新宿、午前八時十四分   作:Sub Sonic

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新宿、午前八時十四分 ── 第三部「三〇二号室」

 

玄関に倒れ込んだ俺を、妻の麻衣は、抱きしめなかった。

 

まず、俺の全身を見た。娘がやったのと同じように、もっと徹底的に。首、耳の後ろ、腕、足首。

 

「服、脱いで」

 

「ひなたの前で」

 

「ひなた、部屋に入ってて」

 

娘が寝室に消えてから、俺は玄関で下着一枚になった。麻衣は俺の背中まで確認して、それから、ようやく、息を吐いた。

 

「……おかえり」

 

抱きしめられたとき、麻衣の腕が、俺よりずっと強く震えていた。

 

右手は、背中に回したままだった。

 

シャワーは水だった。ガスは止まっていた。冷たい水を頭からかぶりながら、俺は、言うべきだと思った。言わなければならない。二十二時間じゃない、もう三十時間だ。何も起きていない。説明すれば、麻衣ならわかってくれる。

 

タオルで体を拭いて、リビングに戻った。

 

「麻衣、話が」

 

玄関のドアが、叩かれた。

 

三回、間を置いて、二回。決められたリズムだった。

 

麻衣が立ち上がった。

 

「自治会。ここ、三日前から、そういうふうになったの」

 

俺の告白は、そこで、また一日先送りになった。

 

 

マンションは、九階建て、三十六戸。生き残っていたのは、五十一人だった。

 

それを取り仕切っていたのが、七階の篠塚さんだった。五十代。建設会社の現場所長を三十年やっていた人で、パンデミック二日目の朝には、もう組織を作り終えていた。

 

「沢渡さん、東京から歩いて来たんだって?」

 

集会所——一階の駐車場を、ブルーシートと物置棚で囲った空間——で、篠塚さんは俺に椅子を勧めた。

 

「自転車と、船です」

 

「情報が欲しい。新宿はどうだった」

 

俺は、知っていることを全部話した。感染者が音に反応すること。噛まれれば十秒であること。引っかき傷は三時間から十二時間であること。自衛隊の検問と、赤エリアのこと。

 

篠塚さんは、メモを取っていた。そして最後に、全員の前でホワイトボードに書いた。

 

〈ルール〉 一、大きな音を立てない(掃除機・テレビ・楽器・走る音) 二、日没後の外出禁止 三、屋上の見張りは二人一組、二時間交代 四、水は一人一日三リットルまで 五、週に一度、全員で検身を行う

 

「五番は、きつく感じる人もいると思う」篠塚さんは言った。「でも、うちの受水槽は十二トン、五十一人で割ると、節約して四十日ぶん。四十日、全員で生き延びるには、四十日ぶんの信用が要る。信用は、目で見て作るしかない」

 

誰も反対しなかった。

 

俺も、反対しなかった。

 

 

最初の検身は、三日目だった。

 

男は男、女は女で分かれて、下着一枚になり、二人の確認係に全身を見せる。傷があれば申告し、日付と原因を記録される。

 

俺の番が来た。

 

右手を、隠す場所は、なかった。

 

「沢渡さん、その手」

 

確認係の一人が、声を上げた。集会所の空気が、一瞬で変わった。

 

篠塚さんが近づいてきた。ペンライトで、三本の線を照らした。

 

「いつだ」

 

「……新宿駅の、倉庫です。三日前の、朝九時ごろ」

 

「誰にやられた」

 

ここで、嘘をつけた。

 

ガラスで切った。バールで擦った。自転車で転んだ。いくらでも言えた。

 

でも、久保田さんの工場のシャッターの音と、篠塚さんのホワイトボードの「信用」という字が、同時に頭の中で鳴った。

 

「感染者の、爪です。たぶん」

 

悲鳴のような声が、女性の側から上がった。

 

篠塚さんは、表情を変えなかった。

 

「三日前の朝九時。今、七十二時間経過。発症上限は十二時間と言ったな。あんた自身の情報だ」

 

「はい」

 

「なぜ最初に申告しなかった」

 

「……怖かったからです」

 

篠塚さんは、しばらく黙って、それからメモに何か書いた。

 

「沢渡さん、あんたを追い出すことはしない。七十二時間の実績があるし、何より、正直に言った。ただし条件がある」

 

その日から、三〇二号室のドアには、赤いビニールテープが、縦に一本、貼られた。

 

観察対象、という意味だった。

 

麻衣は、何も言わなかった。

 

その夜、寝室で背中を向けたまま、麻衣は言った。

 

「シャワーの後、話そうとしてたの、これ?」

 

「……うん」

 

「言ってくれればよかった。みんなの前で聞くことじゃない」

 

「ごめん」

 

「謝らないで。怒ってるんじゃないの」麻衣の声が、震えた。「怖いの。あなたが、あと九時間で死ぬかもしれないって思いながら、私、三日間、知らずに隣で寝てた。それが、怖いの」

 

 

五日目に、電気が止まった。

 

冷蔵庫の中のものが、順番に駄目になっていく。各戸から食材を持ち寄って、集会所のカセットコンロで一斉に調理して、みんなで食べた。最後の肉だった。あの日以降、俺たちは肉を食べていない。

 

水は減っていった。篠塚さんの計算より速かった。トイレの洗浄に使う水を、誰かが節約していないのだ。

 

ベランダに雨水を溜めるバケツが並び始めた。

 

ラジオは、一日二回だけ聞いた。乾電池を節約するためだ。

 

情報は、少しずつ入ってきた。感染爆発は首都圏と大阪、名古屋。地方はまだ持ちこたえている。政府は機能している。治療法はない。ワクチンは「研究中」。

 

そして、八階の井口さんのインスリンが、残り四日分になった。

 

 

六日目の夜、五〇五号室の青年が、変わった。

 

二十代前半。大学生。三日前の検身では、何も申告していなかった。

 

太ももの内側に、噛み傷を隠していた。

 

なぜ彼が十二時間どころか六日も発症しなかったのか、後になっても誰にもわからなかった。潜伏期に個人差があったのか、傷が浅かったのか。ただ確かなのは、彼が六日間、誰にも言わずに、自分の部屋で、震えていたということだった。

 

深夜二時。

 

五階の廊下で、悲鳴が上がった。

 

俺は玄関のドアを内側から押さえて、家族を寝室に押し込んだ。上の階から、走る音。ぶつかる音。重いものが倒れる音。

 

三十分後、静かになった。

 

死んだのは三人だった。五〇五の青年と、隣の五〇四の夫婦。

 

夫婦は、悲鳴を聞いて、ドアを開けてしまった。

 

朝、篠塚さんは集会所に全員を集めた。誰も座らなかった。全員が立ったまま、篠塚さんの言葉を待っていた。

 

「ルールを追加する。検身は一日二回、朝と夕方。そして——」

 

篠塚さんは、一度言葉を切った。

 

「傷を隠した者は、この建物から出ていってもらう」

 

その瞬間、五十人ぶんの視線が、一斉に、同じ方向を向いた。

 

俺だった。

 

 

その日から、俺は、この建物で一番危険な人間になった。

 

赤いテープは、もう誰の目にも、烙印にしか見えなかった。

 

三〇二号室の前を通る人は、足を速めた。集会所で俺が水を汲むと、順番待ちの列が、一メートル後ろに下がった。

 

一番こたえたのは、ひなただった。

 

集会所には、子どもが六人いた。ひなたと、四〇一の男の子と、他に四人。十日目、ひなたが泣いて帰ってきた。

 

「あそんじゃだめって、立花さんのママが言った」

 

四〇一の立花さん。三歳の子どもがいる。彼女が悪いとは、俺には言えなかった。俺が彼女の立場でも、同じことをしただろう。

 

麻衣が、立花さんの部屋に行った。何を話したかは聞いていない。帰ってきた麻衣の目が赤かったことだけ、覚えている。

 

その夜、俺はベランダで、恩田さんにもらった折り畳みナイフを開いた。

 

刃が、非常灯の光を反射した。

 

これを使う状況を、俺は一度も迎えていない。俺は発症しなかった。でも、この建物での俺の居場所は、もう、死んでいた。

 

麻衣が、後ろに立っていた。

 

「それ、何に使うつもり」

 

「……何にも」

 

麻衣は俺の手からナイフを取って、閉じて、自分のポケットに入れた。

 

「あなたはもう十日、生きてる。十日ぶん、あなたは正しかったの。それを、あなたが一番信じてないの、おかしいでしょ」

 

 

十二日目。井口さんのインスリンが、切れた。

 

五百メートル先の調剤薬局。徒歩八分。往復二十分。

 

篠塚さんは、志願者を募った。

 

誰も手を挙げなかった。

 

俺は、手を挙げた。

 

全員が俺を見た。今度の視線には、疑いとは別の、居心地の悪さが混じっていた。

 

「あんたが行く理由はない」篠塚さんが言った。

 

「あります」

 

それ以上、説明はしなかった。篠塚さんも、それ以上、訊かなかった。

 

結局、三人で行った。篠塚さんと、俺と、六階の若い男——名前は矢代といった。

 

装備は、ゴム引きの作業着、ヘルメット、軍手。武器は、バールと金属バット。そして、鞄いっぱいの小石。

 

小石は、囮だ。投げて、音で引きつける。恩田さんのルール二番の応用だった。

 

薬局は、ガラスが割れていた。中は、すでに荒らされていた。

 

それでも、冷蔵ケースの奥に、インスリンが残っていた。誰も、冷蔵ケースまでは見なかったらしい。電気が止まってから十二日。保冷剤と一緒に鞄に詰めた。効果がどれだけ落ちているかはわからない。ないよりましだ。

 

帰り道、交差点で、矢代が石につまずいた。

 

バットが、アスファルトに落ちた。

 

金属音が、街に響いた。

 

三方向から、足音が湧いた。

 

走った。ルールを破った。走るしかなかった。

 

マンションのエントランスまで、あと三十メートルというところで、篠塚さんが遅れた。

 

五十代の脚だった。

 

後ろから伸びた手が、篠塚さんの首筋を掴んだ。

 

俺はバールで、それを叩いた。何度も叩いた。人間の形をしたものを、全力で殴るという行為に、そのときの俺は、もう何の抵抗も感じなかった。

 

篠塚さんを引きずって、エントランスに飛び込んだ。ドアを閉めた。鍵をかけた。

 

矢代が、内側からバリケードを積み上げた。

 

篠塚さんは、床に座り込んで、自分の首筋に手を当てていた。

 

手を離した。

 

指先が、赤かった。

 

 

篠塚さんは、立ち上がらなかった。

 

座ったまま、集まってきた住人たちを見上げて、はっきりと言った。

 

「噛まれた。左の首だ。今から十五秒後か、三時間後か、わからん。全員、俺から離れろ」

 

誰かが泣き出した。誰かが、そんな、と言った。

 

篠塚さんは、エントランスの外側——ドアの向こう側へ、自分から出ていった。

 

そして、内側から鍵をかけるように、俺たちに言った。

 

「閉めろ」

 

「篠塚さん」

 

「沢渡さん」

 

ガラス越しに、篠塚さんが俺を見た。

 

「あんたのテープ、剥がしてくれ。俺が最後に出す指示だ」

 

俺は、何か言おうとした。喉が動かなかった。

 

「言い忘れてた」篠塚さんは、笑った。「あんた、正直に言ったろ。あれは、勇気だったよ。俺は、追い出さない口実を探すのに、三日かかった」

 

ドアが、閉まった。

 

篠塚さんは、エントランスの外の花壇に腰を下ろして、こちらに背を向けた。

 

俺たちは、見なかった。見てはいけないと、全員がわかっていた。

 

 

その夜、集会所で、全員が集まった。

 

誰が次のリーダーをやるのか、という話に、なるはずだった。

 

でも、最初に立ち上がったのは、四〇一の立花さんだった。

 

「私、隠してました」

 

集会所が、静まり返った。

 

立花さんは、左のふくらはぎを出した。小さな、かさぶたの痕が、二つ。

 

「十一日前、ベランダに上がってきたのを、突き落としたとき。爪で。……子どもがいるから、追い出されたら死ぬと思って、言えませんでした」

 

十一日。

 

誰かが、息を呑んだ。

 

そのあと、二人が手を挙げた。九階の男性と、二〇三の女子学生。どちらも、皮膚の傷を隠していた。どちらも、一週間以上、何も起きていなかった。

 

俺は、自分の右手を見た。

 

かさぶたは、とっくに取れていた。三本の、薄いピンクの線が残っているだけだった。

 

隠していたのは、俺だけじゃなかった。

 

ただ、俺が最初に、みんなの前で言っただけだった。

 

麻衣が、俺の手を取って、立ち上がらせた。

 

「ルール、変えましょう」麻衣が言った。看護師だったころの声だった。「追放じゃなくて、隔離にする。傷を申告した人は、集会所の奥の部屋で、十二時間。それだけ。十二時間経って何もなかったら、戻ってくる」

 

「十二時間で足りるのか」矢代が言った。「五〇五の子は、六日だったんだぞ」

 

「足りないかもしれない」麻衣は認めた。「でも、追放にしたら、誰も申告しなくなる。申告されない傷が、一番危ないの。五〇五の子が、それを証明したでしょう」

 

長い、長い議論になった。

 

決まったのは、夜中の二時だった。

 

〈傷を申告した者は、二十四時間の隔離。罰ではない。申告しなかった者だけが、退去〉

 

三〇二号室の赤いテープは、翌朝、剥がされた。

 

剥がしたのは、立花さんだった。

 

 

それから、十日が過ぎた。

 

水は、あと十四日ぶん。

 

井口さんは、まだ生きている。

 

ラジオは、千葉県北部の自衛隊駐屯地に、収容施設ができたと伝えていた。移動には、三十キロの行程と、検問と、また同じ恐怖が待っている。集会所では、毎晩、行くか残るかの議論が続いている。

 

俺は、まだ決めていない。

 

夕方、屋上の見張り当番のあと、俺は恩田さんのナイフを、麻衣から返してもらった。

 

一度も使っていない。

 

ラジオには、尋ね人のコーナーがある。一日に十件だけ、名前を読み上げてくれる。俺は葉書を書いて、どこにも出せないまま、玄関の靴箱の上に置いてある。

 

〈葛飾区・恩田さん。沢渡は船橋で生きています。自転車代、弁償します〉

 

リビングに戻ると、ひなたが、床で絵を描いていた。

 

クレヨンで、大きな橋と、船と、自転車。

 

「これ、パパ?」

 

「そう。パパが帰ってきたときの」

 

絵の中の俺は、両手を広げていた。

 

俺は、ひなたの隣に座って、右手を差し出した。

 

二十八日、隠し続けた手だった。

 

ひなたは、その手を覗き込んで、線を一本ずつ、指でなぞった。

 

「いち、に、さん」

 

「痛くないよ」

 

「うん」

 

娘は、その手を握った。

 

窓の外で、日が沈んでいく。今日も、街は静かだ。

 

明かりは点けない。音は立てない。

 

それでも、俺たちは、ここにいる。

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