新宿、午前八時十四分   作:Sub Sonic

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新宿、午前八時十四分

 

電車が止まった。

 

山手線、新宿の手前。ホームまであと百メートルもない。窓の外に、見慣れた南口の看板が見えている。

 

「ただいま、前方車両にて急病のお客様の救護を行っております。しばらくお待ちください」

 

舌打ちがあちこちで鳴る。俺もした。九時から会議だ。資料はまだ半分しかできていない。

 

押しつぶされたまま、スマホで遅延証明のページを開こうとした、そのときだった。

 

前の車両から、悲鳴が聞こえた。

 

一つじゃない。重なって、膨らんで、こっちに近づいてくる。

 

連結部のドアが開いた。人が溢れ込んでくる。満員の車内に、さらに人が。押される。息ができない。誰かの肘が肋骨に食い込む。

 

「なに、なに、なんなの」 「押すなって!」 「噛んだ、あいつ噛んだ!」

 

噛んだ?

 

人の隙間から、連結部の向こうが一瞬だけ見えた。

 

スーツの男が、床に倒れた女性の首に、顔を埋めていた。

 

キスしてるみたいだ、と思った。脳が理解を拒否して、そういう絵に変換しようとした。でも違った。男が顔を上げたとき、口のまわりが赤かった。赤くて、何かが、ぶら下がっていた。

 

男と目が合った。

 

白目が、灰色に濁っていた。

 

2

そこから先の記憶は、順番がぐちゃぐちゃだ。

 

誰かが非常用ドアコックを引いた。プシュ、と空気が抜ける音。ドアが手で開くようになる。人が線路に落ちるように降りていく。俺も押し出された。

 

砂利に膝をついた。痛い。痛いのに、痛みが遠い。

 

立ち上がる。ホームに向かって走る。線路の上を、スーツ姿の人間が何十人も走っている。現実感がない。ニュースの映像みたいだ。

 

隣の線路を、埼京線がゆっくり入ってきた。

 

運転士は気づいていなかった。前を走っていた女性が、振り返って、立ち止まって——

 

見なかった。見ないようにした。音だけが聞こえた。

 

ホームの端によじ登る。高い。一メートル以上ある。手をかけて、足をかけて、スラックスの膝が破れた。上から誰かが手を引いてくれた。顔も見ていない。礼も言っていない。

 

ホームに立った瞬間、わかった。

 

ここも、もう駄目だ。

 

3

新宿駅のホームは、朝のラッシュで数千人がいる。

 

その数千人が、一斉に階段に殺到していた。

 

下りの階段が、人で詰まって動かない。上から押す。下は動けない。誰かが倒れる。その上に誰かが倒れる。悲鳴が悲鳴を呼ぶ。

 

そしてその人の塊の、真ん中あたりで、何人かが「違う動き」をしていた。

 

他の人間が逃げようとしているなかで、そいつらだけは、人に向かっていた。

 

速い。

 

映画のゾンビみたいに、よろよろ歩くんじゃない。全力疾走だ。フォームも何もない、肩から突っ込むような走り方で、人に飛びかかって、噛みつく。噛まれた人間は叫んで、もがいて——十秒か、二十秒か、そのくらいで、動きが止まる。

 

そして、起き上がる。

 

起き上がって、隣の人間に向かっていく。

 

数えた。数えてしまった。二十秒で一人が二人。二人が四人。四人が——

 

やめろ。計算するな。走れ。

 

階段は無理だ。反対側。ホームの端。そこに、「関係者以外立入禁止」の扉があった。

 

4

扉の前に、駅員がいた。

 

若い。俺より若い。二十代前半。制帽が斜めにずれて、無線機を握りしめたまま、固まっていた。

 

「開けてくれ!」

 

駅員がこっちを見た。目が泳いでいる。

 

「指令が、指令から、待機って」

 

「待機してたら死ぬぞ!」

 

自分の声が裏返っていた。駅員の後ろの扉に手を伸ばす。鍵がかかっている。

 

背後で、ガラスの割れる音。

 

振り返った。自販機の横で、感染者——もう、そう呼ぶしかない——が、ベンチの下に隠れた女子学生の足首を掴んでいた。

 

駅員が、鍵を開けた。

 

俺たちは中に転がり込んだ。扉を閉める。駅員が鍵をかける。

 

扉の向こうで、女の子の悲鳴が、途中で切れた。

 

二人とも、しばらく何も言えなかった。

 

5

駅員の名前は、佐伯といった。入社二年目。

 

「ここ、どこに繋がってる」

 

「従業員通路です。地下の、東西自由通路の裏側に出られます。そこから——」

 

佐伯は無線機を耳に当てた。雑音。誰かが叫んでいる。何を言っているのかわからない。

 

「……東口の改札、もう駄目みたいです」

 

「西口は」

 

「わかりません。誰も答えないんです」

 

スマホを見た。圏外ではない。アンテナは立っている。でも、何も繋がらない。回線がパンクしている。SNSのタイムラインは、三分前から更新されていない。最後に表示されている投稿は、池袋駅の写真だった。ホームに、人が、倒れていた。

 

池袋も?

 

だったら、これは、どこまで——

 

「行きましょう」佐伯が言った。声が震えていたが、足は動いていた。「ここにいても、いつか扉が破られます」

 

6

従業員通路は、狭くて、暗くて、うるさかった。

 

壁の向こうから、ずっと音が聞こえている。足音。叫び声。何かがぶつかる音。天井の配管を、音が伝わってくる。駅全体が、一つの巨大な生き物みたいに、悲鳴をあげていた。

 

角を曲がるたびに、心臓が止まりそうになる。

 

誰もいない。誰もいない。誰もいない。

 

三つ目の角で、佐伯が立ち止まった。

 

通路の先に、清掃員の制服を着た女性が、背中を向けて立っていた。

 

動いていない。壁に額をつけて、じっとしている。

 

「……大丈夫ですか」

 

佐伯が、小声で呼びかけた。

 

馬鹿、と言おうとした。言う前に、女性が振り返った。

 

灰色の目。

 

口が開く。声は出ない。ただ、喉の奥から、ひゅう、と空気の漏れる音。

 

走ってきた。

 

7

逃げた。来た道を。

 

佐伯が先。俺が後ろ。後ろから足音。近い。近い。振り返るな。振り返ったら遅くなる。わかってるのに、振り返った。

 

三メートル。

 

清掃員の女は、裸足だった。どこかで靴が脱げたんだろう。足の裏が擦り切れて、床に赤い跡を残しながら、それでも速度が落ちない。

 

痛みを、感じていない。

 

「こっち!」

 

佐伯が、壁のスチール扉を開けた。倉庫。モップとバケツ。飛び込む。扉を閉める。閉まらない。女の腕が隙間に挟まっている。

 

指が、俺の袖を掴もうと、空を掻いた。

 

全体重で扉を押した。骨の折れる音がした。それでも腕は引かれない。動き続けている。折れた腕が、あり得ない角度で、まだ俺を探している。

 

佐伯がモップの柄で、その腕を突いた。何度も。何度も。

 

腕が、抜けた。

 

扉が閉まった。佐伯が、内側の閂をかけた。

 

扉の外から、どん、どん、と、規則正しい音が続いた。

 

俺は、モップバケツの横に座り込んだ。手が震えて止まらなかった。自分の手じゃないみたいに、勝手に震えていた。

 

8

どれくらいそこにいたかわからない。

 

扉を叩く音は、いつの間にか止んでいた。

 

「音、です」

 

佐伯が、ぼそりと言った。

 

「さっきの人、僕が声をかけるまで、動いてなかった。音に反応してるんだと思います」

 

そうかもしれない。電車の中でも、ホームでも、叫んでいる人間から先に襲われていた気がする。

 

だとしたら。

 

「スマホ」俺は言った。「マナーモードにしろ。バイブも切れ」

 

二人でスマホを取り出した。俺は設定を開いて、音を消して——

 

佐伯のスマホが、鳴った。

 

着信音。最大音量。狭い倉庫の中に、明るいメロディが響き渡った。

 

画面に表示されていた名前は「母」だった。

 

佐伯が、固まった。出るべきか、切るべきか。その〇・五秒の迷いが、永遠みたいに長かった。

 

扉の向こうで、足音がした。

 

一つじゃなかった。

 

9

倉庫には、もう一つ出口があった。天井近くの換気口。佐伯が見つけた。

 

「先に行ってください」

 

「お前が先に——」

 

「僕のほうが、ここの構造わかってます。あなたが先に上がって、僕を引っ張ってください」

 

扉が軋んでいる。閂が、少しずつ曲がっていく。

 

棚に足をかけた。換気口の格子を外す。狭い。肩が引っかかる。スーツの上着を脱ぎ捨てて、体をねじ込んだ。

 

振り返って、手を伸ばした。

 

「佐伯!」

 

佐伯が棚に足をかけた、その瞬間、扉が開いた。

 

感染者が三人、四人、なだれ込んできた。

 

佐伯の足首が、掴まれた。

 

俺は、佐伯の手首を掴んでいた。引いた。全力で引いた。佐伯の体が浮く。下から、何本もの腕が、佐伯の脚に、腰に、しがみついてくる。

 

重い。重すぎる。

 

佐伯と、目が合った。

 

「放してください」

 

佐伯は、はっきりそう言った。

 

「放さない」

 

「あなたまで落ちます」

 

佐伯の脚に、誰かが噛みついた。佐伯の顔が歪んだ。叫ばなかった。歯を食いしばって、叫ばなかった。俺のために、音を立てないようにしていた。

 

「……お母さんに」

 

佐伯は、何かを言いかけた。

 

最後まで聞こえなかった。

 

俺の手の中から、佐伯の手首が、すべり落ちていった。

 

10

換気ダクトの中を、這った。

 

どこへ向かっているのかわからなかった。ただ、下から聞こえる音から遠ざかる方向へ、這い続けた。

 

泣いていたと思う。声は出さなかった。出せなかった。

 

ダクトの先に、光が見えた。

 

格子を蹴破って、外に転がり出た。

 

甲州街道の、高架の下だった。

 

地上に出れば助かる。そう思っていた。

 

空が、黒かった。

 

煙だ。西新宿の方角から、何本も、何本も、黒い煙が立ち上っている。ヘリコプターが旋回している。サイレンが、あらゆる方向から聞こえている。車道には、ドアを開けたまま乗り捨てられた車が、何百台も並んでいた。

 

そしてその車の間を、人が走っていた。

 

逃げている人と。 追っている人と。

 

もう、どっちがどっちなのか、遠目にはわからなかった。

 

11

走った。

 

どこへ、とは考えなかった。人の少ないほうへ。音のしないほうへ。代々木方面の、線路沿いの細い道へ。

 

コンビニの前を通り過ぎた。ガラスが割れていた。中で何かが動いていた。見なかった。

 

小学校の前を通り過ぎた。校庭に、誰もいなかった。それが一番怖かった。

 

息が切れた。脇腹が痛い。革靴の中で、足の皮がめくれているのがわかる。でも止まれない。止まったら、追いつかれる。

 

何に?

 

わからない。とにかく、止まったら終わる。

 

路地の奥に、古いアパートの外階段があった。駆け上がって、二階の踊り場に座り込んだ。ここなら、下から見えない。

 

息を整える。

 

整わない。

 

ポケットのスマホを見た。バッテリー、残り十四パーセント。通知が一件だけ届いていた。

 

緊急速報。

 

〈東京都全域に外出禁止令。屋内に留まり、施錠してください。感染が疑われる者との接触を避けてください〉

 

外出禁止令。

 

屋内に留まれ。

 

俺は、どこにも入れない。家は船橋だ。ここから二十五キロある。

 

12

そのとき、初めて気がついた。

 

右手の甲に、傷があった。

 

三本の、細い、赤い線。

 

いつできた?

 

換気口の格子で擦ったのか。線路の砂利で切ったのか。ホームによじ登ったときか。

 

それとも——

 

倉庫の扉の隙間から伸びてきた、清掃員の女の指。あの爪が、俺の袖を、掻いた。袖だけだったか? 本当に、袖だけだったか?

 

思い出せない。

 

傷口を見つめた。赤い。少し腫れている。普通の擦り傷に見える。普通の擦り傷に、見えるはずだ。

 

佐伯は、噛まれてから十秒で動かなくなった。

 

引っかき傷なら? もっと遅いのか? それとも、そもそも、引っかき傷では感染しないのか?

 

誰も教えてくれない。

 

スマホの時計を見た。九時二十一分。本当なら、今ごろ会議室で、資料の説明をしているはずだった。

 

手の甲が、少しだけ、熱い気がした。

 

気のせいだ。

 

気のせいだと、思う。

 

階段の下で、足音がした。

 

俺は、息を止めた。

 

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