新宿、午前八時十四分   作:Sub Sonic

5 / 9
新宿、午前八時十四分 ── 第四部「三十キロ」

 

決を採ったのは、水が残り十一日になった夜だった。

 

議論は三日続いていた。結論を出したのは、矢代の一言だった。

 

「残る、って選択肢は、十一日後にはなくなります。だったら、残るか行くかを選べるのは、今だけです」

 

挙手。行く、四十二。残る、五。

 

残ると言ったのは、九階の老夫婦と、その隣の独居の男性、そして二〇三の女子学生の祖父母だった。

 

「足手まといになる」と九階の奥さんが言った。「三十キロ歩けない。途中で座り込んだら、あんたたち、置いていけないでしょう。置いていけないのが、一番危ないの」

 

誰も、説得できなかった。篠塚さんなら説得できたかもしれない。でも篠塚さんはもういない。

 

女子学生は、泣きながら祖父母の部屋に三時間こもって、それから出てきて、行く、と言った。

 

「おばあちゃんが、行けって」

 

別れは、出発の朝ではなく、その夜に済ませた。

 

朝は、泣いている時間がないからだ。

 

 

ルートで揉めた。

 

国道十四号は、まっすぐで広い。だが、乗り捨てられた車が壁を作っていて、視界が効かない。車の陰は、そのまま感染者の待ち伏せ場所になる。

 

海沿いは遠回りで、風が強く、遮蔽物がない。

 

最終的に選んだのは、矢代の案だった。

 

「線路を歩きましょう」

 

私鉄の高架線。北へ、ほぼ一直線。

 

理由は三つ。第一に、線路には車がない。視界が三百メートル先まで抜ける。第二に、高架区間は柵に囲まれていて、横から入られない。第三に、線路沿いに感染者がいる理由がない。人は駅にいる。線路上にはいない。

 

「問題は三つ」俺は言った。「駅。踏切。それと——バラスト」

 

「バラスト?」

 

「砂利です。あの上を四十二人で歩いたら、ザクザク音が出ます。半径二百メートルに聞こえる」

 

結論は、枕木の上を一列で歩く、だった。歩幅が合わない。子どもは特にきつい。それでも、音を出すよりはいい。

 

荷物の計算は、麻衣がやった。

 

水。一人一日三リットルは、歩けば足りない。四リットルは要る。四十二人、二日で三百三十六リットル。三百三十六キロ。運べるわけがない。

 

「二リットルに落とします」麻衣が言った。「脱水一歩手前で歩く。その代わり、二日じゃなくて、一泊二日で確実に着く行程にする」

 

台車が四台、キャリーカートが十一個、ベビーカーが三台。ベビーカーには、赤ん坊ではなく水を載せた。

 

井口さんのインスリンは、保冷バッグに入れて、俺が背負った。

 

 

出発は、夜明け直後だった。

 

感染者は夜も動く。だが、夜は俺たちのほうが圧倒的に不利だ。明るいうちに、できるだけ進む。

 

マンションのエントランスに、四十二人が並んだ。

 

先頭は矢代。バールを持った男が三人。真ん中に、子どもと高齢者と台車。最後尾が俺と、金属バットを持った二人。

 

九階の老夫婦が、廊下の窓から手を振っていた。

 

誰も、声を出さなかった。

 

声を出さないというルールが、こんなに残酷だとは思わなかった。

 

線路に上がるまでの一・二キロが、一番危なかった。住宅街を抜ける。

 

幸い、死体のように静かだった。この一帯の感染者は、もうとっくに、音のする方——駅や幹線道路のほうへ移動していたらしい。

 

高架の保守用階段を上がったとき、後ろで小さな声がした。

 

「ばいばい」

 

ひなただった。

 

麻衣が、その口を押さえた。

 

誰も、怒らなかった。

 

 

線路の上は、別世界だった。

 

高い。周りの家より高い。だから、街が全部見えた。

 

焼けた家。倒れた電柱。ベランダに干されたまま、二十九日ぶん色褪せた洗濯物。道路の真ん中で、何かの周りにしゃがみ込んでいる人影。

 

それでも、空が広かった。

 

風が吹いていた。

 

誰かが、小さく言った。

 

「……久しぶりだ、風」

 

三十日、マンションの中と屋上にしかいなかった人たちだった。

 

枕木を、一歩、一歩。

 

時速二キロ。想定どおり。子どもは歩幅が合わず、ときどき親に抱えられた。井口さんは杖をつきながら、それでも自分の足で歩いた。

 

二時間歩いて、十分休む。

 

四回目の休憩で、麻衣が水を配った。紙コップ半分。一人二百ミリリットル。

 

ひなたが、一口飲んで、俺に差し出した。

 

「パパも」

 

「パパのはあるよ」

 

「はんぶんこ」

 

俺は、その半分を飲んだ。ぬるくて、プラスチックの味がした。生まれて一番うまい水だった。

 

 

最初の踏切で、止まった。

 

高架が切れて、地上に降りる区間。踏切の上に、タクシーが一台、斜めに止まっていた。

 

その周りに、十二体。

 

車の中に、生きている人がいるらしかった。運転席で、何かが動いていた。三十日、ずっとそこにいたのか、それとも最近入ったのか、わからない。感染者たちは、その車のガラスを、単調に、規則正しく叩き続けていた。

 

音の源があるから、そこから動かない。

 

助けられるか、と誰かが言った。

 

矢代が、首を振った。

 

「四十二人います」

 

それだけだった。

 

俺たちは線路を降りて、住宅街を三百メートル迂回した。塀の陰を、一列で。誰も、踏切のほうを見なかった。見た人が一人いた。二〇三の女子学生だった。彼女は、口を両手で押さえたまま、涙だけ流して、歩き続けた。

 

あの車の人が、最後まで気づかなかったことを祈る。

 

四十二人が、すぐそばを通り過ぎたことに。

 

 

昼過ぎ、駅を通過した。

 

高架駅。ホームに、電車が停まったままだった。

 

車内に、いた。

 

ドアは閉まっている。あの日、車内で感染が起きて、ドアが開かないまま、全員が閉じ込められたのだろう。

 

窓の向こうに、灰色の顔が、いくつも、いくつも張り付いていた。

 

俺たちは、その車両の、二メートル横を通らなければならなかった。

 

矢代が、手で合図した。——ゆっくり、止まらずに。

 

一人目が通った。二人目。三人目。

 

車内の何体かが、こちらに顔を向けた。目が追ってくる。でも、ガラスは叩かない。音が出ていないからだ。あいつらは、視覚だけでは興奮しない。

 

俺は、そのとき初めて確信した。こいつらは、見えていない。あるいは、見えていても、意味が処理できていない。

 

十五人目で、事故が起きた。

 

四〇一の立花さんの息子——三歳が、ベビーカーから落ちたおもちゃを拾おうとして、しゃがんだ。

 

プラスチックのおもちゃが、コンクリートのホームで、カラン、と鳴った。

 

車内の百個の顔が、一斉に動いた。

 

ガラスが、鳴り始めた。

 

どん。どん。どん。百体が、同じリズムで。

 

電車の窓ガラスは、強い。割れはしない。

 

だが、音は、外へ出た。

 

駅の階段の下から、応答するように、足音が上がってきた。

 

「走れ!」矢代が叫んだ。

 

ルール一番と二番が、同時に死んだ。

 

 

ホームの先端から、線路へ飛び降りる。一メートル。子どもは大人が抱えて渡す。台車は、四人がかりで降ろした。

 

水のベビーカーが、一台、ひっくり返った。

 

十リットル入りのポリタンクが二つ、線路に落ちて、片方が割れた。

 

「置いていけ!」

 

走った。枕木の間隔が合わない。何人かが転んだ。俺は井口さんの腕を掴んで、引きずるように走った。八十二歳の体は、驚くほど軽かった。

 

後ろを見た。

 

駅のホームから、線路へ、降りてくる。七体。八体。十体。

 

あいつらは、一メートルの落差で足首を折っても走る。折れた足のまま、片足で跳ねて追ってくる。

 

三百メートル走って、高架が切れた。

 

その先は、直線の、ゆるい下り坂。

 

矢代が、後ろを振り返って、叫んだ。

 

「保線車!」

 

線路脇の退避スペースに、小さな作業用の台車が置いてあった。レールの上を走る、人力の手押しトロッコ。保線用のものだ。

 

「乗せろ! 子どもと年寄りだけ!」

 

六人乗せた。男四人で押した。下り坂で、加速した。

 

時速二キロが、時速十五キロになった。

 

感染者は、追いつけなかった。

 

一キロ先の登り坂で、俺たちは止まって、そこで初めて、全員を数え直した。

 

四十二人。

 

全員いた。

 

水が、六十リットル減っていた。

 

 

その夜は、保線基地の詰所で過ごした。

 

コンクリートブロックの建物。窓は金網入り。ドアは鉄。矢代が「ここを目指してた」と言った。線路を選んだ理由の、四つ目だった。

 

水は、明日の分が、一人一・二リットル。

 

残り十二キロ。歩けば六時間。持つ。ぎりぎり持つ。

 

夜、詰所の中で、俺たちは小さな声で話をした。

 

電気のない部屋で、四十二人が、囁き声で。

 

誰かが、パンデミック前の話をした。最後に食べた寿司の話。会社の上司の悪口。子どもの運動会。

 

立花さんが、俺の隣に来た。

 

「昼間、うちの子が」

 

「誰も死にませんでした」

 

「そういうことじゃなくて」立花さんは、膝を抱えた。「私、あのとき、思ったんです。あの子さえいなければ、って。一瞬だけ。自分の子に」

 

俺は、何も言えなかった。

 

「沢渡さん、私、あなたのこと、追い出そうとしてたんですよ。赤いテープのとき」

 

「知ってます」

 

「今なら、わかります。人って、こわいものを、自分の外側に置きたいんです。外側に置いとけば、自分は安全だから」

 

立花さんは、少し笑った。

 

「でも、昼間、いちばんこわかったのは、私の中にあった」

 

 

深夜、ドアが叩かれた。

 

六人いた。

 

男三人、女二人、そして十歳くらいの男の子。全員が痩せて、汚れていた。三週間、コンビニと民家を渡り歩いてきたという。

 

リーダー格の男が言った。

 

「水と、食い物を分けてくれ」

 

詰所の中で、意見が割れた。

 

明日の分しかない。分けたら、こちらが足りなくなる。

 

俺は、立ち上がった。三十日間で、一番はっきりした声が出た。

 

「条件があります。検身を受けてください。全身。傷があっても追い出さない。申告してくれたら、隔離して、一緒に連れていきます。隠したら、それだけで出て行ってもらう」

 

五人が、受けた。

 

リーダー格の男だけが、拒否した。

 

「ふざけんな。なんで俺が裸にならなきゃいけねえんだ」

 

「傷がないなら、十秒で終わります」

 

「傷はねえよ」

 

「じゃあ、十秒です」

 

男は、俺を睨んで、それから、仲間を置いて、闇の中へ出ていった。

 

残った五人には、水と、乾パンを分けた。子どもには、多めに。

 

朝、水のポリタンクが二つ、なくなっていた。

 

詰所の裏のドアが、内側から開けられていた。

 

あの男が、戻ってきていたのだ。

 

残った五人のうちの誰も、それを知らなかった。十歳の男の子が、泣きながら「おじさんだ」と言った。

 

その日、俺たちの水は、一人七百ミリリットルになった。

 

 

最後の十二キロは、地獄だった。

 

五月の晴天。高架の上に、日陰はない。コンクリートが熱を溜めて、下から焼いてくる。

 

二時間で、三人が倒れた。

 

水は、倒れた人に優先的に回した。歩ける人間は、飲まない。

 

ひなたは、途中から俺の背中にいた。十九キロの娘が、五十キロに感じた。

 

誰も、喋らなかった。音を立てないためではなく、喋る力が残っていなかった。

 

午後二時、前方に、フェンスが見えた。

 

有刺鉄線。土嚢。コンクリートブロック。そして、日の丸。

 

拡声器の声が、風に乗ってきた。

 

〈そこの集団、止まりなさい! 全員、両手を上げて、ゆっくり前進!〉

 

誰かが、膝から崩れた。

 

それは、安堵の崩れ方だった。

 

 

受付は、三時間かかった。

 

一人ずつ。サーモグラフィー。全身の目視。問診。

 

俺の番が来た。

 

若い隊員が、俺の右手を見た。

 

「これは」

 

「二十九日前、感染者の爪で引っかかれました」

 

隊員の手が、止まった。

 

桜田門の検問を思い出した。包帯の男。赤エリア。引き離された家族。

 

でも、隊員は、無線を取って、こう言った。

 

「陳旧性瘢痕、受傷二十九日。簡易検査に回します」

 

「簡易検査」

 

「血液です。異常プリオンの有無を、二十分で見ます。三週間前に配備されました」

 

心臓が、耳の奥で鳴った。

 

二十九日、答えの出なかった質問に、今日、答えが出る。

 

採血。テント。パイプ椅子。

 

二十分。

 

麻衣が、隣に座った。ひなたは、麻衣の膝で眠っていた。

 

「もし陽性だったら」

 

「言わないで」麻衣が言った。「二十九日、あなた、何も起きてない。それが答えでしょ」

 

「答えは、二十分後だ」

 

「答えは、もう出てるの。検査は、確認するだけ」

 

隊員が、紙を持って戻ってきた。

 

俺は、立ち上がれなかった。

 

「陰性です」

 

隊員は、事務的に言って、次の人の名前を呼んだ。

 

それだけだった。

 

二十九日、俺の背中に張り付いていたものが、剥がれて、落ちた。

 

俺は、パイプ椅子の上で、声を殺して泣いた。娘を起こさないように。

 

音を立てない癖は、たぶん、一生抜けない。

 

 

立花さんも、陰性だった。

 

九階の男性も、二〇三の女子学生も。

 

昨夜の五人も、全員、通った。

 

四十七人が、フェンスの内側に入った。

 

内側は、楽園ではなかった。テントと、簡易トイレと、一日二食の配給と、六千人の人間。水は、一人一日五リットル。それでも、五リットルあった。

 

井口さんは、医療棟に運ばれて、その日のうちにインスリンを打った。

 

その夜、俺たちは屋根の下で眠った。三十日ぶりに、誰も見張りに立たない夜だった。

 

 

一週間後、俺はゲート当番に志願した。

 

到着する集団を受け入れる係だ。一日に、二組か三組、来る。減ってはいるが、まだ来る。

 

三日目、自転車を押した女性の集団が来た。

 

俺は、走った。走ってから、ここは走っていい場所だったと思い出した。

 

違った。

 

四十代の、知らない人だった。娘さんを連れていた。

 

俺は、すみません、と言って、荷物を運ぶのを手伝った。

 

ゲートの内側に、掲示板がある。

 

尋ね人の紙が、何千枚も貼られている。写真、名前、連絡先。風で端がめくれて、重なって、層になっている。

 

俺は、船橋から持ってきた葉書を、そこに画鋲で留めた。

 

〈葛飾区・恩田さん。沢渡は生きています。娘も妻も無事です。自転車代、弁償します。下総・第四テント〉

 

誰かが、見るかもしれない。

 

見ないかもしれない。

 

それでも、留めた。

 

留めない理由が、もう、どこにもなかった。

 

帰り道、テントの前で、ひなたがしゃがんでいた。地面に、木の枝で絵を描いていた。

 

橋と、船と、自転車。それと、もう一つ。

 

大きな四角い建物と、たくさんの棒人間。

 

「これ、なに」

 

「みんな」ひなたが言った。「ここにいる、みんな」

 

棒人間は、数えきれないほど描いてあった。

 

その中に、手を繋いでいる二人がいた。片方の手は、三本線で、丁寧に描かれていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。