電車が止まった。
山手線、新宿の手前。ホームまであと百メートルもない。窓の外に、見慣れた南口の看板が見えている。
「ただいま、前方車両にて急病のお客様の救護を行っております。しばらくお待ちください」
舌打ちがあちこちで鳴る。俺もした。九時から会議だ。資料はまだ半分しかできていない。
押しつぶされたまま、スマホで遅延証明のページを開こうとした、そのときだった。
前の車両から、悲鳴が聞こえた。
一つじゃない。重なって、膨らんで、こっちに近づいてくる。
連結部のドアが開いた。人が溢れ込んでくる。満員の車内に、さらに人が。押される。息ができない。誰かの肘が肋骨に食い込む。
「なに、なに、なんなの」 「押すなって!」 「噛んだ、あいつ噛んだ!」
噛んだ?
人の隙間から、連結部の向こうが一瞬だけ見えた。
スーツの男が、床に倒れた女性の首に、顔を埋めていた。
キスしてるみたいだ、と思った。脳が理解を拒否して、そういう絵に変換しようとした。でも違った。男が顔を上げたとき、口のまわりが赤かった。赤くて、何かが、ぶら下がっていた。
男と目が合った。
白目が、灰色に濁っていた。
2
そこから先の記憶は、順番がぐちゃぐちゃだ。
誰かが非常用ドアコックを引いた。プシュ、と空気が抜ける音。ドアが手で開くようになる。人が線路に落ちるように降りていく。俺も押し出された。
砂利に膝をついた。痛い。痛いのに、痛みが遠い。
立ち上がる。ホームに向かって走る。線路の上を、スーツ姿の人間が何十人も走っている。現実感がない。ニュースの映像みたいだ。
隣の線路を、埼京線がゆっくり入ってきた。
運転士は気づいていなかった。前を走っていた女性が、振り返って、立ち止まって——
見なかった。見ないようにした。音だけが聞こえた。
ホームの端によじ登る。高い。一メートル以上ある。手をかけて、足をかけて、スラックスの膝が破れた。上から誰かが手を引いてくれた。顔も見ていない。礼も言っていない。
ホームに立った瞬間、わかった。
ここも、もう駄目だ。
3
新宿駅のホームは、朝のラッシュで数千人がいる。
その数千人が、一斉に階段に殺到していた。
下りの階段が、人で詰まって動かない。上から押す。下は動けない。誰かが倒れる。その上に誰かが倒れる。悲鳴が悲鳴を呼ぶ。
そしてその人の塊の、真ん中あたりで、何人かが「違う動き」をしていた。
他の人間が逃げようとしているなかで、そいつらだけは、人に向かっていた。
速い。
映画のゾンビみたいに、よろよろ歩くんじゃない。全力疾走だ。フォームも何もない、肩から突っ込むような走り方で、人に飛びかかって、噛みつく。噛まれた人間は叫んで、もがいて——十秒か、二十秒か、そのくらいで、動きが止まる。
そして、起き上がる。
起き上がって、隣の人間に向かっていく。
数えた。数えてしまった。二十秒で一人が二人。二人が四人。四人が——
やめろ。計算するな。走れ。
階段は無理だ。反対側。ホームの端。そこに、「関係者以外立入禁止」の扉があった。
4
扉の前に、駅員がいた。
若い。俺より若い。二十代前半。制帽が斜めにずれて、無線機を握りしめたまま、固まっていた。
「開けてくれ!」
駅員がこっちを見た。目が泳いでいる。
「指令が、指令から、待機って」
「待機してたら死ぬぞ!」
自分の声が裏返っていた。駅員の後ろの扉に手を伸ばす。鍵がかかっている。
背後で、ガラスの割れる音。
振り返った。自販機の横で、感染者——もう、そう呼ぶしかない——が、ベンチの下に隠れた女子学生の足首を掴んでいた。
駅員が、鍵を開けた。
俺たちは中に転がり込んだ。扉を閉める。駅員が鍵をかける。
扉の向こうで、女の子の悲鳴が、途中で切れた。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
5
駅員の名前は、佐伯といった。入社二年目。
「ここ、どこに繋がってる」
「従業員通路です。地下の、東西自由通路の裏側に出られます。そこから——」
佐伯は無線機を耳に当てた。雑音。誰かが叫んでいる。何を言っているのかわからない。
「……東口の改札、もう駄目みたいです」
「西口は」
「わかりません。誰も答えないんです」
スマホを見た。圏外ではない。アンテナは立っている。でも、何も繋がらない。回線がパンクしている。SNSのタイムラインは、三分前から更新されていない。最後に表示されている投稿は、池袋駅の写真だった。ホームに、人が、倒れていた。
池袋も?
だったら、これは、どこまで——
「行きましょう」佐伯が言った。声が震えていたが、足は動いていた。「ここにいても、いつか扉が破られます」
6
従業員通路は、狭くて、暗くて、うるさかった。
壁の向こうから、ずっと音が聞こえている。足音。叫び声。何かがぶつかる音。天井の配管を、音が伝わってくる。駅全体が、一つの巨大な生き物みたいに、悲鳴をあげていた。
角を曲がるたびに、心臓が止まりそうになる。
誰もいない。誰もいない。誰もいない。
三つ目の角で、佐伯が立ち止まった。
通路の先に、清掃員の制服を着た女性が、背中を向けて立っていた。
動いていない。壁に額をつけて、じっとしている。
「……大丈夫ですか」
佐伯が、小声で呼びかけた。
馬鹿、と言おうとした。言う前に、女性が振り返った。
灰色の目。
口が開く。声は出ない。ただ、喉の奥から、ひゅう、と空気の漏れる音。
走ってきた。
7
逃げた。来た道を。
佐伯が先。俺が後ろ。後ろから足音。近い。近い。振り返るな。振り返ったら遅くなる。わかってるのに、振り返った。
三メートル。
清掃員の女は、裸足だった。どこかで靴が脱げたんだろう。足の裏が擦り切れて、床に赤い跡を残しながら、それでも速度が落ちない。
痛みを、感じていない。
「こっち!」
佐伯が、壁のスチール扉を開けた。倉庫。モップとバケツ。飛び込む。扉を閉める。閉まらない。女の腕が隙間に挟まっている。
指が、俺の袖を掴もうと、空を掻いた。
全体重で扉を押した。骨の折れる音がした。それでも腕は引かれない。動き続けている。折れた腕が、あり得ない角度で、まだ俺を探している。
佐伯がモップの柄で、その腕を突いた。何度も。何度も。
腕が、抜けた。
扉が閉まった。佐伯が、内側の閂をかけた。
扉の外から、どん、どん、と、規則正しい音が続いた。
俺は、モップバケツの横に座り込んだ。手が震えて止まらなかった。自分の手じゃないみたいに、勝手に震えていた。
8
どれくらいそこにいたかわからない。
扉を叩く音は、いつの間にか止んでいた。
「音、です」
佐伯が、ぼそりと言った。
「さっきの人、僕が声をかけるまで、動いてなかった。音に反応してるんだと思います」
そうかもしれない。電車の中でも、ホームでも、叫んでいる人間から先に襲われていた気がする。
だとしたら。
「スマホ」俺は言った。「マナーモードにしろ。バイブも切れ」
二人でスマホを取り出した。俺は設定を開いて、音を消して——
佐伯のスマホが、鳴った。
着信音。最大音量。狭い倉庫の中に、明るいメロディが響き渡った。
画面に表示されていた名前は「母」だった。
佐伯が、固まった。出るべきか、切るべきか。その〇・五秒の迷いが、永遠みたいに長かった。
扉の向こうで、足音がした。
一つじゃなかった。
9
倉庫には、もう一つ出口があった。天井近くの換気口。佐伯が見つけた。
「先に行ってください」
「お前が先に——」
「僕のほうが、ここの構造わかってます。あなたが先に上がって、僕を引っ張ってください」
扉が軋んでいる。閂が、少しずつ曲がっていく。
棚に足をかけた。換気口の格子を外す。狭い。肩が引っかかる。スーツの上着を脱ぎ捨てて、体をねじ込んだ。
振り返って、手を伸ばした。
「佐伯!」
佐伯が棚に足をかけた、その瞬間、扉が開いた。
感染者が三人、四人、なだれ込んできた。
佐伯の足首が、掴まれた。
俺は、佐伯の手首を掴んでいた。引いた。全力で引いた。佐伯の体が浮く。下から、何本もの腕が、佐伯の脚に、腰に、しがみついてくる。
重い。重すぎる。
佐伯と、目が合った。
「放してください」
佐伯は、はっきりそう言った。
「放さない」
「あなたまで落ちます」
佐伯の脚に、誰かが噛みついた。佐伯の顔が歪んだ。叫ばなかった。歯を食いしばって、叫ばなかった。俺のために、音を立てないようにしていた。
「……お母さんに」
佐伯は、何かを言いかけた。
最後まで聞こえなかった。
俺の手の中から、佐伯の手首が、すべり落ちていった。
10
換気ダクトの中を、這った。
どこへ向かっているのかわからなかった。ただ、下から聞こえる音から遠ざかる方向へ、這い続けた。
泣いていたと思う。声は出さなかった。出せなかった。
ダクトの先に、光が見えた。
格子を蹴破って、外に転がり出た。
甲州街道の、高架の下だった。
地上に出れば助かる。そう思っていた。
空が、黒かった。
煙だ。西新宿の方角から、何本も、何本も、黒い煙が立ち上っている。ヘリコプターが旋回している。サイレンが、あらゆる方向から聞こえている。車道には、ドアを開けたまま乗り捨てられた車が、何百台も並んでいた。
そしてその車の間を、人が走っていた。
逃げている人と。 追っている人と。
もう、どっちがどっちなのか、遠目にはわからなかった。
11
走った。
どこへ、とは考えなかった。人の少ないほうへ。音のしないほうへ。代々木方面の、線路沿いの細い道へ。
コンビニの前を通り過ぎた。ガラスが割れていた。中で何かが動いていた。見なかった。
小学校の前を通り過ぎた。校庭に、誰もいなかった。それが一番怖かった。
息が切れた。脇腹が痛い。革靴の中で、足の皮がめくれているのがわかる。でも止まれない。止まったら、追いつかれる。
何に?
わからない。とにかく、止まったら終わる。
路地の奥に、古いアパートの外階段があった。駆け上がって、二階の踊り場に座り込んだ。ここなら、下から見えない。
息を整える。
整わない。
ポケットのスマホを見た。バッテリー、残り十四パーセント。通知が一件だけ届いていた。
緊急速報。
〈東京都全域に外出禁止令。屋内に留まり、施錠してください。感染が疑われる者との接触を避けてください〉
外出禁止令。
屋内に留まれ。
俺は、どこにも入れない。家は船橋だ。ここから二十五キロある。
12
そのとき、初めて気がついた。
右手の甲に、傷があった。
三本の、細い、赤い線。
いつできた?
換気口の格子で擦ったのか。線路の砂利で切ったのか。ホームによじ登ったときか。
それとも——
倉庫の扉の隙間から伸びてきた、清掃員の女の指。あの爪が、俺の袖を、掻いた。袖だけだったか? 本当に、袖だけだったか?
思い出せない。
傷口を見つめた。赤い。少し腫れている。普通の擦り傷に見える。普通の擦り傷に、見えるはずだ。
佐伯は、噛まれてから十秒で動かなくなった。
引っかき傷なら? もっと遅いのか? それとも、そもそも、引っかき傷では感染しないのか?
誰も教えてくれない。
スマホの時計を見た。九時二十一分。本当なら、今ごろ会議室で、資料の説明をしているはずだった。
手の甲が、少しだけ、熱い気がした。
気のせいだ。
気のせいだと、思う。
階段の下で、足音がした。
俺は、息を止めた。