『……っと、これ以上は痺れを切らすかもしれないからそろそろ代わろうか』
菊岡の声が少しだけ柔らかくなる。
『そこの定食屋の番号、アスナ君に教えたから』
男が顔を上げる。
『ちゃんと話せよ』
それだけ言って、通話が切れた。
静寂。
男は菊岡の言葉を理解して受話器を置き、荒い呼吸を繰り返す。
数秒後。
――リン。
また電話が鳴る。
男の肩がびくっと震える。
電話の相手は分かっていた。
怖かった。
でも、それ以上に今は相手の声が聞きたかった。
男は震える手で受話器を取る。
「……もしもし」
その瞬間。
『キリトくん……!?』
泣き声だった。
アスナ。
声を聞いた瞬間、男の胸が締め付けられる。
『キリトくん……!』
何度も名前を呼ぶ。
本当に生きているのか確認するみたいに。
男は喉が詰まる。
「……ぁ……」
上手く声が出ない。
生きてる、アスナが生きている。
さっき菊岡に無事だと言われたが、こうしてアスナの声を聞いてようやく実感が得られた。
アスナは泣きながら続ける。
『無事なの!?』
『怪我してない!?』
『ちゃんといるんだよね!?』
不安と恐怖が全部混ざった声だった。
男は受話器を強く握る。
そして。
堰を切ったように涙が溢れた。
「……ごめん……」
掠れた声。
「ごめん、アスナ……!」
自分でも驚くくらい涙が止まらない。
「俺……っ、俺……!」
言葉がまとまらない。
頭が真っ白だった。
ただ。
怖がらせた。
傷つけた。
消えようとした。
いくら記憶が一部戻って混乱していたとはいえ、あまりにも自分勝手な行いだった。
自分がアスナが死んでしまったかもしれないと想像しながら過ごした時間、そこで感じだ恐怖と絶望。
それと同じものを彼女にも味わわせたのだとしたら。
その全部が、どうしようもなく苦しかった。
「ごめん……!」
男は泣きながら謝り続ける。
「本当にごめん……!」
どれだけ謝っても足りない。
「俺が、馬鹿だった……自分のことしか考えてなかった…!」
電話の向こうで、アスナも泣いている。
『……ばか』
震えた声。
『ほんとに、ばか……!』
怒っているのに。
その声は、どこまでも安心した人の声だった。
男は顔を覆う。
涙が止まらない。
「……怖かった」
ぽつりと漏れる。
「お前がいなくなるの……すげぇ怖かった……」
それは。
記憶を失ってから初めて、自分の心から零れた愛情の言葉だった。
電話の向こうで、アスナが息を呑む。
そして小さく、泣き笑いみたいな声を漏らした。
『……私もだよ』
二人の泣き声だけが、深夜の定食屋へ静かに響いていた。