少しの間抱きしめあった後、ようやく帰ってきたという実感をお互いに得て部屋に入った。
部屋の中は静かだった。
アスナに言われシャワーを浴びたことで、海水の冷たさは少し落ち着いた。
だが頭の重さは消えない。
男は濡れた髪をタオルで拭きながら、ゆっくりリビングへ戻る。
そこにはアスナがいた。
キッチンでお茶を淹れている。
湯気。
聞き慣れた食器の音。
つい数時間前、自分は全部失おうとしていたのに。
その光景はあまりにも日常だった。
男はソファへ腰を下ろす。
その横にアスナも座り静かに湯呑みを置いた。
「熱いから気をつけてね」
「……ん」
短い返事。
沈黙が落ちる。
一口アスナが淹れてくれたお茶を飲む。
いつも食後に二人で飲んでいるそれと同じ味だった、今はそれがなぜか懐かしく感じる。
男は湯呑みを見つめたまま、しばらく動かなかった。
そして。
ぽつりと口を開く。
「……本当にごめん」
掠れた声。
「その、記憶が一部戻って……俺どうかしてた」
俯いたまま言う。
まだ怖かった。
戻り始めた記憶も。
感情も。
自分が壊れていく感覚も。
でも。
それを理由にしていいことじゃなかった。
アスナをどれだけ追い詰めたのか、今なら分かる。
男は唇を噛む。
「……最低だった」
すると。
アスナは静かに彼を見つめていた。
怒鳴らない。
責めもしない。
ただ真剣な目だった。
「……もう二度とこんなことしないって約束して」
男の肩が僅かに震える。
アスナの声は静かだった。
でも。
泣きそうなくらい必死なのが分かる。
あの海での泣きそうな、怒りの籠もった声を思い出す。
今夜自分が帰ってこれたのは間違いなく彼女が繋ぎ止めてくれたからだ。
男はゆっくり頷く。
「……約束する」
掠れた声。
今度は、逃げなかった。
アスナは小さく息を吐く。
そして続ける。
「あと」
少しだけ眉を寄せる。
「ユイちゃんにも謝って」
男が目を瞬かせる。
「……ユイ?」
「ずっと心配してたから」
アスナは苦笑する。
「GPS探したり、“パパが海行った”って半泣きだったよ」
男は言葉を失う。
胸の奥が痛む。
脳裏に、断片的な記憶。
小さな手。
『パパ!』
男は顔を覆いたくなる。
「……合わせる顔ないんだけど」
本音だった。
アスナは少しだけ笑う。
「大丈夫」
柔らかな声。
「たぶん、最初に抱きつかれるから」
男は思わず顔をしかめる。
だが。
その光景を想像した瞬間。
不思議と、少しだけ胸が温かくなった。
アスナはそんな彼を見ながら、小さくお茶を飲む。
そして静かに言った。
「……帰ってきてくれてよかった」
男は返事をしなかった。
できなかった。
ただ。
湯呑みを握る手だけが、少し震えていた。