「博麗神社の御神札はいかがですかー」
雲の疎らな青空から柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりの商家の暖簾を、時折吹き抜ける風が揺らしている。道行く人々の面持ちは偏に明朗で、弾む声がそこかしこから聞こえた。
「あの博麗の巫女が手ずから祈祷した、霊験あらたかな御神札ですよー」
ここは、里の入口から真っ直ぐに伸びる中央通り。土蔵造りの商家に交じって、ところどころに組積造の洋風建築が軒を連ねるこの通りは、里でも有数の賑わいを見せる場所である。
「古い護符の回収もしていますよー」
団子を食べ歩く子供、縁台で将棋を打つ老人、店頭で客を呼び込む店主、軒先の販売台に置かれた雑貨を見る男女、過ごし方は多様の一言に尽きる。
そんな雑踏の只中にあって、一際よく通る声を高らかに張り上げているのは、一人の少年であった。
「家内安全、無病息災、商売繁盛の護符がございますよー、ご用命は博麗の御師までどうぞー」
白装束に褐返色の格衣を羽織り、艶やかな青墨色の髪を春風に靡かせ、つい先日、俵差し大会で見事に失格となった怪童、博麗春意である。その手に提げた柳行李には、神札や幣束が整然と収められていた。
「おう、怪童じゃねえか」
不意に聞こえたその言葉に、彼がはたと足を止めた。振り向けば、店先で荷を積んでいた男が、春意に笑いかけている。
「この間は随分と派手にやったなあ。俵を二つも持つ奴なんざ初めて見たぞ」
「ははは、どうも。お陰様で失格になりましたけどね」
「そりゃそうだろうよ!」
男は豪快な笑い声をあげた。すっかり御師よりも怪童と呼ばれる事が増えてしまったが、とはいえ認知度が高まるのは好都合である。春意はあえて訂正する事もなく、釣られて笑った。
だが、やがて相手の視線が、手元の行李へ移ったのを見逃さなかった。
「ところで、御神札はいかがです? 今年の家内安全など、まだでしたら」
「ん?ああ、札か。うちは間に合ってるよ」
「そうですか。では何かお困り事があれば、いつでも博麗神社へお申し付けください」
「おう、覚えとくぜ」
春意は丁寧に頭を下げ、通りを歩き出す。男は去り際の春意に片手を挙げて見せると、すぐに荷物へ向き直った。
「まず覚えてもらうのは僕のことだ。御師の名前はいずれ付いてくる……はず……?」
どうやら俵差し大会の効果は、多少なりともあったらしい。こうして怪童と呼び止められるのも、今日初めての事ではなかったからだ。
もっとも、顔を覚えてもらう事と、仕事の依頼をもらう事は、また別の話である。
「……焦らず、気長にやっていこうか」
小さく呟き、春意は再び歩き出した。迷惑に思われない程度に、けれど可能な限りの声量と頻度で、護符を、延いては御師としての自分を喧伝する。
すれ違う者の反応は、多くは一瞥をくれる程度のものであった。時折、春意の顔を見て怪童と気付いた様子を見せる者、興味深げに行李の中を覗く者もいたが、割合としては三割もいたかどうかである。
「ちょいと、そこの神社のお兄さん」
程なくして、通りから道一本逸れた先、一軒の家屋の前にいた、恰幅のよい婦人に声を掛けられた。
春意は神社のお兄さんという呼称に、思わず滲んでしまいそうな苦笑を抑えて、柔和な微笑を向ける。
「はい、何でしょう?」
「博麗神社のお札を配ってるんだって?」
「ええ、御神札と御守りを。ご希望のものがなければ、後日お届けすることもできますよ」
春意が行李を相手に寄せて見せると、婦人は感心したように中を覗き込んだ。
「へえ、随分と色々あるんだねえ」
「こちらが家内安全、こちらは無病息災です。厄除けや商売繁盛もありますよ」
春意の説明を聞いては頷きつつ、婦人は顎をさすって暫し考えていたが、直ぐに一枚の神札を指差した。
「じゃあ、無病息災を一つ貰おうかね。うちの爺さん、今年に入ってからどうも風邪を引きやすくって」
「それは……心配ですね。今はお加減いかがですか?」
「もうすっかり元気さ。元気すぎて、また朝っぱらから畑に出ちまったよ」
「それは何よりです。でも、まだ朝晩は冷えますからね。あまり無理をなさらないよう、お伝えください」
「言ったところで聞きゃしないんだよ、これが」
婦人は困ったように笑い、春意から札を受け取った。行李の中に置かれた小さな木箱に、初穂料が収められていくのを眺め終えると、春意は思い出したように尋ねる。
「そうそう。失礼ですが、お名前を伺っても?」
「石橋だよ。石橋のお芳」
「石橋のお芳さん、ですね。ありがとうございます。ご主人にもよろしくお伝えください」
「はいよ。あんたも頑張んな」
春意は再び頭を下げ、家を後にした。そうして中央通りへ戻ると、懐から万年筆と小さな帳面とを取り出し、徐に筆を走らせる。
石橋家のお芳さん。無病息災。主人、冬から風邪がち。現在快復。
書き終えると、帳面を懐へ戻した。
札を売ってしまえば、それで終わりというわけではない。次に訪ねた折、相手が何を願っていたかも知らずに、また同じような口上を述べる。それでは御師として、あまりに味気ないではないか。春意はそう考えていた。
その後も、彼は何人かに呼び止められては、怪童としての世間話も交えながら、時に博麗の者として対応する機会があった。
商売繁盛を願う履物屋には、札を祀る場所について相談され、幼子を抱えた母親には、家族の健康を願う御守りを後日届ける約束をした。
また、ある老人からは、神社へ参拝したいが足腰が弱くて叶わないと聞き、巫女への伝言を預かった。
曰く、先代の頃から博麗神社には世話になっている、当代の巫女の儀にも立ち会ったと。
「博麗の巫女様には、昔から世話になってるからねえ」
「ええ、必ず伝えておきます」
「ところで御師さん、巫女様は相変わらずお元気かい?」
「元気ですよ。今朝も朝食を食べた後、縁側でのんびりお茶を飲んでいました」
「ははあ、そりゃ何よりだ」
「僕が出掛けるときには、ついでに煎餅も買ってこいとも言っていました」
「……そりゃまた、何よりだねえ」
老人は何とも言えぬ顔で頷いた。春意はにこやかに別れを告げ、その場を後にすると、帳面に内容を書き記す。
こうして午前のうちに幾つかの注文を受け、札もそれなりに捌けた。己の名は未だ知られずとも、己の姓には大きな求心力がある。こうして御師としての活動を始めると、改めて実感させられた。
博麗神社、そして博麗の巫女とは、幻想郷を存続させる為に必要不可欠な存在として、古い時代からこの地に在り続けた秩序の守り手。その威光を借りる事に、彼の中で負い目はない。
ただし、春意が今本当に売り込みたいのは、札ばかりではないのだ。御師として、里の人々の役に立つこと。
それも、神社に寄せられる祈願や相談事の取次ぎに限らず、荷運びでも、採集でも、妖怪絡みの困り事でも、己にできることであれば何でも引き受けるつもりでいた。
もっとも、こちらは未だ依頼が舞い込んできていない。何しろ、ついこの間まで寺子屋へ通っていた少年が、そんな突拍子の無い事を言い出したのである。
怪童と呼ばれるほど腕力があるとは知られ始めたものの、それだけで人々が安心して仕事を任せてくれるわけでもなかった。
「……お?君、もしや博麗神社に住んでる子か?」
忽ち、右手から声が掛かった。振り向けば、藍染の甚平を着た壮年の男が手を挙げている。
「はい、博麗春意です。失礼ですが、以前お会いしましたか……?」
「やっぱりそうか。平田って者だが、うちの倅が寺子屋で一緒だったんで、話を聞くことがあってね」
「平田……ああ、与一君のお父さんですか!」
「お、そうそう与一だ」
平田と名乗ったその男の顔をまじまじと見つめると、春意は記憶の中の級友の面立ちが重なったのだろう、納得したように頷く。
それから、少し困ったように笑った。
「ちなみに、聞いてた話とは……?僕だけ周囲より年上で、浮いてましたからね……」
「いやいや、そんな悪い話としてじゃなく。賢くてよく勉強を教えてくれる、頼りになる兄ちゃんだって褒めてたよ」
「えぇ、本当ですか?いやあ、照れちゃうな」
今度は頬を緩め、喜びを露わにする。
平田はそんな少年を微笑ましく眺めていたが、やがてその視線を柳行李へ移した。
「でもまあ、こんなことをしてるとは初耳だ。それ、博麗の巫女が作ったのかい?」
「勿論。博麗霊夢が直々に祈祷したものです」
「そりゃ欲しいね。御札なんて博麗神社くらいでしか貰えないしな。で、二つ合わせて幾らだい?」
「ありがとうございます。御札と幣帛、合わせて五百円です」
懐から巾着を出そうとしていた平田の手が、一瞬止まった。
「ん、安いな? 先代の頃に博麗神社で頂いた時は確か……」
「今のところ、この活動は御師としての僕を皆さんに知っていただくためでもありますから。言うなれば、開店セール中です」
「はは、俗な物言いだよ。だがまあ、認知度っていうのは大事だよな」
商機を見出し価格を吊り上げんとした博麗の巫女を、昨晩必死に宥めた事は、彼女の名誉の為にも口にしなかった。平田は笑いながら硬貨を取り出し、それを行李の中の木箱に落とす。春意も礼を述べ、神札と幣帛を恭しく差し出した。
「ちなみに、確か平田さんは薬種問屋を営んでいらっしゃるとか」
「ああ、倅から聞いてたかい? まあ、細々とやってるよ」
「そうなると、薬草採取で里の外に出られることも?」
「もちろん。この時期だと鳴子百合、母子草あたりが採れるな」
「なるほど……」
春意の目が、僅かに見開かれる。薬草や生薬の造詣が深い訳ではないが、薬草の採取は季節を問わず行わねばならない事くらいは、彼とて理解していた。かつての冬に神社から寺子屋に通う道すがら、背負い籠を背に枇杷の葉を採る里の人間の姿を見かけ、驚いた記憶があった。
「いつも採取はお一人で?」
「最近は倅を連れてくこともあるな。出来れば跡を継いで欲しいんだが、現状はそう乗り気じゃなくてね」
「あぁ……確かに、なんとなく想像はつきます……」
二人揃って苦笑を向け合う。彼らの脳裏を過ぎる腕白な少年は、地道さ博学さを要求する薬種問屋に、抵抗を示しかねないきらいが些かあった。
「まあ実際、山歩きは骨が折れるよ。採ったものを持ち帰るだけでも一苦労だ」
「それでしたら……」
溜息混じりの平田の言葉に、矢庭に春意が一際その紅顔を近付けた。圧力すら感じさせる勢いに、平田はつい顎を引いて半歩後ずさる。
「もし宜しければ、僕も荷物持ちとして採取にご一緒させていただけませんか?」
唐突な提案に、返答がつっかえる平田。春意としても、自分の押しがやや強すぎるのは理解の上である。けれども、目の前に現れた好機を見逃せるほど、彼も意志薄弱ではない。況してやここで引いては、その熱意も伝わらないというものだ。
「いや、しかし、俺の所はあまり儲けも出てないから、退治屋も雇ってないんだぞ?」
「その点も大丈夫です。この前の俵差し大会、失格した子供の話はご存知ですか?」
「あぁ、なんか両手で一俵ずつ持って失格になった少年がいたとは——もしや君か?」
「そうです、僕なんです」
「あ、そう……凄いな色々と……」
息子から聞き及んだ人物像と食い違う博麗春意の実像に、平田は困惑していた。聞く所によれば、こうも押しの強い性格ではなかった筈だと。
「自分で言うのもなんですが、体力腕力は並の大人に負けませんよ」
「並とかいう話ではないけどな……いや、うぅむ……しかし……」
春意がまた一歩詰め寄る。なにせ往来の只中であるから、通りすがりの人々からの視線が集まる。或いはそれさえも、彼にとっては好都合と言えるかもしれない。
「御師としてといえどお手伝いですから、費用も相場の三割でいかがでしょう?」
「なに、三割!? い、いやしかし、万が一の時に責任が……」
三割と聞かされて、途端に難しい顔をして、平田は腕を組み唸りだした。
確かに、格安の人足は彼にとって魅力的であった。円匙、鉈、鎌、剪定鋏など、必要な道具は一纏めにすると決して軽量ではない。それで野山を巡るだけでも骨が折れるのだ、荷を運んでもらえるのなら願ってもない話である。
しかし目の前にいるのは、実績を持たず、まだあどけなさを残す少年だ。先日の俵差し大会で怪力を披露したという噂自体は聞いている。とはいえ、妖怪も珍しくない野山へ連れていってよいものか。
万が一が起きた時、その責任を負わねばならないだけではない。その責任を問うてくれる者さえいるかも定かでない、それ程には謎多き少年なのだ。
利と道理の間で、平田は揺れていた。
「あら、何のお話です?」
その思考を霧散させたのは、横合いから掛けられた涼やかな声であった。
花を象った髪飾りに紫の髪。黄緑の着物と赤い行灯袴を纏った少女が、二人の傍らへ歩み寄ってくる。
「あ、こんにちは阿求さん」
「あ、ああ、稗田様。これはどうも……」
「こんにちは、お二人とも。何やら気になるお話が聞こえてきたので、つい」
少女は柔らかく微笑んだ。
稗田阿求。人里でも指折りの名家、稗田家の当主である。人間の安全の為に幻想郷の妖怪の解説、それに留まらず危険地帯や、有事の際に人間の味方となってくれる者を包括的に記した『幻想郷縁起』を編纂する役目を持つ。
そのような事情から、薬種問屋として広く里で信用され商いを続けている平田のみならず、博麗神社に住まう春意とも面識があった。
平田は暫しばつの悪そうな顔をしていたが、ふと彼女の顔を見て、何かを思いついたように手を打った。
「ああ、そうだ。春意君、悪いがこの話は一度持ち帰らせてもらっていいか?」
「えっ、あ、はい」
「うん、倅とも相談してみるよ。前向きに検討しておくから」
「……ありがとうございます!では、お返事をお待ちしておりますね」
春意が深々と頭を下げる。平田は何度か頷くと、阿求にも会釈をして、足早にその場を去っていった。春意はその背中を見送ると、一つ息をつく。
「……ちょっと迫りすぎちゃったかなぁ」
「驚きました。春意さんがああして熱意を露わにする所は、あまり想像できなかったもので」
「まあ、そのくらいには本気でやっていきたいと思ってますから」
「それが御師、ですか?」
肩を落とす彼に対して、阿求は首を傾げた。
「ええ。尤も、本来の御師は雑用をするような仕事ではないんですけどね」
「外の世界では、御札や暦を配ったり、神社への参詣を世話したりする職でしたね」
「よくご存知で。幻想郷の歴史には、特に記録がない筈なんですけど」
「これでも御阿礼の子ですから」
阿求は自慢げに鼻を鳴らすと、それから春意の行李を覗いた。片隅に設けられた木箱の中には、多少まとまった金銭が見える。
「ですが、先ほどのお話を聞く限り、それだけではないのでしょう?」
「里の皆さんのお困り事を、広く引き受けられればと思っています。荷運びや採集のお手伝い、果ては妖怪に関わる相談まで」
「……妖怪に関わる相談、ですか」
阿求の声色が、僅かに変わった。
「例えば、妖怪と取引をしたい人がいても、普通はなかなか難しいでしょう?そういうときに、僕が間に立てたらなと」
「なるほど。ですが、それは随分と難しいお仕事になるでしょうね」
「でしょうねえ」
春意はあっさり頷いた。幻想郷で数年も生活している身ならば、人妖の仲介や商売に立ち会う事が難しいなどと、教わるまでもなく想像がつく。
「承知の上、なのですね」
「難しくはあっても、不可能ではないですから」
「では、一つ伺っても?」
「どうぞ」
「……春意さんは、人間と妖怪が仲良く暮らせるようになればよいとお考えですか?」
阿求の語気は、飽くまでも温和である。しかしその顔はいつの間にか、どうにも外見から推し量れる年齢には似つかわしくない、得も言われぬ圧迫感を放っていた。
春意は、呑まれた訳ではないが、すぐには答えなかった。行き交う人々の向こうに目を向け、少し考えてから口を開く。
「……それは、相手によりますかね」
「相手による?」
「ええ。人間同士にだって、合う合わないがある訳ですから」
「それは、そうですね」
「僕にも苦手な人はいますし、それは妖怪も同じ事です。何も、皆が仲良くなる必要はないかな、と。構造上、人妖が相容れないのは前提ですし」
平然と言ってのけた春意を、阿求は少しばかり驚いたように目を見開く。
外から来た少年が、幼稚な平和主義を振り翳し始めたのだと、そうした種類の見方が彼女の中に無かった、と言えば嘘になる。
「……すみません、阿求さんには釈迦に説法ですよね」
「いえ、聞けてよかったですよ」
その内心を、阿求は僅かばかり訂正した。少なくとも、一定の現実に対する理解を持った上で、なお大言を語る理想主義者——として己の内の認識を改める。
博麗の御師。語る理想に現実味を帯びるような肩書きではない。だが、なればこそ、やれるだけやってみればいい。阿礼乙女はそのように考えたのだった。
「……では御師様。折角ですから、私も商売繁盛の御札を一つお願いします」
「へ?商売?」
不意に、華美な金糸が目を引く綴錦の財布を取り出した阿求。春意は急な事で戸惑いながらも、該当の札を手渡す。木箱に落とされた硬貨は、かつと音を立てた。
「幻想郷縁起ですよ。折角こちらが工夫を凝らしているというのに、中々読んで頂けないのが心苦しくて」
「あぁ……確かに認知度は高いのに、意外とちゃんと読まれてる方は少ないですよね」
「それなりに知られる割に、それが利に繋がらない。今の春意さんと同じですね、シンパシーを感じます」
「うぐぅっ……!」
予期せぬ口撃に襲われ、春意が顔を顰める。冗談ですよ、と小さく笑う阿求だったが、彼の熱量を目にしながら投げ掛けられた風刺である。今まで知らなかった新しい阿求の一面は、確と春意の記憶に刻まれたことであろう。
「……いい本なんですけどね、読みやすいし」
「お褒めに預かり光栄です。どうも皆楽観的というか、肌感覚で物を判断しすぎなのですよ」
「そこも大事だとは思いますが、まず知識を基礎にした上で、という姿勢が一番でしょうね」
「えぇ、情報を元に目を養って欲しいのです。何も、単に妖怪を避けろとまで言いませんから」
二人はふっと笑いあう。そう話す機会が多い訳でもない間柄だが、人妖の有り様を論う彼らは楽しげであった。阿求の眼差しには、今も幾許かの思案が残っている。だが、以前よりずっと欣然と過ごしている春意に、あまり野暮な事を言う気も起きなかった。
「お邪魔してごめんなさい。いつかお仕事のお話を、詳しく聞かせてくださいな」
「勿論です。阿求さんもお困り事があれば、何でも仰ってください」
「ふふ、覚えておきます」
そう言って、阿求は軽く会釈した。
春意も礼を返し、少女が人混みの向こうへ消えていくのを見送る。小さな背が見えなくなったなら、懐から帳面を取り出し、今日の出来事を確認した。石橋家の無病息災祈願、その下に連なるそれぞれの覚書の末、空白に筆先を走らせる。
薬種問屋の平田との縁が出来た事。
阿求の幻想郷縁起の浸透を祈願した事。
まだ仕事と呼べるほどのものは得られていない。それでも、昨日まで自分の顔を知らなかった誰かが、今日、自分の顔を覚えてくれた。
その事実が、春意には嬉しかった。
「……さて」
帳面を閉じ、柳行李を持ち直す。春の陽射しは、まだ高い。
「博麗神社の御神札はいかがですかー」
少年の声が、再び人里の通りに響き渡った