頭の中で響く過去の残滓に、男はたまらず膝をついた。
冷たい海水が体を打つ。
男は波打ち際へ蹲ったまま、荒い息を繰り返していた。
いまだに頭の中では、記憶が壊れた映像みたいに何度も流れている。
ユイの笑顔。
アスナの涙。
黒の剣士だった《キリト》の感情。
愛しい。
守りたい。
帰りたい。
そのためなら剣を取り戦う。
君をあの世界に返してみせる、なにがあろうと。
知らないはずの想いが、胸の奥をぐちゃぐちゃに掻き回す。
「……っ……!」
苦しい。
もう全部終わらせてしまえば楽になれる気がした。
だから濡れたまま立ち上がり、海へ歩いた。
冷たい水の中へ。
何も考えなくて済む場所へ。
波が足をさらう。
男はバランスを崩し、そのまま倒れ込む。
前のめりに全身が海に浸かる。
反射的に腕を前に出してもう一度立ち上がった。
暗い空。
その時。
スマホをしまっていたズボンまでもが濡れていたことに気付いた。
反射的にポケットへ手が伸びた。
「……スマホ……」
自分でも意味が分からなかった。
消えたかったくせに。
真っ先に気にしたのはスマホが水没してしまったなら、壊れていないかだった。
男は震える指で電源を入れる。
画面が点く。
通知。
大量のメッセージ。
家族や菊岡からのもあった。
だが一番目に着いた名前は《結城明日奈》だった。
『どこにいるの?』
『お願い、返事して』
『何かあったなら話して』
『事故じゃないよね?』
『まさか倒れたりしてない?』
『怖いよ』
『お願いだから無事って言って』
男の呼吸が止まる。
画面を見つめたまま、動けない。
時刻を見ると既に何時間も経っていた。
辺りはとっくに深夜の時間帯で真っ暗だ。
その間、自分は。
一人で勝手に混乱して。
電車に乗り逃げて。
電源を切って。
海へ来て。
アスナを放置していた。
胸の奥が重く沈む。
今さらになって理解する。
どれだけ酷いことをしたのか。
アスナはきっと。
ずっと探していた。
事故かもしれない。
倒れてるかもしれない。
もう二度と会えないかもしれない。
そんな不安の中で。
きっと必死に自分に連絡を取ろうとしていたのだ。
男はスマホを握る手に力を入れる。
脳裏に、最近の光景が浮かぶ。
「おかえり」
「ちゃんと食べて」
「湿布替えなきゃ駄目だよ」
当たり前みたいに、自分の帰りを待っていた人。
その人を、自分は。
「……最低だな……」
掠れた声が漏れる。
波の音だけが返ってくる。
男は俯いたまま、濡れた前髪を握る。
胸の奥が痛い。
記憶のせいだけじゃない。
今初めて。
“今の自分”の感情で、アスナを傷つけたことが苦しかった。
それが一番、男を動揺させていた。