玄関に倒れ込んだ俺を、妻の麻衣は、抱きしめなかった。
まず、俺の全身を見た。娘がやったのと同じように、もっと徹底的に。首、耳の後ろ、腕、足首。
「服、脱いで」
「ひなたの前で」
「ひなた、部屋に入ってて」
娘が寝室に消えてから、俺は玄関で下着一枚になった。麻衣は俺の背中まで確認して、それから、ようやく、息を吐いた。
「……おかえり」
抱きしめられたとき、麻衣の腕が、俺よりずっと強く震えていた。
右手は、背中に回したままだった。
シャワーは水だった。ガスは止まっていた。冷たい水を頭からかぶりながら、俺は、言うべきだと思った。言わなければならない。二十二時間じゃない、もう三十時間だ。何も起きていない。説明すれば、麻衣ならわかってくれる。
タオルで体を拭いて、リビングに戻った。
「麻衣、話が」
玄関のドアが、叩かれた。
三回、間を置いて、二回。決められたリズムだった。
麻衣が立ち上がった。
「自治会。ここ、三日前から、そういうふうになったの」
俺の告白は、そこで、また一日先送りになった。
マンションは、九階建て、三十六戸。生き残っていたのは、五十一人だった。
それを取り仕切っていたのが、七階の篠塚さんだった。五十代。建設会社の現場所長を三十年やっていた人で、パンデミック二日目の朝には、もう組織を作り終えていた。
「沢渡さん、東京から歩いて来たんだって?」
集会所——一階の駐車場を、ブルーシートと物置棚で囲った空間——で、篠塚さんは俺に椅子を勧めた。
「自転車と、船です」
「情報が欲しい。新宿はどうだった」
俺は、知っていることを全部話した。感染者が音に反応すること。噛まれれば十秒であること。引っかき傷は三時間から十二時間であること。自衛隊の検問と、赤エリアのこと。
篠塚さんは、メモを取っていた。そして最後に、全員の前でホワイトボードに書いた。
〈ルール〉 一、大きな音を立てない(掃除機・テレビ・楽器・走る音) 二、日没後の外出禁止 三、屋上の見張りは二人一組、二時間交代 四、水は一人一日三リットルまで 五、週に一度、全員で検身を行う
「五番は、きつく感じる人もいると思う」篠塚さんは言った。「でも、うちの受水槽は十二トン、五十一人で割ると、節約して四十日ぶん。四十日、全員で生き延びるには、四十日ぶんの信用が要る。信用は、目で見て作るしかない」
誰も反対しなかった。
俺も、反対しなかった。
最初の検身は、三日目だった。
男は男、女は女で分かれて、下着一枚になり、二人の確認係に全身を見せる。傷があれば申告し、日付と原因を記録される。
俺の番が来た。
右手を、隠す場所は、なかった。
「沢渡さん、その手」
確認係の一人が、声を上げた。集会所の空気が、一瞬で変わった。
篠塚さんが近づいてきた。ペンライトで、三本の線を照らした。
「いつだ」
「……新宿駅の、倉庫です。三日前の、朝九時ごろ」
「誰にやられた」
ここで、嘘をつけた。
ガラスで切った。バールで擦った。自転車で転んだ。いくらでも言えた。
でも、久保田さんの工場のシャッターの音と、篠塚さんのホワイトボードの「信用」という字が、同時に頭の中で鳴った。
「感染者の、爪です。たぶん」
悲鳴のような声が、女性の側から上がった。
篠塚さんは、表情を変えなかった。
「三日前の朝九時。今、七十二時間経過。発症上限は十二時間と言ったな。あんた自身の情報だ」
「はい」
「なぜ最初に申告しなかった」
「……怖かったからです」
篠塚さんは、しばらく黙って、それからメモに何か書いた。
「沢渡さん、あんたを追い出すことはしない。七十二時間の実績があるし、何より、正直に言った。ただし条件がある」
その日から、三〇二号室のドアには、赤いビニールテープが、縦に一本、貼られた。
観察対象、という意味だった。
麻衣は、何も言わなかった。
その夜、寝室で背中を向けたまま、麻衣は言った。
「シャワーの後、話そうとしてたの、これ?」
「……うん」
「言ってくれればよかった。みんなの前で聞くことじゃない」
「ごめん」
「謝らないで。怒ってるんじゃないの」麻衣の声が、震えた。「怖いの。あなたが、あと九時間で死ぬかもしれないって思いながら、私、三日間、知らずに隣で寝てた。それが、怖いの」
五日目に、電気が止まった。
冷蔵庫の中のものが、順番に駄目になっていく。各戸から食材を持ち寄って、集会所のカセットコンロで一斉に調理して、みんなで食べた。最後の肉だった。あの日以降、俺たちは肉を食べていない。
水は減っていった。篠塚さんの計算より速かった。トイレの洗浄に使う水を、誰かが節約していないのだ。
ベランダに雨水を溜めるバケツが並び始めた。
ラジオは、一日二回だけ聞いた。乾電池を節約するためだ。
情報は、少しずつ入ってきた。感染爆発は首都圏と大阪、名古屋。地方はまだ持ちこたえている。政府は機能している。治療法はない。ワクチンは「研究中」。
そして、八階の井口さんのインスリンが、残り四日分になった。
六日目の夜、五〇五号室の青年が、変わった。
二十代前半。大学生。三日前の検身では、何も申告していなかった。
太ももの内側に、噛み傷を隠していた。
なぜ彼が十二時間どころか六日も発症しなかったのか、後になっても誰にもわからなかった。潜伏期に個人差があったのか、傷が浅かったのか。ただ確かなのは、彼が六日間、誰にも言わずに、自分の部屋で、震えていたということだった。
深夜二時。
五階の廊下で、悲鳴が上がった。
俺は玄関のドアを内側から押さえて、家族を寝室に押し込んだ。上の階から、走る音。ぶつかる音。重いものが倒れる音。
三十分後、静かになった。
死んだのは三人だった。五〇五の青年と、隣の五〇四の夫婦。
夫婦は、悲鳴を聞いて、ドアを開けてしまった。
朝、篠塚さんは集会所に全員を集めた。誰も座らなかった。全員が立ったまま、篠塚さんの言葉を待っていた。
「ルールを追加する。検身は一日二回、朝と夕方。そして——」
篠塚さんは、一度言葉を切った。
「傷を隠した者は、この建物から出ていってもらう」
その瞬間、五十人ぶんの視線が、一斉に、同じ方向を向いた。
俺だった。
その日から、俺は、この建物で一番危険な人間になった。
赤いテープは、もう誰の目にも、烙印にしか見えなかった。
三〇二号室の前を通る人は、足を速めた。集会所で俺が水を汲むと、順番待ちの列が、一メートル後ろに下がった。
一番こたえたのは、ひなただった。
集会所には、子どもが六人いた。ひなたと、四〇一の男の子と、他に四人。十日目、ひなたが泣いて帰ってきた。
「あそんじゃだめって、立花さんのママが言った」
四〇一の立花さん。三歳の子どもがいる。彼女が悪いとは、俺には言えなかった。俺が彼女の立場でも、同じことをしただろう。
麻衣が、立花さんの部屋に行った。何を話したかは聞いていない。帰ってきた麻衣の目が赤かったことだけ、覚えている。
その夜、俺はベランダで、恩田さんにもらった折り畳みナイフを開いた。
刃が、非常灯の光を反射した。
これを使う状況を、俺は一度も迎えていない。俺は発症しなかった。でも、この建物での俺の居場所は、もう、死んでいた。
麻衣が、後ろに立っていた。
「それ、何に使うつもり」
「……何にも」
麻衣は俺の手からナイフを取って、閉じて、自分のポケットに入れた。
「あなたはもう十日、生きてる。十日ぶん、あなたは正しかったの。それを、あなたが一番信じてないの、おかしいでしょ」
十二日目。井口さんのインスリンが、切れた。
五百メートル先の調剤薬局。徒歩八分。往復二十分。
篠塚さんは、志願者を募った。
誰も手を挙げなかった。
俺は、手を挙げた。
全員が俺を見た。今度の視線には、疑いとは別の、居心地の悪さが混じっていた。
「あんたが行く理由はない」篠塚さんが言った。
「あります」
それ以上、説明はしなかった。篠塚さんも、それ以上、訊かなかった。
結局、三人で行った。篠塚さんと、俺と、六階の若い男——名前は矢代といった。
装備は、ゴム引きの作業着、ヘルメット、軍手。武器は、バールと金属バット。そして、鞄いっぱいの小石。
小石は、囮だ。投げて、音で引きつける。恩田さんのルール二番の応用だった。
薬局は、ガラスが割れていた。中は、すでに荒らされていた。
それでも、冷蔵ケースの奥に、インスリンが残っていた。誰も、冷蔵ケースまでは見なかったらしい。電気が止まってから十二日。保冷剤と一緒に鞄に詰めた。効果がどれだけ落ちているかはわからない。ないよりましだ。
帰り道、交差点で、矢代が石につまずいた。
バットが、アスファルトに落ちた。
金属音が、街に響いた。
三方向から、足音が湧いた。
走った。ルールを破った。走るしかなかった。
マンションのエントランスまで、あと三十メートルというところで、篠塚さんが遅れた。
五十代の脚だった。
後ろから伸びた手が、篠塚さんの首筋を掴んだ。
俺はバールで、それを叩いた。何度も叩いた。人間の形をしたものを、全力で殴るという行為に、そのときの俺は、もう何の抵抗も感じなかった。
篠塚さんを引きずって、エントランスに飛び込んだ。ドアを閉めた。鍵をかけた。
矢代が、内側からバリケードを積み上げた。
篠塚さんは、床に座り込んで、自分の首筋に手を当てていた。
手を離した。
指先が、赤かった。
篠塚さんは、立ち上がらなかった。
座ったまま、集まってきた住人たちを見上げて、はっきりと言った。
「噛まれた。左の首だ。今から十五秒後か、三時間後か、わからん。全員、俺から離れろ」
誰かが泣き出した。誰かが、そんな、と言った。
篠塚さんは、エントランスの外側——ドアの向こう側へ、自分から出ていった。
そして、内側から鍵をかけるように、俺たちに言った。
「閉めろ」
「篠塚さん」
「沢渡さん」
ガラス越しに、篠塚さんが俺を見た。
「あんたのテープ、剥がしてくれ。俺が最後に出す指示だ」
俺は、何か言おうとした。喉が動かなかった。
「言い忘れてた」篠塚さんは、笑った。「あんた、正直に言ったろ。あれは、勇気だったよ。俺は、追い出さない口実を探すのに、三日かかった」
ドアが、閉まった。
篠塚さんは、エントランスの外の花壇に腰を下ろして、こちらに背を向けた。
俺たちは、見なかった。見てはいけないと、全員がわかっていた。
その夜、集会所で、全員が集まった。
誰が次のリーダーをやるのか、という話に、なるはずだった。
でも、最初に立ち上がったのは、四〇一の立花さんだった。
「私、隠してました」
集会所が、静まり返った。
立花さんは、左のふくらはぎを出した。小さな、かさぶたの痕が、二つ。
「十一日前、ベランダに上がってきたのを、突き落としたとき。爪で。……子どもがいるから、追い出されたら死ぬと思って、言えませんでした」
十一日。
誰かが、息を呑んだ。
そのあと、二人が手を挙げた。九階の男性と、二〇三の女子学生。どちらも、皮膚の傷を隠していた。どちらも、一週間以上、何も起きていなかった。
俺は、自分の右手を見た。
かさぶたは、とっくに取れていた。三本の、薄いピンクの線が残っているだけだった。
隠していたのは、俺だけじゃなかった。
ただ、俺が最初に、みんなの前で言っただけだった。
麻衣が、俺の手を取って、立ち上がらせた。
「ルール、変えましょう」麻衣が言った。看護師だったころの声だった。「追放じゃなくて、隔離にする。傷を申告した人は、集会所の奥の部屋で、十二時間。それだけ。十二時間経って何もなかったら、戻ってくる」
「十二時間で足りるのか」矢代が言った。「五〇五の子は、六日だったんだぞ」
「足りないかもしれない」麻衣は認めた。「でも、追放にしたら、誰も申告しなくなる。申告されない傷が、一番危ないの。五〇五の子が、それを証明したでしょう」
長い、長い議論になった。
決まったのは、夜中の二時だった。
〈傷を申告した者は、二十四時間の隔離。罰ではない。申告しなかった者だけが、退去〉
三〇二号室の赤いテープは、翌朝、剥がされた。
剥がしたのは、立花さんだった。
それから、十日が過ぎた。
水は、あと十四日ぶん。
井口さんは、まだ生きている。
ラジオは、千葉県北部の自衛隊駐屯地に、収容施設ができたと伝えていた。移動には、三十キロの行程と、検問と、また同じ恐怖が待っている。集会所では、毎晩、行くか残るかの議論が続いている。
俺は、まだ決めていない。
夕方、屋上の見張り当番のあと、俺は恩田さんのナイフを、麻衣から返してもらった。
一度も使っていない。
ラジオには、尋ね人のコーナーがある。一日に十件だけ、名前を読み上げてくれる。俺は葉書を書いて、どこにも出せないまま、玄関の靴箱の上に置いてある。
〈葛飾区・恩田さん。沢渡は船橋で生きています。自転車代、弁償します〉
リビングに戻ると、ひなたが、床で絵を描いていた。
クレヨンで、大きな橋と、船と、自転車。
「これ、パパ?」
「そう。パパが帰ってきたときの」
絵の中の俺は、両手を広げていた。
俺は、ひなたの隣に座って、右手を差し出した。
二十八日、隠し続けた手だった。
ひなたは、その手を覗き込んで、線を一本ずつ、指でなぞった。
「いち、に、さん」
「痛くないよ」
「うん」
娘は、その手を握った。
窓の外で、日が沈んでいく。今日も、街は静かだ。
明かりは点けない。音は立てない。
それでも、俺たちは、ここにいる。