気が付けば男は座席に蹲ったまま眠っていたらしい。
電車のアナウンスで目が覚めた。
終電の終着駅。
フラフラと、体が勝手に動きホームに降りた。
ここはどこだろうか。
電車が去る音だけが、静かなホームへ残っていた。
男はふらつく足取りで改札を抜ける。
知らない町だった。
海沿いの小さな無人駅。
人の気配はほとんどない。
街灯だけが白く光っている。
「……」
頭が重い。
まだ痛む。
断片的な記憶が、波みたいに押し寄せては消える。
ユイの笑顔。
アスナの声。
暖かな家。
響く笑い声。
まさに理想的な家族の団欒。
そして、そこに付随していたであろうかつての自分の感情。
知らないはずの記憶なのに、胸だけが勝手に締め付けられる。
男は駅を出て立ち止まる。
その時。
潮の匂いがした。
視線を上げる。
駅の先。
暗闇の向こうに、広い海が見える。
夜の海。
広い砂浜。
人影はない。
見える範囲だけだが、綺麗な海だと思った。
普段使っている駅からどれだけ離れているか知らないが、こんな場所があったなんて知らなかった。
波の音だけが静かに響いていた。
男はぼんやりそれを見つめる。
胸の奥が、妙に静かになる。
何も考えなくていい気がした。
《キリト》の記憶も。
アスナも。
ユイも。
全部。
波の音へ溶けていくような気がして。
「………」
男はふらりと歩き出す。
人気のない道。
車が通ってない道路を横断する。
やがて砂浜へ辿り着く。
靴が砂へ沈む。
冷たい風。
寄せては返す波。
男はそのまま、海の近くまで歩いていく。
暗い水面を見つめる。
遠い、水平線の方に目をやる。
境界が曖昧だった。
空と海の境目すらよく分からない。
どちらも等しく暗い。
「……」
静かだった。
怖いくらいに。
男はゆっくり息を吐く。
頭の中の混乱が、少しだけ遠くなる。
そして同時に。
胸の奥から、ぽつりと声が浮かぶ。
――疲れた。
その感情に気づいた瞬間、男は小さく笑った。
「……今さらかよ」
誰へ向けた言葉かも分からない。
波が足元まで来て、引いていく。
冷たい。
男はその感触をぼんやり感じながら、さらに一歩前へ進もうとする。
その時だった。
不意に。
ポケットの中で、電源を落としたはずのスマホが震えた気がした。
ありえない。
なのに確かに感じた。
男の足が止まる。
静かな海風の中。
脳裏へまた、断片的な声が響く。
『キリトくん』
『パパ!』
『おかえり』
何度も、何度も。
男は苦しそうに顔を歪める。
「うるさい、静かにしてくれ…」
胸の奥が痛い。
海へ引き込まれるような静けさと。
戻れと言われているような温度。
どちらに身を委ねればいいか、男には分からなかった。
その間で、男は一人立ち尽くしていた。