新宿、午前八時十四分   作:Sub Sonic

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新宿、午前八時十四分 ── 第五部「六千人」

 

下総の基地には、六千百八十人がいた。

 

隊員は、六百人足らずだった。

 

十対一。

 

この比率が、すべての問題の根っこだった。

 

最初の一週間、俺たちは「助かった」と思っていた。二週目には、「ここはどういう場所なのか」を考え始めた。三週目には、全員が同じ計算をしていた。

 

井戸が二本。浄水装置の処理能力が、一日四十トン。六千人で割ると、六・五リットル。配られるのは三リットル。残りは調理と医療と、洗浄に消える。

 

食料は、備蓄と、近隣の物資回収班が持ち帰るもので回している。一日二食が、五週目に一食半になった。

 

発電機の軽油が、あと四十日ぶん。

 

ここは、船橋のマンションが大きくなっただけの場所だった。

 

違うのは、五十一人なら顔と名前が一致するが、六千人では一致しない、ということだった。

 

 

麻衣は、三日目に医療棟へ引き抜かれた。看護師の資格を持つ人間が、基地に十四人しかいなかった。

 

俺は、労務班。テント設営、物資の積み下ろし、簡易トイレの汲み取り。

 

矢代は、警備班に志願した。

 

「向いてるんですよ、俺」と本人は言った。「線路のときも、俺、楽しかったんです。悪いけど」

 

早瀬——二〇三の女子学生だ。名前をちゃんと聞いたのは、ここに来てからだった——は、物資班の台帳係になった。高校で簿記をやっていたらしい。

 

立花さんは、託児テント。子どもが二百人以上いて、親が働いている間、誰かが見なければならない。

 

ひなたは、その託児テントで、毎日、地面に絵を描いていた。

 

生活があった。ひどい生活だったが、生活だった。

 

問題は、生活が始まると、人は序列を作り始める、ということだった。

 

 

峰岸という男がいた。

 

五十代後半。元・市議会議員。第二テント地区の代表として、自治委員会に入っていた。

 

声が大きい。話がうまい。そして、彼は、正しいことを言った。

 

半分だけ。

 

「配給が足りないのは、配分が悪いからだ。今、物資回収班で毎日十キロ歩いている若い連中と、テントで寝ているだけの人間が、同じ量を受け取っている。これが公平か?」

 

拍手が起きた。第二テントで、三十人くらいが。

 

俺は後ろで聞いていた。反論の言葉は浮かんだ。だが、その日、俺は十二時間働いて、一食半しか食べていなかった。その拍手に、体の一部が、うっすら賛成していた。

 

それが、一番こわかった。

 

 

六週目の夜。

 

第五テント地区で、発症が起きた。

 

四十代の男性。三日前の物資回収で、崩れた瓦礫で腕を切ったと申告していた。感染者との接触はなかった、と本人も班長も証言した。実際、なかったのかもしれない。血が付着した瓦礫に触れただけでも、条件が揃えば感染する——それが後から周知された事実だった。

 

深夜一時。

 

テントの中で、七十人が寝ていた。

 

悲鳴が上がったとき、矢代は、警備の巡回で四十メートル先にいた。

 

矢代は、テントに向かって走った。

 

そして、走りながら、笛を吹いた。

 

警備班の非常笛。鋭い、高い音。

 

感染者は、音に反応する。

 

矢代は、自分に引きつけたのだ。

 

テントの中の七十人から、外へ。

 

二体が、矢代を追った。矢代は、笛を吹きながら、開けた滑走路のほうへ走った。照明のない、誰もいない方向へ。

 

警備班が追いついたのは、二分後だった。

 

死者は、三人だった。

 

テントの中で二人。そして、滑走路の端で一人。

 

矢代は、笛を口にくわえたままだった。

 

二十九歳。船橋のマンションの六階に住んでいて、線路を歩くルートを考えた男だった。

 

葬儀はなかった。遺体は、規定に従って処理された。

 

その夜、俺は初めて、基地の隅で、大声で泣いた。音を立てるな、というルールは、もうここにはなかった。

 

 

翌日、峰岸が動いた。

 

「全員に、毎日の検身を義務づけるべきだ。そして——瘢痕のある者、過去に接触歴のある者は、生活区から分離する」

 

自治委員会の場で、峰岸は言った。

 

「矢代くんは、他人を守って死んだ。彼の死を無駄にしないために、我々は徹底しなければならない」

 

俺は、立ち上がった。

 

「矢代を、あなたの理屈に使わないでください」

 

「感情論では人は守れない」

 

「感情論じゃない。数字です」俺は言った。「瘢痕のある人間は、この基地に何人いますか」

 

「把握していない。だから調べると言っている」

 

「船橋から来た四十七人のうち、三人です。率にすると六・四パーセント。六千人なら、三百八十人。その三百八十人を分離して、どこに置くんですか。誰が食事を運ぶんですか。そしてその三百八十人のうち、実際に発症する人は、二十九日以上経過していれば、ほぼゼロです」

 

「ほぼ、だろう」

 

「ほぼです。ゼロとは言えない」俺は認めた。「でも、分離をやると、もっと確実なことが起きます。傷を、誰も申告しなくなる」

 

会議室が、静かになった。

 

「第五テントの彼は、申告してたんです。だから班長も知っていた。だから、テントの中で誰かが見ていた。だから、悲鳴が上がったとき、みんなが理由を理解して、外へ逃げられた。もし彼が隠していたら、死者は三人じゃ済まなかった」

 

峰岸は、俺をじっと見た。

 

「君の手も、瘢痕だそうだね」

 

「はい。検査は陰性です」

 

「その検査キットが、あと何本あるか、知っているかね」

 

俺は、答えられなかった。

 

 

検査キットは、二百四十本だった。

 

六千百八十人に対して、二百四十本。

 

補給の見込みは、未定。

 

その数字が漏れた瞬間から、キットは通貨になった。

 

誰に使うのか。誰が決めるのか。

 

峰岸の自治委員会案は、「回収班など、外部と接触する作業従事者に優先配分」だった。合理的に聞こえた。だが実際には、峰岸の地区の若い男たちが、優先的に班に入っていた。

 

そして八週目、第二テント地区に、自警団ができた。

 

夜、寝ている人間のテントに入って、腕をめくる。断ると、「やましいことがあるのか」と言う。

 

十週目、ある女性が、下着姿のまま通路に立たされた。左の肩に、蝶の刺青があった。それを瘢痕だと言い張った男が三人いた。

 

その場を止めたのは、立花さんだった。

 

三歳の子どもを抱いたまま、立花さんは男たちの前に立った。

 

「私も瘢痕があります。ふくらはぎに二つ。三十日以上前のものです。私を先に立たせてください」

 

男たちは、退いた。

 

立花さんは、後で俺に言った。

 

「こわかった。でも、赤いテープを貼られた人の気持ちを、私は一回、知らないふりをしたから」

 

 

証拠を見つけたのは、早瀬だった。

 

物資班の台帳係。十八歳。簿記三級。

 

「沢渡さん、これ、おかしいです」

 

彼女が見せたのは、検査キットの払い出し記録だった。

 

「払い出し数と、医療棟の使用記録が、四十二本ずれてます。払い出されたけど、使われてない」

 

四十二本。

 

どこへ行ったか、調べるまでもなかった。

 

第二テント地区では、その頃、「キット一本」で食料の優先枠が動くという噂が流れていた。

 

麻衣が、医療棟の記録を照合してくれた。ずれは、間違いなかった。

 

俺は、その紙を持って、三日間、動けなかった。

 

これを出せば、峰岸は終わる。自警団も解散する。

 

だが、その先に何があるかも、わかっていた。

 

六千人が、二つに割れる。峰岸を支持している三百人は、行き場を失う。そして、割れた場所から、次の峰岸が生えてくる。

 

 

決断する前に、事件のほうが先に来た。

 

十一週目。物資回収班が襲われた。

 

四人が戻ってこなかった。三人が負傷して戻った。

 

そのうちの一人が、峰岸の娘だった。

 

二十四歳。右の前腕に、四本の引っかき傷。

 

峰岸は、娘を医療棟に連れていかなかった。

 

自分のテントの、仕切りの奥に、隠した。

 

俺がそれを知ったのは、翌日の夕方だった。麻衣が、負傷者リストと医療棟の受診記録を突き合わせて、一人足りないことに気づいた。

 

俺は、第二テントに行った。

 

峰岸は、仕切りの前に座っていた。三十時間、そこに座り続けているような顔をしていた。

 

俺を見て、何も言わなかった。

 

言い訳も、脅しも、なかった。

 

俺は、隣に座った。

 

「三十時間ですか」

 

「……三十四時間だ」

 

「上限は十二時間って、言われてます。でも、六日で発症した人もいる。だから、意味のある数字じゃない。三十四時間経っても、ずっとこわい。ずっと、こわいままです」

 

峰岸の肩が、動いた。

 

「俺も、隠しました」俺は言った。「新宿で引っかかれて、船橋まで丸一日、誰にも言わなかった。言ったら置いていかれると思ったから。妻にも三日、言えなかった」

 

「……君は」

 

「だから、あなたを責めに来たんじゃないです。手続きの話をしに来ました」

 

俺は、ポケットから紙を出した。船橋のマンションで、麻衣が作った案を、そのまま書き写したものだった。

 

〈申告した者は、二十四時間の隔離。罰ではない。申告しなかった者だけが、退去〉

 

「これを、明日の委員会に、あなたから出してください」

 

峰岸は、紙を見た。長い時間。

 

「私が出す理由は」

 

「あなたが出すからです」俺は言った。「俺が出したら、あなたに勝つための案になる。あなたが出したら、ルールになる」

 

峰岸の目が、赤くなった。

 

五十八歳の元市議は、仕切りの向こうで震えている娘の呼吸の音を聞きながら、しばらく、何も言わなかった。

 

それから、言った。

 

「キットのことは、知っているのか」

 

「早瀬が、台帳で見つけました。四十二本」

 

「……返す。全部、返す」

 

「返してください。そして、あなたの娘さんに、一本使ってください。順番は、申告した人が先です。それが、明日の委員会であなたが言うことです」

 

 

峰岸の娘は、陰性だった。

 

二十四時間の隔離テントから出てきた彼女を、峰岸は、抱きしめなかった。

 

抱きしめる前に、娘の全身を見た。麻衣が俺にやったのと、同じことを。

 

それから、抱きしめた。

 

その日の委員会で、峰岸は、新しい規則案を読み上げた。読み上げる声は、いつもの半分の大きさだった。自警団の解散も、彼自身が宣言した。

 

キットの紛失については、「管理上の不備」として処理された。

 

早瀬は不満そうだった。麻衣も。

 

俺も、正しいことをしたのかどうか、いまだにわからない。

 

ただ、あの日から、申告する人が増えた。週に二人か三人だったのが、十人を超えた。

 

それだけが、根拠だ。

 

 

冬が来る前に、いくつかのことが決まった。

 

軽油が尽きるので、発電を一日四時間に制限する。

 

井戸をもう一本掘る。土木の経験者が、六千人の中に十九人いた。

 

そして、生存者名簿を作ることになった。

 

全国の避難所と、無線で名簿を交換する。紙とペンと、一日四時間の電気でできる、唯一の希望らしい仕事だった。

 

俺は、その班に志願した。

 

労務班の腰痛が限界だったのもあるが、理由はもう一つあった。

 

ゲートの掲示板を、毎日見に行けるからだ。

 

 

十二月の、風の強い日だった。

 

掲示板は、もう紙が四層になっていた。上から貼られて、下が見えなくなって、それでも誰も剥がさない。

 

俺は、自分の葉書を確認するのが、日課になっていた。

 

その日、葉書が、裏返しになっていた。

 

風でめくれたのだと思って、直そうとして、気づいた。

 

裏に、ボールペンで、文字が書いてあった。

 

〈自転車代、利息ついてます。三か月分。 松戸の小学校にいました。今は北へ行きます。 生きてなさい。 恩田〉

 

日付は、二週間前だった。

 

俺は、その場にしゃがみ込んで、笑った。

 

声を出して、腹の底から笑った。

 

六千人の誰かが振り返ったかもしれない。かまわなかった。ここは、音を立てていい場所だ。

 

葛飾のあの人は、十一歳の子どもを見つけたのか、どうか。書いていなかった。書いていないということは、書けなかったのかもしれない。

 

でも、あの人は、北へ行った。

 

行けるだけの何かが、あの人には残っている。

 

俺は、新しい紙を一枚もらって、葉書の下に貼った。

 

〈了解。利息ぶんも働いて、待ってます。 沢渡。下総・第四テント。 名簿班にいます。北の名簿も、こっちに届きます〉

 

テントに戻ると、ひなたが、麻衣の膝で本を読んでいた。物資回収班が拾ってきた、表紙の取れた絵本だった。

 

「パパ、なんで笑ってるの」

 

「借金取りが来たんだ」

 

「しゃっきん?」

 

「そのうち説明する」

 

ひなたは、よくわからない顔をして、また本に戻った。

 

窓のない布のテントの外で、冬の風が鳴っていた。

 

電気は、あと二時間で消える。

 

それまでに、名簿を二十人分、書き写さなければならない。

 

俺は、鉛筆を削った。

 

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