古い定食屋の店内。
蛍光灯の白い光が、静かに揺れていた。
濡れ鼠の状態で上がり込む無礼を気にしている余裕は男には無かった。
男は震える手でやや古びた固定電話を掴む。
受話器が滑りそうになる。
頭の中では、最悪の想像ばかり浮かんでいた。
アスナが、あのアパートで。
男が命を絶ったと、自分を置いていったと泣きながら。
一人で。
ハサミを、自らの――
「っ……」
男は首を振る。
震える指で番号を押す。
アスナの番号。
記憶していた自分に驚く、数える程しかない頻繁にかける相手だったから。
コール音。
一回。
二回。
三回。
「出ろ……」
掠れた声。
だが。
繋がらない。
コールだけが続く。
男の呼吸が浅くなる。
「なんで出ない……!」
切れる。
男はすぐかけ直す。
また繋がらない。
頭が真っ白になる。
さっきの最後。
スマホが波に攫われた瞬間。
アスナはどう思った?
電話が突然切れた。
波の音。
沈みかけていた自分。
海から上がってここに辿り着くまでどれだけ時間が経過した?
アスナが勘違いして、事を起こすには充分過ぎる。
もし。
もし、本当に。
「……っ、ぁ……」
呼吸が乱れる。
過呼吸みたいになる。
店主が心配そうに見る。
落ち着け、アスナと直接繋がらないなら別の手を考えろ。
必死に自分に言い聞かせる。
男は震える手で、別の番号を押した。
菊岡。
数コールで繋がる。
『……もしもし?』
眠そうな声。
その瞬間、男は叫んでいた。
「菊岡!!」
『っ!?』
「俺の家!!」
息が上手く吸えない。
言葉がぐちゃぐちゃになる。
早く、早く伝えなければ。
頼むから、彼女が取り返しがつかなくなる前に。
「アスナが!!」
『落ち着け、どうした!?』
「ハサミ握って自殺するかもしれない!!」
店内が静まり返る。
店主が固まる。
電話の向こうでも沈黙。
そして。
『……は?』
当然だった。
説明が意味不明すぎる。
だが男にはそんな余裕がない。
「俺が……!」
声が震える。
「俺が海行って……電話して……!」
自分でも何言ってるか分からない。
頭の中が完全に混乱していた。
『ちょ、待て待て待て!!』
菊岡の声が一気に覚醒する。
『今どこだ!? 何が起きてる!?』
男は震える息で答える。
「知らない駅……海……スマホ流されて……!」
ぐちゃぐちゃだった。
だが。
その声に滲んでいる恐怖だけは本物だった。
『……君』
菊岡の声が変わる。
真剣な声。
『アスナ君は本当に危険なんだな?』
男は即答した。
「本気だった」
その瞬間。
脳裏に、アスナの静かな声が蘇る。
『今、ハサミ持ってる』
男の全身が震える。
「頼む……」
掠れた声。
「助けてくれ……」
恐怖と動揺が混ざった、情けない涙声。
それは、記憶を失ってから初めて。
男が他人へ本気で助けを求めた瞬間だった。