キリトがナーブギアに脳を焼かれ記憶を全て失ったら   作:富福

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暗い海。

波が寄せては返す。

男はスマホを見つめたまま、長い間動かなかった。

自分が記憶が戻ったショックで呆けている間にどれだけの人に心配をかけたか。

画面には、アスナからの大量のメッセージ。

心配。

不安。

恐怖。

その全部が滲んでいた。

男は小さく笑う。

自嘲みたいに。

「……遅すぎたな」

今さら気づくなんて。

自分がどれだけ、その存在に甘えていたのか。

どれだけ傷つけていたのか。

再会したあの日から。

その前のALO事件を解決し、病室にいるアスナを遠目で見ただけで別れたあの日から。

いやもっと前、ナーブギアに脳を焼かれ記憶を全て失ったあの日から。

本当に、気付くのが遅すぎた。

そこにアスナからの新たな着信が来る。

男は震える指で、通話ボタンを押した。

すぐに繋がる。

『キリトくん!?』

切羽詰まった声。

『やっと繋がった、どこにいるの!? 大丈夫!?』

男は答えず、ゆっくり海へ足を進める。

冷たい水。

足首まで浸かる。

波の音が電話越しに響く。

男は静かな声で口を開いた。

「……アスナ」

『え……?』

「今まで悪かったな」

アスナが息を呑む。

男は波の中を歩き続ける。

「記憶無くしてから、色々酷い態度とって」

水位が徐々に上がる。

「でも、再会してからお前が当たり前に側にいたから」

一歩。

また一歩。

「それに甘えてた」

胸の辺りが苦しい。

記憶も。

感情も。

全部ぐちゃぐちゃだ。

それでも今だけは、分かる。

アスナがどれだけ自分を支えていたのか。

どれだけ大事にしてくれていたのか。

『……キリトくん?』

アスナの声が変わる。

不安から、恐怖へ。

電話越しに聞こえる波の音。

風。

不自然な水音。

男はさらに進む。

膝の辺りまで海水が浸かった。

冷たい。

だが妙に静かだった。

聞こえてくる音だけでも、不穏な気配を感じとったのだろう。

『キリトくん、変な音するけど今何してるの!?』

アスナの焦った声。

『どこにいるの!?』

必死に彼女は呼びかけてくる。

だがそれは耳に届いても心に伝わるかは別問題だった。

男は空を見上げる。

暗い。

広い。

何もない。

「……疲れたんだ」

ぽつりと漏れる。

『何言ってるの!?』

「俺、自分が誰かも分かんなくて」

波が揺れる。

足元が不安定になる。

「《キリト》の記憶が戻ってきても、全部中途半端で」

声が震える。

「でも、お前との記憶だけは……苦しいくらい入ってくる」

アスナの呼吸が止まる気配。

男は小さく笑った。

泣きそうな声だった。

「……今さらなんだよな」

『やめて』

即座に返る。

震えた声。

『お願いだから、そこ動かないで』

男は答えない。

波が腰を叩く。

スマホを持つ手が冷えていく。

『キリトくん!!』

叫び声。

男はゆっくり目を閉じた。

その瞬間。

脳裏にまた、暖かな記憶が流れる。

食卓。

笑うアスナ。

『おかえり』

小さな声。

そして。

『パパ!』

ユイが笑っていた。

男の呼吸が、僅かに乱れる。

海の中で立ち尽くしたまま、握ったスマホだけが微かに震えていた。

足元からは冷たい海水の温度が体の芯から大事な熱を奪っていこうとしている、そんな気がした。

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