だがその軍港へは、四十日前に一隻の原子力潜水艦「海嶺」が送り出されていた。艦長の鷹野は、共和国で最も「見つからない」男だ。彼は、偽の命令で味方が沈められた過去の教訓から、電波で届く中止命令をすべて敵の欺瞞として退ける。
攻撃予定時刻まで、あと十一日
講和の報せは、雨の日に来た。
湊浦基地の岸壁で白潮の補修を見届けていた氷室透のもとへ、伝令の水兵が駆けてきた。作戦部長がお呼びです。すぐに、と。
氷室は庁舎の階段を上り、作戦部長室の扉を叩いた。二回叩いて、一拍置いて、もう一回。
「入れ」
石動少将は窓際に立っていた。振り向いた顔に、わずかな笑みが浮かんでいた。
「その叩き方、まだ抜けないか。鷹野の癖だな」
「十年も叩き込まれましたので」
「その鷹野の話だ。座れ」
石動は机の上に一枚の海図を広げた。
「今朝六時、講和条約が調印された。三年の戦争が終わる。ただし、条件がひとつある」
指が、連邦本土の北岸を叩いた。ヴェルスク軍港だった。
「連邦側の条件は、ヴェルスクが攻撃されないことだ。四十日前、我々はそこへ海嶺を送り出した。攻撃予定時刻は、十一日後の午前六時」
「中止命令は」
「送った。送り続けている」石動は首を振った。「だが三日前、認証体系に漏洩の疑いが出た。海嶺は封印された鍵と照合できない命令には従わない。そう教えたのは我々だ。君の兄上の艦が沈んで以来な」
朝凪事件。偽の浮上命令に従った潜水艦が、浮上したところを撃沈された。乗っていた七十一名の中に、氷室の兄がいた。
「海嶺の鍵と照合できる予備の鍵は、この世に一組しかない。君に、それを届けてもらいたい」
石動は、机の上に黒い金属の箱を置いた。
「なぜ白潮なのですか。あれは退役寸前の通常動力艦です」
「理由は三つある。低速なら、白潮はうちで一番静かだ。二つ目に、試作の兵装を積んである。三つ目は、君が鷹野を一番よく知っているからだ」
扉が開き、二人の人物が入ってきた。
一人は、灰色の作業服を着た小柄な女だった。技術研究本部の真壁遥技官と名乗った。
「音響迎撃装置、鳴神の開発責任者です。白潮の艦首に、急造の一基を積みました」真壁は率直に言った。「先に申し上げておきます。蓄電池で撃つ鳴神は、本来の姿ではありません。本命の艦は、まだ海に出られる状態ではない」
もう一人は、連邦の軍服を着た背の高い女だった。
「エレナ・ヴォス中佐。連邦の講和連絡将校です」彼女は完璧な共和国語で言った。「私が乗ることが、連邦の海を通過する条件です。条約文を書いた席に、私もいました」
「ご同乗を歓迎します、中佐」
「歓迎されないことは承知しています」
石動が箱を氷室の前へ押し出した。
「十一日だ、氷室。鷹野を止めてくれ」
白潮は、その夜のうちに湊浦を出た。
乗員は六十三名だった。定員より少ないのは、艦首の鳴神と、その電源のために増設した蓄電池が、兵員室をひとつ潰しているからだ。
「艦長、コーヒーです」
副長の三好大尉が、発令所にマグを二つ持ってきた。ひとつを氷室に渡し、もうひとつを、海図台の隅に立つエレナに差し出した。
「……私にも?」
「この艦では、乗っている人間は全員乗員です」三好は笑った。「娘に言われたんですよ。お客さんには優しくしなさいって」
三好の寝台の上には、クレヨンで描いた潜水艦の絵が貼ってあった。煙突から煙を出して、空を飛んでいる潜水艦だった。
エレナは少し迷ってから、マグを受け取った。
深夜、当直を終えた氷室が士官室に入ると、エレナが一人で条約文の写しを読んでいた。
「眠れませんか」
「あなたの国の艦長のことを考えていました」エレナは顔を上げなかった。「本物の講和命令を、偽物だと信じて撃つ。それは、誠実さの形としては正しいのでしょうね」
「ええ。だから厄介なんです」
「私の国にも、そういう艦長がいます」エレナはようやく氷室を見た。「北方対潜戦隊のコルヴィッツ大佐。講和の報せは、彼にも届いているはずです。でも彼は、共和国の潜水艦を見たら撃つでしょう。本国の命令が本物だと、自分で確かめるまでは」
氷室は黙ってうなずいた。
戦争は、終わった場所ではなく、届いた場所で終わる。そして届くまでのあいだ、戦争はどこでも続いている。
出港から三日目、白潮は連邦の海に入った。
「発令所、ソナー。方位二一〇、スクリュー音、二軸。水上艦、フリゲート級。……続いて回転翼音。ヘリです」
先任ソナー員の桐生曹長は、三十年近く海の音だけを聴いてきた男だった。
「着水音。吊下ソナー、投入されました。距離六千」
「深度百八十。躍層の下へ」
白潮は静かに沈んでいった。水温躍層の境目で、音は曲がる。その下に潜れば、上からの音は届きにくくなる。
ヘリの吊下ソナーが、海を叩いた。一回。二回。三回目で、その音の間隔が変わった。
「探知されました」
「着水音! 魚雷一、ヘリからの投下。続いてフリゲートから発射音、魚雷一」
「鳴神、起動」
迎撃管制席の早瀬二曹が、試作装置の主電源を入れた。艦内の照明が目に見えて暗くなった。
艦首に並ぶ千二百の送受波素子が、音を一点に束ねる。焦点の海水は圧力に耐えきれずに裂け、生まれた泡が潰れるときの衝撃波が、魚雷の頭部を内側から叩き割る。
真壁技官はこれを「魚雷を音で殴り殺す装置」と呼んでいた。有効射程は千五百メートル。一撃ごとに、白潮の蓄電池が削れていく。
「蓄電池残量、七十一パーセント。目標A、距離千五百。射程内」
「撃て」
ずん。
巨大な拳で、船体を内側から殴られたようだった。
「目標A、撃破。……目標B、射程内」
ずん。
「目標B、撃破」
発令所に、どよめきが広がった。実戦で鳴神を撃ったのは、これが世界で初めてだった。
「蓄電池、五十九パーセント」
たった二発で、一割以上が消えていた。
「浮上して話はできないのですか」エレナが言った。「私が無線で名乗れば――」
「浮上した潜水艦がどうなるか、我々は知っています」
エレナは、それ以上言わなかった。
白潮は躍層の下を這うようにして、フリゲートの探知圏から抜け出した。だが、氷室にはわかっていた。一度見つけた獲物を、コルヴィッツという男は諦めないだろう。
四日目の夜明け前、海が騒がしくなった。
「フリゲート三。距離一万二千、扇形に展開。……それとは別に、小型の推進音、多数。無人潜水艇です。十、いや、十二」
「囲まれるな」三好が海図を睨んだ。「北東の大陸棚へ出るしかありません。浅いですが」
「行け。蓄電池は」
「四十四パーセント。充電の機会がありませんでした」
無人艇の群れが、アクティブソナーで海を叩き始めた。四方八方から響くその音は、獣の群れが吠え交わしているようだった。
「発射音、多数! 魚雷四……六! 全周から来ます!」
「鳴神、各個に撃て」
ずん。ずん。
「目標A、B、撃破」
ずん。
「目標C、撃破。蓄電池、三十一」
ずん。ずん。
「D、撃破。E……焦点外れ! 再照準――」
「撃て」
ずん。
「E、撃破。蓄電池、十四パーセント。……艦長、電圧が落ちています! コンデンサが充電できません!」
「目標F、距離八百」
鳴神は沈黙していた。白潮にはもう、魚雷一本を殴り殺す力も残っていなかった。
「デコイ、発射。取舵いっぱい、全速」
旧式艦の最後の加速は、ひどく遅かった。
「距離三百……二百……」
衝撃が、艦尾から来た。
氷室は床に叩きつけられた。照明が消え、非常灯の赤が点いた。後部から、水の轟音が聞こえた。
「機関室、浸水! 推進軸破損!」
「後部隔壁、閉鎖急げ!」
白潮は、尾を下にしてゆっくりと沈み始めた。深度計の針が回っていく。百。百五十。……大陸棚の海底に、艦尾から着底した。深度百十二メートル。
後部隔壁の向こうで、誰かがハンドルを回していた。水圧に逆らい、少しずつ扉を閉めていた。
隔壁の窓越しに、三好の顔が見えた。胸まで水に浸かっていた。
「三好!」
三好は、閉まりかけた扉の隙間から氷室を見て、少し笑った。そして、内側から最後の一回しを回した。
扉は閉まった。
それから二時間、氷室は脱出の指揮をとった。救命服を着た乗員を、一人ずつ脱出筒から海面へ送り出していった。最後に残ったのは、氷室と桐生と、エレナだった。
「中佐、お先に」
エレナは首を振った。「あなたの艦です。あなたが最後に出るべきです」
氷室は、黒い金属の箱を救命服の内側に縛りつけた。最後に発令所を振り返った。赤い非常灯の下の、空の発令所だった。
海面は、夜明けの色をしていた。
六十三名のうち、浮上できたのは三十一名だった。
救命筏の上で、早瀬が膝を抱えて震えていた。桐生は黙って海を見ていた。エレナは、濡れた髪のまま、筏の縁を強く握っていた。
「……鍵は」
「ここにある」氷室は胸を叩いた。「あと七日だ」
だが、それを届ける艦は、もうどこにもなかった。
昼過ぎ、筏のそばの海が盛り上がった。
最初に見えたのは、艦橋だった。白潮の倍はあろうかという黒い塔が、海面を割って現れた。続いて、鯨の背のような船体が浮かび上がる。それは、見えている部分だけでも白潮よりはるかに長かった。
筏の上の誰もが、息を呑んだ。
「……連邦のか」早瀬がかすれた声で言った。
「いや」桐生が言った。「あれは、音がしなかった。浮上するまで、まるで聞こえなかった」
艦橋のハッチが開き、灰色の作業服の小柄な人影が顔を出した。
「氷室艦長!」真壁遥だった。「お待たせしました。本命です」
遠雷。
それが、その艦の名だった。
「白潮が出港した二日後に、石動少将の独断で出しました」艦内の通路を歩きながら、真壁が言った。「公試は終わっていません。乗っているのは試験乗員の五十二名だけ。それでも、白潮一隻に任せるよりはましだと」
通路は広く、足音がしなかった。床が浮いているような、奇妙な感触があった。
「全ラフト構造です。機器を載せた床ごと、防振材で船体から浮かせてあります。居住区も、戦闘司令室も、計算機室も、このラフトの上にある。後ろの区画のタービンとモーターも、同じように浮かせてあります」
「全長は」
「百三十メートル。直径十五。水中排水量は二万トン。耐圧殻は百八十ミリのチタン合金です」
白潮の三倍近い巨体だった。
真壁は、艦の構造を前から順に説明した。
第一区画は、耐圧殻の外にある非耐圧区画だ。そこに、艦首の鳴神二型の送受波素子と、コンデンサバンクが収まっている。
第二区画は全ラフト構造で、リチウム電池の電池群と居住区、戦闘司令室、計算機室が入っている。
第三区画は魚雷庫である。左右の斜め前方に向けて、八百八十ミリの大口径発射管が八門ある。搭載する魚雷は百五十本。
「百五十本」氷室は繰り返した。
「本来は、艦隊ひとつぶんの戦争をする艦ですから」
第四区画は炉室だった。
「純鉛冷却の高速炉です。熱出力一・五ギガワット」真壁は、分厚い隔壁を軽く叩いた。「ポンプを止めても、自然循環だけで冷やせます。炉心を回しながら、ポンプの音を消せる」
第五区画には、超臨界の二酸化炭素を使うタービンと発電機、熱交換器、それに補償型パルス発電機が並んでいた。熱効率は四十パーセント。取り出した力は、すべて電気に変わる。
第六区画は、超電導モーターとポンプジェットだった。
「発電量は六百メガワット。巡航に使うのは、その一割にもなりません」真壁は言った。「残りは全部、鳴神のためです。パルス発電機とコンデンサで貯めて、艦首から一気に吐き出す。白潮の蓄電池は十発で干上がりました。遠雷は、炉が止まらない限り撃ち続けられます」
氷室は、しばらく黙っていた。
「……白潮が、この艦の実験台だったわけか」
真壁は目を伏せた。「白潮の戦闘記録は、全部こちらで受信していました。鳴神の実戦データとしては、あれ以上のものはありません」
三好の顔が浮かんだ。閉まっていく扉の隙間の、少し笑った顔だった。
戦闘司令室には、試験乗員の長である久我少佐が待っていた。四十手前の、痩せた男だった。
「石動少将から命令が来ています」久我は紙片を差し出した。「遠雷の指揮を、氷室少佐に移譲する。……超長波でです。任務中止の命令ではありませんから、我々はこれを信じる」
「不満か」
「正直に申し上げれば」久我は氷室の目を見た。「この艦は、白潮と同じ戦い方をするために造られたのではありません」
「わかっている」氷室は言った。「白潮が沈んだから、ここにいる」
久我は、しばらく氷室を見つめていた。それから、踵をそろえて敬礼した。
「副長として、お仕えします」
司令室の中央の卓に、柔らかな光が灯った。
「戦闘支援AI、オモイカネです」静かな合成音声が言った。「氷室艦長、指揮権の移譲を確認しました。本艦は最少一名で操艦可能です。ただし、その運用を推奨はいたしません」
「推奨しない理由は」
「一名では、判断を誤ったときに止める者がいないからです」
氷室は、思わず小さく笑った。
「白潮の生存者を、全員配置につける。桐生曹長はソナー室、早瀬二曹は鳴神の管制だ」
早瀬が顔を上げた。まだ目が赤かった。
「……自分で、いいんですか」
「世界で一番、鳴神を撃った人間だろう」
エレナが、司令室の入口に立っていた。
「中佐。あなたの席も用意させます」
「乗員として、ですか」
「この艦では、乗っている人間は全員乗員です」
それが三好の言葉だと気づいて、氷室は一瞬だけ口をつぐんだ。
「残りは六日だ。——潜航する」
遠雷の耳は、白潮とは比べものにならなかった。
船体の表面をほとんど覆い尽くした受波素子が、海のすべての音を拾う。桐生はヘッドフォンを当てたまま、三日間ほとんど眠らなかった。
「鷹野艦長なら、どこに潜む」
海図を前に、氷室は自問した。
「ヴェルスクへ巡航ミサイルを撃つなら、射程の端から撃つ。撃ったあと、すぐに深みへ逃げられる場所だ。水温躍層が厚くて、海底の地形が音を乱す場所……」
指が、一点で止まった。
「黒崎海脚だ。あの人は、演習で三度そこに隠れた。三度とも、誰にも見つからなかった」
「連邦の海の、奥です」久我が言った。「コルヴィッツの戦隊の、ちょうど真ん中を抜けることになります」
「抜ける」
八日目、コルヴィッツは現れた。
「フリゲート四、駆逐艦一。無人潜水艇、二十以上。……展開が速い。こちらを待っていました」
「白潮の沈んだ位置から、進路を読まれたか」
エレナが立ち上がった。
「水中電話を使わせてください。私が話します」
氷室はうなずいた。
エレナは受話器を取り、連邦の言葉で、ゆっくりとはっきり話した。自分の名前と階級。条約の調印の日時。条約の第四条の文言。そして、この艦がヴェルスクを守るためにここにいること。
答えは、魚雷だった。
「発射音、多数! 十二……十六! 全周!」
エレナは受話器を握ったまま、立ち尽くした。
「……彼も、確かめているんですね」
「ええ」氷室は言った。「撃って確かめる。我々と同じです」
そして、命じた。
「鳴神二型、全力。炉出力、百パーセント」
艦の奥で、何かが目を覚ました。炉の熱が超臨界の二酸化炭素を回し、タービンが発電機を回し、パルス発電機が唸りを上げた。
「コンデンサ、全系統充電完了」早瀬の声は、もう震えていなかった。「オモイカネ、目標割り当て」
「十六目標を追尾中。脅威度の順に表示します」
「撃て」
ずん。ずん。ずん。
白潮の鳴神とは、まったく違う音だった。それは衝撃ではなく、雷鳴だった。遠くの空で鳴る雷が、ずっと止まない。
「A、B、C、撃破。D、E、撃破」
ずん。ずん。ずん。ずん。
「F、G、H、I、撃破。……充電、間に合っています。炉、定格」
白潮の蓄電池を干上がらせた数を、遠雷は一分で撃ち終えた。そして、まだ撃ち続けていた。
「無人艇、突入してきます! 自爆型!」
ずん。ずん。
至近で一隻が爆ぜた。船体が大きく揺れた。
「第一区画、損傷!」オモイカネが告げた。「艦首の送受波素子、四割が応答なし。コンデンサ、一系統喪失」
第一区画は、耐圧殻の外にある。そこが遠雷の、ただひとつの弱点だった。
「残りで撃て」
ずん。
ずん。
「……全目標、撃破」
静寂が来た。
久我が、呆然と兵装盤を見つめていた。発射管八門のランプは、一度も灯っていなかった。
「一本も撃っていない」久我は呟いた。「百五十本、積んでいるのに」
「撃ったら、終わりだ」氷室は言った。「中佐、もう一度お願いできますか」
エレナは受話器を取った。
長い沈黙のあと、水中電話から、しわがれた男の声が返ってきた。
『……撃っても沈まない相手に、撃ち続ける理由はない』
コルヴィッツだった。
『ヴォス中佐。貴官の声は、講和会議の映像で聞いた。私はこれから浮上して、本国に確認をとる。確認がとれるまで、貴艦には手を出さない。……それ以上は約束できない』
「十分です、大佐」エレナは目を閉じた。「ありがとう」
通話は切れた。
エレナは受話器を置き、しばらく動かなかった。それから、小さな声で言った。
「……白潮にも、これがあれば」
誰も答えなかった。
氷室は、艦首の損傷報告を見つめていた。送受波素子の残りは六割。コンデンサは二系統。鳴神二型の有効射程は、九百メートルまで落ちていた。
攻撃予定時刻まで、あと二十一時間だった。
音は、いつも先に来る。
「司令室、ソナー。方位〇四二、注水音」
桐生の声は、いつもと変わらず平坦だった。ただ、報告がほんの半拍だけ早かった。氷室にはそれで十分だった。
「海嶺か」
「間違いありません。黒崎海脚の斜面、躍層の下。距離、推定九千」
午前三時。攻撃予定時刻まで、三時間。
鷹野総一郎は、やはりそこにいた。そして、その影が最初にしたことは、こちらに発射管を向けることだった。
当然だ、と氷室は思った。遠雷は、共和国の艦名簿にさえ載っていない。鷹野の耳には、聞いたこともない巨大な潜水艦が近づいてくるとしか聞こえない。俺でもそうする。あの人に、そう教わったのだから。
「外扉開放音。二門」
「艦長、回避を」久我が低く言った。「本艦の速力なら、振り切れます」
「振り切ったら、あの人は三時間後にミサイルを撃つ」
エレナが、手すりを握って氷室を見た。
「……撃ち返せば、条約は終わりますね」
「だから撃たない」
「発射音!」桐生の声が跳ねた。「魚雷二、航走音。目標A、Bと呼称」
「鳴神二型、起動」
「コンデンサ二系統、充電完了。送受波素子、残存六割」早瀬が読み上げた。「有効射程、九百」
九百メートル。五十ノットの魚雷なら、四十秒足らずで詰める距離だ。そこまで引きつけてから、一撃で仕留めなければならない。
桐生が振り向いた。その目がはっきりと問うていた。
鳴神を撃てば、遠雷は自分の居場所を海じゅうに叫ぶことになる。
「わかっている」と氷室は言った。「だから撃つんだ」
そして、少しだけ間を置いた。
「射撃間隔を指定する。二回撃て。間を置いて、一回。以後もそれを崩すな」
早瀬が弾かれたように顔を上げた。
「艦長、それではコンデンサが遊びます。解が出次第撃つのが最適です。素子が四割死んでいる今、迎撃の効率が――」
「どれくらい落ちる」
「……一割五分。いえ、二割」
「来るのは、たぶん四発だ」
「……ほとんど外せない、ということですね」
「一発なら外していい」
誰も笑わなかった。けれど、司令室の空気がわずかに緩んだ。
二回、間、一回。
十年前、艦長室の扉を叩く作法を、氷室は鷹野に叩き込まれた。「急ぎの用事ほど、落ち着いて叩け」というのが口癖だった。
この叩き方を知っている人間は、世界に数えるほどしかいない。
「目標A、距離二千……千五百……千……九百。射程内」
「撃て」
ずん。
ずん。
——間。
ずん。
「目標A、撃破。目標B、撃破」
遠雷はいま、海嶺に向かって、扉を叩いている。
桐生が片手を上げた。
「海嶺、再び注水音。外扉開放音、二門」
「聞こえていないのか」久我が呻いた。
「聞こえているさ」氷室は言った。「聞こえているから、確かめているんだ」
ノックの仕方くらい、敵だって調べれば真似できる。鷹野はそれを知っている。だから本物かどうか、撃って確かめる。偽物なら、どこかで必ず崩れるからだ。
あの人らしい、と氷室は思った。そう思える自分が、少しだけ誇らしかった。
「発射音。魚雷二。目標C、D。……目標D、有線誘導の兆候あり」
海嶺の発令所で、鷹野が自らワイヤーを握っている。
「目標C、射程内」
ずん。
「C、撃破。……目標D、距離千二百」
ずん。
「焦点、外れた! 目標D、変針! 深度を上げています、躍層の上へ!」
有線誘導の魚雷が、身をよじるようにして水温躍層を越えた。温度の違う水の境目で、音は曲がる。欠けたアレイの焦点が、躍層の向こうでぼやけていく。人間の手でしかできない回避だった。
「オモイカネ、屈折補正!」
「補正中。欠損素子のため、焦点の再構成に時間を要します」
「距離八百。間を詰めさせてください、艦長!」
「間隔は変えるな」
氷室は、自分の声が驚くほど静かなことに気づいた。
「方位〇三九」
桐生だった。ヘッドフォンを両手で押さえ、目を閉じている。
「深度、下がる。……いや、上がってくる。躍層の真上を這ってる。方位〇四〇。速力、上がった」
早瀬とオモイカネが、桐生の読み上げる数字を焦点計算に重ねていく。電子の耳と、三十年聴き続けた人間の耳とが、一本の魚雷を挟み込んでいった。
「距離四百……焦点、合います!」
「総員、衝撃に備え」
ずん。
世界が裏返った。
鳴神の一撃と、至近で砕けた魚雷の衝撃が、ほとんど同時に船体を打った。二万トンの遠雷が、鐘のように鳴った。第一区画から、さらに素子の損失が報告された。
「……目標D、撃破」早瀬の声はかすれていた。「撃破距離、百八十メートル」
「全弾、迎撃」
早瀬が、自分に言い聞かせるように呟いた。
「もう一度叩け」と氷室は言った。「焦点は、誰もいない海でいい」
ずん、ずん。——間。——ずん。
静寂が来た。
十秒。二十秒。
「……海嶺、外扉閉鎖音」
誰かが、ゆっくりと息を吐いた。
「司令室、ソナー」桐生の声が、わずかに震えた。「海嶺より、アクティブ送信。——送信間隔」
ぴん。
——間。
ぴん、ぴん。
一回、間、二回。
氷室は目を閉じた。十年前、艦長室の扉の向こうで、鷹野は決まって机を叩いて答えた。一回叩いて、一拍置いて、二回。
入れ、という意味だった。
水中電話が、雑音混じりに鳴った。
『——所属不明艦に告ぐ』
低く、落ち着いた、何も変わっていない声だった。
『ずいぶん乱暴なノックだな、氷室』
氷室は受話器を取った。
「ご無沙汰しております、艦長」
一拍置いて、氷室は続けた。
「——入っても、よろしいですか」
午前四時十二分、二隻の潜水艦は並んで浮上した。
夜明け前の海は、驚くほど静かだった。遠雷の甲板から見る海嶺は、ひどく小さく見えた。それでも、あの小さな艦の中にある巡航ミサイルは、一つの軍港を消せる。
「私も行きます」ゴムボートに乗り込む氷室に、エレナが言った。「条約の証人として」
氷室はうなずいた。
海嶺の艦内は、白潮によく似た匂いがした。油と、汗と、古い空気の匂いだった。乗員たちが、通路の両側から無言で二人を見ていた。
艦長室の扉の前で、氷室は立ち止まった。
二回叩いて、一拍置いて、もう一回。
扉の向こうで、机を叩く音がした。一回。間。二回。
氷室は扉を開けた。
鷹野総一郎は、記憶より少しだけ白髪が増えていた。机の上には、封印された黒い箱が置かれていた。氷室の胸にあるものと、同じ形の箱だった。
「鍵を」
氷室は箱を机に置いた。二つの箱が開かれ、二本の鍵が照合器に差し込まれた。緑のランプが灯るまでの三秒間、誰も呼吸をしなかった。
ランプが灯った。
鷹野は、艦内電話を取った。
「発令所、艦長。本艦の攻撃任務を中止する。ミサイル、安全化。繰り返す、攻撃任務を中止する」
電話の向こうで、誰かが泣き出す声が聞こえた。
午前四時三十一分。ヴェルスク軍港への攻撃予定時刻まで、あと一時間二十九分だった。
鷹野は、しばらく黙って氷室を見ていた。
「撃ってから確かめる男を、恨むか」
「あなたに教わった通りです」
「そうか」鷹野は目を伏せた。「……白潮は」
「沈みました。三好が、艦尾で隔壁を閉めて」
鷹野は、長いあいだ何も言わなかった。
「三好は、私の艦にもいた」やがて、そう言った。「おまえが副長だった頃の、一番若い水雷士だ。扉を叩くのが下手な男だった」
「ええ」氷室は言った。「最後まで、下手でした」
鷹野は、エレナのほうを向いた。そして立ち上がり、連邦の将校に向かって、ゆっくりと敬礼した。
「ヴォス中佐。貴国の港を、撃たずに済みました」
エレナは、答礼した。その手が、わずかに震えていた。
「……ありがとうございます、大佐。撃たないでくれて」
「礼なら、そこの男に言ってください」鷹野は言った。「私は最後まで、撃つつもりでした」
三週間後、湊浦基地の岸壁で、白潮の合同慰霊祭が行われた。
三十二の名前が読み上げられた。三好の名前が呼ばれたとき、最前列にいた小さな女の子が、母親の手を強く握った。その子は、クレヨンで描いた絵を一枚、胸に抱えていた。煙を出して空を飛ぶ潜水艦の絵だった。
式が終わったあと、氷室はその子の前にしゃがんだ。
「お父さんは、お客さんに優しかったよ」
女の子は、よくわからないという顔で氷室を見た。それから、小さくうなずいた。
エレナ・ヴォスは、連邦の軍服のまま、式の最後まで立っていた。帰りぎわ、彼女は氷室に一通の手紙を渡した。コルヴィッツ大佐からだった。短い手紙には、こう書かれていた。貴艦の乗員の死に、私は責任がある。いつか、同じ海の上で謝罪したい。
「受け取っていただけますか」
「ええ」氷室は手紙をたたんだ。「いつか、同じ海の上で」
その日の夕方、遠雷の揚陸作業が始まった。
公試を終えていない艦は、いったんすべての兵装を下ろし、改めて検査を受けることになっていた。クレーンが、八百八十ミリの巨大な魚雷を一本ずつ吊り上げ、岸壁へ下ろしていく。
氷室は、久我と並んでそれを眺めていた。
「数えていたんです」久我が言った。「念のために」
「何本だった」
「百五十本」
久我は、少し笑った。
「一本も、減っていませんでした」
夕日の中で、最後の一本が岸壁に下ろされた。
遠雷の艦首では、真壁の技術者たちが、焼けた送受波素子の交換を始めていた。あの航海のあいだ、何度も扉を叩き続けた、傷だらけの拳だった。
氷室は、艦長室へ戻った。机の上に、石動少将からの辞令が置かれていた。遠雷艦長に任ず。
扉が鳴った。
二回。一拍置いて、一回。
氷室は、少し笑ってから、机を叩いた。
一回。間。二回。
「入れ」
扉が開いた。早瀬が、真新しい遠雷の制帽をかぶって、少し緊張した顔で立っていた。
「艦長。——次の航海の話を、聞かせてください」