最初の報告は、感染症でもゾンビでもなく、「作業効率の低下」として上がってきた。
苫小牧の冷凍倉庫、第三区画。庫内温度マイナス二十五度。三日前から、夜勤のフォークリフト作業員が指示を復唱しなくなった。無線で呼んでも返事がない。だが荷は運ばれている。定刻どおり、正確に、むしろ以前より速く。
現場主任の久我はそれを「慣れ」だと報告書に書いた。二十二年の現場経験が、そう書かせた。人間は同じ作業を千回繰り返せば口を利かなくなる。それだけのことだと。
厚労省の疫学調査官・棚倉真尋が倉庫に着いたのは、その報告書から九日後だった。
「復唱しない、ではありません」棚倉は防寒服の襟を立てたまま、モニターを指した。「発声していないんです。声帯の運動が止まっている。でも歩行と把持は維持されている。これは慣れではなく、中枢の選択的な脱落です」
久我は黙った。モニターの中で、青い作業着の男がパレットを持ち上げ、五メートル先に置き、また戻る。表情がない。瞬きもない。マイナス二十五度の庫内で、吐く息が白くならない。
「体温が、外気と同じになってるんですか」
「三十四度台です。まだ生きてます。まだ、の話ですが」
二
病原体は当初〈KM-7〉と呼ばれた。冷凍マグロの内臓から分離されたプリオン様タンパクで、正確にはウイルスではなかった。だから抗ウイルス薬は効かず、加熱以外の不活化手段がほとんどなかった。
感染者は死なない。それが最悪の性質だった。
大脳皮質の高次機能から順に、タンパクが正常構造を置換していく。最初に失われるのは言語、次に将来の予測、次に他者の表情の認識。残るのは運動野と、反射と、そして「直前までやっていた作業を反復する」という、皮質下に焼き付いた手続き記憶だけだ。
彼らは襲わない。追いかけてもこない。 ただ、生前の動作を続ける。
棚倉が最も恐ろしいと感じたのは、札幌駅前で見た元・交通整理員の男だった。誰もいない交差点で、何もない車列に向かって、完璧な手信号を送り続けていた。四日間、休みなく。やがて膝の軟骨が摩耗して崩れ落ちてもなお、地面に転がったまま腕だけが同じ角度を刻んでいた。
「痛みは感じていません」現地の医師が言った。「でも私には、あれが苦痛じゃないと断言できない」
三
棚倉が押し通した封鎖案は、単純な数式から出ていた。
基本再生産数R₀は推定一・四。低い。空気感染はしない。感染経路は経口と粘膜のみ。つまり、食品流通を止めれば流行は自壊する。
問題は、止めれば二週間で北海道の生鮮供給が崩壊することだった。
「知事、選択肢は二つです」棚倉は会議室で言った。「流通を維持して、六週間後に三十万人の感染を見るか。今止めて、二週間後に飢餓と暴動を見るか」
「三つ目はないのか」
「あります。冷蔵網だけを残して、常温流通を全面停止する。KM-7はマイナス四十度以下で構造安定性を失う。これは去年、南極の試料で偶然わかったことです」
「根拠になる論文は」
「ありません。査読中です。私が書きました」
長い沈黙のあと、知事は訊いた。
「間違っていたら」
「私の名前で間違えます」
四
半年後。
棚倉は苫小牧の第三区画に立っていた。庫内は稼働していない。作業着の男たちは、ようやく止まっていた。マイナス四十度に落とした庫内で、彼らの中のタンパクは変性し、そして彼らも一緒に死んだ。治療ではなかった。除去だった。
久我の遺体は、フォークリフトの座席にあった。両手はハンドルを握ったままの形で固まっていた。最後まで、彼は荷を運んでいた。
棚倉は手袋を外し、素手でその凍った指に触れた。
「あなたは、慣れていたわけじゃなかったんですね」
返事はない。あるはずもない。
ただ、二十二年ぶんの手続き記憶が、そこに残っていた。人間が最後に手放すのは、言葉でも、顔でも、恐怖でもなく、自分が繰り返してきた仕事の形なのだと——棚倉はこのとき初めて理解した。
庫外に出ると、光が痛いほど白かった。
港では、再開された船が荷を降ろしている。誰かが指示を出し、誰かが復唱している。その声が、棚倉には奇妙なほど美しく聞こえた。