一年が経った。
八月の集計で、全国の感染者活動報告は、前年ピーク比の四パーセントまで落ちた。
私の出した「個体寿命十一〜十五か月」という数字は、下限寄りで当たった。誇る気にはなれない。あの数字が当たるということは、そこにいた人間が全員、一年かけて燃え尽きたということだ。
八月十日、私は本部の会議室に呼ばれた。
「九月一日に、終息宣言を出す」
審議官はそう言った。一周年に合わせて、という言葉が続いた。
「棚倉さん、技術的な根拠になる文書を、君に書いてもらいたい」
私は、書けません、と答えた。
「根拠がないのか」
「終息していないからです」
会議室が静かになった。
「新規感染は、五月以降ゼロです」私は続けた。「でも私は、KM-7がどこから来たのかを、まだ知りません。出どころがわからないものについて、終わったとは書けません」
「出どころは冷凍マグロだろう」
「それは、最初に見つけた場所です。出どころではありません」
私はその場で、調査班の設置を要求した。
通らないと思っていた。通った。理由は後で知った。水産庁が、同じことを気にしていたからだ。
調査班は四人だった。私、宮下くん、統計の技官が一人、そして水産庁から来た海洋研究の主任研究員。
荒瀬という五十代の男で、三十年、深海の底泥を見てきた人だった。
最初の会議で、私は自分の失敗から説明した。
マイナス四十度の閾値。耐性のある亜型の選抜。六か月の淘汰。
「つまり、耐性株は、どこかから供給され続けていたんです」私は言った。「私のプロトコルが選抜圧になったのは事実です。でも、選抜するには、選抜される多様性が最初から存在していなければならない」
荒瀬さんは、頷いた。
「変異じゃなくて、元々いた、と」
「はい。私は、それがどこにいたのかを知りたい」
最初の容疑者は、人間だった。
帯広の民間検査機関。私のプロトコルの実効性を検証するため、去年の五月から、反復凍結融解試験を行っていた事業所だ。
検体をマイナス四十度に落とし、戻し、また落とす。残存する感染性を測る。
それを百二十回、繰り返していた。
データを見た瞬間、宮下くんが言った。
「……これ、選抜培養そのものじゃないですか」
そのとおりだった。
検証のための試験が、耐性型だけを残す装置になっていた。そして試験後の残渣は、規定に従って高温焼却されるはずだったが、記録を追うと、去年六月の二週間、焼却炉の故障で、外部委託に切り替わっていた。
委託先は、化製処理場。つまり、飼料になる経路だ。
私は現地に飛んだ。
検査員は、三十代の女性だった。会議室で、私の顔を見て、すぐに泣き出した。
「私が、私たちが、やったんですか」
私は、答える前に、少し時間をかけた。答えを間違えたら、この人の人生が終わると思った。
「あなたは、手順どおりにやりました」
「でも」
「手順を書いたのは、私です」
彼女は、両手で顔を覆った。
私は、その部屋を出るまで、自分がひどいことをしていると思っていた。彼女を楽にするために、自分に全部背負わせて見せた。そういう安っぽい真似を、私はしている。
でも一週間後、その安っぽい真似は、事実に否定された。
統計の技官が、保存検体を洗い直した。
全国の検査機関に残っていた、KM-7の保存検体。二百十八件。採取日は、去年の一月から。
そのうち、帯広の試験が始まる前、去年三月に採取された検体から、耐性型が検出された。
全体の〇・三パーセント。微量だが、確実に、いた。
帯広は、犯人ではなかった。
帯広は、増幅器だったかもしれない。だが、種を蒔いたのは、もっと前だ。
私は、その報告書を読んで、二十分、動けなかった。
安堵したからではない。
逆だ。
人間のミスなら、止められる。手順を直せば終わる。
人間のミスでないなら——
それは、まだ供給され続けているという意味だ。
荒瀬さんが、一枚の海図を持ってきた。
「棚倉先生。最初の症例の、あのマグロですが」
苫小牧の第三冷凍倉庫で見つかった、あの内臓。
「漁獲記録、追えました。日本近海の延縄です。で、問題は、胃の内容物なんですよ」
荒瀬さんは、写真を出した。
「深海性のイカです。水深千二百メートルより深いところにいるやつ」
「マグロが、そんな深さまで潜るんですか」
「潜ります。捕食のとき、一気に。……つまり、あのマグロは、深海のものを食っていた」
私は、海図を見た。
「荒瀬さん。深海の水温は」
「水深千二百なら、二度から四度。年中、ほぼ一定です」
「圧力は」
「百二十気圧」
そのとき、私の中で、ばらばらだった事実が、ひとつの形に集まった。
タンパク質の立体構造は、温度だけでなく、圧力で決まる。
高圧下で折り畳まれた構造は、より緻密になる。水分子が入り込む隙間が少ない。
そして、低温変性というのは、タンパク質の隙間に水が入り込んで構造を壊す現象だ。
隙間がなければ、壊れない。
「高圧型」私は声に出した。「耐性型じゃない。高圧環境で形成された構造だから、低温で壊れないんです」
荒瀬さんは、静かに言った。
「それ、どこから来てるかって話になりますね」
「深海です」
「深海のどこにでも、って意味ですか」
「たぶん、ずっと前から」
十月、私は船に乗った。
海洋研究開発機構の調査船。千八百トン。相模湾沖、水深千二百メートル地点。
宮下くんは、出港して四時間で、完全に使いものにならなくなった。船室で丸くなって、「先生、人類は陸に上がったんです、理由があったんです」と呻いていた。
私は、揺れは平気だった。
ROVの操作室は、暗かった。モニターだけが光っていた。
降下に、一時間。
モニターの中の数字が、ゆっくり増えていく。四百。六百。八百。
外の水温、三・一度。
圧力、百二十気圧。
そして、光が届かない。
千二百メートルの海底は、灰色の泥だった。
ROVのライトが照らす範囲だけが、世界のすべてだった。
そこに、生き物がいた。
白い、半透明のナマコのようなものが、ゆっくり動いていた。
私は、それを見ながら、たぶん人生で一番おかしな感想を持った。
きれいだ、と思った。
一年間、私は、人間が人間を噛む記録ばかり読んできた。そのあいだ、ここでは、何も変わっていなかった。水温三・一度。百二十気圧。暗黒。五百万年、たぶん同じ。
荒瀬さんが、隣で小声で言った。
「先生、これが本籍地かもしれませんね」
採泥は、四回行った。
結果が出たのは、十二月だった。
水深千二百メートルの底泥から、KM-7と同一配列の異常タンパクを検出。
そのうち、高圧型の構造をとるものが、九十七パーセント。
深海性イカの外套膜からも、同様に検出。
そして重要なことに、これらは、感染性を持っていた。培養細胞での増殖が確認された。
つまり。
KM-7は、新しい病気ではなかった。
深海に、ずっといた。
高圧のもとで、低温にも熱にも強い構造をとって、静かに、たぶん人類が現れる前から。
それが、深海漁業の拡大とともに、少しずつ陸へ上がってきていた。ごく微量に、長い年月をかけて。
誰も病気にならなかったのは、量が少なかったからだ。
そして去年、ある一匹のマグロが、たまたま多く食っていた。
それだけだった。
これは、事故ではなかった。
遅かれ早かれ起きることが、たまたま去年起きた、というだけのことだった。
一月、私は報告書の第一稿を上げた。
結論の部分は、三行だった。
〈KM-7は環境常在性の病原体であり、根絶は不可能である。 深海由来原料の流通が継続する限り、再流入は必然である。 したがって必要なのは終息ではなく、恒久的な管理体制である〉
二日後、審議官に呼ばれた。
「棚倉さん、これは、遠洋漁業を殺す文書だぞ」
「殺しません。深度と原料の管理を求めているだけです」
「同じことだ。今この国に、水産業を制限する余力があると思うか。食料自給の議論がどうなっているか、知らないわけじゃないだろう」
知っていた。
六千万人が、一日二食で暮らしている。海はまだ生きている。漁業だけが、この国で唯一、無傷に近い産業だった。
「表現を変えられないか」審議官は言った。「根絶は不可能である、を、継続的な監視が望ましい、に」
「意味が変わります」
「そこを変えてくれと言っている」
私は、少し考えた。
一年半前の私なら、その場で拒否して、机を叩いて出ていっただろう。
でも、二十四分のことがあってから、私は、自分の正しさの値段を、少しは計算するようになった。
「一つ、交換条件を出させてください」私は言った。「『終息宣言』を、やめてください。『収束宣言』にしてください」
「……一文字違うだけだろう」
「一文字違えば、十年後に誰かが読み返したとき、意味が違います。終息は終わりです。収束は、一時的に収まっただけです」
審議官は、長いこと黙っていた。
それから、笑った。疲れた笑い方だった。
「君は、本当に、言葉で殴るのが好きだな」
「数字で殴れないときだけです」
二月の終わり、宮下くんが、私の机の前に立った。
顔色が変わっていた。
「埼玉の名簿に、母がいました」
私は、立ち上がった。
「お父さんは」
「……いません。死亡者名簿のほうに」
彼は、それだけ言って、しばらく黙っていた。
「去年の九月三日だそうです。板橋のマンションで。母は、四日に近所の人たちと出て、それきり別れて、ずっと、私が死んだと思っていたそうです」
一年半、探して、見つかった。
一人は、間に合って、一人は、間に合わなかった。
私は、この構図を、よく知っている。
「行きなさい」
「調査班が」
「一年半、休んでないでしょう」
「先生も休んでないです」
「私には、行く場所がありません」私は言った。「あなたにはあります。それは、全然違うことです」
宮下くんは、頭を下げて、次の日に発った。
部屋が、急に広くなった。
私は、その夜、自分が思っていたより、この人に助けられていたことを知った。
三月二十日、政府は「収束宣言」を出した。
一文字だけ、私が勝った。
同日、水産庁から「深海由来原料の取扱いに関する暫定指針」が出た。中身は、私が書いた技術別添がほぼそのまま入っていた。
表の宣言が「もう大丈夫」と言い、裏の指針が「永久に管理せよ」と言っている。
矛盾している。
でも、これが、大勢の人間が生きている国で物事を決めるということなのだと、私は今は思っている。
完全に正しい文書は、誰も守らない。
守られる文書に、正しいことを埋め込むしかない。
四月、私は苫小牧へ行った。
三度目だ。
第三冷凍倉庫は、KM-7の不活化処理施設として、稼働を続けている。マイナス四十度で。今となっては、それが高圧型には効かないことがわかっているから、施設は加圧処理設備の増設工事に入っていた。
帰りに、市内の市営住宅に寄った。
名簿で、久我という名字を検索して、見つけた人だった。
久我美佐。二十六歳。あの主任の、娘さんだった。
私は、封筒を渡した。中には、論文の最終稿が入っていた。
謝辞の欄は、書き直してあった。
〈本研究の初期観察は、苫小牧市第三冷凍倉庫において、庫内作業に従事した方々の記録によるものである。とりわけ、現場主任・久我健吾氏が最後まで維持した作業日誌の正確さが、本症例群の発現形質の同定を可能にした。記して深謝する〉
作業日誌の話は、本当だ。
彼は、庫内温度も、稼働時間も、一日も欠かさず記録していた。発症後の数日ぶんも。
字が、途中から崩れていく。
それでも、数字は、最後まで正確だった。
娘さんは、謝辞のところを、指でなぞって読んだ。
「父は、つまらない人でした」
「そうですか」
「毎日おんなじことばっかりして、それで満足してる人でした」
彼女は、少し笑った。
「でも、それが、役に立ったんですね」
「立ちました」私は言った。「一年半、私が使ったデータの中で、一番信用できる記録でした」
帰りの電車の中で、私は、去年書いて出さなかった謝辞のことを考えていた。
名前を書かなかったのは、遺族のためだと、自分に言い聞かせていた。
違った。
名前を書くと、その人が実在したことになる。実在した人を、私が間に合わなかったことになる。
私は、それを書面に残したくなかっただけだ。
名簿は、五十二万人分になった。
私の仕事は、これから十年、たぶんもっと長く続く。
深海の監視。原料の加圧履歴の管理。年二回の底泥サンプリング。誰も興味を持たない、予算がつきにくい、地味な仕事だ。
十年経って、何も起きなければ、私の指針は「過剰規制」と呼ばれるようになる。
そう呼ばれるのが、理想だ。
何も起きなかった、ということの証明は、この世に存在しない。
存在しない証明のために、私は残りの人生を使う。
五月、荒瀬さんから電話が来た。
「先生、来月の航海、乗りますか」
「乗ります」
「宮下くんは」
「連れていきません。あの子は陸で使います」
荒瀬さんは笑った。
「優しいんだか、厳しいんだか」
千二百メートルの海底は、今も三・一度だ。
あそこには、五百万年ぶんの静けさがある。
私たちは、その静けさの縁を、少しだけ削って生きていくしかない。
削りすぎないように。
誰かが、目盛りを見ていなければならない。