賑わう中央通りからそれなりに離れると、昼下がりの里といえど、鳥の囀りや落ち着いた話し声が聞こえる程度で、静かなものである。
春意はその心地よい静寂の中を、腕を組んで歩いていた。
「うーん、これも立派な仕事ではあるけど……」
懐には、博麗神社で祈祷を施した神札が幾枚か収められている。今日も今日とて、朝からこれを携えて里中を歩き配り、御師として仕事を始めたことを触れ回った。初めて顔を合わせる者にも、昔からの知り合いにも、困り事があれば是非声をかけてほしいと頭を下げた。
反応は悪くなかった、と彼自身では思っている。それでも、実際に仕事を頼んでくれる者がいるかどうかは、また別の話だった。平田の依頼をこなして以降は、幾許かの雑用を頼まれたばかりである。
それが昨日、新たな依頼が舞い込んだ。喜ばしいことには違いない。ただその依頼というのが、意気込むには少々、平生の彼に馴染みがありすぎていた。
「春意さん!」
呼び声に俯いていた顔を上げると、店先に立つ一人の少女が手を振っていた。紅白の市松模様の小袖に緑のスカート、頭の両端で結った樺色の髪が目を引く。
春意の目的地であった貸本屋、鈴奈庵の一人娘、本居小鈴である。
「こんにちは、小鈴ちゃん」
「こんにちは。今日はよろしくお願いしますね」
「うん。こちらこそ」
春意は微笑んで応じたものの、内心釈然としないものがあった。
何しろ、鈴奈庵の手伝いなら今までにも幾度となくこなしている。そのいずれも客として来た身であったが、この小鈴が小さい体で懸命に本を抱えてるのを見兼ねて、といった理由で個人的に手を貸していた。
蔵から本を運び出す、店主の持って帰った本を片付ける、春意にとっては馴染み深い手伝いである。それが今日は、御師として正式に請け負う仕事になるという。
「どうかしました?」
「いや……何でもないよ」
「変な春意さん」
小鈴は首を傾げたが、すぐに店の中へと入った。その後に続いて店内に踏み込んだ春意の鼻腔を、古びた紙の仄かな甘い匂いが擽る。
薄暗い内部には、背の高い本棚が整然と配置され、その中に所狭しと多様な本が並んでいた。同時に、その傍らには無造作に積まれた本が、紐で束ねられて床に置かれている。
「お父さん、春意さんが来たよー」
小鈴が声を張って呼びかけると、暖簾の奥から小さく返事が聞こえ、暫くすると鈴奈庵の店主が姿を現した。茶褐色の着流しを纏った中肉中背のその男こそ、小鈴の父である。
「やあ、春意君。わざわざすまないね」
「いえ。本居さんにはいつもお世話になっていますから」
丁寧に頭を下げる春意に本居は、こちらの台詞だよ、と言って笑った。外の世界の本を主に取り扱う珍しい貸本屋として、独自の顧客を開拓する隙間産業のこの鈴奈庵だが、とはいえ利益の程はぼちぼちといった所である。
寺子屋時代から足繁くここに通っていた春意は、正しくお得意様と言えよう。
「小鈴から聞いたよ。御師を始めたんだってね」
「……ふふ、とっくに知っていたのでは?」
含蓄のある春意の言葉に、小鈴が目を瞬かせる。対して本居は、目を逸らして頬をかいた。
「え?どういうこと?」
「俵差し大会で数えろと声を上げて、カウントを再開させてくださったの……あれ、本居さんですよね」
「え!?」
「うーむ、気付いていたのかい」
苦笑する本居だが、その割には気まずい様子はない。彼にしてみれば、単に外回りの最中、気まぐれで寄った広場に見覚えのある姿を見かけ、眺めていたら声を掛ける必要があったから声を掛けただけである。
感謝される程の事をしていないから、わざわざ明かす必要もないと思っていた。
「聞き慣れた声でしたから」
「お父さん、なんで教えてくれなかったの!?私なんて、昨日たまたま本人に会えたから良かったものの!」
「小鈴がお得意様を贔屓して、何件も依頼してしまうかと危惧してね」
「しないよ!ていうかそんなお金ないよ!」
愛くるしくも憤りを示す小鈴に、春意は思わず笑ってしまった。
本居も一頻り笑うと、咳払いを一つして仕切り直した。
「で、だ。今日は少し大掛かりに配置替えと整理をしたいんだ。重い本箱もあるし、私も別の仕事が入っててね。君の手を借りられるなら、正式に依頼する価値があるというものさ」
「ありがとうございます。力仕事ならお任せください」
今までの手伝いでもその片鱗は見せていたが、それにしてもあの大会で披露した膂力は、本居の想定を超えたものだった。
春意とて、そのように博麗の御師が見出される事を望んだが、それにしても思わぬ所で実を結んだ形である。
「ところで春意君。小鈴から聞いたんだが、今回のお礼は本を何冊か、という話だったね」
「はい。料金分だけ、小鈴ちゃんに選んでもらうことにしました」
「ふむ。ではもし作業中に気になる本でもあったら、試しに小鈴に聞いてみるといい。これでも商品の値打ちは分かってるからね」
「これでもは余計!」
再び本居と春意は笑った。小鈴はむくれてそっぽを向いてしまったが、主人は満足したらしく、小鈴に作業を任せると、帳面を手に店の奥へ戻っていった。
春意はその背中を見送り、小鈴へ向き直る。彼女もその場に春意だけになると、直ぐに朗らかな面差しを取り戻した。
「それで、今日はどこから始めたらいいかな」
「まずは蔵からですね。だいぶ買い取ったり仕入れた本が溜まってるので、全部分別しないとです」
「全部かぁ、意外と大仕事だね」
「だから春意さんを呼んだんですよ。私だって、ちゃんと適任だと思って依頼してるんですから」
小鈴は得意げに胸を張る。そんな彼女を微笑ましげに見ながら、春意は格衣の袖を腰紐で縛った。
店の裏に繋がっている鈴奈庵の蔵には、店内ともまた違う独特の匂いがあった。古い紙と木材、積もった埃の匂いである。虫籠窓から差し込む陽光だけではやや薄暗いが、それもまた味という物だろう。
蔵の中には本を保管する為の木箱が置かれ、傍らにはやはり、紐で括った本が大雑把に積まれている。ジャンルも分けられていないそれらを、春意と小鈴は一冊ずつ確認し、その都度分別していた。
「ほら、やっぱり春意さんが適任だった。力だけならともかく、本の仕分けまでちゃんと出来る人となると、そうはいないですよ」
「確かに、本を見慣れてないと時間がかかりそうだね」
横並びで会話をしながらも、互いにその手は止まらない。積まれた本を上から手に取っては表紙や背表紙、それでも足りなければ中身を流し読みし、適宜その分類に合った木箱へ入れていく。
小説・読み物、記録・図録、宗教・思想、雑誌・瓦版、その他。この大別した五種の中から更に、小説であれば一般、推理、時代物などに細分化される。春意が元来読書家であり、鈴奈庵に通っていた為に培われた素養であった。
「正にこれとか、一見何か分からないよね……」
「あー、ファッション誌。外来本じゃなきゃまず見ないですもんね」
春意が苦笑しながら手に持っているのは、表紙に女の写真が掲載された、大判の雑誌であった。
艶のある紙質と不自然なまでに美麗な印刷は、明らかに人里の文明水準には不相応な代物である。外の世界から流れ着いた本、外来本である事は明白だった。
「でも、結構借りてく人は多いんですよ。特に女性だと、外の世界の服装って気になるらしくて」
「お洒落さんが多いもんね。小鈴ちゃんも読むの?」
「なんならファッション誌を元に、袖が透けてる夏服を仕立ててもらいましたよ。シースルーって言うらしいです」
「す、透け……?どうやって……?」
「さあ?とにかく可愛いし涼しいから良いんですよ、今度見せてあげますね」
持っていたファッション誌を雑誌の木箱に入れ、また本の山に手を伸ばし、作業を再開しながらも会話が続く。小鈴もまた、流石の慣れと言うべきか、動かす手には一切の淀みが無かった。
「あ、新興宗教系。ちょっと読みます?」
「ありがとう、貰うね」
時折、このように新興宗教に関する本が見つかれば、春意が中を確認した。ぱらぱらと音を立て、頁を高速で送りながら、目を忙しなく動かす。そして最後の頁までたどり着けば、小さな吐息を零してその本を木箱に入れた。
「本当にその手の本が好きですよねぇ」
「好きというか……参考になるんだ、神社の運営の」
「信仰を集めようとは思ってるんですもんね?一応」
「い、一応って……確かに霊夢はあまり乗り気じゃないけど、僕は僕なりに神社の事を思ってだね……」
肩を落として、ぼそぼそと独言のようにぼやく春意を、小鈴は笑い混じりに慰めた。
こうした四方山話を交わしながら、作業は進んでいく。蔵の一面を覆い、足の踏み場をも制限していた本の山が、ものの一時間も経たず半分程にまで削られていた。
「……いいなぁ」
作業の最中、小鈴が不意に、一冊の本に目を落としながら呟く。何事かと春意が覗き込めば、それは外来本のカメラ雑誌の一頁に載った、晴天の下の海岸であった。
「あぁ、海。幻想郷には無いからねぇ」
「写真で見ても凄いのに、実際に見たらどうなるんだろって……春意さんは見た事ありますか?」
「小さい頃に一度だけね。その時は夕暮れ時だったけど、綺麗だったよ」
春意の脳裏を過ぎる、薄暮の白い砂浜。母の傍ら、波打ち際にしゃがみ込む幼い自分。寄せてきたさざ波が足元を洗い、伸ばした手を撫でた冷たさ。かつての記憶に思いを馳せ、目を細め懐かしむ。
「私もいつか、春意さんと海を見に行ってみたいです」「……そうだね。小鈴ちゃんにも見せてあげたいな」
思考に浸った意識を引き上げ、微笑を向ける小鈴に、同様に微笑んで応えた。
「…………さっ、再開再開!」
「だね」
慌てて作業に戻った小鈴に続いて、春意もまた本の山に手を掛ける。そして暫時、無心で本を仕分けていた折の事だった。
「ん?なにこれ?」
小鈴が首を傾げ、一冊の本を掲げているのが、春意の横目に見えた。
また何かあったのかと彼女の手元に目を向けると、それは古びて薄汚れた和綴じの書であった。
「今度はどうしたの?」
「全く知らない言語で書かれてるんですよ。絵もなんだか独特で、ちょっと不気味ですよね」
他の本とは明らかに異なる、質素で飾り気のない装丁に加え、確かにその題名は春意も見知らぬ文字で記されている。
「うーん、確かに不気味だね。たまに挟まる絵もおどろおどろしい感じ」
「なんでこんなの仕入れたのかなぁ、お父さん。珍しいっちゃ珍しいけど……」
中身を見れば、解読不能の文字を箇条書きのような様式で綴り、時折挿絵が盛り込まれたかと思えば、描き殴るように乱雑な筆遣いで、人面と思しき何かが描かれていた。
いっそ一旦捨て置くという選択肢は両者とも考えたが、然れども読書家二人が並んだなら、手を止めてでも調べてしまうのが彼等の性という物である。
「まあ、なんか不思議な魔力みたいなのを感じないでもない、かな?」
「そうだね、何らかの強い感情は伝わってくる」
そうして最後の頁まで捲り終えた時、二人の面差しが固まり、言葉がはたと止んだ。
そこに描かれているのは、鬼神の如き形相でこちらを睨めつける女の顔だった。
「……こ、怖くないですか、この絵」
「うん、明らかに今までと違うテイストだね。ちゃんと呪——」
春意が言葉を止め、矢庭に黙り込んだ。本から視線を外してはいない、寧ろ眼光鋭く注いでいながら、一言も発しはしない。ただじっと、本の中の女を睨み返すように凝視していた。
「——小鈴ちゃん、その本閉じて」
「え?」
そんな様子を不気味に思ったのだろう、小鈴は春意の様子を冗談だろうと揶揄するつもりだった。然しそれを、真剣な彼の呼び掛けが先んずる。
「な、なんですか春意さん、藪から棒に」
「それ、あまり良くない物かも。見ない方がいい」
「良くない物、って……」
今まで柔和な表情しか見せた試しがない春意だったが、それが却って、小鈴の好奇心を擽った。
彼女は、改めて手元の本を眺める。化生じみた顔は、怒りを露わにしているようで、その実どこか悲哀の情念を感じさせた。
決して達者な絵ではない、やや抽象的な顔付き。それでありながら、こうも感情を表現出来るものかと、小鈴は恐怖の中に感心をさえ抱いた。
何故だか、心を惹かれるような感覚を覚える。伝えようとしているのに伝わらない、届けようとしたいるのに届かない、この女の辛さが言葉以上に分かった気がした。
嗚呼、ほら、こんなにも涙を流して。
「え?」
ぼう、と風が起きて、周囲の埃が宙へと巻き上がる。
「……全く。ちゃんと忠告したのに、見入っちゃうんだから」
数瞬、呆けていた小鈴だが、やがて自らの手から本が消えた事に気付く。そして些か不満げなその声の方へ目を向けると、小鈴の手にあった謎の本を、いつの間にやら閉じた状態で奪い取っている春意がいた。
「……あ、あの、いま、なんか、絵が、泣いて」
「うん、泣いてたね」
「泣いてたね、って……」
震える手で、春意が摘んでいる本を指差す小鈴。見間違いではなく、確とそのつぶらな瞳には、絵の中の女が黒い涙を流す姿が焼き付いていた。
対して春意は平然と言ってのけつつ、近くに置いていた紐で本を堅く縛り始める。
「呪われた本、もしくは妖魔本って奴かな。魔理沙から存在は聞いた事あったけど、実物は初めて見たよ」
「妖魔、本……」
「ヴォイニッチ手稿みたいな代物かと思って、最初は見てたけどね。小鈴ちゃんが最後の絵を見始めた辺りで、何か嫌な気配がし始めたんだ」
解読不可能な文書は、決して存在しない訳ではない。そも、この本のような簡素な作りの本であるなら、単に個人が戯れに製本した無意味な代物の可能性もある。
しかし、今回のケースにおいては、無意味では無かったという事だろう。妖怪の記した物、妖怪が自分を記録し封じた物、それらを妖魔本と呼ぶ。
「……もし、あのまま見続けたら、どうなってたんでしょう」
「小鈴ちゃんの身に、良くない事が起こったはずだよ。少なくとも、感じた気配はそういう類のだった」
「妖怪、なんですかね、あの女の人」
「うーん、もしかしたら元人間かもしれないけど。妖怪だとしたら、文車妖妃なんてそれっぽいよね」
春意と言葉を交わすにつれ、事態を把握するだけの冷静さを取り戻しつつあった小鈴の胸中には、比例して肌が粟立つような恐怖が生じていた。
彼女自身、不気味さや底知れない魔性は確かに感じていたのだ。それは自覚していた。それでも目が離せなかった。
「私、自分でもちゃんと、言うこと聞こうって思ったんです……なのに、見るのが止められなくて……」
「……そっか。ごめんね、そういう力がこの本にあったってだけか」
春意は本を縛り終え、それを足元に置く。こうして見る分には、なんということはない、ただ価値の薄そうな古びた本に過ぎない。それが如何に意味不明な題名であったとして、中身が魑魅魍魎であるとは、誰が予見できようか。
小鈴は震える両の手を胸の前で重ねた。
「そうだ、手も大丈夫?咄嗟に本を引っ張っちゃったから……怪我とかしてない?」
「はぇっ!?」
翳りを帯びていた小鈴の表情が、瞬く間に吃驚の一色に染まる。本を奪取した際に、手を切ったりでもしていないか案じているのだろう、春意は突然小鈴の手を取って、顔を寄せじっと凝視しだしたのだ。
「あ、あ、あの春意さん!大丈夫です、痛みとか無いので!」
「そう?なら良かった、気を付けはしたけど心配で」
飽くまでもあっけらかんとして、優しく笑いかける春意。その顔を見ていると、不思議と胸中に穏やかな落ち着きが戻っていくのを、小鈴は実感する。重なった手の震えが、気付かぬ内に止まっていたからだ。
「これからは怪しい本があったら一旦ほっといて、僕がいる時に一緒に読もうね」
「……はい」
その返答に満足げに頷いて、春意は触れていた手を離した。先程までの出来事を些事のように流し、まだ残ってるね、と肩を回して意気込む様に、思わず小鈴の頬が綻ぶ。
「ほら。やっぱり、春意さんに頼んで良かった」
一度面食らった春意だったが、照れ隠しに頬を掻いた。
あれから分別を再開し、外から射す光に仄かな茜色が混じる昼八つの頃には、二人はすっかり全ての作業を終えていた。
蔵はジャンル毎に区分された木箱が整然と置かれ、塵取りで掃除までした。店内の棚に陳列された本と蔵の本を、客からの人気などを元に交換し、無事に売り出し中の稀覯本などは目に付きやすい配置となっている。
「いやはや、本当に助かったよ。本来なら、一日で終わる量ではないんだが」
「ね!だから春意さんがいいよって言ったでしょ!」
「それ何度も言ってるね小鈴ちゃん」
仕事ぶりに満足した本居は、折角だからと春意に饅頭と茶を振舞っていた。店先の洋風のラウンドテーブルを本居親娘と春意の三人で囲み、店の奥から持ってきた椅子に腰掛けている。
本来なら春意一人分のはずだったが、今度は彼の方から、折角だからと本居親子に同席を願った形である。
「では、報酬を払わないとね。小鈴、食べ終わったら選んでおいで」
「はーいっ」
大皿に並べられた饅頭を一つ摘んで頬張ると、小鈴は待ち望んでいたかのように、軽い足取りで蔵の方へと歩いていった。
春意はその背中が蔵の中に消えていくのを見届けると、徐に口を開く。
「それで……先程も小鈴ちゃんから軽く話はありましたが、妖魔本について追加でお話しますね」
「うむ……まさかその本が、そんなに危険な物だとは思わなんだ。私も読んだ筈なんだが」
本居が、春意の膝に置かれている雁字搦めの本に目を遣った。結局、一度閉じてからは殊更異変も無く、大人しいものである。
「もしかすると、特定の読み手に反応したり、なんて条件があるのかもしれません。ですから出来る対策は、基本的に読めない本は避ける……くらいでしょうね」
「そうか。その本も、味のある絵だったものだから、つい仕入れてしまったが……これからは避けねばならないね」
「妖魔本が全て有害とは限りませんが、こういう事例も起こりえますから、注意は必要ですね。差し出がましい事を言うようで恐縮ですが」
「まさか。娘を助けて貰った上に、巫女様に見せてくれると言うのに、文句なんて付けようが無いさ」
結局、この妖魔本は春意が一度持ち帰り、霊夢に相談する事に決まったのだった。お焚き上げやご祈祷など、そうした仕事は春意には出来ない。奇しくも、御師らしい御師の仕事が増えていた。
「それにしても……元来の依頼を迅速かつ的確にこなし、怪異を制し、巫女様に取り次ぎまで。改めて、今回の報酬の妥当性を、少し疑ってしまうね」
「いいんです。今はサービス価格期間中なので、名前が売れ次第、しっかり引き上げさせて貰いますから」
「ハハハ、お手柔らかに頼むよ」
露悪的な物言いをする春意に、本居は失笑する。つられて、春意も口角を上げた。
今日ここに来るまでにあった、悪い意味での脱力感を思い返し、彼は内心で自省する。仕事を選ぶ立場でもないのに、何様のつもりだったのか、と。
それ程に、本居からの好評を喜ばしく思っていた。
「お待たせしました、今回は三冊持ってきましたよ」
そんな時、小鈴が本を抱えて戻って来た。そのまま春意に手渡すと、彼はそれを卓上に置いて、上から一冊ずつ確認する。
「わ、ありがとう。どれどれ……」
一冊目の科学歳時記は、柔らかく情緒的に、季節の中の風趣を表現する随筆集。
二冊目の青蛙堂鬼談は、百物語の形式で語られていく短編集であり、湿り気を感じさせるような恐怖の描写が巧みなのだ、と小鈴が言う。
今までに教えた自分の好みを把握し、その上での選択なのだとよく分かるそれらに、春意の胸が温まった。
「……あれ?これって……」
「ふふ、気が付きました?」
ふと春意が最後の一冊を目視した時、その手が止まり、目を丸くする。
それは先程仕事中に、小鈴の指示で店先の棚から蔵に移し替えた、江戸名所図会の一冊であった。名所図会の中でも一際高い価値のある代物らしく、以前から春意が気になっていた一冊でもあり、けれど高価が故に手が出せずにいたのである。
「春意さん、度々それ見てましたから。欲しいのかなあって」
「いや、欲しかったけど……これ、明らかに報酬額を超過してるよ……?」
「あれ、そうだったっけ?お父さん」
小鈴がわざとらしく首を傾げて見せると、本居はこれといった反応を示さなかった。ただ茶を啜って、一息をつくと、名所図会の上に他の二冊を重ねる。
「さぁ、そう高い物でもなかったと思うがね。もしそうだったとしても、開業祝いという事でいいんじゃないか」
「……みたいですよ?」
小粋に笑う二人に、春意は目を落として、報酬の本を優しく撫でた。
金銭よりも依頼のハードルが低くて良いだろう。そう思って提案したこの対価であったが、結果は寧ろ、本居親子に借りを作る事になったと言える。
「ありがとう……この報酬が見合うくらい、これからも頑張るよ」
後ろめたさよりもずっと強く、彼の内に感謝の想いが溢れて止まない。
この優しさに報いる事ができるだけの、良き御師になろう。いつかこれだけの報酬が、妥当だと思って貰えるだけの。
* * *
石段を登り切り、鳥居を潜ると、夕焼けに染まった博麗神社の境内が広がっていた。
人里の喧騒からは遠く離れた、静かで長閑な空間。風が通り抜けるたびに、境内の木々がざわめくが、ただそれだけである。
否、縁側には人影が一つあった。
「おかえり。少し遅かったわね」
「ただいま。少し予定外の事があってね」
縁側に腰掛け、茶を啜っていた霊夢が、気怠げに声をかけてきた。春意は霊夢の傍まで歩み寄ると、湯呑みが二つ並んだ盆を挟んで隣に腰掛ける。幾つかの荷物があったが、先に報酬として譲り受けた三冊を自分の後ろに置く。
「はい、これお土産。巫女様にも、って本居さんがくれたんだ」
盆の横に、本居がおまけに持たせた饅頭の包み紙が置かれた。霊夢が目を輝かせ、体を寄せる。
「あら、気が利くじゃない」
「ついでにこれも」
甘味を受け取って上機嫌になりかけた霊夢の横に、今度は雁字搦めにした妖魔本を置いた。途端に、霊夢の顔から笑みがすうと消える。代わりに、胡乱な目でその本を睨みつけた。
「……ちょっと春意、何これ。なんか気味が悪いんだけど」
「鈴奈庵の蔵から出てきたんだ。曰く付きみたいだから、被害が出る前に引き取ってきたよ」
霊夢はこれ見よがしに深々と溜息を吐いた。
「あんたねえ……せっかく働いてきたと思ったら、またこんな面倒くさそうなものを拾ってきて……」
「ごめんごめん。でも、小鈴ちゃんが怪我でもしたら寝覚めが悪いでしょ?お祓いとか封印とか、霊夢ならパパッとできるかなって」
「そりゃ出来るけど、私だってタダ働きは嫌なのよ」
文句を言い放つと、霊夢は甘味の包みを解き、一つ口へ運んだ。じっと自らを見つめる春意を意に介さず、じっくりと味わい、飲み込む。
そして湯呑みに残っていた茶を呷ると、ふうと吐息をついた。
「……ま、甘味の代金分くらいは診てあげなくもないけど」
「ふふ、ありがとう。やっぱり頼りになるね、霊夢は」
「調子のいいヤツ……ほら、お茶淹れてあるから飲みなさい」
霊夢が顎で急須をしゃくった。春意はそれを手に取り、自分の分の湯呑みに茶を注ぐ。温かい茶が喉を通り、体を解すように染み渡っていく。
横を見れば、呆れた顔をしながらも饅頭を頬張る霊夢がいる。
「美味しい?」
「悪くないわよ」
ぶっきらぼうな返事に、春意は可笑しそうに目を細めて、それから饅頭を一つ摘んだ。
明日もきっと、里を歩くだろう。未だ旧知の間柄に由来する依頼しか得られぬ身、なれど決して焦りは無かった。こうして、小さくとも一歩ずつ前進できる、それもまた幸せだったからである。
沈みゆく夕日を眺めながら、春意はもう一度、温かい茶を啜った。
ぼちぼち話のストックが切れて参りました