八月三十一日の夕方、私は自分の論文の第四稿を、もう一度最初から読み直していた。
〈KM-7型異常タンパクの低温変性による流通網からの排除:北海道における六か月間の観察〉
新規感染者、ゼロ。百八十二日間。
冷凍流通の温度帯をマイナス四十度以下に引き上げ、常温流通を全面停止し、既存の在庫を焼却した。それだけで、この病気は消えた。ウイルスではなかったから、変異もしなかった。宿主を必要としなかったから、人から人への持続感染も成立しなかった。
私は、勝ったと思っていた。
そう、はっきり文字にしておく。私は勝ったと思っていた。その思い込みが何を殺したか、これから書く。
論文の謝辞の欄に、私は一行だけ書いていた。
〈苫小牧市・第三冷凍倉庫の現場従事者各位に、深い敬意と謝意を表する〉
名前は書かなかった。久我という主任の名前を書けば、遺族が論文を読むかもしれないと思った。彼は最後まで荷を運んでいた、などという事実を、遺族が知る必要はない。
私は臆病だったのだと思う。あの謝辞は、私のための謝辞だった。
電話が鳴ったのは、九月一日の〇時十七分だった。
対策室に残っていたのは、私と、総括係の宮下くんの二人だけだった。二十八歳の事務官で、苫小牧のときから私についている。
「横浜市大の救急からです。三十四歳男性、高体温、意識混濁、抑制帯を噛み切って看護師を咬傷。……先生、拘束後の観察所見が、あの形式に一致します」
「あの形式」
「体温三十九度八分。発汗なし。瞳孔対光反射消失。発語なし」
発汗なし、で四十度近い。
体温調節が壊れている。KM-7の所見だ。
「先生」宮下くんの声が、少し裏返っていた。「同じ時刻に、川崎から二件、品川から一件、消防に同様の通報が入っています」
私は、立ち上がった。
一件ならゼロ号患者を追える。四件同時は、追えない。
四件同時というのは、「今、始まった」という意味ではない。
「もう、何日か前から流行っている」という意味だ。
〇時四十分までに、私は三つのことを確認した。
一。四件の患者に、北海道への渡航歴はない。
二。四件のうち三件が、直近一週間以内に同一系列の惣菜チェーンで食事をしている。
三。そのチェーンに納品されている冷凍原料は、五月以降、私のプロトコルに完全準拠していた。
三番目が、致命的だった。
準拠していたのに、出た。
私は、その場で理解した。理解したくなかったが、理解してしまった。
プリオン様タンパクには、構造多形がある。同じアミノ酸配列でも、折り畳み方の違う亜型が共存する。そして亜型ごとに、熱安定性が違う。
私はマイナス四十度を閾値に設定した。南極の試料で、変性を確認したから。
だが、あの試料は、北海道の主要株だった。
もしその集団の中に、わずかな割合で、マイナス四十度に耐える亜型が混じっていたら。
私のプロトコルは、耐性のない亜型だけを、徹底的に殺したことになる。
六か月かけて。
全国の冷凍流通網という、巨大な培養装置の中で。
私は、選択圧をかけたのだ。
新規感染ゼロの百八十二日間は、封じ込めの成功ではなかった。
淘汰と、選抜と、置き換わりの期間だった。
私は宮下くんに言った。
「首都圏の鉄道を、始発から止めます」
彼は私を見た。三秒くらい、何も言わなかった。
「……先生、今、一時十分です」
「始発は四時四十分。三時間半あります」
「決裁が」
「決裁の前に、事実を回します」
私は電話をかけ始めた。感染症対策課長。審議官。局長。
三人とも、出なかった。深夜一時だから、当然だ。
課長は三十五分後に折り返してきた。私は、四件の症例と、惣菜チェーンと、構造多形の仮説を、四分で説明した。
課長は、聞き終えてから言った。
「棚倉さん、その構造多形という話には、データがあるのか」
「ありません。今夜、四件同時に発症したという事実があるだけです」
「四件で、首都圏の鉄道を止めるのか」
「四件は氷山の一角です。KM-7の潜伏期は、経口摂取なら三日から十日。つまり今夜の四件は、十日前の感染です。この十日間に、何人が食べたか、私は計算できません」
「できない数字で動けとは言えない」
「動かなかった場合の数字なら、計算できます」私は言った。「首都圏の朝のラッシュ、一列車あたり乗車人数千六百人、車両間の移動が不可能な密度。一人の発症者が一車両に一人いたとして、咬傷による二次感染は、ほぼ全員です」
沈黙があった。
「朝の連絡会議にかける」
「始発は四時四十分です」
「棚倉さん」課長の声は、疲れていた。悪意はなかった。この人は、本当に、疲れていただけだ。「君の言うとおりだったとして、誰が首都圏の全鉄道を止める権限を持っている。私じゃない。局長でもない。今から大臣を叩き起こして、官邸と調整して、事業者に要請して、それを四時四十分までにやれと言っているのか」
「はい」
「無理だ」
「無理でも、やってください」
私は、そう言った。それ以上のことを言う言葉を、私は持っていなかった。
連絡会議は、四時に開かれた。
その時点で、通報は十一件に増えていた。
会議は、有益だった。誰も怠けていなかった。全員が真剣で、全員が優秀だった。
ただ、会議というものは、合意を作る装置であって、時間を作る装置ではない。
四時四十分、始発が動いた。
五時二十分、都内の通報が二十六件になった。
六時、厚労大臣が官邸に入った。
六時四十分、国土交通省との調整が始まった。
七時十分、鉄道事業者への「運行自粛要請」の文面が作られ始めた。
七時五十分、要請が発出された。
八時。
首都圏の鉄道は、すでに、最大負荷で運行していた。要請から実際の運転停止までには、安全に列車を止め、乗客を降ろすための手順が要る。走っている列車を、その場で捨てるわけにはいかない。
八時十四分。
新宿駅の手前で停車中の山手線車内で、最初の集団感染が発生したという第一報が、モニターに出た。
私は、その数字を見ていた。
八時十四分。
要請から、二十四分。
私が最初の電話を受けてから、七時間五十七分。
七時間五十七分あって、私は、二十四分、間に合わなかった。
その日、何をしたのか、あまり覚えていない。
覚えているのは、十一時頃、宮下くんが私の机に水のペットボトルを置いていったことだ。
私は飲まなかった。飲めなかった。そのまま夜まで机にあった。
夕方、官邸から、首都圏封鎖の方針が出た。
それから三日間、私は対策室から出ていない。
三日目の夜、宮下くんが、自分の家族と連絡が取れないと言った。実家は板橋だった。
「休んでください」と私は言った。
「先生が休んでないので」
「私は、ここにいる理由があります」
「贖罪ですか」
彼は、それを、責める口調で言わなかった。ただ、確認するように言った。
「違います」私は答えた。「私が一番データを見ているからです。贖罪でやる仕事は、精度が落ちます」
宮下くんは、少し笑った。
「先生、そういうところ、苫小牧のときから変わらないですね」
三日後、彼の実家からは連絡がなかった。
三か月後も、なかった。
彼は、それでも毎日、私の隣で通報記録を整理していた。
九月下旬、私は東京を出た。
統合対策本部が、札幌に移された。首都機能の一部が北へ移った。皮肉な話だ。この病気を最初に見つけた場所が、最後に残った安全な場所になった。
札幌で、私は三つの仕事をした。
一つ目は、KM-7の発現形質と気温の関係を確定させること。
苫小牧の症例群は、攻撃性を示さなかった。首都圏の症例群は、極端な攻撃性を示した。長いこと、私はこれを「別の株」だと考えていた。
違った。気温だった。
感染者は体温調節を失う。深部体温が外気温に追随する。そして攻撃行動には、一定以上の体温が要る。苫小牧の彼らはマイナス二十五度の庫内にいた。だから、攻撃しなかった。
攻撃しない代わりに、彼らは働き続けた。
これは、私にとって、科学的な発見であると同時に、個人的な救いだった。
久我主任は、誰も襲わなかった。襲えなかったのだ。
彼は最後まで、フォークリフトに座っていた。
十二月の技術文書の第三版に、私は補記を一段落だけ足した。他の部分と文体が違うと、査読で指摘された。直さなかった。
あれは、報告書ではない。墓碑だ。
二つ目の仕事は、終わり方を決めることだった。
十月、私は全国の観察報告を集計して、一つの異常に気づいた。
感染者は、咬む。だが、食べない。
摂食行動の報告が、一件もない。
四か月、何も摂取していない身体が、走り、掴み、咬みついている。
入力ゼロで出力が続いているなら、体組織を燃やしている。それ以外にない。
私はモデルを立てた。基礎代謝、活動量、脂肪と筋肉の量。感染者は体温維持をしないので、その分の消費は小さい。だが、筋活動は激しい。
出た答えは、ひどく幅の広い数字だった。
個体寿命、およそ十一か月から十五か月。
これを公表すべきかどうかで、私は一週間迷った。
公表すれば、人々は「待てば終わる」と考える。無謀な掃討作戦は減る。犠牲は減る。
だが、外れたら。
もし十五か月ではなく三年だったら。そう信じて籠城した避難所が、二年目の春に、備蓄を使い切って全滅する。
私は、公表した。
幅を正直に書いた。前提条件も、誤差の根拠も、全部書いた。読む人が自分で判断できるように。
宮下くんが、原稿を見て言った。
「先生、これ、外れたらどうするんですか」
「私の名前で外します」
彼は、少しだけ黙って、それから言った。
「苫小牧のときも、同じこと言ってましたね」
「言いました」
「あのとき、先生は正しくて、そのあと、間違いました」
「はい」
「じゃあ今回は」
「わかりません」私は正直に答えた。「でも、名前を出さずに間違えるよりは、ましです。名前が出ていれば、次に誰かが検証できる」
三つ目の仕事は、名簿だった。
これは私の担当ではなかった。だが、私は志願して、週に一度、短波の受信記録を読むことにしていた。
全国の避難所から上がってくる報告には、疫学的に価値のあるものが混じっている。現場の人間は、専門家より早く、変化に気づく。
十二月、下総の航空基地から上がってきた報告の中に、こういう一節があった。
〈名簿班・沢渡。全国の目撃報告を整理した結果、咬傷の報告はあるが摂食の報告が一件もないことに気づいた。入力なしで運動が継続しているなら、自己の組織を消費していると考えられる。つまり感染者個体の寿命は有限ではないか〉
私は、その紙を、しばらく見ていた。
名簿班。書記の仕事だ。専門家ではない。
その人は、台帳を書き写しているうちに、私が三か月かけて出した結論に、独力でたどり着いていた。
しかも、私より早く、たった一つの正しい問いを立てていた。
「食べていない」という、誰も注目しなかった欠落に。
私は返信を書いた。一行だけにした。
〈同意見。当方の推定寿命は十一〜十五か月。冬季は組織崩壊も遅延するため、春季に最後の活動期が来ます。備えてください。棚倉〉
送信してから、余計なことを付け足したくなった。
あなたは優秀だ、とか。専門家になる気はないか、とか。
やめた。
あの人は、たぶん、家族のそばで名簿を書いていたいはずだ。私は一度、そういう人たちの朝を、二十四分ぶん、間に合わなかった。
三月。
札幌の雪が緩み始めた頃、私は久しぶりに苫小牧へ行った。
第三冷凍倉庫は、まだ建っていた。
庫内は、マイナス四十度で運転を続けている。全国から集めたKM-7の検体を、不活化処理するための施設として、今も現役だ。この国で一番危険なものを、一番安全にする場所。
私は、庫内には入らなかった。
事務所の前の、コンクリートの上に立って、しばらく海を見ていた。
宮下くんが、コーヒーを持ってきた。
「先生。ひとつ、訊いていいですか」
「どうぞ」
「先生は、自分を許すつもりがありますか」
私は、少し考えた。
考える時間が必要だったわけではない。答えはずっと前に出ていた。
「ありません」
「一生ですか」
「一生です」
宮下くんは、頷いた。
「じゃあ、いいです」
「いいんですか」
「許すつもりがある人は、そのうち、計算を甘くします」
私は、笑ってしまった。
この三月、初めて笑った気がする。
四月に、最後の大きな波が来た。
気温が十度を超えた日から、全国で活動報告が急増した。予測どおりだった。予測どおりだったということが、どれだけ多くの避難所を救ったかは、私にはわからない。数えられない数字は、業績にならない。
五月、報告数が落ち始めた。
六月、各地で「自力で立てない個体」の報告が増えた。
七月、動いている個体の報告が、前月比で六割減った。
私のモデルの下限、十一か月に、ぎりぎり届いた。
上限を待つ必要は、たぶん、ない。
でも私は、まだ幅を狭めない。狭めるだけのデータがないからだ。
誰かが、私の数字を信じて籠城している。その誰かのために、私は、私の数字を、私の名前で出し続ける。
名簿は、今、四十一万人分ある。
ときどき、私はその中を検索する。
久我、という名字を検索したことがある。何人も出てきた。あの人の家族がいるかどうか、確認する勇気は、まだない。
沢渡、で検索したこともある。下総・第四テントに三人いた。名簿班の彼と、たぶん、妻と、子どもだ。
三人とも、生存欄にチェックが入っていた。
私はそのページを閉じて、また自分の仕事に戻った。
私が間に合わなかった二十四分のあいだに、あの人は、あの朝の電車に乗っていたのかもしれない。
訊くつもりはない。
訊く権利が、私にはない。
ただ、名簿にチェックが入っていた。
それだけで、今日一日、私は計算を続けられる。