた。
《パパ!》
「……やめろ」
小さく呟く。
だが記憶は消えない。
むしろ、胸の奥で静かに広がり始めていた。
もしこのまま記憶が戻ったら、黒の剣士だったキリトが戻ってくるのか。
だとしたら今ここにいる自分はどうなる?消えるのか?
混乱する頭にそんな考えが浮かび、もう何も考えたくないと無理矢理目を閉じた。