小鳥の囀りが目覚まし代わりの、穏やかな早朝。博麗神社は、今日も今日とて静かなものであった。この時間帯には吹く風が些かの冷たさを孕み、博麗神社の名物である艶やかに色付いた桜が微かに宙を舞う。
「んー、まだ少し肌寒いわねえ」
艶やかな長い黒髪を、側頭部はフリルがついた赤い筒状の髪飾りで纏め、後頭部には大きなリボンを着け、紅白の巫女装束に身を包んだ少女——博麗霊夢が、微かに肩を震わせ竹箒を手に身を竦めた。
彼女こそが博麗の巫女、この幻想郷を保つため代々受け継がれる役目を負う少女である。
「いつも思うけど、その服じゃ寒いでしょ?肩とか」
霊夢に声を掛けたのは、縁側で胡座をかいた春意であった。手前に並べた何枚かの札を触りながら、巫女装束としては明らかに異質な点、丸出しの肩周りに目線を向けていた。
「思うどころかいつも言ってきてるじゃない。いいのよ、動きやすさ優先だから」
「寒いんじゃ本末転倒じゃないかな、風邪引いちゃうよ」
「はいはい、本当に寒かったら着込むから」
ややもすれば素っ気なく映る霊夢の対応だが、春意は不思議と微笑ましげである。彼女の言葉通り、これもまたいつものように行われる慣れたやり取りなのだ。
「…………で、よ。アンタ、初仕事なのよね?」
「ん?そうだよ?」
いつもと異なるのは、博麗春意が褐返の格衣を纏い、博麗の御師としての装いでもって、務めに向かわんとしている現状であった。
以前までの、まだ御師ではなかった頃の春意が早朝から外出する際は、大抵寺子屋に向かう程度しか用事がなかったものである。
「なんでそんな平然としてんのよ、私の心配が無下にされてる気分だわ」
「不安がない訳じゃないけどさ、それ以上に嬉しさが勝っちゃってね」
薬種問屋の平田から正式に依頼を受けたのは、かれこれ数日前の事になる。阿求との談話を交わした後日、札配をしていた春意の元に、平田自らが申し出に来たのだった。
その際、慧音や阿求から春意に関しての話を聞いた事、やはり息子は手伝ってくれそうにない事、費用が安価である事を勘案した結果だと彼は明かしてくれた。
自分の事をよく知る人物らに、わざわざ話を聞いてまで検討してくれた、そんな事実が春意にとってはどうしようもなく喜ばしかったのだ。
「あっ、そう。余計な心配してごめんなさいね」
「あ、いや、気持ちはすごく嬉しいよ?ありがとね?」
己の心配も他所に目を輝かせていた春意に、わざとらしくそっぽを向いて拗ねて見せた霊夢。春意が慌てて訂正すると、彼女は気が済んだようで、 今度はくすりと笑った。
「冗談よ。初仕事、頑張ってきなさい」
「……うん」
その激励に力強く頷いた彼は、札の確認を終えるとそれらを袖に仕舞い込み、縁側の下に置いてあった雪駄を履いた。
「そうだ。一応ご飯は作り置きあるから、お腹空いたら食べちゃってね」
「はいはい。つっても、そんなに遅くならないでしょ?」
「うん、晩御飯までには帰ると思うよ」
片や箒を動かす手を止めぬまま、片や鳥居まで歩きながら、互いに顔だけを向けて話す二人の姿はどこか熟れた様子で、家族宛らである。そうして境内を出んとした春意の背中に、霊夢が一言を呼び掛けた。
「行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
* * *
里の中央通りから少し離れた通り、里の正門から程近い地区、平田の町家はそこにあった。店構えは何の変哲もないが、軒先に垂らされた紫地の垂れ幕には『薬種直売』『平田屋』と白字で書かれている。
薬種問屋と言えば狭義では卸業者にあたるが、この店においては卸売のみならず調剤と処方も行い、何より生薬の仕入れは店の者が自ら担う。
その癖店主は世のため人のためと、薄利多売で利益を出そうとするものだから、この辺りでの好評ぶりに反して然程の儲けは無かった。或いはそうした社会的責任に縛られる事を、彼の倅は嫌ったのかもしれない。
「お、おはよう春意君。この朝早くからよく来てくれた」
「おはようございます、平田さん。こちらこそ、この度はご依頼頂きありがとうございます」
そこに立ち入った春意を出迎えたのは、店主の平田である。薬草採取の為であろう、今日の装いは茶色い半纏に股引に脚絆と、動きやすさを重視したものだった。
「ちょっと待っててくれ、荷物の確認だけしたくてな」
「えぇ、大丈夫ですよ」
土間でしゃがみ込む彼の周りには、背負い籠が二つ、円匙に手鎌に鉈に高枝切り鋏、それから布袋が幾つか。それらを眺めつつ、他に必要な物があるかを口に出しながら思案する。
その間春意は、百味箪笥の引き出し一つ一つに書かれた、生薬の名前に目を通す。枳実、柴胡、当帰など、まるで知らないそれらの名前に、知識欲を唆られていた。
「……しかし、本当にいいのかい?」
不意に投げかけられた平田の言葉に、箪笥から視線が外れる。どうやら道具の確認は済んだらしい。
「何がです?」
「いや、あの値段でさ。山歩きは意外と重労働だぞ」
「もちろんです。僕からお願いしたことですから」
「……分かった。なら、今日はよろしく頼むよ」
平田は頷き、布袋を春意に差し出した。
「じゃあ、まずはこれを……」
「あ、まとめて持ちますよ」
「まとめて?」
平田の傍にあった二人分の道具を全て背負い籠の一つに収めると、金属同士が音を立てる籠を、春意がひょいと背負う。
まるで一切の重量が無いかのように見えるほど、重みなど微塵も感じさせないその動作に、平田は目を丸くした。
「これで全部ですか?」
「……ああ、うん」
「では、行きましょうか」
平田は暫し呆気に取られていたが、やがて小さく笑った。空の籠一つを背負い、いつにない身軽さに彼は喜びを隠せずにいる。
「なるほど、俵を二つ持ったってのも、あながち大袈裟な話じゃないらしい」
「失格になったところまで本当ですよ」
「そっちは聞かなかったことにしておこう」
二人は連れ立って、里の外へと向かって歩き出す。中央通りに出ると店を開ける商家の姿や、道端で遊ぶ子供達がおり、賑わっているとまでは言えずとも人気はあった。
渡り型の黒い櫓門——正門を出て、往来が遠ざかるにつれ、道の両脇には田畑が広がり、やがて雑木林が目立ち始める。当然ながら、聞こえてくるのは自然の音ばかりである。吹き抜ける涼風には若葉の匂いが混じって、春意は心地良さに目を細めた。
「ところで春意君、薬草採りもやってみたいと言ってたっけか」
「えぇ、折角の機会ですから」
「じゃあ今日は、俺が教えたものだけ採ってくれ。似た草でも、薬になるものと毒になるものがあるからな」
春意はあくまで、荷を運ぶために雇われた身である。採集の知識がない以上、余計な手出しはすまいと当初は考えていた。
ところが依頼を受けた時、採取も興味があるならやってみるか、と、平田の方から冗談交じりの提案があったのだ。春意はそれに是非と即答し、再三の吃驚を平田に見舞ったのである。
「それと、根を採るものは根を傷めないように。葉を使うものは、必要な分だけだ。採れるからって根こそぎ持って帰っちゃ、来年困る」
「なるほど……そういうのは、本で読んだだけではなかなか分かりませんね」
「はは、そりゃあそうさ。こっちも何年もやって覚えたことだからな」
平田は満更でもなさそうに笑った。倅がこうした採取にも乗り気でない現況で、歳の近い少年が自分の仕事に興味を持ってくれるのを、内心好ましく思っていた。
「お、丁度いいな。連銭草があるじゃないか」
「連銭草……あぁ、この匂いの元ですか」
「そうそう、少し青臭いがいい匂いだろ?こいつの茎葉は胃炎や消化不良に良いんだ」
二人が足を止めたのは連銭草、またの名をカキドオシと呼ぶ紫の花を実らせた多年草の目前だった。ハーブに似た清涼感のある芳香は、顔を近づけるまでもなく香ってくる。
「ちなみにこの時期の物なら、花と茎葉は食えるぞ。あとは、炒って煮出すと茶にもなる」
「へぇ……!見覚えはありましたが、そんなに便利な植物なんですね」
「優れものだよな。さて、折角だし自分で採ってみるか?茎の根元からバッサリいってくれ」
平田はそう言って、春意の背負い籠から手鎌を取り出して差し出す。早速訪れた未知の体験に、春意は歓喜と僅かな緊張を胸に、手鎌を受け取った。しゃがみこんで、徐に一本の茎の株元に刃をかける。
「えぇっと……こう、ですかね」
「お、いい感じだ。その調子でもう少し採ってもいいな」
鎌の刃の付け根から滑らせるように引くと、抵抗なく茎葉は刈り取られた。それからも何本かを株元から刈り取り、その都度それを平田が受け取って空の籠に入れていく。
「よし、こんなもんでいいだろう。いやぁ、やっぱり二人一組だとやりやすいな」
「お役に立てているようなら幸いです」
「十分助かってるよ」
平田の言葉に、春意は目を細めて喜色を湛えた。単なる手伝いの感覚だが、それでも御師として受けた初仕事の反応としては重畳であった。
そうして山麓を歩く道すがら、平田が道端の草を指差すたびに足を止め、葉の形や茎の特徴を確かめ、指示があれば採っていく。時には自ら尋ね、時には懐から帳面を取り出して書き留めた。
「……君、随分勉強が好きなんだな」
そんな様子を見ていた平田が、ふとそう口にする。黄色い花をつけた鼠麹草の事を帳面に記していた春意は、あまりピンと来ていない様子でそれを閉じた。
「何でもかんでもという訳ではないですが、身近なものにどういう価値、用途があるのか知れるのは面白いですよ」
「倅にも少し分けてやってほしいよ、その性分」
「彼は彼で、好きなことには熱心でしょう?」
「好きなことだけじゃ商売にならんのが困りもんでなあ……」
平田が深く溜息をつく。春意は何とも返す言葉が見つからず、ただ曖昧に笑った。
今日の目当てたる場所に着いたのは、里を出てから小一時間ほど経った頃であった。
山裾の緩やかな斜面に、木々の途切れた一角がある。日当たりがよく、辺りを見回せば足元には背の低い草が繁って、色鮮やかな草花が点在していた。
「ここだ。毎年この辺りはよく採れるから、重宝してるんだよ」
「へえ……随分と開けていますね」
「ああ。足場もいいし、里からもそう遠くない。俺みたいな商売人にはありがたい場所さ」
平田は春意の籠から鎌を取り出した。平田の背負い籠の方はまだ余裕はあれど、この辺りの目当ての物を採集していけば、布袋も必要になるだろう。
そう考え、帯に掛けていた布袋に伸びた春意の手が、一瞬止んだ。
「さて、まずは鳴子百合から——」
「平田さん、少し静かに」
平田の言葉を、唐突に春意が制した。忽然訪れた寂静の後には、微風が奏でる植物達の音のみがあった。
投げかけられた春意の声は、今までの穏和な物とは違い、静かで、切迫を滲ませる。顔には緩みがなく、ただ前方に注意深く感覚を向けている。
里から離れた山中の林の中、春意の唯ならぬ様相、それらの状況から平田が結論を導き出すのは、そう時間を要さなかった。然るに、彼はその結論を認めたくはなかった。
「ま、まさか、春意君……」
「大丈夫、いざとなれば守ります」
妖怪、とは双方共に口にはしなかった。平田はそれを信じたくはなく、春意はそれを理解した上で混乱させる事を避けたかったから。
「とりあえず、ゆっくり右にずれていって下さい。相手は直進してきてます」
「わ、わかった……」
摺り足のようにして、二人はゆっくりと、草花を踏みしめながら右方へ動く。
十中八九、その相手とは妖怪である。妖怪が迫って来ているのならば、こうしているより、一刻も早く背を向けて逃げるべきではないか。
そんな逃げ一辺倒の考えが平田の脳裏を過ぎったが、それもすぐに無理だと気付く。ここから小一時間も、不安定な山道を走って妖怪から逃げ果せるなど、それこそ現実的ではないからだ。だが、それならどうすれば良いのか、その答えは浮かばない。
「うわっ!」
刹那、漆黒の球体が斜め前から高速で飛び出してきた。球体は飛び出した勢いのまま二人の横合いを通過すると、軌道を一切変えず突き進んでいく。
人間の走る速さなどとは比にならぬ速度、陽光の悉くを遮断するかのようなその異様は、息を飲んでいた平田に意図せぬ悲鳴をあげさせた。
「いたーっ」
そして球体は真っ直ぐに、二人の背後で樹木へと、減速もせずに衝突した。
樹の爆ぜるような音が周囲一帯に響き渡り、巻き起こされた突風により、落ちた葉が盛大に中空に撒き散らされる。その中で僅かに聞こえたのは、間延びした少女の声であった。
「できれば過ぎ去って欲しかったんですが……」
春意がそう言うと同時に、忽ち漆黒の球体は、宛ら水に溶けるかの如く、次第に薄れて消えていく。砂塵と草葉の霧が晴れた先に、人影が一つ。
「うー、だれ?」
その中から姿を見せたのは、一人の少女だった。肩まで伸びた金髪には赤いリボンをあしらい、白いブラウスの上に黒いベスト、黒いロングスカートとこの場に不相応な洋装を纏っている。
だが何より一際平田の目を引いたのは、深紅の双眸であった。それなりに多くの人間を見てきた彼にとって、これ程までに感情が瞳の奥に見えない試しは無かった。ただそれだけで、この矮躯の少女が化け物であると直感できた。
「こんにちは、博麗春意と申します」
「こんにちは、ルーミアだよ」
春意の冷静な挨拶に、ルーミアは無邪気な笑みを浮かべ、至って平常な様子で挨拶を返す。背後の樹木が、激突した際の衝撃で樹皮を削られているのを無視すれば、微笑ましささえ感じられた光景であろう。
「今日はどうしたのー?」
「薬草を採りに来たんですよ。こちらの平田さんのお仕事で」
春意が隣を示す。平田は一瞬身を竦ませたものの、どうにか会釈を返した。ルーミアの赤い瞳が、興味深げに細まる。
「へえ、人間が二人もいる」
「えぇ。ですから、できれば少し離れていて欲しいんです」
「嫌。目の前に人間がいるのに、そんなの勿体ないもん」
「まあそうなりますか……」
膠もなく、即答であった。それに対して、どこか納得しているかの様子の春意を、平田はまるで理解できずにいる。故に、春意の格衣の袖を引いて、耳打ちをする。
「春意君……この子が何者か、分かってるのか?」
「ええ。幻想郷縁起に載ってましたので、基本的な能力や性格は」
「分かってるなら……!」
「ですから、話してみます」
春意は穏やかに答えた。それから、再びルーミアへ向き直る。いつの間にやら手近な切り株に腰掛け、足をぱたぱたと遊ばせている。
どうやら、問答無用で齧り付く程の事情はないらしく、それだけでも春意にとっては話す価値があった。
「僕らと遊びたいんですか?」
「うーん、どっちかっていうと食べたい?」
平田が恐怖心から後退りし、春意は困ったように頬をかいて、ルーミアはそんな人間の反応を面白そうに笑っている。
「食べられては困ってしまいますね」
「どうして?」
「目の前で人が食べられたら、僕は嫌なので」
「ふーん。じゃあ、あなたから食べるね」
「あ、そういう事じゃなくて」
「もー。あれもダメこれもダメ、つまんないの」
ルーミアは小さな頬を膨らませ、口を尖らせた。恐らくこのままでは埒が明かない、春意はそう考え少し思索を巡らせる。
幻想郷縁起の記述を思い返すと、さほど強い妖怪ではないという。であれば、無理に追い払うこと自体は、恐らくそれほど難しい話ではない。
しかし、今のところ相手は何もしていない。人間を食べたいとは言っているが、それは妖怪にとっては生理的欲求や本能に値するのだ。即ち、自分の欲望をあけっぴろげにしただけ、とも言える。
それに、ここから追い払ったところで、別の場所で人間を襲わないという保証もない。
必要なのは、少なくとも今日の採集が終わるまで、彼女が自分達を襲わない事。あわよくば、今日一日の無力化を取り付けたい。
「……ではルーミアさん、一つ勝負をしませんか?」
「勝負?なんの?」
「腕相撲です」
春意の提案に驚いたのは、ルーミアだけではなかった。寧ろそれ以上の吃驚を露わにした平田が、慌てて春意の肩を掴んだ。
「待て待て待て、いくら君でも妖怪相手は——」
「腕相撲ってあれでしょ?腕を倒すやつでしょ?」
「そうです、腕を倒すやつです」
「人間なのに妖怪と力比べしたいの?変なのー」
この場においては、春意だけが奇異な思考をしており、奇しくも平田とルーミアの思考は一致していた。だが平田がその無謀を止めんとしている最中、彼女は決して否定はしない。
「僕が勝ったら、今日は人間を襲わないこと。ルーミアさんが勝ったら……今日中に、美味しいお菓子を持ってきますよ。その代わり、勝っても負けても僕らを襲わないでくださいね」
「お菓子?」
深紅の瞳が、矢庭に輝きを帯びた。
「甘いやつ?」
「ええ、甘くて美味しいやつです」
「じゃあやる!いっぱいだからね!」
「結構。ではその切り株を使いましょうか」
結果、平田が口を挟む間隙もなく、流れるように勝負は成立してしまった。口を挟もうにも、徒人の身である以上、この状況下で物言いなどつけようがない。
「な、なあ春意君……大丈夫、なのか……?」
「安心してください。僕自身も含め、身の安全は保障しますから」
勝てば良し、負けても命は取られない約束は取り付けた。但し、この無邪気な妖怪少女が、律儀に約束を守るなら、の話である。もはや平田に出来ることはただ、見守る事だけであった。
脂汗を滲ませる平田を他所に、春意は平然と切り株の前へ歩み寄る。ルーミアもご機嫌な様子で、切り株に肘を置く。妖怪の少女と人間の少年が、切り株を挟んで向かい合う、何とも奇妙な光景であった。
「確認しましょう。互いの手を握って、押し合って、相手の手の甲をつかせた方が勝ち……でいいですね」
「それくらい知ってる。少しは楽しませてね?」
ルーミアが滑稽そうに笑いながら、差し出された春意の右手を握る。
その小さな手は冷たく、伝わる力は見た目に反して随分と力強い。人間相手の力加減など知りもしないのだろう、その握力は並の人間であれば握り潰されてもおかしくないものだった。このような姿でも妖怪は妖怪、春意は気を引き締める。
「準備はいいですか?」
「いいよー」
「では、平田さん。合図をお願いできますか?」
「……俺が?」
「はい」
平田は二人を交互に見つめた。
何か言いたげに口を開いたものの、結局は諦めたように息を吐く。
「……分かったよ。じゃあ、いくぞ」
春意とルーミアが頷いた。
「よーい……始め!」
途端、ルーミアの腕に力が籠もった。
小柄な身体からは想像もつかぬ膂力が、春意の手を押し倒さんとする。肩を入れる、体重をかける、そのような小手先の技術を使う訳では無い。
ただ純粋な膂力が、人の域を超えていた。小柄で強い部類でないといえど、人喰い妖怪として、通常の人間であれば抵抗など許さず組み伏せる事が出来て当然である。
もしこの手を握るのが平田であったなら、疾うに切り株に叩きつけられ手骨を砕かれていただろう。そう春意に確信させるだけの怪力が、その小さな体には内包されていた。
「……あれ?」
だが、動かない。その違和感に気付いた時、ルーミアは眉を顰める。
「んーっ!」
さらに力を籠める。切り株が僅かに軋む。一度脱力した後、再度瞬発力を用いて押す。それでも春意の腕は、ついぞ微動だにしなかった。
「……むー」
「そろそろ僕からもいいですか?」
「まだ!」
「はい、どうぞ」
春意はにこやかに待った。ルーミアは頬を膨らませ、両足を踏ん張る。自重をかけ、腕力頼みの押し方にひと工夫まで加え始めた。しかし、変わらず膠着は続く。
やがて、とうとう堪え切れなくなったのか、春意を睨み付けた。
「なんでぜんぜん動かないの?」
「それなりに鍛えてますから」
ルーミアは、単に恨めしく思っているだけではない。彼女にとり人間など、一度捕まえたならそれで終わりの脆弱な生物に過ぎなかった。それが紅白の服の女でもなければ、このような苦渋を飲まされる経験も無かった。
この少年が何者なのか、その疑問こそがルーミアの困惑を生じさせる最大の要因であった。
「……じゃあ、そろそろ押しますね」
春意の腕が、ゆっくりと傾いた。
息を入れていたルーミアが慌てて抵抗を試みるが、傍目には余りにも、押し返しているようには見えなかった。ただ、水が低きへ流れるように、すうと小さな手が外に向けて倒れていく。
そのまま、ルーミアの手が切り株へ押しつけられる。こつん、と小さな音がした。
「僕の勝ちです」
ルーミアは丸くした瞳で、自分の手をじっと見つめた。それから春意を見る。もう一度、自分の手を見る。
「……もう一回!」
「えっ」
「もう一回!」
「いやあ、でも、普通は一度きり……」
「もう一回!」
春意は暫し考えた。それから、ふっと笑った。
「分かりました。確かに僕も、一回勝負とは言ってなかったですからね。ただし、次で最後ですよ」
「うん!」
「平田さん、もう一度だけお願いしていいですか?」
「え、あ、ああ」
二度目の勝負も、結果は同じであった。
今度は最初から自重をかけ肩を入れる速攻を見せたルーミアだったが、今し方判明した力の差を埋めるには足りなかった。
変わらず春意の腕は根を張ったかの如く停止し、ルーミアが押し疲れた所で、すんなりと押し倒す。一度目の再現をして、延長戦にもつれ込んだこの人妖勝負は、呆気なく人間の勝利に終わった。
「……つまんない」
ルーミアは不服そうに呟いた。
「強すぎる」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないよ。人間のくせに」
「あれ?」
ルーミアは両手を切り株の上で握ったまま暫く俯いて、無言で頬を膨らませていたが、直に諦めたように両手を下ろした。
「……わかった。今日は帰る、人間も襲わない」
「えぇ、対戦ありがとうございました」
「今度は勝つからね、夜なら負けないもん」
「楽しみにしていますよ」
少女はくるりと背を向け、そのまま木立へ向かって歩き始める。だが数歩進んだところで、はたとその足を止め、ふと振り返った。
「……お菓子は?」
「……僕が勝ちましたよね?」
「だめ?」
ルーミアは首を傾げた。春意は思わず吹き出した。
「そうですね。今度、気が向いたら持ってきますよ」
「ほんと?」
「ええ。でも、人間を襲わないご褒美というわけではありませんからね。僕の友達としてなら、です」
「やったー」
分かっているのかいないのか。ルーミアは満足そうに笑うと、今度こそ木立の向こうへ姿を消した。
恐ろしき妖魔の風体で現れ、容姿に違わぬ少女らしい振る舞いで去っていく。静けさを取り戻した林の中には、春意と平田だけが残された。
「…………春意君」
「はい」
「今のは……何だったんだ?」
「腕相撲です」
「それは分かるよ!」
平田の声が裏返った。春意は目を瞬かせ、それから申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。ちょっと、説明が足りませんでしたね」
「ちょっとどころじゃないぞ……!」
平田は額を押さえた。妖怪が現れたと思えば、目の前の少年は何事もないように話しかけ、挙句の果てに腕相撲で勝負を始めた。その上、勝ってしまった。
腕相撲を見ている間などは、まるで夢でも見ているような心地であった。脅威が去った今だからこそ、こうして状況を飲み込み、まともに話せるのだ。
「……妖怪が、怖くないのか?」
「うーん、相手によりますね。妖怪の知人は何人かいて比較材料がある中で、ルーミアさんなら大丈夫かな、と」
「……人間を食べる妖怪だろう?」
「ええ。ですから、平田さんに近付かせるつもりはありませんでした」
春意はあっさりと答えた。今ならその言葉が、決して無根拠な物ではないと、平田には理解できた。
「ただ、意外と話が通じそうでしたから。今回は勝負に乗ってもらえて助かりました」
「……そうかい」
平田は暫し黙り込んだ。
妖怪と交渉する。先日阿求と慧音に聞き込みをした際に耳にした、春意が志す博麗の御師の仕事の一つである。
その時は、何とも大きなことを言う少年だと、呆れ半ばに思った。今も、その印象がすっかり消えたわけではない。だが少なくとも、ただの世間知らずではなかった。
博麗の姓を背負う者とは、やはり得てして傑物という事なのだろうか。
「……それはそうと、平田さん」
「ん?」
「そろそろ採集を始めませんか?日が暮れる前に戻りたいですし」
「……ああ、そうだな」
いい大人の自分が傍観する事しか出来なかったと言うのに、この少年と来たらあれだけの手柄を、それはそうとの一言で済ませてしまうのだな、と。平田は自嘲と感嘆を胸に笑う。
「まったく、君といると調子が狂うよ」
「よく言われます」
「だろうなあ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
* * *
その後の採集は、至って順調であった。
平田が目当ての薬草を見つけ、春意が指示に従って採る。採集したものは種類ごとに分け、籠へ収めてゆく。木通、鳴子百合、母子草、黄連など多くを掻き集めた。
春意は初めこそ手際が覚束なかったものの、幾度か繰り返すうちに、道具の扱いにも随分慣れてきた。妖怪に勝る腕力のみならず、手先も器用な彼の能力に、平田は思わず舌を巻く。
「……上手いじゃないか」
「ありがとうございます。これで大丈夫ですか?」
「ああ、ほとんど傷んでない。今日が初めてにしちゃ上出来だ」
そのまま作業を続け、日が傾き始める頃には、籠と布袋には十分な量の薬草や薬木が詰められていた。
空を見上げ頃合と見た平田が、腰を叩きながら立ち上がる。
「ふう……そろそろ帰るか」
「そうですね。お疲れ様です」
「いやあ、今日は助かったよ。いつもなら、ここまで採ると帰り道が難儀でな」
「では、荷物は僕が持ちますね」
「……そういや、そういう約束だったな」
春意は二つの籠をまとめて担ぎ上げた。
行きと比べて荷は随分と増え、況してや先程の腕相撲の疲労もあって不思議ない筈だが、足取りには少しの変化も見られない。
「……なあ。やっぱり、あの値段は安すぎるんじゃないか」
不意に、平田がそのように零した。春意はいきなりの事で、目を瞬かせる。
「いや、でも、僕はまだ実績がありませんから」
「その理屈は分かる。だから俺も、今回はその値段でお願いしたんだが……」
腕を組み唸る彼は、相も変わらず利と道理の間で揺れていた。
荷物持ち、採集手伝い、更には妖怪への対応。全てを兼業するような者は、里にはそうはいない。それを荷物持ちとしての料金、剰え破格の安価で済ませるなど、同じ商売人として抵抗感が拭えなかったのだ。
「ここまで仕事を兼ねて相場の三割ってのは、流石に払うこっちが申し訳なくなるぞ」
「ですが……」
「まあ、今すぐ値上げしろとは言わんよ。ただ、仕事を続けるつもりなら、少し考えておいた方がいい」
春意は暫し黙り込んだ。相手の利、それさえあれば納得して貰えるだろうと思い込んでいた節があった。そしてそれで認知度が高まるなら、それで良いと思っていた。何も、ずっとこの料金で続けていくつもりもなかったから。
だが実際には、自分の仕事を評価してくれる相手には、かえって負い目を感じさせてしまう事もある。およそ思いがけぬ視点であった。
「……ありがとうございます。覚えておきます」
恭しく頭を下げる春意。平田は頷いた後、それから何かを思い出したように付け加える。
「そうだ。次に採集へ行く時も、都合がつくならお願いしていいかい?」
「え?」
「次からは業務に応じて、正当な料金を設定しといてくれ。今回は初回限定サービスって事でな」
春意が相好を崩し、力強く頷いた。
「もちろんです!」
「ははは。じゃあ、その時はよろしく頼むよ」
「はい、こちらこそ!」
道中は妖怪に遭遇する事もなく、平穏無事に里へ戻った頃には、空が茜色に染まり始めていた。
平田の店先で荷を下ろし、約束の報酬を受け取る。平田はさり気なく幾らか上乗せしようとしたが、春意は丁重に辞退した。今回は最初に決めた金額で構わないと、断固として告げたのである。
代わりに、次回の依頼については改めて相談することを約束した。
店を後にした春意は、里の通りをゆっくりと歩いていた。懐から帳面と万年筆を取り出す。
平田さん。薬草採集の補助。荷運び。ルーミアさんとの交渉、次会う時はお菓子持参。
筆を走らせ、そこで一度手を止めた。少し考えてから、その下に一行を付け足す。
次回も依頼の見込みあり。
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれた。御師として、初めて仕事を任せてもらえた。無事に果たすこともできた。そして、また頼みたいと言ってもらえた。それだけのことで、随分と胸が満たされるものらしい。
もっとも、これで何かが大きく変わったわけではない。里を行き交う人々は、春意が今日どこへ行き、何をしてきたのかなど知る由もない。すれ違う者の中には、先日の俵差し大会を思い出して声を掛ける者もいたが、御師としての仕事を尋ねてくる者はいなかった。
春意自身、それを不満には思わなかった。今日一日で、平田という商人から信用を得られた。それだけでも、十分な収穫なのだから。
「……さて」
帳面を閉じ、万年筆を添えて懐へ収める。帰途についた春意は思案する。
明日はまた、御神札を売り歩こう。誰かに名前を覚えてもらい、いつか困った時に、僕の事を思い出してもらえるように。
春意は小さく頷くと、暮れなずむ通りを歩き出した。博麗神社へ帰れば、今日の出来事を霊夢に話して聞かせよう。妖怪と腕相撲をしたと聞いたら、果たしてどんな顔をするだろうか。
「……呆れられるかなあ」
そんなことを考えながら、少年は楽しげに笑った。