波が揺れる。
冷たい海の中で、男は立ち尽くしていた。
呼吸が苦しい。
胸が痛い。
スマホを握る手が震える。
自分が今真っ直ぐ立てているかも分からない。
電話の向こうから、小さな泣き声が聞こえた。
そして。
『……私も』
アスナの声。
涙で掠れているのに、どこか優しかった。
『キリト君が死ぬのは嫌』
その一言が、胸の奥へ深く落ちる。
男は目を閉じる。
どうして。
どうして、そこまで。
記憶を無くしてから、自分は酷いことばかりした。
知らない人だから、不毛だから、関係無いからと。
突き放して。
逃げて。
傷つけて。
それなのに。
どうして、まだ。
男の喉が震える。
「……なんで」
掠れた声。
「なんで、そこまで……」
波が揺れる。
涙なのか海水なのか、自分でも分からなかった。
「俺は壊れてんのに……」
呼吸が崩れる。
「黒の剣士のキリトみたいになれないのに……!」
初めてだった。
《キリト》へ抱いていた感情を、口にしたのは。
憧れ。
劣等感。
恐怖。
デスゲームをクリアした英雄、愛する人のために命をかけられる強さを持った存在。
あまりにも眩しくて。
自分とは別人にしか思えなかった。
だからアスナが見ているのは自分ではなく、黒の剣士だった《キリト》だと感じていた。
男は俯いたまま、震える声を漏らす。
「俺、全然違うんだよ……」
すると。
電話の向こうで、アスナが小さく笑った。
泣きながら。
それでも、優しく。
『……変わってないよ』
男の呼吸が止まる。
『そうやって、自分より人の心配するとこ』
アスナの声が震える。
『そこは、全然変わってない』
男は言葉を失う。
海風が吹く。
脳裏に、断片的な記憶が流れる。
誰かを助けるために動く自分。
無茶をする自分。
ユイを守ろうとした感情。
そして。
ついさっき。
アスナが死ぬかもしれないと想像した瞬間、恐怖で身体が動かなくなった自分。
「……ぁ……」
否定できない。
男は唇を噛む。
アスナは静かに続ける。
『それにね、私はSAOの頃のキリト君だけを見てきた訳じゃない』
『再会してからの貴方も見てきた』
その声はあまりにも優しくて、泣きそうになるくらい温かくて。
『ぶっきらぼうだけど帰りは駅まで必ず送ってくれて、車道側を自分が歩いて』
『スーパーの買い物一緒に行く時は荷物を持ってくれて』
『タッパーを返す時「美味かった」って言ってくれて』
『課題やる時は1時間くらいで飽きちゃったりして』
『放っておくとすぐ甘いものばっかり食べたりして』
再会してからずっと、アスナは今ここにいる自分を見てくれていた。
だからあんなにもアッサリと隣にいることを受け入れられたんだと、男は今さらながら気付いた。
『記憶がなくても』
『怖くても』
『苦しくても』
『キリト君は、ちゃんとキリト君だよ』
その言葉が、胸の奥へゆっくり染み込んでいく。
男は海の中で俯いたまま、肩を震わせる。
冷たいはずなのに。
胸の奥だけが、痛いほど熱かった。