妖精や妖怪が集いやすく、昼になると濃霧が掛かる、原理不明の霧の湖。その湖に臨むのは、聳える時計台が目を引く全面深紅の洋館、紅魔館である。
湖上を渡ってきた風は幾分か湿り気を帯びていたが、陽射しの下ではそれも心地よい。湖面に浮かぶのは薄靄程度で、遠くには春霞に煙る山々の稜線が見える。
そんな長閑な景色を背に歩んでいるのは、風呂敷包みを持った春意であった。紅魔館の門前で足を止めると、手荷物を地に置いた。
「こんにちは、美鈴さん。お昼寝中でしたか?」
門柱に背を預けて項垂れていた一人の女が、春意の呼び声に気づいて徐に顔を上げた。
真ん中に龍の字を書いた星の装飾をあしらった帽子、盤扣が特徴的な緑のベストに、同じ緑のスリット入りスカート、白いチャイナパンツという装いは、如何にも中国的な風趣がある。
紅魔館の門番たる彼女、紅美鈴は、人目も憚らず大欠伸をして寝ぼけ眼を擦る。しかし、呼び掛けた声の主を視界に入れた途端、矢庭に目を見開いた。
「ああ、春意君!久しぶりですね!」
「はい。色々ありまして、少しご無沙汰していました」
鮮やかな赤い長髪を揺らしながら歩み寄ってきた彼女は、満面の笑みでもって、春意の手を取り上下に揺する。
「新聞で見ましたよ!晴れて御師になったそうですね!」
新聞に掲載などされていたのか。そんな驚きを胸に秘めつつ、春意は頷いた。
「僭越ながら名乗らせて頂いてます、まだまだ無名ですけどね」
「いやいや、最初の一歩を踏み出せた事が素晴らしいんです。その為に、この一年教わってきたんでしょう?」
その言葉に、彼は少し言葉に迷う様を見せる。
「最初はその為でしたけど……楽しくてやってる、というのが今では大きいくらいです」
「えぇ〜?全くこの弟子は〜嬉しいことを言ってくれますね〜?」
美鈴の手が、青墨の髪を撫でた。春意はこそばゆげに目を細めるが、決して抵抗はしない。傍目に見れば、姉弟のようにも映るこの二人だが、実際に師弟ではある。
一年程前、偶然から春意が弟子入りを志願したのが、二人の関係の始まりであった。
「まだまだ君はこれからです。焦らず、のんびり進んでいきましょう」
「……はい」
慧音の言葉を思い出し、春意の頬が無意識に緩んだ。
「武術もそうですよ。君に今まで教えたのは、防御法や擒拿術の基礎ですからね。まだ学ぶ事は沢山あります」
「勿論です」
その時になって、美鈴は漸く地面に置かれた風呂敷包みに気付く。四六時中立ちっぱなしの彼女を気遣って、時折差し入れを持ってくる事もあった春意だが、その割には大きい。
「ところで、今日は何を持ってきてくれたんです?」
「ああ、瓦です」
「……瓦?」
「はい、八枚ほど」
春意が風呂敷を解くと、中には燻んだ桟瓦が整然と積まれていた。美鈴は暫しそれを見つめ、苦笑する。
「また随分と物々しいお土産ですねえ」
「前に、美鈴さんが練習に使えると仰っていたので」
「確かに言いましたけど、わざわざ持参するとは」
「この前、依頼で屋根の瓦の交換を手伝った時、古いのを貰えたんです」
「しかもわざわざ貰ってきたんですか……」
呆れたような口振りとは裏腹に、その顔は満更でもない様相であった。
今から一年程前、美鈴に武術の教えを乞うて以来、春意は平生からこの紅魔館に通いつめたものである。基本功、防御、間合い、関節技。これらの習得が実戦レベルで済んだと認められたのが、御師になる事を表明した少し前の事である。
いつも教えを受けに来る時は、決まってこのように目を煌めかせてやって来るのだ。晴れて御師になり、少々間が空きはしたが、直向きさに変わりはなかった。
「では、今日は予定を少し変えましょう。本来は偽の起こりといった、虚実の方面を教える予定でしたが」
「そこから変える、というと?」
「せっかく瓦まで用意してくれたんですから、前にお話しした浸透勁についても、少し教えてみましょう」
その言葉に、春意の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか!」
「ふふ。そんなに喜ばれると、教える方も張り合いがありますね」
「前に見せて頂いた時、感動してしまって……!」
美鈴は門の脇に置かれていた、普段椅子代わりにでもしているのだろう木箱を引き寄せ、地面へ据えた。
そして春意の持参した瓦を受け取ると、それを木箱の上に置く。
「少し開きましたし、今までと違う分野に入りますからね。まずはおさらいしましょう」
そう言って、彼女は春意の正面に立った。
「春意君。打撃を当てるとき、最も大切なのは何だと思います?」
「えっと、五体の連動ですよね」
「その通り。中国武術では、技として発揮される力を勁と呼び、それを効率的に運用することを運勁と言います」
美鈴は肩を脱力させ左拳を胸の前に、右拳をその更に前に置く。足を開き、腰を落としたその構えは堂に入っている。この足の置き方を馬歩、肩の力を抜き肘を落とした姿勢を沈肩墜肘と呼ぶ事は、春意の記憶にもあった。
「例えば、この拳を前へ出すとします。肩から先の筋肉だけを使っても拳は動きますし、それなりの威力は出ます。ですが、身体というのは腕だけで出来ているわけではありません」
彼女は構えをそのままに、右足で地面を軽く叩く。
「足で地を踏み締め、腿を経て、腰を回し、胴を通して、最後に腕へ伝える。そうして全身の動きを繋げてこそ、勁は最大化されます」
「でも、口で言うほど簡単ではないですよね」
「そうですね。形稽古ならまだしも、実戦でこうした複雑な運勁を可能にするには、相応の練習量が必要です」
言い終えるや否や、美鈴が空に向けて右拳を放つ。残像を残す程のキレを持ったその拳打は、剣戟を振るったかのような風切り音を伴い、打ち終わりの隙が見えぬ程に引き戻しが捷い。
春意は思わず息を飲んだ。僅かな足の踏ん張り、腿の抜き、腰の捻転、それらが肩を押し出し手先へと流れていく様の異様な滑らかさ。
何気なく行われた一連の動作が、如何に精緻な技巧によって成されたか、彼は持ち前の鋭敏な感覚と教わった知識を元に理解していた。
「今のは運勁による単純な冲拳の最適化に過ぎません。浸透勁ならこの更に先、衝撃の伝え方にひと工夫が要ります」
その工夫とは何か。逸る気持ちから直ぐさま口を開いた春意を制するように、先んじて構えを解いた美鈴の手が、木箱に積まれた瓦に置かれた。
「肝要なのは、勁を解き放つ場所です。触れた瞬間に力を散らしてしまえば、それは体表から破壊するただの打撃。浸透勁では、接触を起点として勁を内へと通し、狙った一点に到達した際に炸裂させるんです……こんな風に」
刹那、重なった八枚の瓦の内の一枚が爆ぜて四散し、塵のような破片を降らせた。但しそれは、触れていた最上段の物ではなく、上から四枚目の瓦ただ一枚である。中間に忽ち空洞ができた瓦は、からりと音を立て七枚で積み重なった。
それ以外の器物に、一切の破損は見られない。残った七枚の瓦も、その下の木箱も、至って無事である。魔法じみたその芸当は、以前にも見せられた技術と言えども、春意に再度の驚愕を与えるに足る衝撃があった。
手が触れた状態から打撃を放つ寸勁は中国武術でも著名だが、こちらはその発展系と言って差し支えないだろう。
「あ、ちなみにこういう上から押す形は特に難しいので、練習するなら立てて並べた煉瓦などがオススメですよ」
「いや、もう、そういう次元じゃないような……やっぱり凄いですね……」
「ふふふ、沢山練習しましたから」
目を丸くして呆気に取られる春意に、美鈴は平然と言ってのけるが、それでいて面差しにはやや自慢げな所が見て取れる。
門番として他者から褒められる事の稀な彼女にとって、このように素直に尊敬される機会はそうは無いのだ。
「では春意君、試しに私の手をゆっくり押してみてください。足で地面を押し、肩は下げて、下半身から上半身へ動きが連なるように」
「はい……えっと、下から上に……」
言われるまま、春意は掌を合わせ、慎重に力を込めた。足裏へ意識を向ける。膝を僅かに緩め、腰を据え、掌へと、一本の勁の線で結んで。
すると、春意の手が全身に連動して前方に進み、美鈴の腕が僅かに押し戻される。
「……こうですか?」
「大枠は合ってますね。ですがまだ各所に力みがあります、特に肩」
美鈴が春意の肩を軽く叩く。
「ここはもっと楽に。無駄な力みは、繊細な勁の伝達を妨げてしまいます」
「なるほど……」
春意は何度か同じ動きを繰り返した。二度目は脚の起こりに腰が遅れ、三度目は腰を意識する余り肩が先走る。その度に美鈴が助言を与え、改善を図った。
そうして九回目にして、彼女の掌に伝わる圧力が、不意に滑らかなものへ変わる。
「おっ」
美鈴が小さく声を漏らした。今までとの違いを体感した春意も目を見開く。
「今のは……」
「分かりました?」
「はい。さっきより、ずっと自然に拳が前へ出ました」
「そう、その感覚です。基本になるので覚えておいてください」
美鈴は満足そうに頷いた。彼女の修める武術の大部分には、この運勁が関わる。一年で仕込んだのは実戦に直結する護身技、対してこちらは、より武の神髄に触れる技術と言える。
師としては、そうした深奥にも熱意を示してくれる事が喜ばしかった。
「では、次は瓦を使いましょうか。私が持ちますから」
木箱の上に置かれた七枚の瓦のうち、一枚を取り両手で春意の前に掲げる。
「さあ、今の要領で寸勁を打ってみてください」
「はい」
春意は瓦に掌を添え、先ほどの動きを思い出す。水銀が竹筒を通って、節を突き破り飛び出すように。肝は滑らかな力の連動である。
すう、と小さく息を吸って数秒の後、春意の腕が押し出される。瓦は抵抗を感じさせず、呆気なく真ん中から割れた。
「……どうでしょうか」
「悪くないですよ。ただ、まだ腕力頼みです」
美鈴はそう言いながら、割れ落ちた瓦の破片を、木箱の傍らに足で払い除ける。
試し割り用の脆い代物とは違い、建材として使われていた桟瓦である。密着させた手で圧するだけでは、通常割る事など叶わない。
「春意君なら、腕の力だけでも容易に割れてしまいますから、気を付けないといけませんね。学びたいのは破壊の術ではなく、正しい力の使い方、でしょう?」
だが美鈴は、春意の膂力の程を知っている。妖怪を相手に腕相撲を敢行し、更には完勝する力ならば、この程度は力業で実現できるのだ。故にこそ、繊細な力の扱いの会得は難しい。
悩ましげに顎をさする春意に笑いかけながら、また一枚、新しい瓦を構えた。
「今度は、出来るだけ腕力を使わずに割ってみてください。本来の寸勁なら、割れ方も違うはずです」
春意は頷いて、再び掌を添える。今度は、力を込めることよりも、身体の動きを揃えることに意識を向けて、連鎖的な動きでもって腕を押し出す。
しかし、瓦は先程と同じように割れた。美鈴の腕が春意の押す力を受け止める為に力む、その時点で不完全なのだ。そんな暇もない程、鋭く捷く重くなければならない。
「んー……」
「惜しいですね。下半身の使い方は良かったんですが、肩口で勁が散っています」
「また肩かぁ」
「もう一度」
再び試す。今度は肩に意識が行き過ぎ、逸る気持ちから、下半身からの勁の伝達を待たずして手が動いた。所謂手打ちである。
以降も、更に試した。動作部位の一つ一つは、正常に稼働していると言って良い。
しかし各部で生じる勁を集約し、それを手で作用させるのは歴とした高等技術である。若輩にして学びも足りない春意なら殊更だった。
だが、最後の一枚で何かを掴んだか。
「……あっ」
声が漏れると同時に、春意の掌が、瓦を薄紙の如く突き破った。
風を切る音は鋭く、美鈴が圧を受け止める為に力む必要すらない。そして、今回の瓦は割れたと言うより、貫かれたといった方が、その壊れ方を表すのに正確であろう。
「今のは良かったですよ」
春意は自分の手を開閉させ、ただじっとその手の内を見ていたが、やがて嬉しそうに笑った。
「少し、分かってきた気がします」
「やっぱり君は才能がありますよ。この調子だと、今後は運勁を主軸にした内容にしても良さそうです」
尊敬する師に褒められ、そんなことは、などと謙遜を口にすれども頬は一層緩んでいる。良き師弟の有り様とは、きっとこういう物だろう。
「さて、運勁については今回はこの位でいいでしょう。突き詰めれば化勁など防御にも利用できますが、アレは高級技法ですからね」
手の内に掴んだ感覚の余韻と、師から齎された賞賛を春意が噛み締めていると、彼の目に美鈴がストレッチを始める姿が映った。
彼女が本格的な準備運動を始めた時は、即ち手合わせに移る際の合図である。
「では当初の予定通り、次は実戦形式で虚実について伝えます。今教えた技術も使ってみていいですよ」
「使えるものなら、ですか」
春意の言葉に、飽くまで美鈴は返答せず、代わりに少しばかり挑発的な笑みを呈して見せる。
「あら、ちょうどいいタイミングだったかしら」
不意に、背後から声が掛かった。二人が門の奥に視線を向けると、紅魔館の玄関から、二つの人影が歩いてきていた。
一人は、淡い青髪の上からナイトキャップを被り、フリルのついたピンクの洋装に身を包み、背には蝙蝠を思わせる双翼を携えた小柄な少女——レミリア・スカーレット。
もう一人は、レミリアの傍らに付き従い日傘を差す、メイド服を瀟洒に着こなす銀髪の少女——十六夜咲夜である。
「あ、お嬢様。こんな天気の良い日にまで」
「天気が良いから出てきたのよ」
彼女達の姿を見て、美鈴が慌てて門を開ける。春意も軽く頭を下げた。
「こんにちは、レミリアさん、咲夜さん」
「えぇ、ごきげんよう春意」
小さく手を振るレミリアの背後で、十六夜咲夜は静かに一礼する。
「今回も見学させてもらうわ。構わないでしょう?」
「もちろんです」
春意が答えると、レミリアは口元を綻ばせた。
「結構。咲夜、椅子をお願い」
「畏まりました」
咲夜がそう答えたかと思うと、次の瞬間には門柱の傍らに椅子が一つ置かれていた。
瞬きもせず見ていた筈が、気が付くと元々そうだったかのように景色が変わっている。春意は何度見ても不思議な光景だと思ったが、今さら驚きはしなかった。
「さあ、始めてちょうだい」
レミリアは優雅に椅子へ深く腰を下ろし、脚を組む。咲夜の日傘が作る日陰で、腰を据えて見物を決め込む様は、紅魔館の主人という彼女の肩書きに相応しい尊大さがある。
春意は一度深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
向かい合う美鈴は、既に準備運動を終えていた。首を左右に傾け、肩を軽く回すと、最後に足首をほぐして姿勢を正す。
「では、始めましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
互いに一礼する。
春意は左足を前に、右足を半歩ほど後ろへ引いた。膝を軽く曲げ、重心を両足の間へ落とす。両腕は胸の前に掲げ、肘を下に向け緩く曲げたまま、掌を相手へ向ける。
拳は握らない。打撃を放つにも、相手の腕を捕らえるにも、開いた手の方が都合が良いからだ。無論、必要に応じて拳を握ることもあるが、今の春意にとっては、この構えが最も馴染んでいた。
一方の美鈴は、右足を僅かに引き、両手を腰より少し高い位置へ置いている。春意の構えと比べれば、随分と無防備に見えた。しかし、そこに隙は見出だせない。
どこを狙おうとも、彼女はそれに応じて動く。これまでの稽古で、その事は嫌というほど思い知らされていた。
「今日は春意君からどうぞ」
「……では」
春意は左足を踏み出した。初手の狙いは美鈴の顔面である。
前に出した左掌を、相手の顔面へ向けて真っ直ぐに突き出す。掌底による牽制。威力を抑えたそれは、当てることよりも、美鈴の反応を見るための一手だった。
美鈴は頭を僅かに右へ傾ける。春意の掌が頬の左脇を唸りながら通り過ぎた。
その動きを見届けるより早く、春意は右足を踏み込んだ。左腕を引き戻すと同時に、右拳を美鈴の胴へ放つ。
だが、その拳も届かない。到達よりも早く美鈴の左手の甲が、春意の右前腕の内側へ添えられる。さしたる力も込められていないその動作だけで、春意の放った一撃は大きく横へ逸れ空を切った。
「なら……」
春意はそれも予想していた。間を置かず右拳を開き引き戻す事で、美鈴の左手首へ指を掛ける。
相手の腕を捕らえたなら、肘の稼働を制し、肩の動きを封じる。そこから体勢を崩して地面へ押さえ込む。
これまで幾度となく繰り返してきた擒拿の基本である。
ところが、春意の五指が手首を包む寸前、美鈴の左腕がするりと引かれた。或いは、手首の向きが変わったと言うべきか。春意の指が掛かろうとしていた部分が、指の間を滑り抜けるように移動した。
「くっ」
掴み損ねたと悟った時には、美鈴の右掌が春意の胸元へ迫っていた。春意は左腕でこれを外へ弾く。
美鈴の右腕が脇へ流れたが、その腕を獲ろうとはせず、春意は踏み止まった。追えば、今度はこちらの身体が開く。代わりに左足を引き、後方に跳んで間合いを取り直した。
「おっ」
美鈴が小さく声を漏らす。
「今の判断は良かったですよ。無理に追うのはリスキーでした」
「ありがとうございます」
「ですが、最初の二手は少し素直すぎましたね」
「……やっぱり、そうですか」
「ええ。顔を狙ってから胴を狙う。悪い連携ではありませんが、狙いが分かりやすいんです」
美鈴はそう言い放つと、思索途中の春意に手招きをした。
「もう一度です」
悠長に構えすぎては手合わせにもならない、春意は頷いた。
膝周りの緊張を一瞬にして解し、支えを失った彼の上体が沈み込む。その下降の勢いをそのままに、春意が地を蹴り前へ跳んだ。
両者の間合いが急激に狭まる中で、春意は相手の全身を、顔を中心に俯瞰する。彼の鋭敏な感覚が、高速で動く中での目付けを可能にしていた。
「大胆ですねぇ」
美鈴の腰部に生じた、右方向への僅かな捻転の兆しを彼の目が捉える。接触までの極僅かな時間に、その視覚は彼女の運勁を限界まで見極めんとしていた。
左半身を前に打ち出す運勁ならば、左拳が飛んでくる。春意は予期された攻撃に備え、反射的に右腕を上げた。
だが、拳は来なかった。
打ち出された筈の美鈴の左掌は、彼女の胸先から数寸ほど動いたところで止まっている。
春意がその光景の意味を理解する前に、彼女の右手が伸ばされた。既に射程圏内に踏み入っていた春意の、掲げられた右腕は防御の意味を為さない。
「なっ!?」
事態を飲み込めた頃には、迎撃として放たれた右拳は、春意の眼前にまで迫っていた。もはや後ろに跳んだとて間に合わない、故に反射的に身体を捻り体勢を低くする、ダッキングを選んだ。美鈴の右拳は、褐返の格衣の右肩を掠めて振り抜かれ、奇跡的に直撃を避けていた。
「まだですよ」
だが、所詮は苦し紛れの回避である。
春意が逃げた先には、右拳を引き戻す反作用を用いた、右の膝蹴りが用意されていた。
体を沈めた勢いはまだ死んでいない、なればこそこの膝蹴りは、二人分の速度を乗せた一撃である。まともに受けるべきでない事は明白だった。
「——ッあぁ!」
窮地は、期せずして予想外の閃きを人に与える事がある。
春意は、己の腹部を目掛け飛んでくる右膝に、防御の為に上げていた右の手を置くが早いか、跳躍した。
上方へと作用する膝蹴りの推力を、腕の伸縮と柔軟によって最低限吸収しつつ、それをバネにして、彼は宙を舞ったのだ。
「あはっ」
傍観していたレミリアが小さく笑う。膝蹴りを跳び箱代わりに使うなど、彼女には思いがけない一手であった。されどその幼い笑い声も、今の春意の意識には入り込まない。
春意は美鈴の後方へと弾き飛ばされながら、その速度を活かし、意趣返しのように右の回し蹴りを見舞った。
「おっと!」
跳躍のついでに宙で放たれた、春意の蹴り一閃を、美鈴は間一髪で屈んで躱す。浮いた赤い髪が爪先に薙がれ、激しく靡いた。
さしもの美鈴も予想していなかったか、咄嗟に身を屈めた影響で大きく前のめりになる。
対して春意は、美鈴の背後まで回し蹴りの勢いによって体を前後反転させていた。即ち、背を晒してつんのめる美鈴に対し、滞空中なれどその無防備な背を見る春意、という形勢である。
美鈴が振り返って攻撃をするまでに、最低でも着地はできる。窮地を脱し、最低でも五分の条件に持ち込める目算であった。
「あ、これは——」
咲夜の小さな呟きが、突如として生じた大音に遮られた。
その発生源は、美鈴の足元。彼女は前傾姿勢のまま、右脚を軸に急速に身を捩り回転していた。それによって地面が抉られ、砂地が擦れる音であった。
「——あ」
未熟故だけではない、打撃に関する教えを未だ碌に受けていないからこそ、春意は失念していたのだ。旋風脚とも呼ばれる、全身ごと回転させる蹴りの存在を。それを使えば、振り向きと攻撃をワンアクションで行える事を。
それに気付いたのも束の間、美鈴の顔がついに背後の自分へと向いた時、春意は総毛立つ。
美鈴の双眸には、明確に春意を打ち据えようとする意思が宿っていた。肌を刺すような冷たい殺気。
それは、これまでの稽古で幾度となく向けられた戦意とは、全く異なるものであった。
地に足もつかぬこの状況下で、躱す事は出来ない。鉄の鞭のように重くしなやかに振るわれる渾身の蹴り、その圧力が刻一刻と己の顔に近付いてくる焦燥が、両腕を上げ衝撃に備えさせた。
「ほいっ」
「わっ!?」
然して、空中で横から
常人なら怪我を負いかねない倒れ込み方だが、美鈴は春意の事をそれなりに理解している。だからそこに身を案じる意図はなく、気遣いとして手を差し伸べた。
「一本ですね」
春意は言葉を失っている。差し伸べられた手を取り緩慢な所作で体を起こすと、少しの間呆然としていたが、やがて何かを得心した様子を見せ口を開いた。
「……そうか。最初の迎撃に見せかけた左掌だけじゃない、今のも虚実なんですね」
「ええ、分かりましたか?」
「一瞬何をされたかと思いましたけど……今のは、殺気を使ったフェイント」
立ち上がり、砂埃を払う春意に美鈴はただ、その通り、と返す。
最初の左掌が撒き餌である事は、春意も手合わせの最中に理解していた。けれども今の旋風脚は、本気で薙ぎ払わんと放たれている、春意にそう思い込ませるだけの殺気と体捌きであった。
「そう。全力で旋風脚を叩きつける、そう見せました」
「それでガードを誘発させれば、今みたいな簡単な足払いが決まってしまう、と……」
「途中で軌道を顔から足に変えたとて、本来の君なら反応できるはずですから。虚を実と思い込むと、視野も狭まるでしょう」
本気で打つという気迫や殺気、そしてそれに見合う運勁や体捌き。これらが合わさる事で、卓越した反応速度と視覚を持つ相手であろうと、こうして騙してしまえる。
この理論は打撃を当てるのみならず、組み技も寝技も差別なく当てはまる。擒拿という、打撃よりも工程を伴う手法を多用する春意にとり、こうした相手の動きを制限、及び誘導する技術は大きな助けとなるだろう。
「まあ今の状況だと空中だったので、いずれにせよ春意君の打つ手は限られてましたが」
「そ、そうですよね……苦し紛れの悪手でした……」
「おっと、勘違いしてはいけませんよ、決してノーリターンとは言ってませんから。実際、少し虚をつかれました」
「でも、つんのめったのは虚、ですよね」
美鈴はその指摘に、言葉ではなく微笑を返した。それに気付けるだけ上々、その様な考えからである。
万が一、春意が空中から何らかの攻撃を放てたとしても、相手が体勢を崩したのを好機と見なし、その上で行動するだろう。
しかしそれ自体が、カウンターを狙った罠であった。結果として今回は不要であったが、このような布石を散りばめる事で、相手は無意識下で自らの選択肢を制限してしまうのだ。
「これが虚実の基本です。相手に何かをさせたい時、そうしたくなる理由を作ってあげる技術ですね」
「なるほど……勉強になります」
そのとき、軽やかな拍手が響いた。
「見事だったわ」
拍手の主はレミリアである。彼女は目を細め、喜色を湛えて、惜しみ無く賞賛を送った。
「いつ見ても飽きないわね。武術にはさして明るくないけれど……人間が長い歳月をかけて積み上げた技というのは、美しいものだわ」
「ありがとうございます」
春意が頭を下げる。吸血鬼たるレミリアにしてみれば、武術とは人類という羸弱な生物の為の武器とも言える。だが例え有用でなくとも、動きその物を舞踊のように楽しむ感性があった。
「でも、今日も一本も取れませんでした」
「それでいいじゃない。簡単に勝てる相手では、学ぶものも少ないでしょう?」
「……そうですね」
春意が嬉しそうに頷くのを、美鈴もまた頬を緩ませて見ている。この師弟が、互いに敬意を持つ事の証左であった。
「本当に楽しそうね、負けたばかりなのに」
「負けはしましたけど、前進できる実感はあるんです。それが嬉しくて」
「……そう。なら、結構なことね」
自らの手のひらを見つめる春意の面持ちは、手合わせの最中とは異なり、少年らしい希望に満ちた物だった。成長を素直に楽しみ喜ぶ、人外の者には忘れて久しい感情である。
水を差すのも野暮かと、レミリアは踵を返しかけたが、ふと思い出したように振り向いた。
「そうだわ。一区切りついたところで、休憩にお茶会でもどう?良い紅茶が入ったの」
「いいんですか?」
「いいんですか!?」
「春意だけよ、おばか」
「ぇぁっ!?」
美鈴の希望に満ちた笑顔が、途端に悲嘆の表情へと切り替わって固まった。奇声をあげ硬直し、今し方まで宿っていた目の光はすっかり失せている。
「……私、留守番ですか?」
「客人をもてなすのは当然でしょう。門番が持ち場を離れてどうするのよ」
「それは、そうですけど……
美鈴は見るからに肩を落とした。春意への指導は、これといった謝礼などを受け取っている訳ではなく、その為これまでの師としての教授は仕事の内に入らない。よって、休憩を宛てがう必要も無いという道理である。
春意が申し訳なさそうに口を開く。
「あの、レミリアさん。美鈴さんも一緒では駄目ですか?」
「しゅ、春意君……!」
自分が手を煩わせたと言うのに、何食わぬ顔で自分一人、優雅なティータイムを送る事は憚られたのだろう。春意が控えめに手を挙げると、美鈴の目に希望の光が再び宿った。
「駄目。誰が門を守るの?」
「確かに」
「えっ!?納得早!?」
「ごめんなさい。言うだけ言ってみましたが、流石に駄目でした……」
「敗北前提だったんですか!?」
咲夜が咳払いと共に、口元へ手を添えた。どうやら笑いを堪えているらしい。
項垂れる美鈴を尻目に、レミリアは春意へ手招きした。
「さあ、行くわよ。咲夜」
「はい、お嬢様」
「あぁー……そ、その、行ってきますね……?」
門の中に入り、中庭の方へと歩き出すレミリアと咲夜の背を、春意は未だ項垂れる美鈴と交互に見た。段々と二人が遠ざかっていく為に、仕方なく踵を返す。
「春意君、休憩が終わったらまた来ますか?」
「え、あ、はい」
「紅茶とお茶請け、感想聞かせてくださいねぇ……」
「お、お任せを……」
潤んだ瞳で唇を噛み締めながら見送る美鈴、その視線を痛い程に背に浴びながら、春意はレミリア達の後に続いた。
紅魔館の門番にして尊敬すべき武術家、そして頼もしい師にしてどこか不憫な人。それが春意にとっての紅美鈴であった。
紅魔館の開放感ある中庭には、ガーデンパラソルの下に白い円卓が据えられていた。周囲には手入れの行き届いた花壇が並び、花々が色とりどりに咲いている。
春意が席へ着くと、咲夜が銀の茶器を運んできた。磨き上げられた銀器が陽光を反射し、卓上へ淡い光を落とす。
「こちらが、ブルーエで香り付けしたアールグレイです」
咲夜はそう告げ、春意の白磁のティーカップへ、次に対面に座るレミリアのカップへと紅茶を注いだ。琥珀色の液体から、芳醇な香りが立ち上る。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
春意はソーサーからカップを手に取り、鼻腔に寄せ回すように揺らして、まず香りを楽しんだ。ミルクも砂糖も介在しない茶の香り、その内に僅かなフローラルが漂う。そして、一口。
「……美味しい」
感想を宣うつもりだった訳でなく、ただ思わず声が漏れた。レミリアも一口啜った後、得意げに頷く。
「でしょう?」
「ええ。華やかな香りですけど、味わいは繊細……口当たりが柔らかくて、とても上品ですね」
「ふふん。なかなか分かっているじゃない」
「お嬢様が選ばれた茶葉ですから」
咲夜が静かに一言を添えると、レミリアはますます得意げになった。
春意はもう一口紅茶を飲み、卓上に並べられたクッキーへ目を向ける。 縁には薄く砂糖が振られ白く煌めき、表面には刻んだアーモンドが覗いている。
「こちらもいただいていいんですか?」
「もちろん。そのために用意したのよ」
「サブレディアマンです、どうぞお召し上がりください」
「では、有難く……」
春意は一つ摘まみ、口へ運び咀嚼した。食感は軽く、一度噛めばそれだけで全体が崩れる絶妙なバランス。続いて、バターの甘い香りと、アーモンドの味わいが口内に広がった。
「ん、これも美味しいですね!アーモンドが良いアクセントになって、食感まで楽しいです」
「咲夜が焼いたのよ」
「本当に凄いですよね、何でも作れるんですから」
美鈴に師事する関係上、このように茶会に招かれる事は過去何度かあった。ある時は苺のギモーブ、ある時はレモンタルト、ある時はプレッツェルなど、多様な茶請けが供されたものである。
「お褒めに預かり光栄ですわ」
「洋菓子作り、僕もやってみたいんですけど……なかなか材料が揃わないですねぇ」
「無理もないわ。私達も独自のルートがあればこそ、だもの」
レミリアは平然とそう言ってのけるが、春意もそれがどのようなルートなのかは知らない。気にはなったが、何となく詮索するのも気が引けた。
「ところで、御師の仕事はどう?始めたばかりだと聞いたけれど」
カップをソーサーに置いたレミリアが、そう尋ねる。喉元を過ぎた紅茶の余韻を楽しんでいた春意だったが、その問いに同じくカップを置いた。
「お陰様でこの間、早速初仕事を頂けました」
「へえ。何を頼まれたの?」
「薬草の採集です。里の薬種問屋の方と一緒に、山へ行ってきました」
「薬草?」
「はい。色々と教えていただきました。知らない植物も沢山あって、とても勉強になりましたよ」
それから、春意は嬉しそうに語った。連銭草の葉の形。アケビは蔓こそが生薬になること。採集の際には根を取り尽くさないこと。そして、薬種問屋の主人がいかに誠実な人物であったか。
レミリアは頬杖をつき、興味深そうに耳を傾けていた。
「……それで、帰り際にはまた依頼してくださると仰っていただけたんです」
「なるほど。上々の滑り出しというわけね」
「はい!」
春意は満面の笑みを浮かべた。レミリアはその顔を眺め、ふと首を傾げる。
「でも、薬草を採るくらい、博麗の御師なんて大仰な肩書きの相手に、わざわざ頼む事かしら」
「最初は僕も、安さを売りにはしてたんですけどね」
春意は苦笑を滲ませる。最初は安さで惹かれた筈の平田が、終いには安すぎるとまで言った事を思い出していた。
「ただ、僕なら荷物を沢山運べますし、道中で妖怪に出会っても、ある程度は対応できますから」
「ある程度、ねえ」
レミリアが含みを持たせて微かに笑う。
「実際、妖怪には出会わなかったの?」
「出会いましたよ」
「……あら?」
「ルーミアさんという妖怪です。レミリアさんのような、力のある妖怪という訳ではないですが……僕らを食べたがってましたね」
「そりゃあ、私に比べたら弱いでしょうけど。とはいえ人喰い妖怪だもの、並の人間には恐ろしいわよね」
レミリア程の妖怪が、常人が妖怪に遭遇した際の様子を正確に想像できている、というのも可笑しな話であった。
「それで、どうしたの?」
「腕相撲をしました」
「は?」
「腕相撲です、腕を押しあって倒した方が勝ちのアレです」
言い終えると共に、茶会には一時沈黙が落ちた。レミリアは赤い瞳を丸くして、春意を見つめた。咲夜も、茶器を持ったまま動きを止めている。
「腕相撲?」
「はい」
「その妖怪と?」
「ええ」
「どうしてそうなったの?」
「勝負に勝ったら、その日は人を襲わないと約束してもらえたので」
レミリアはしばし無言で春意を見つめた。
「……あはっ」
小さな笑い声が漏れる。それは瞬く間に大きくなり、ついにはレミリアが腹を抱えて哄笑し始めた。
「あはははっ!腕相撲!人喰い妖怪と腕相撲ですって!」
「そ、そんなにおかしいですか?」
「おかしいに決まっているでしょう!何なのその発想!」
春意は困ったように頬を掻いた。レミリアの言い分は至極当たり前の事である、それは彼も理解しているからこそ、否定は出来ない。
「争わずに済むなら、その方がいいと思ったんですけど……」
「それで腕相撲を持ちかけるのが、いかにもあなたらしいわ!」
レミリアはひとしきり笑い、目尻を指で拭う。何度か顔を合わせてきた中で、彼女の斯様な破顔ぶりを見た試しが無かった春意にしてみれば、こんな風にも笑うのかと驚きがあった。
「はぁー……それで?勝ったんでしょうね?」
「はい。二回やって、二回とも」
「うふふふ、でしょうねえ」
燻っていた火種が息を吹き返すように、レミリアはまた愉快そうに笑った。ツボにはまったという奴であろう、 まだ彼女の口角は上がったままである。
「その妖怪も災難だったわね」
「そうでしょうか?」
「そうよ。まさか人間の子供に腕相撲で負けるなんて、思ってもいなかったでしょうから」
春意の脳裏に想起されるのは、ルーミアの膨れっ面、そして恨めしげな上目遣いだった。
「確かに、随分と悔しそうでした」
「ふふ、目に浮かぶようね」
レミリアは紅茶を一口、続けて二口と啜る。芳香が次第に彼女の愉楽を落ち着け、ほう、と深い吐息を零した。そして、杯を置いてから静かに続けた。
「でも、春意。ひとつ覚えておくといいわ」
「はい?」
「妖怪は人間とは違う。あなたが善意をもって接したからといって、向こうも善意で返してくれるとは限らないわよ」
赤い双眼を春意のそれと真っ直ぐに交わしつつも、飽くまでレミリアは、何でもないことのように言った。その言葉に忠言の趣は無く、純粋な人外としての率直さがあった。
「それは……分かっているつもりです」
否定しようもないが、同時に肯定も出来なかった。妖怪との関わり合いなど、それこそこの紅魔館の面々を含めても、僅かなものである。高説を語れるような見識など、未だ持ち合わせていない。
「だから、あのときも相手の様子を見てから話しかけました。もし話が通じそうになければ、別の方法を考えていたと思います」
「へえ?意外と慎重じゃない」
「依頼主の方も一緒でしたから。僕一人ならともかく、他の人を危険に晒すわけにはいきません」
春意は少し考えてから、言葉を続けた。
「ただ……話が通じる相手なら、まずは話してみたくて」
「どうして?」
「その方が、僕は嬉しいので」
あまりに率直な答えだった。博麗春意という少年ならばと、もう少々捻りのある回答を返すと予期していたレミリアは、一瞬言葉を失った。
「殴り合って終わるより、話しあって、また会ったときには挨拶なんて出来たら、後味も良いのになぁ……とか」
「……ふうん」
レミリアは頬杖をつき直し、何かを思惟するように目線を斜め上に外す。
「随分と欲張りなことを言うのね」
「そうでしょうか?」
「そうよ。敵を退けるだけでは飽き足らず、友達にまでなろうというんでしょ」
春意は少し驚いたように瞬きをして、それから照れ臭そうに笑った。
「……そう言われると、確かに強欲かもしれません」
彼の中に無かった、自らが強欲であるという現実。常人ならば断念する事を、それでも希い実現させんとする意識は、確かに足るを知らぬとも言えよう。
レミリアはそんな彼を眺め、楽しげに口元を綻ばせた。
「でも、嫌いじゃないわ。そういうの」
「本当ですか?」
「少なくとも、見ていて退屈はしないもの。それに、強者とは我儘を押し通してこそ、よ」
そう言って、レミリアは再び紅茶を口に運んだ。飲み終えて空いたカップの中に、咲夜が静かに茶を注ぎ足す。
その所作を眺めていた春意は、ふと思い出したように口を開いた。
「そうだ、咲夜さん。先ほどの手合わせ、どうでしたか?」
「どう、と仰いますと?」
「咲夜さんも体術に心得がある、と美鈴さんに伺いまして。もし助言など頂けたら、と」
咲夜は微かに目を見開き、人差し指を顎に添えて熟慮を始める。以前見た春意の動きと、先程見た春意の動きを頭で比較しているのだろう。
思いの外真剣に考えさせてしまったな、という申し訳なさを覚える春意に、咲夜は瀟洒な笑みでもって応えた。
「まず、以前と比べて足運びが随分と良くなっています。攻撃に移る際も、動きに体が振り回される事は少なくなりました」
「ありがとうございます」
「ただ、相手の動きに合わせすぎる点は、まだ課題かと」
「合わせすぎる……?」
「ええ。美鈴の動きをよく見ているのは結構ですが、逆に見てから対応しようとする場面が多いように思います」
春意は真剣な顔で耳を傾けた。言われてみれば、身に覚えのある指摘である。身体能力を抑えての手合わせとはいえ、どうしても反応速度等に頼ってしまうきらいがあった。
「相手の動きに反応するだけでは、どうしても後手に回ってしまいます。自分から流れを作るというのは、例え専守防衛を是とするにしても重要です」
「……なるほど」
防戦に徹するにも、状況を好転させる為の契機を作る行動は、積極的に起こすべし。春意は得心し、小さく頷く。
「そう考えると、僕はまだ美鈴さんに動かされてばかりですね」
「あれで腕前は確かですから。門番としてはノーコメントですけれど」
咲夜の言葉には、同僚に対する確かな評価と親しみ、それと同等の皮肉が込められていた。レミリアが呆れた様子で、横から口を挟む。
「どうせ良い天気だからって、今日も春意が来るまで居眠りしてたんじゃないの?」
「…………ノーコメントでお願いします」
「答えてるわそれ」
遠くで、誰かの嚔が聞こえた。僅かな沈黙が訪れた後、三人は顔を見合せて笑った。