タクシーの窓の外を、夜の街が流れていく。
男は後部座席で、ぐったりと座り込んでいた。
全身が重い。
海水で冷え切っている。
だが一番疲れているのは、多分頭と心だった。
正直財布もスマホも無くした状態ですぐに帰宅できるとは思わなかった。
菊岡が帰りの足がないだろうと気を利かせて手配してくれたのは素直にありがたかった。
運転手は特に事情を深入りせず目的地の確認と、ただ「大丈夫ですか」とだけ一度言われた。
男は小さく頷くしかできなかった。
タクシーに乗り込む前。
定食屋を出る時。
男は店主へ何度も頭を下げた。
突然ずぶ濡れの人間が押しかけて土下座したり叫んだり、この上なく迷惑をかけてしまった。
「……夜分遅くに、本当にすみませんでした」
深く。
本当に深く。
店主は寝癖のついた頭を掻きながら、呆れたように言った。
「詳しいことは分からんが、大事なことはちゃんと話し合えよ」
電話越しのやりとりを聞いて何かしら察したのだろう。
男は黙って頷く。
すると店主はさらに続けた。
「あと、あそこの海で死なれたら迷惑だ」
男は目を伏せる。
「……はい」
返せる言葉なんてなかった。
店主は大きくため息を吐いてから、温かい缶コーヒーを押し付けてきた。
「次からはちゃんと普通の客として来いよ」
男はそれを両手で受け取り、小さく頭を下げた。
本当に自分は今夜一晩でたくさんの人達に迷惑をかけてしまった。
「……ありがとうございます」
その言葉だけは、自然に出た。
そして今。
タクシーがようやく止まる。
見慣れたアパート。
男は運転手へ礼を言い、ふらつく足で降りた。
夜風が冷たい。
アパートを見上げる。
その時。
入口の前に、人影が見えた。
男の呼吸が止まる。
アスナだった。
薄い上着だけ羽織って、ずっと待っていたのだろう。
男の姿を見つけた瞬間。
アスナの顔がぐしゃりと歪む。
「……キリトくん……!」
泣き声。
次の瞬間。
アスナは駆け出していた。
男が何か言う前に、そのまま強く抱きついてくる。
「っ――」
勢いでふらつく。
だが男は反射的にアスナを支えた。
アスナの身体が震えている。
ずっと泣いていたのが分かる。
「よかった……!」
嗚咽混じりの声。
「ほんとによかった……!」
男は言葉を失う。
腕の中の温もり。
生きている。
自分も。
アスナも。
その事実が、胸を強く締め付けた。
男はゆっくりと、震える手でアスナの背中へ触れる。
抱き返す。
ぎこちなく。
でも確かに。
「……ごめん」
小さな声。
アスナは首を横へ振る。
「バカっ、キリト君のバカ……っ、私、私……っ!」
泣きながら、さらに強く抱きついてくる。
男はその肩へ顔を埋める。
海の冷たさなんて、もうほとんど感じなかった。
ただ。
失わなくてよかった。
その感情だけが、胸いっぱいに広がっていた。
「ごめんアスナ、俺が悪かった……っ」
男は腕の中の大切な人に、改めて謝罪の言葉を告げた。