波が胸を打つ。
冷たい海水が、呼吸を浅くする。
男は一度だけ立ち止まった。
スマホの向こうでは、アスナの荒い呼吸が聞こえる。
『お願いだから動かないで……!』
震えた声。
必死だった。
男は目を閉じる。
脳裏には、最近の記憶が浮かぶ。
人混みの中で偶然再会したあの日。
捻挫した自分を心配し、頑なにタクシーを呼ぶと言って譲らなかった。
タクシー代を返すために連絡先を交換しただけで大切なものが戻ってきたような表情を見せた。
借りを返してさっさと終わらせるつもりだったのに、いつの間にかアパートに来て、料理を作っていて。
「おかえり」。
そんな言葉で自分を出迎えるのが当たり前のようになっていた。
何度もくだらないやり取りをした。
SAOの頃の《キリト》より口数が少なくて、無愛想な自分の傍にずっといてくれた。
暖かかった。
その暖かさが、記憶が一部戻った今は逆に怖かった。
自分みたいな空っぽの人間が、そこに居続けていいのか分からない。
だって今の自分はかつての《キリト》のように真っ当に彼女を大切に想うことも、何かを返すこともできない。
《キリト》の感情が流れ込む度、自分が壊れていく気がする。
男は掠れた声で呟く。
「……ごめんな」
波の音へ消えそうな小さな声。
「全部、俺が悪かったんだ」
そして。
また一歩、前へ進む。
『キリトくん!?』
海水がさらに上がる。
ふらつく。
足元が安定しない。
だが男は止まらない。
「……多分」
息が震える。
「俺、このままだと……またアスナや家族を傷つけるから」
胸まで海へ沈む。
スマホを持つ手も濡れ始める。
アスナが息を呑む気配。
そこでようやく。
彼女は“何をしようとしているのか”を理解した。
『……っ、待って!!』
声が裏返る。
『キリトくん落ち着いて!』
泣きそうだった。
『ちゃんと話そう!?』
波音の向こうで、必死に呼びかける。
『今どこ!? お願いだから教えて!!』
男は答えない。
ただ荒い呼吸だけが続く。
胸の奥が痛い。
怖い。
消えたい。
でも同時に。
アスナの声を聞く度、足が止まりそうになる。
『キリトくん!!』
叫び。
その声の震えが、海風よりも強く胸を揺らす。
『早まらないで!そのまま行ったら駄目だよ!?』
男は唇を噛む。
「止めてくれ…」
そして掠れた声で、ぽつりと漏らした。
「……なんで」
涙なのか海水なのか、自分でも分からない。
「なんで、まだ俺を呼ぶんだよ……」
《キリト》じゃない。
記憶も壊れて。
何度も傷つけて。
逃げて。
それでも。
アスナだけは、ずっと手を伸ばしてくる。
その事実が、男には痛いほど苦しかった。
水位はもう腰の上辺りまで来ていた。