男は海の中で震える息を吐いた。
胸の奥はまだ痛かった。
でも。
さっきまでとは違う。
まだ頭の中は整理がつかないけど、もうこの命を投げ出そうとは思わない。
戻らなきゃと思った。
アスナのところへ。
ちゃんと話さなきゃと。
男は震える声で口を開く。
「……帰――」
その瞬間。
大きな波。
「ぶはっ!?」
顔面に海水が直撃し、息ができなくなる。
濡れた手からスマホが滑る。
黒い影が海面へ落ち、そのまま波に攫われた。
「あ……」
なんとか沈むのは堪えた、しかし己の空いた手を見て男の顔が凍りつく。
最悪だった。
タイミングが。
今の切れ方は完全にまずい。
アスナからしたらまるで男がそのまま海に沈んでいったようにとれる。
「……っ、やば……!」
心臓が跳ね上がる。
絶対勘違いする。
最悪の想像をする。
男は慌てて海から戻ろうとする。
だが足元が崩れる。
「っ……!」
転倒。
足がつくとはいえ、ただでさえ海水が纏わりついて動きにくい中藻掻いたせいで余計に進み辛い。
半分溺れるように海を戻りなんとか砂浜に辿り着いた。
走り出そうとするが疲労で足がもつれ倒れた。
それでも立ち上がる。
また転ぶ。
息が乱れる。
頭もまだ痛い。
それでも。
今はとにかく連絡しないと。
アスナを止めないと。
男は何度もふらつきながら砂浜を駆ける。
ようやく道路へ出る。
周囲は真っ暗。
人もいない。
公衆電話。
数十メートル先に見つける。
男は駆け寄る。
ポケットへ手を突っ込む。
「……財布」
無い。
海だ。
落とした。
男の顔色が変わる。
「嘘だろ……!」
頭が真っ白になる。
電話できない。
アスナが危ない。
今こうしてる瞬間にも彼女は。
呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
その時。
すぐ近くに、小さな定食屋が見えた。
既に閉店。
灯りも落ちている。
だが男は迷わなかった。
店の前まで駆ける。
ドンドン!!と強く扉を叩く。
「すみません!!」
声が裏返る。
「すみません!! お願いです!!」
数秒。
反応なし。
男はさらに叩く。
「頼む……!」
切羽詰まった声。
やがて店の奥で物音。
灯りがつく。
少しして扉が開いた。
寝間着姿の店主らしき中年男性が、不審そうに顔を出す。
「……なんだ君、こんな時間に」
全身びしょ濡れ。
砂まみれ。
顔面蒼白。
完全に不審者だった。
だが男は迷わず、その場で土下座した。
恥も外聞もない、ただアスナと連絡が取りたい。
それしか考えられない。
「電話貸してください!!」
店主が固まる。
男は地面へ額を擦りつける勢いで叫ぶ。
「お願いします!! 今すぐ連絡しないと駄目なんです!!」
呼吸が乱れる。
声が震える。
「大事な人が……!」
そこまで言って、男は息を呑む。
“大事な人”。
自然に口から出た。
男自身が、一番驚いていた。
店主は唖然としたまま男を見る。
そして数秒後、慌てて扉を開けた。
「わ、分かったから入れ!! 風邪ひくだろ!!」
男は震える身体のまま、何度も頭を下げながら店へ駆け込んだ。