階段の下から聞こえた足音は、一歩ごとに、止まった。
一段上がって、止まる。また一段上がって、止まる。
そんな歩き方を、感染者はしない。あいつらは止まらない。迷わない。全力か、静止かの二つしかない。
俺は、階段の手すりの隙間から下を覗いた。
女だった。三十代後半くらい。紺の作業ジャンパー。片手に折りたたみ傘、もう片方の手に、出刃包丁。
目が合った。
女が包丁を構えた。俺は両手を上げた。
「生きてます」馬鹿みたいな言葉だと思いながら言った。「生きてます、俺、普通です」
「口を開けて」
「え」
「口を開けて、舌を見せて。それから両手、こっちに向けて」
言われたとおりにした。女は三メートル離れたまま、じっと俺の舌を見た。
「灰色じゃないな」
「舌でわかるんですか」
「知らない。でもさっき、駅前で見たやつは舌まで灰色だった」
女は包丁を下ろさなかった。下ろさないまま、階段を上がってきて、俺の二段下で止まった。
「恩田。軽貨物の運転手」
「……沢渡です。会社員です」
「沢渡さん、どこ行くの」
「船橋です。家族がいます」
恩田さんは、少しだけ目を細めた。
「二十五キロ。歩きで六時間。今の東京で六時間」
「わかってます」
「わかってない顔してる」
そう言いながら、恩田さんは俺の隣に座った。包丁を膝の上に置いて、深く息を吐いた。それが、この人が最初に見せた、人間らしい動作だった。
「私、葛飾。あんたの方角と同じ。途中まで一緒に行こう」
俺は、右手を体の後ろに回した。
三本の引っかき傷を、ジャンパーの袖で隠した。
なぜそうしたのか、自分でもわからない。
いや、わかっていた。
言えば、置いていかれるからだ。
恩田さんのルールは三つだった。
「一、走らない。走ると音が出るし、体力が減る。二、叫ばない。何があっても。三、大通りを渡るときは、必ず二人同時に渡らない。片方が先に行って、安全なら手を挙げる」
「なんでそんなに落ち着いてるんですか」
「落ち着いてない。手、見てみ」
恩田さんは自分の左手を見せた。小刻みに震えていた。
「怖い。めちゃくちゃ怖い。でもね、うちのガキ、十一歳。あいつが家で一人なの。だから今、私が死ぬという選択肢が、ないの」
明治通りを渡るとき、その三つのルールの意味がわかった。
交差点の真ん中に、宅配便のトラックが横転していた。その荷台から、段ボールが散らばって、道路一面に転がっていた。
恩田さんが先に渡った。半分まで行って、手を挙げた。
俺が渡り始めたとき、どこかで犬が吠えた。
反応は、二秒だった。
トラックの陰から、五人。歩道橋の下から、三人。潰れたカフェのテラス席から、二人。
全員が、同じ方向に走り出した。犬の鳴き声のほうへ。
俺は道路の真ん中で凍りついた。動けば音が出る。動かなければ見つかる。
恩田さんが、口の形だけで言った。
——しゃがんで。
俺はゆっくり膝をついて、段ボールの山の陰に体を沈めた。
五メートル先を、四人が走り抜けていった。靴を履いていない者。片腕がない者。学生服の少年。
誰も俺を見なかった。
音のしない人間は、あいつらにとって、家具と同じなんだ。
犬の鳴き声が、悲鳴みたいな高い音に変わって、それから、消えた。
代々木の駐輪場で、自転車を二台調達した。ワイヤーロックを、恩田さんが車載工具のバールで叩き切った。金属音が三回響いて、そのたびに二人で息を止めた。
「後で弁償する」恩田さんは真顔で言った。「世界が元に戻ったら」
自転車は、革命だった。
歩くより四倍速い。そして何より、逃げられる。あいつらは速いが、平地の自転車には追いつけない。
千駄ヶ谷、四谷、市ヶ谷。
車道は乗り捨てられた車で埋まっていたが、その隙間を自転車はすり抜けられた。ときどき、車の中で人が手を振っていた。窓を叩いていた。俺たちは止まらなかった。止まれなかった。車の外に出られない理由が、その車の周りにいる場合があるからだ。
皇居の堀が見えたとき、一瞬だけ、世界が美しく見えた。
水面に、黒い煙と、青い空が、両方映っていた。
桜田門の交差点で、俺たちは止まった。
バリケードがあった。
装甲車。土嚢。迷彩服。自衛隊だった。
生きている人間の列が、百メートル以上続いていた。
「検問です! 一列に! 走らないで!」
拡声器の声。列の先で、隊員が一人ずつ、上着を脱がせていた。
サーモグラフィーのカメラ。体温チェック。そして、全身の目視確認。
「噛み傷、引っかき傷、原因不明の出血、すべて申告してください! 隠した場合、シェルター内の全員が危険にさらされます!」
俺の心臓が、耳の奥で鳴り始めた。
右手。
三本の線。
恩田さんが、俺の横顔を見た。
列が進む。三十メートル。二十メートル。
前のほうで、騒ぎが起きた。
五十代くらいの男が、左の前腕に包帯を巻いていた。隊員がそれを外させた。包帯の下は、噛み傷ではなかった。ガラスで切ったような、まっすぐな裂傷。
「ガラスだよ! 店のガラスで切ったんだ! 噛まれてない!」
「規定です。赤エリアに移動してください」
「赤ってなんだ! 治療してくれるのか!」
隊員は答えなかった。
男は、家族らしい女性と、小さな女の子から引き離されて、土嚢の向こうに連れて行かれた。女の子が泣き出した。母親が、その口を押さえた。
赤エリアが何なのか、誰も説明しなかった。
でも、列に並んでいる全員が、なんとなく理解していた。
俺は、列から離れた。
自転車のハンドルを掴んで、ゆっくりと、後ろに下がった。
恩田さんが追ってきた。
「沢渡さん」
「……すみません」
「いつから」
「たぶん、駅の倉庫で。爪で、袖を。……袖だけだったかもしれない。わからないんです」
恩田さんは、俺の右手を見た。長い時間、見ていた。
それから言った。
「八時間前だよね、それ」
「はい」
「八時間、なんともない」
「でも」
「でも、はなし」恩田さんは自転車にまたがった。「噛まれた人は十秒だった。八時間もつなら、それは噛み傷じゃない。少なくとも、今のところは」
「あなたを、危険に」
「危険はとっくに全員が背負ってる」恩田さんはペダルに足をかけた。「それに、私もう決めたの。私が死ぬ選択肢はないって。だから、あんたが死ぬ選択肢も、今日はなし」
迂回した。日比谷、八丁堀、そして下町へ。
夕方になると、街の様子が変わってきた。
感染者が減った。代わりに、閉め切られた家が増えた。シャッターの内側から、ラジオの音が漏れている家もあった。生きている人間が、正しく隠れている。
錦糸町の手前、細い路地の奥に、小さな町工場があった。
シャッターが半分だけ開いていて、中から、湯気が出ていた。
老人が一人、旋盤の横で、カセットコンロでやかんを沸かしていた。
「入るか」
それが久保田さんの第一声だった。俺たちを検分もせずに、ただそう言った。
「あの、危険じゃ」
「あんたら、自転車に乗って、無駄口叩かずに来た。噛まれた奴は自転車に乗れん。バランスが取れんからな」
久保田さんは、裏口のドアをバールで補強していた。旋盤で削り出した鉄の閂だった。この人は、この半日で、自分の工場を要塞に作り変えていた。
お茶が出た。
熱い液体が喉を通ったとき、俺は初めて、自分がどれだけ渇いていたかを知った。朝からずっと、水を一滴も飲んでいなかった。
ラジオが、ニュースを繰り返していた。
〈……感染は唾液および血液を介して成立します。咬傷の場合、発症までおよそ十秒から三十秒。一方、引っかき傷や皮膚接触では、感染者の体液が傷口に直接入った場合に限り感染が成立し、発症まで三時間から十二時間の幅があると報告されています。繰り返します……〉
やかんが、しゅんしゅんと鳴っていた。
三時間から、十二時間。
今、何時間目だ。
時計を見た。午後六時四十分。
あの倉庫から、九時間二十分。
夜。
工場の隅に毛布を敷いて、三人で横になった。眠れるわけがなかった。
天井の蛍光灯は消してある。非常口の緑の光だけが、床に落ちていた。
外から、ときどき、足音が通り過ぎる。速い足音。ゆっくりな足音。誰かの、押し殺した泣き声。
俺は右手を顔の前に持ち上げて、暗がりの中で傷を見ていた。
熱がある気がする。
心臓が速い気がする。
でもそれは、恐怖のせいかもしれない。自転車で二十キロ走ったせいかもしれない。
どっちだ。どっちだ。
午前二時、俺は毛布から起き上がった。
裏口のほうへ、音を立てずに歩いた。
外に出るつもりだった。ここで俺が変わったら、恩田さんも久保田さんも終わりだ。だったら、離れたところで、一人で——
「どこ行くの」
暗闇から、恩田さんの声がした。
起きていた。ずっと。
「……トイレです」
「嘘が下手だね、あんた」
恩田さんが立ち上がって、俺の前に来た。
「気づいてたよ。アパートの階段で、最初に手を上げたとき。あんた右手だけ、指を曲げてた」
俺は、何も言えなかった。
「それでも一緒に来たのは、私が馬鹿だからじゃない。あんたが、隠したまま私に近づかなかったからだよ。ずっと、風下に立ってた。私に触れないようにしてた。自分が危ないって思ってる人間の動き方だった」
恩田さんは、ポケットから何かを出して、俺の手に押し付けた。
折り畳みナイフだった。
「持ってな。変わりそうになったら、自分でどうにかしな。それが嫌なら、変わらずに朝まで生きてな」
「……ひどい選択肢だ」
「今日の東京で、選択肢が二つもあるなんて、贅沢だよ」
朝が来た。
窓から差し込む光で目が覚めた。眠っていたらしい。
眠れたということは。
自分の手を見た。
三本の傷は、かさぶたになっていた。赤みは引いていた。腫れも、ない。
時計。午前六時十二分。
二十二時間。
ラジオが言っていた上限の、倍近く。
俺は、その場に座り込んだ。涙は出なかった。ただ、全身の筋肉が一斉に脱力して、しばらく立てなかった。
恩田さんが、湯を沸かしながら、こっちを見ずに言った。
「ほら見な。私の勝ち」
そのとき、工場の外で、音がした。
ガラガラ、という機械音。
久保田さんが、発電機を回していた。裏庭で、シャッターを開けて、エンジンを始動させていた。
「久保田さん!」
「電動シャッターを閉めるんだ、手動じゃ隙間が——」
エンジン音が、路地に響き渡った。
二秒。
いつもどおり、二秒だった。
路地の両側から、足音が湧いた。数えられない。十や二十じゃない。
錦糸町の駅のほうから、群れが、押し寄せてきた。
裏口から飛び出した。
自転車。恩田さんが先。俺が続く。久保田さんは——
「久保田さん!」
「行け!」
老人は工場の中に戻って、内側から鉄の閂をかけた。旋盤の横に立って、こっちに手を振った。
「ここは俺の工場だ! 四十三年だ! 出ていく理由がない!」
シャッターに、数十体が殺到した。
鉄が鳴った。工場全体が鳴った。
俺たちは、ペダルを踏んだ。
路地を抜けて、大通りに出て、東へ。ひたすら東へ。
背後で、何かが崩れる音がした。
振り返らなかった。今度は、振り返らなかった。
荒川の土手に出たのは、七時過ぎだった。
橋は、封鎖されていた。両端にバリケード。向こう岸にも、装甲車。検問を通らなければ渡れない。
でも、川岸に、小さな船着場があった。
釣り船の看板。船外機付きの和船が、二艘。
船頭らしい男が、金を取っていた。一人二万円。
「足元見やがって」恩田さんが吐き捨てた。
「見てるさ」船頭は悪びれなかった。「命の値段としちゃ安いだろ。俺は往復するたびに死ぬ確率を買ってんだ」
財布の中に、三万円と少しあった。全部渡した。
恩田さんの分も、俺が払った。
「借りだよ」
「弁償してください。世界が元に戻ったら」
恩田さんが、初めて笑った。
船が、川の真ん中に出た。
東京側の岸が、遠ざかっていく。
煙。サイレン。ヘリの音。
川の上は、静かだった。水音と、船外機の低い唸りだけ。
恩田さんは、葛飾側の岸で降りた。
「ここから走って十五分」
「お子さん、無事だといいですね」
「無事だよ」恩田さんは、断定の口調で言った。「あの子、私に似て強情だから」
彼女は自転車を押して、土手を上がっていった。一度も振り返らなかった。俺は、その背中が見えなくなるまで、船の上から見ていた。
名前しか知らない人だった。
でも、たぶん、俺は一生この人を忘れない。
船橋に着いたのは、午前十一時前だった。
街は、静かだった。東京ほど壊れていなかった。人の姿はないが、窓には明かりがあり、どの家も、きちんと閉ざされていた。
自分の住むマンションの前に立ったとき、膝が震えた。
エントランスのガラスは、割れていなかった。
オートロック。カードキーは、会社の鞄の中だ。鞄は、新宿駅のホームに置いてきた。
インターホンを押した。
三〇二号室。
呼び出し音が、鳴る。
一回。二回。三回。
鳴り続ける。
誰も、出ない。
十回目で、指が震え始めた。二十回目で、視界が滲んだ。
もう一度、押した。
「……はい」
スピーカーから、小さな声がした。
娘の声だった。
「ひなた」
喉から出た声が、自分のものだと思えなかった。
「ひなた、パパだ。パパだよ」
スピーカーの向こうで、息を呑む音がした。それから、何かが落ちる音。走る音。
オートロックが開いた。
エレベーターは使わなかった。階段を駆け上がった。二段飛ばしで、三階まで。
三〇二号室のドアが、内側から開いた。
チェーンがかかったままの、十センチの隙間。
その隙間から、七歳の娘が、俺を見上げていた。
「……ほんとに、パパ?」
「ほんとだよ」
「ママが、ドア開けちゃだめって。パパが帰ってきても、まず見てからって。噛まれてないか、見てからって」
俺は、ドアの前に膝をついた。
妻の判断は、正しい。何一つ間違っていない。
「見ていいよ。ゆっくり見て」
娘は、真剣な顔で、隙間から俺の首を見た。腕を見た。顔を見た。
俺は、右手を、背中に回した。
かさぶたになった、三本の線を。
二十二時間、何も起きなかった。ラジオは十二時間が上限だと言っていた。もう大丈夫なはずだ。大丈夫なはずなんだ。
それでも俺は、その手を、娘に見せなかった。
「……だいじょうぶ」
娘が言った。
チェーンが外れる音がした。