夜の海。
もうかなり砂浜から遠く離れた。
波が肩を叩く。
男は、もうほとんど海へ沈んでいた。
流石に体に海水が纏わりついて進みにくい。
冷たい。
感覚が薄れていく。
頭の中では、記憶の断片が何度も瞬いていた。
アスナの笑顔。
ユイの声。
暖かな家。
《黒の剣士》として戦った記憶。
その全部が、自分を締め付ける。
男は小さく笑った。
疲れ果てたような笑いだった。
「……お前の愛したキリト君はさ」
波が揺れる。
「死んだんだよ」
スマホの向こうで、アスナが息を呑む。
男はぼんやり夜空を見上げる。
「俺はただの死体だから」
もうかなりの高さまで海水が上がる。
冷たいはずなのに。
妙に穏やかだった。
苦しかった感情が、少しずつ遠くなる。
『違う!!』
アスナの声が響く。
涙声だった。
『そんなことない!!』
男はゆっくり目を閉じる。
「……だってさ」
掠れた声。
「黒の剣士の《キリト》なら、お前を泣かせたりしないから」
その言葉は、自嘲だった。
そうだ、黒の剣士の《キリト》ならこんな風にアスナを悲しませかったはずだ。
例え何があろうと彼女を守ろうとした、ログにあったように自然な笑顔で傍に寄り添っていた。
今の自分は違う。
記憶を無くして。
自らの手で連絡先も消して、SAOの頃の残された大切なデータも消して。
自分には関係無い、覚えてないから他人だと言い訳して逃げて。
何度もアスナを傷つけた。
不安にさせた。
泣かせた。
《キリト》なら、そんなことしなかった。
その癖傷付けた事実を忘れ、都合良く彼女に与甘え続けていた。
ずっと、アスナがどんな思いでいたかも考えずに。
男は小さく息を吐く。
「……本当にごめんな」
穏やかな声だった。
諦めた人間の声。
波が揺れる。
スマホを持つ手が沈みかける。
『やめて……』
アスナの声が震える。
『お願いだから行かないで……!』
男は返事をしない。
胸の奥には、暖かな記憶だけが残っていた。
SAOのものだけでなく、ここしばらく共に過ごした時間。
黒の剣士の死体として、抜け殻のように死なないだけで生きているとは言えなかった自分にまともな生活を送らせてくれた。
生活環境だけではない、誰かと一緒にいること。
その全部が、最後には優しすぎた。
「……楽しかったよ」
ぽつりと漏れる。
海風の中へ消えそうな、小さな本音。
そして男は、ゆっくりと目を閉じた。
きっと、もっと早くこうすべきだったのだ。
あの日、病室でナーブギアに脳を焼かれたのに中途半端に目覚めたこと自体が間違いだった。
そんな考えが男の頭の中を埋め尽くしていた。
その奥に、大切な人達の存在があることは、見て見ぬふりをして。