アスナが、死ぬ。
今電話の向こうにいる彼女が、死ぬ。
フラッシュバックする記憶と共に頭の中を言葉にできない恐怖が埋め尽くす。
「……やめろ」
男の声が震える。
海水の冷たさとは別の寒気が、背筋を走っていた。
「やめろアスナ……冗談だろ……?」
掠れた声。
さっきまで穏やかだった呼吸が乱れている。
自分の先ほどまでの行動を棚に上げて、男は死ぬなんて何かの間違いだと言ってほしかった。
だがそんな希望的憶測は簡単に打ち砕かれる。
電話の向こうで、何かの物音がした。
引き出しを開けるような音。
何かを掴む気配。
そして。
『……今、ハサミ持ってる』
アスナの静かな声がスマホ越しに響いてくる。
それに男の顔から血の気が引いた。
「っ……!」
冗談じゃない。
覚悟を決めた声だと、嫌でも分かる。
本気だ。
アスナは本気で男が死ぬなら自分も後を追うと言っている。
男は海の中で一歩よろめく。
「待て!!」
思わず叫ぶ。
「やめろ、何考えてんだ!!」
呼吸が荒い。
心臓が嫌になるほど暴れていた。
アスナは静かに言う。
『だって』
『貴方がただの死体なら』
一瞬の沈黙。
『私が死んでも、なんとも思わないでしょ?』
男の呼吸が止まる。
その言葉が、胸を貫いた。
なんとも思わない?
そんなわけがない。
そんなわけ、ないのに。
脳裏に、アスナが消えた時の感情が流れ込む。
失う恐怖。
喪失感。
世界が崩れる感覚。
《キリト》の記憶じゃない。
今の自分の感情として、それが襲ってくる。
「……やめろ……」
男の声が弱くなる。
怖かった。
「そんな、そんな真似するな……、
アスナが死ぬなんて、そんなのダメだ…」
もう男は今自分がどこにいるかなんて完全に頭に無かった。
このまま海に沈むより。
死ぬことより。
《キリト》としての記憶に呑まれてしまうより。
アスナが本当にいなくなる想像が、何より怖かった。
電話の向こうで、アスナの息が震えている。
彼女も限界だった。
『嫌なんだよ……』
小さな泣き声。
『また、大事な人がいなくなるの……』
必死に親に縋る幼子のようなか細い声。
『お願いだから、もう置いていかないで……っ』
また自分は、アスナを泣かせた。
ついさっきまで、悲しいのは一時的だとか考えていた己がどれだけ浅はかだったか。
男は唇を噛む。
胸が痛い。
苦しい。
なのに。
その痛みが、自分がまだ生きたいと思っている証明みたいだった。
男は震える足で、ゆっくり後ろを見る。
暗い砂浜。
遠い駅の灯り。
戻れる場所。
その先にあるだろう自分が住んでいる、小さなアパート。
アスナが待っている場所。
波が揺れる。
男は海の中で立ち尽くしたまま、震える声で絞り出した。
「……俺」
息が詰まる。
「……お前が死ぬの、嫌だ」
その言葉は。
記憶を失ってから初めて、自分自身の感情で口にした本音だった。