キリトがナーブギアに脳を焼かれ記憶を全て失ったら   作:富福

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波の音だけが響く夜。

男はもう胸元まで海へ浸かりながら、静かに笑った。

後もう数歩進めば波に呑まれ、そのまま海に沈むままに任せればいい。

それで楽になれる。

疲れ切ったような、諦めた笑み。

「……こんな最低な奴、忘れて」

声が波へ溶ける。

「優しい男と幸せになれよ」

それが最後のつもりだった。

優しい彼女はきっとこんな自分の死も悲しんでくれるだろう。

でも時間が経てばそれも薄れていく。

そしていつか自分なんかより、もっとまともな人間と。

そう言って終わらせるつもりだった。

だが。

『ふざけないで!!』

アスナの叫びが、夜の海へ響いた。

男の目が僅かに開く。

電話越しとは思えないほど感情のこもった声だった。

泣き声。

怒り。

全部混ざっている。

こんな風にアスナが感情をぶつけてきたのは、記憶にある限りでは始めてだった。

『私の気持ち無視して勝手なことばっかり言わないでよ!!』

男は言葉を失う。

アスナは震える息のまま続ける。

『キリト君が何を忘れても!』

『どんな態度取っても!』

『私はずっと……!』

途中で声が崩れる。

涙を堪える音が聞こえた。

男は海の中で立ち尽くす。

胸が痛い。

打ちつける波も気にならないほどに。

アスナはしばらく呼吸を整えようとして。

そして。

今度は、異様なほど静かな声で言った。

『……もし』

その静けさが、逆に怖かった。

『もしキリト君がそのまま死ぬなら』

男の呼吸が止まる。

『私も死ぬよ』

波の音が遠くなる。

男の目が見開かれる。

アスナの声は震えていなかった。

泣いているのに。

その言葉だけは、静かで。

覚悟がこもっていた。

『だって』

小さく息を吸う音。

『また一人で残されるくらいなら、

私には、その方がずっと無理だから』

男の身体が強張る。

冷たい海の中で。

初めて、本当に恐怖を感じた。

自分が消えることじゃない。

アスナまで壊れることが。

頭の奥が激しく軋む。

脳裏に、フラッシュバック。

SAO。

アスナが消えた瞬間。

騎士のような装備の男が振り被った凶剣、自分に振り下ろされるはずのそれを代わりに受ける彼女。

腕の中で悲しげな微笑みで『ごめんね』と呟き光と共に散っていく。

失う恐怖。

叫び。

絶望。

《キリト》の感情が、一気に流れ込む。

「っ――!!」

男は頭を押さえる。

呼吸が乱れる。

『キリト君!?』

アスナの声。

男は海の中で震えながら、掠れた声を漏らした。

「……やめろ……」

消えかけていた感情が、無理矢理引き戻される。

怖い。

アスナを失うのが。

それは蘇った記憶に付随する感情か、今の自分自身のものか。

分からない、だがただただ恐ろしい。

「それだけは、ダメだ……」

男は記憶を失ってから始めて、世界が崩壊するような恐怖を知った。

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