気が付けば時計は、とっくに日付を越えていた。
タクシーで帰ってきた時点で深夜だったから当たり前だった。
部屋の中には、静かな空気が流れている。
湯呑みから立つ湯気。
冷蔵庫の小さな駆動音。
つい数時間前まで全てを投げ捨てて海へ消えようとしていたとは思えないほど、穏やかな夜だった。
だが。
アスナは落ち着かない様子で、何度もキリトを見ていた。
視線が離れない。
まるで。
少しでも目を離したら、本当にいなくなってしまうと思っているみたいに。
キリトも、それに気付いていた。
胸が痛む、彼女にどれだけ謝罪しても足りないくらいの傷を付けてしまった。
アスナは意を決したように口を開く。
「……私今日は、このまま泊まるから」
即答だった。
普段なら、もうとっくに帰る時間は過ぎていた。
いつもならキリトが駅まで送ってそれで別れる。
だが今夜はもう終電も無い。
自分が原因なのだからタクシーを呼んで彼女の自宅まで帰れるように手配するのが筋だろう。
しかしアスナは帰る気配を一切見せない。
それだけ今の彼女は不安なのだ、すぐ隣でしっかり見張っておかないとまたキリトがどこかに消えようとするのではないか、と。
「絶対帰らないから」
半分意地みたいな声。
キリトは一瞬目を丸くする。
そして。
ふっと、小さく笑った。
今日初めての、自然な笑みだった。
「……そっか」
アスナは少し不安そうに彼を見る。
拒否されるかもしれないと思ったのだろう。
だがキリトは首を横へ振る。
むしろ。
どこか安心した顔だった。
「……俺も」
小さな声。
「帰したくない」
アスナの目が揺れる。
キリトは俯き気味に続けた。
「今一人になると……多分また余計なこと考える」
アスナの肩を抱き寄せながら、呟く。
正直な言葉だった。
頭の中はまだ整理できていない。
戻った記憶。
感情。
怖さ。
全部残っている。
いくらアスナを失いたく気持ちが今の自分のものだと理解できても、過去の記憶全てを受け入れられた訳では無い。
ふとした拍子にまた呑まれてしまいそうな恐怖はある。
だから。
今だけは。
一人になりたくない。
アスナが隣にいてくれるだけで、少し息ができた。
身勝手な考えかもしれないが、アスナが必要な事実に変わりはない。
アスナはしばらく黙っていた。
そして。
涙を堪えるみたいに笑う。
「……うん、私はここにいるよ」
小さく頷く。
その返事だけで、どれだけ安心したのか分かった。
キリトはソファへ深く座り直す。
アスナも自然とキリトに密着するように近づく。
今までの一つ分空けた距離ではない、互いに寄り添い合う形に。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
ただ。
隣に誰かがいる温もりだけが、静かに部屋を満たしていた。
生きている、自分と大切な人が隣で生きている。
それがとても幸せなことだと、今キリトはようやく理解した。