息も絶え絶えで、要領を得ない男の説明から現状を汲み取った菊岡という人間はやはり優秀だった。
『いいか、落ち着け』
菊岡の声は鋭かった。
もう完全に仕事の声だった。
『今からこちらで対応する』
男は受話器を握り締める。
呼吸が乱れている。
『君は絶対にそこを動くな』
「でも――」
『スマホが無いんだろ!?』
怒鳴るような声。
男が息を呑む。
『今移動されたら連絡取れなくなる! その場で待て!』
正論だった。
男は唇を噛む。
『場所を固定しろ。分かったな?』
「……っ、わかった」
掠れた返事。
菊岡はすぐ続ける。
『その電話番号を教えろ。状況が分かり次第折り返す』
男ははっとして振り返る。
定食屋の店主が、事情は分からないままオロオロしていた。
男は再び勢いよく土下座した。
「すみません!!」
店主がびくっとする。
「電話番号教えてください!!」
「え、あ、店の!?」
「お願いします!!」
ほぼ半泣きだった。
とにかく電話番号を、アスナの状況を知るのに必要だから。
頭の中はほとんどパニックで、男はなりふり構わなかった。
店主は慌ててレジ横の伝票を見る。
男は震える手で番号を聞き取り、菊岡へ伝えた。
『了解』
短い返事。
『連絡来るまでそこで待機。いいな?』
通話が切れる。
店内が静かになる。
男はその場へ崩れるように座り込んだ。
全身が震えていた。
店主がタオルを持ってくる。
「だ、大丈夫か君……」
突然夜中に叩き起こして、濡れた格好で店を汚して大騒ぎする見知らぬ男をおっかなびっくりながらも気遣う店主。
本来なら叩き出されても仕方ないのに、とても優しい人だ。
だが男は答えられない。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
アスナ。
もし間に合わなかったら。
もし本当に。
その想像だけで、息ができなくなる。
男は濡れた髪を掴む。
「……っ」
怖い。
こんなにも。
脳裏に次々浮かぶ。
笑うアスナ。
料理を作る姿。
「おかえり」
「ちゃんと食べて」
「無理しないでね」
「キリト君、また明日」
何気ない日常。
当たり前みたいに隣にいた存在。
気づけば、自分の生活の中心にいた。
記憶が無くても。
《黒の剣士》じゃなくても。
今の自分は。
確かにアスナと生きていた。
男は震える呼吸のまま、顔を覆う。
「……なんで今さら気づくんだよ……」
遅すぎた。
失いかけて、初めて分かった。
アスナがいなくなる想像が、こんなにも怖い。
胸が痛い。
海の冷たさなんか比べ物にならないくらい。
自分はついさっきまで、こんなにも大切な存在を自ら手放しかけていた。
その愚かさに目眩がする。
店の時計の秒針がやけに響く。
一秒が長い。
地獄みたいな待ち時間だった。
菊岡から電話が来るまで。
男はただ、震えながら祈ることしかできなかった。
頼む、頼むから、アスナを失うことだけは嫌だ。
電話はまだ、鳴らない。