鍋の中には灰色の塊が浮いていた。
さっきまでは液体だった。少なくとも、ルークが匙を入れたときにはそうだったはずだ。ところが今は、持ち上げると鍋の中身まで一緒についてくる。
「それ、食べられる?」
隣からベンが覗き込んだ。
「食べたいならやる」
「聞いただけだよ」
ベンは自分の鍋を少し遠ざけた。
そちらには、薄く濁っているものの、まだ液体と呼べるものが入っていた。ルークは匙を下ろす。灰色の塊は鍋底へ落ち、鈍い音を立てた。
教卓の方で、スラグホーンが誰かの薬を褒めている。大きな腹を揺らしてこちらへ歩いてきたので、ルークは教科書を見下ろした。
材料は間違えていない。量も数えた。手順を飛ばした覚えもない。だがどうだ、鍋の中には謎の塊しかない。
「さて、ウォルフ君」
立派な口髭の下から聞こえた声が、鍋を覗いたところで止まった。
「これはまた、ずいぶんと……まとまりがよくなったね」
ベンが咳をした。
ルークはそちらを見ずに答える。
「最後の材料を入れたら、こうなりました」
「ふむ。その前は?」
「黄色でした」
「黄色にもいろいろある。教科書の色見本は確かめたかね?」
「はい」
スラグホーンは柄の長い匙で表面を押した。へこんだ部分が、ゆっくり戻る。
「煮詰めすぎたようだ。次は時間だけでなく、鍋の中も見ておくことだね」
「見ていました」
「では、何を見るべきかを、もう少し覚えなくてはいかんな」
穏やかな声だった。言い返せることは何もなかった。
スラグホーンはベンの鍋へ移り、こちらはもう少し丁寧に材料を刻むようにと言った。ベンが頷いている間、ルークは教科書の色見本と鍋の中を交互に見た。
最初から灰色だったわけではない。黄色になったところまでは教科書通りだったはずだ。
授業の終わりに中身を捨てようとしたが、鍋を逆さにしても落ちなかった。ベンが底を叩くのを手伝ってくれた。
十月に入ってから、朝の石床が冷たくなった。
寮の窓から見える木々には黄色い葉が混じり、校庭を横切ると、風がローブの裾を持ち上げる。朝食の席で熱い粥を選ぶ生徒が増えた。ネッドはそれに蜂蜜をかけるが、ベンは蜂蜜を入れると何でも同じ味になると言っている。
そのベンは、トーストにジャムを二種類塗っていた。確かに他にない味になることは確かだった。
「今日も魔法薬学?」
「明日だ」
「よかった」
「お前の鍋は固まってなかっただろ」
「でも、隣から何か飛んでくるかもしれない」
ルークが手を伸ばすと、ベンは皿を引いた。
取ろうとしていたのは、その向こうの塩だった。
午前の闇の魔術に対する防衛術は、レイブンクローとの合同授業だった。
教室へ入ると、机の上に浅い金属皿が並んでいた。皿の中央には短い蝋燭が三本ずつ立ち、その間に細い黒線が引かれている。
窓際の机で、ヒューが教科書を開いていた。
ルークが近づくと顔を上げ、隣の椅子に置いていた鞄を足元へ下ろす。
「ここ、座る?」
「ああ」
ルークは自分の鞄を机の脇へ置いた。
後ろではベンが椅子を引いている。
皿の真ん中の蝋燭を指で押してみたが動かない。どうやら皿に固定されているらしい。
「それ、全部つけるんじゃないよ」
ヒューが言った。
「まだ何もしてない」
「うん。でも触ってたから」
「触ると三本つくのか?」
ヒューはルークを見てから、黒板を指した。
「真ん中だけだって」
黒板には、その通りに書かれていた。
ルークは蝋燭から指を離した。
ベンが後ろの席から身を乗り出す。
「今日は得意そうだな」
「鍋がないからな」
授業が始まると、教授は前の机に同じ皿を置いた。
杖が動き、中央の芯に小さな火がともる。炎は芯の上で揺れたが、左右の蝋燭には何も起きなかった。
「火が出れば成功、という課題ではありません」
教授は皿を持ち上げ、教室を見渡した。
「火をつけたいものの隣に、燃やしてはいけないものがあることもあります。今日はその区別をつけてもらいます。炎を大きくする必要はありません。隣の芯まで燃やした場合は、やり直しです」
もう一振りで火が消えた。
ルークは三本の蝋燭を見た。
真ん中だけ。狙う場所は小さいが、動きはしない。
教授が各列を回り始めると、あちらこちらで呪文が聞こえた。何も起きない皿もあれば、煙だけが上がる皿もある。ベンの後ろでは、誰かが自分の息でつけたばかりの火を消してしまい、隣の生徒に笑われていた。
ルークは杖を構えた。
「インセンディオ」
炎が上がった。
中央の芯を捉えたのは分かった。けれど、その上に伸びた火は思ったより幅があり、皿の左右へ広がる。気づけば三本とも燃えていた。
後ろでベンが小さく口笛を吹く。
「全部ついた」
「見れば分かる」
教授が近づいてきて、皿の火を消した。
「着火は十分です。次は、指定された一本だけに」
叱られはしなかった。ただ火をつける前と同じ皿が残った。
ルークは杖先を少し近づけて構える。今度は小さくする。さっきより抑えればいい。
二度目の炎は低かった。しかし、中央から右の芯へ火が移った。左だけが残っている。
「惜しい」
ベンが言った。
「お前は?」
「まだ全部無事」
ベンの皿には煙も上がっていなかった。
ルークがもう一度杖を上げかけたとき、隣でヒューが教科書を机の端へ寄せた。開いていた頁には、杖の動きを示す図がある。
「まだ読んでたのか」
「最後のところを確かめてた」
ヒューは袖を引き上げ、杖を握り直した。
「インセンディオ」
何も起きなかった。
後ろから覗いていたベンが、自分の皿へ戻る。
ヒューは眉を寄せたが、すぐには唱え直さなかった。教科書の図をもう一度見て、杖を持つ手を机の上で小さく動かす。
二度目に、芯の先が赤くなった。火はそこから細く伸びた。
一本だけだった。
「できた」
ヒューは顔を近づけかけ、途中で止まった。息で消した生徒のことを思い出したらしい。
代わりに、椅子を少し後ろへ引いた。
ルークはその皿を見てから、自分の杖へ目を落とした。
「今、どこを変えた?」
「最後。杖を止めるところ」
ヒューは自分の杖を持ち上げかけ、燃えている皿を見て下ろした。代わりに人差し指で、宙に短い線を描く。
「ここで止めたつもりだったんだけど、先が下がってた。それと、芯の上の方を見てたから、今度は先端を見た」
「それだけか」
「たぶん。両方変えたから、どっちがよかったのかは、もう一回やらないと分からない」
ルークは皿へ向き直った。
ヒューが横からこちらの杖を見ている。
「君は、その先も動いてる」
「先?」
「止めたあと。手首が外へ」
ルークは呪文を唱えずに、さっきの動きを繰り返した。最後に杖先が右へ流れる。今度はルークにも認識できた。
「……ここか」
「うん」
動かさないつもりで、もう一度やる。
今度は手に力が入りすぎ、杖先が細かく震えた。
「それだと、もっと動くと思う」
「分かってる」
ヒューが口を閉じた。
ルークは一度杖を下ろし、指を開いてから握り直す。
「今のも見てて」
ヒューは頷き、少し身を引いた。
教授に火を消してもらい、三度目を試す。
中央に火がついた。右の芯から薄い煙が上がったが、炎にはならなかった。
ルークはしばらく見ていた。
右の芯は黒くなっている。完全に同じ状態ではない。それでも、燃えているのは一本だけだった。
「よくなりましたね」
教授が言った。
「その大きさで十分です。次は同じことを、続けてできるように」
ルークはヒューを見た。
「動いてたか?」
「さっきより、ずっと少なかった」
「まだ動くのか」
「少しだけ」
ヒューが指先で幅を示す。
ルークはその狭い隙間を見て、自分の手首を確かめた。
ベンが後ろから覗く。
「ヒュー、こっちも見て」
「僕もまだ一回しかできてないんだけど」
「僕は一回もできてない」
ヒューは少し迷ってから、ベンの机が見えるように椅子をずらした。
ルークは自分の火を見た。
小さい。さっきの方が、火としてはずっとよく見えたが、教授が頷いたのはこちらだった。
授業が終わる頃には、ルークは三回続けて真ん中だけに火をつけられた。
四回目は右も燃えた。
ヒューはその間、一度試すたびに教科書の余白へ何か書いていた。覗くと、短い線と丸、それから小さな文字が並んでいる。
「全部書くのか」
「同じ間違いをしたくないから」
「書けばしないのか?」
「するよ」
ヒューは当然のように答えた。
「でも、忘れるよりいい」
ルークは自分の教科書を引き寄せた。
図の最後に小さな印をつけ、その横へ、手首、と書く。
「それで分かる?」
ヒューが尋ねた。
「俺はな」
後ろでベンが息を呑んだ。
振り返ると、中央の蝋燭に細い火がともっていた。
「先生」
ベンは手を上げた。
「先生、できました」
教授が別の生徒の皿を確かめている間に、火が小さくなる。
ベンは上げた手をさらに伸ばした。その動作に合わせて火が揺れる。
「先生、今なら──」
消えた。
ベンの手だけが、教室の中ほどに残った。
ルークは自分の皿へ顔を戻したが、隣でヒューの肩が揺れるのが見えた。
「見てただろ、二人とも」
「見てた」
「僕も見たよ」
「次の授業で言ってくれる?」
「次もつければいいだろ」
「それはそうだけどさ」
階段の手前でベンがネッドに呼ばれ、先へ走っていった。
ルークは鞄の紐を掛け直し、隣を歩くヒューを見た。
「魔法薬も得意か?」
ヒューの顔が曇った。
「どの薬?」
「授業で作るやつ」
「先週、鍋の外側を溶かした」
ルークは足を止めた。
「外側?」
「こぼしたんだ。中は平気だったんだけど」
「どうして外だけ」
「それを調べてる」
ヒューは少し早口になった。
鍋の材質と薬の温度について何か考えがあるらしかったが、ルークには途中からよく分からなくなった。
階段が動き始めたので、二人とも手摺を掴む。
向こうの踊り場へ着くと、ヒューは図書館へ行くと言った。
「さっきの、助かった」
別れる前に言うと、ヒューは一瞬だけ黙った。
「君、すぐ変えられるんだね」
「何を?」
「言われたところ。僕は、分かってても手が違う動きをすることがあるから」
「四回目は燃えただろ」
「でも三回はできた」
ヒューはそう言って、本を抱え直した。
ルークはその背中を見送ってから、反対側の階段へ向かう。自分は出来なかったことを重視するが、ヒューはできたことを重視する。そういう捉え方もあるか、と妙に納得した。
夕食までには、まだ少し時間があった。
談話室の暖炉の前では、ジェームズが椅子に横向きに座っていた。片脚を肘掛けへ載せ、手の中で羽根ペンを回している。
向かいの長椅子には、黒髪を無造作に耳へかけたシリウスがいた。整った顔に退屈そうな表情を浮かべ、ジェームズの話を聞いている。
ルークに先に気づいたのは、その脇で本を読んでいた少年だった。
薄茶色の髪をした痩せた上級生で、ローブの袖口に小さな繕い跡がある。顔を上げると、疲れて見える目元が少し和らいだ。
「ジェームズ。後ろ」
「ん?」
ジェームズが振り向いた。
「お、ウォルフ。どうした。箒が言うことを聞くようになったか?」
「箒の話じゃない」
「じゃあ、飛ぶ前から落ちた?」
「落ちてない」
シリウスが笑った。
暖炉に近い低い椅子では、淡い色の髪をした小柄な少年が、膝の上の菓子袋へ手を入れている。丸い顔をこちらへ向け、ジェームズの次の言葉を待っていた。
ルークは暖炉の輪に入った。
「魔法薬学が得意な人、知らないか」
ジェームズの手の中で、羽根ペンが止まった。
「魔法薬学?」
「そう」
「スラグホーンがいるだろ」
「授業では聞いた」
「じゃあ解決だ」
「してないから聞いてる」
シリウスがジェームズを見た。
さっきより、ずっと楽しそうな顔になっている。
「いるだろ」
「何が」
「魔法薬学が得意な人」
「僕だって、できないわけじゃない」
「得意な人を聞かれたんだよ、ジェームズ」
本を読んでいた少年まで口を挟んだ。
ジェームズはそちらを睨む。
「リーマス、お前は本を読んでろ」
「聞こえるところで話すから」
リーマスは頁に指を挟み、ルークへ向き直った。
「リリー・エバンス。僕たちと同じ五年生。魔法薬はとてもよくできるよ」
「ああ、確かに彼女は魔法薬学がよくできる。それに──」
菓子袋を抱えた少年が呟いた。
「ピーター」
ジェームズが低い声を出すと、ピーターは口へ菓子を放り込んだ。
ルークは四人を見比べた。
「聞いちゃいけない名前だった?」
「全然」
シリウスが答えた。
「こいつが教えたがらないだけ。それくらい教えてやれよ。鍋を爆発させたくないんだろ?」
「固まった」
「そっちか」
シリウスは肩を揺らした。
ジェームズは肘掛けから脚を下ろし、椅子へ座り直す。
「エバンスだって暇じゃないんだ」
「今、君はスラグホーンに聞けって言ったよね」
リーマスが静かに言った。
「先生の方が忙しいと思うけど」
ジェームズは羽根ペンを机へ置いた。
置き方が少し強かったので、ピーターがまた笑いそうになった。
そのとき、肖像画の入口が開いた。
「ちょうどいい」
シリウスが言うより早く、ジェームズの目がそちらへ動いた。
入ってきたのは、本を二冊抱えた女子生徒だった。濃い赤毛が肩の下まで落ち、暖炉の光を受けたところだけ明るく見える。
入口を塞がないよう一歩脇へ寄ってから、談話室を見渡した。
「エバンス」
ジェームズが呼んだ。
彼女の緑の目がこちらへ向く。
「何?」
「この子が、君に聞きたいことがあるって」
ルークはジェームズを見た。
さっきまでは名前さえ教えなかったのに、もう自分から呼んでいる。
ジェームズはその視線を無視した。片手が黒髪へ行き、前髪を後ろへかき上げる。
「一年のウォルフ。魔法薬で困ってるらしい」
リリーはルークへ目を移した。
ジェームズに向けていたときより、声が柔らかくなる。
「何を作ってたの?」
「授業の薬。最後に灰色になって固まった」
「灰色?」
「鍋を逆さにしても落ちないくらい」
リリーの眉が上がった。
「それは、途中を見ないと分からないかも。教科書と、書き込みは持ってる?」
「部屋にある」
「私は夕食のあと図書館にいるから、持ってきて。どこで変わったのか、一緒に見ましょう」
話はそれで決まった。
ルークが礼を言うと、リリーは軽く頷いた。
「僕も見てやろうか」
ジェームズが言った。
リリーは彼を見る。
「あなたに聞いたんじゃなかったの?」
「得意な人を紹介してほしいって言うから」
「じゃあ、私が見るわ」
シリウスが口元を手で隠した。
ジェームズは気づかないふりをしたようだった。椅子の背へ肘を置き、少し気取ったふうに言う。
「僕だって、たいていの薬は作れるよ」
リリーが何か言う前に、ルークは尋ねた。
「だったら、最初にそう言えばよかっただろ」
一瞬、誰も喋らなかった。
リリーが笑った。長くはなかった。口元を緩め、息が少し漏れただけだ。
「そうね。その通り」
ジェームズはルークへ顔を向けかけていた。
何か言い返そうとしていたのだと思う。口が開きかけていたからだ。
けれど、リリーが笑うと、そちらを見た。
用意していた言葉が出てこない、代わりに口の端が上がった、ルークにはそんな風に見えた。
箒の話をするときとも、シリウスと人をからかうときとも違う。目元から力が抜け、彼女がまた何か言うのを待っている。
「じゃあ、あとでね、ウォルフ」
「ルークでいい」
「分かった。私はリリー」
彼女は本を抱え直し、女子寮の階段へ向かった。
ジェームズの目が、赤い髪を追っていた。
「作れるんだって?」
シリウスが言った。
「何だよ」
「たいていの薬」
「作れる」
「今度、僕の課題も見てくれよ」
「自分でやれ」
笑い声が上がった。
ジェームズも笑ったが、目は一度だけ階段へ戻った。
ルークは暖炉の縁へ目を落とした。
男が女を見るところなら、知っていた。
路地にも、酒場の裏口にも、そういう目はあった。金を握った手。閉じた扉。夜中の怒鳴り声。昨日とは別の相手に、同じことを言う男もいた。
だから、ジェームズがどうしてリリーを見ていたのか、おおよその見当はつく。
だが、彼女はただ笑っただけだ。ジェームズを褒めたわけでも、隣に座ったわけでもない。むしろ、ルークの方へ頷いていた。
それなのに、ジェームズはあんな顔になる。
「何だ?」
見ていたのに気づいたジェームズが言った。
「いや」
「僕の薬の腕を疑ってるのか?」
「まだ作ったところを見てない」
「今度見せてやる」
「鍋から出せるやつにしてくれ」
シリウスが声を上げて笑った。
ジェームズはルークの頭へ手を伸ばしたが、ルークは一歩下がって避けた。
いつもの顔に戻っていた。それでも、さっきの顔は覚えている。どうやらここでは男女の関係もロンドンとは違うらしい。
ルークはもう一度、リリーが消えた階段を見た。誰もいなかったので、自分も鞄を取りに向かった。
夕食のあと、図書館は思ったより混んでいた。
入口に近い机はほとんど埋まっている。頁をめくる音と、小声の相談が重なっていた。
ルークは本棚の間を歩き、奥の窓際に赤い髪を見つけた。
リリーの向かいには、男子生徒が座っていた。
肩にかかる黒髪が細い顔の両側へ垂れ、長い鼻の下に、薄い唇が結ばれている。ローブの胸元には緑と銀が見えた。
彼はリリーに何か説明していたが、ルークが近づくと口を閉じた。
「来たのね」
リリーが隣の椅子を引いた。
「座って。セブ、さっき話した一年生」
黒い目がルークを見た。顔から鞄、それから教科書へ移る。
「ルーク・ウォルフ」
ルークが名乗ると、彼は少し間を置いて答えた。
「セブルス・スネイプ」
「セブは魔法薬が得意なの。私より細かいところまで知ってるから、聞いてみようと思って」
スネイプはリリーを見た。
「何を作ったかも、まだ聞いてない」
「今から見せてもらうの」
リリーはルークへ手を差し出した。
教科書を渡すと、該当の頁を開いて机の中央へ置く。
ルークは、羊皮紙も広げた。材料の量と、入れた順番、それから授業中に書き取った注意が並んでいる。
「最後の前までは黄色だったんだよね」
リリーが尋ねた。
「そう。それで、ここを入れたら灰色になった」
指を置くと、向かいから声がした。
「その前に、どれくらい減った?」
スネイプだった。
「減った?」
「鍋の中身」
「分からない」
黒い目が上がった。
ルークは見返した。
「見てたけど、そこは数えてない」
「量は数えるものじゃない」
「じゃあ、測ってない」
リリーの口元が少し動いた。
スネイプは笑わなかったが、教科書を自分の方へ引き寄せた。
「鍋の内側に跡は残ってた?」
ルークは思い出そうとした。
灰色の塊を落としたあと、鍋には黄色い筋があった。洗っても、すぐには取れなかった。
「あった。上の方に」
「どれくらい上?」
指を二本並べる。
「このくらい」
「煮詰めすぎてる」
「それは先生にも言われた」
「だったら、そうなんだろう」
少しぶっきらぼうな言い方だった。
だが、スネイプの指はまだ頁の上にある。
「火を落としたのは、いつ?」
「書いてある時間になったとき」
「その時点で黄色かった?」
「なってた」
「いつから?」
ルークは黙った。
スネイプが椅子の背から体を起こした。
教科書の一行を爪で示す。
「ここの時間は目安だ。こっちに色が変わったらって書いてある。君は、先に変わってたのに、そのまま煮た」
「時間まで待つんじゃないのか」
「色が変わったら、次へ行くの」
リリーが言った。
「最初の火が強かったなら、早く変わることもあるでしょう?」
ルークは二つの行を読み直した。
時間の方には、自分で線を引いていたが、色についての一文には何も書いていない。
「黄色って、どれくらいだ?」
スネイプは教科書の端にある見本を指した。
「これ」
「鍋の上からだと、もっと暗く見えた」
「……照明のせいもある」
彼は少し考え、リリーの筆箱の脇から、使っていない羊皮紙を取った。
「借りるよ」
「どうぞ」
細長い四角を描き、その内側に線を引く。
「匙に少し取って、薄く広げる。鍋の中だけで比べないで。量が多いと、色は濃く見えるから」
ルークはその図を見た。
言われてみれば、窓の瓶も、端の方が薄く見える。
「それ、教科書に書いてある?」
「そこにはない」
「じゃあ、どうやって知るんだ」
スネイプは答える前にルークの顔を見た。
「今、知っただろ」
ルークは少し黙ってから、頷いた。
「確かに」
羽根ペンを取り出し、時間に引いた線の隣へ書き足す。
色を先に見る。匙に取る。
スネイプはその文字を逆さから読んでいた。
「毎回、何度も取る必要はないよ。減るから」
「一回でいい?」
「変わり始めたときに。それで違ったら、もう少し待つ」
リリーがルークの羊皮紙へ目を落とした。
「材料の量は、ちゃんと書いてあるのね」
「間違えたら困るから」
「その調子で、色や匂いが変わったところも書いておくといいわ。失敗したとき、どこまでは合っていたか分かるから」
昼間、ヒューも似たことを言っていた。
ルークは空いているところへ、黄色になった時間、と書いた。そこで止まる。
「今回のは覚えてない」
「次の分」
リリーが言うと、向かいから小さく息が漏れた。
スネイプの口元が、ほんの少し緩んでいた。
ルークはそれを見たが、何も言わなかった。
そのあと、切った材料の厚さも聞かれた。同じ数を入れても、大きさが違えば同じようにはならないらしい。
「全部同じに切るのか」
「できるだけ」
「細かければいい?」
「違う」
スネイプはすぐに答えた。
それから、声を少し落とす。
「細かくするのと、潰すのも違う。ここは切る。こっちは潰す。勝手に同じにしない方がいい」
頁の上を細い指が移動する。
ルークはその指を追いながら、自分が同じことだと思っていた箇所へ印をつけた。
机の隅で時計が進んでいた。
リリーが先に気づいた。
「ごめん、私、戻らなきゃ。メアリーと約束してたんだった」
彼女は本を閉じ、ルークを見る。
「少しは分かった?」
「どこで間違えたかは」
「じゃあ、次はそこを変えてみて」
リリーはスネイプへ本を一冊返した。
「これ、ありがとう。明日、続き聞かせて」
スネイプが顔を上げた。
「うん」
短い返事だった。
けれど、教科書を見ていたときの眉間の皺が消えていた。リリーが微笑むと、彼もわずかに口元を緩める。本を受け取ったあとも、目は彼女に向いたままだった。
ルークの手が止まった。
さっき見た。
暖炉の前。椅子の背へ肘を置いていたジェームズ。彼女が笑ったとき、言い返すのを忘れた顔。
スネイプは髪をかき上げなかったし、こちらへ聞こえるように大きな声を出しもしなかった。
ただ、リリーを見ている。それなのに、目元にあるものは同じだった。
「またね、ルーク」
呼ばれて、ルークは顔を上げた。
「うん、ありがとう」
リリーは二人に手を振り、本棚の間へ入っていった。
スネイプの目が、その後ろ姿を追う。
赤い髪が棚の陰へ消れてから、ようやく手元の本へ戻った。
ルークはリリーの消えた方を見た。
彼女はいつも通りに話して、帰っていった。スネイプの目を見て驚いた様子も、からかう様子もなかった。
談話室では、皆がジェームズを見て笑っていた。
こちらにも同じものがあることは、誰も話していなかった。
「その字」
声に、ルークは振り向いた。
「何?」
「ここ。煮立てる、じゃない。煮続ける」
スネイプが指していたのは、授業中に書いた文字だった。
「同じだろ」
「同じじゃない」
さっきの表情は、もうなかった。
スネイプは椅子を少し前へ寄せ、教科書を開き直す。
ルークも羊皮紙へ目を落とした。
小さな泡がどこから出てくるか。表面全体が動いているか。匙を抜いたときに、どれくらい跡が残るか。
質問は細かかった。答えられないものも多い。
けれど、答えられないと言っても、笑われはしなかった。
スネイプはときどき眉を寄せ、それから別の聞き方をした。
リリーがいなくなっても、帰れとは言わなかった。
ルークは鞄へしまいかけていた羽根ペンを、もう一度取り出した。
図書館を出たときには、廊下の窓は黒くなっていた。
スネイプも途中まで同じ方向だった。
並んで歩くと、思っていたより背が高い。歩幅は大きいが、ルークが少し遅れても急かさなかった。
「次の実習は?」
「明日」
「同じ薬?」
「もう一度やるって」
スネイプは頷いた。
「最初から全部変えない方がいい。火と、色を見るところ。まずそこだけ」
「材料の切り方は?」
「ひどく違ってたなら直す。でも、何もかも変えると、どれが悪かったか分からなくなる」
ルークは昼間のヒューを思い出した。
杖の向きと止め方を一度に変えたから、どちらがよかったか分からないと言っていた。
「分かった」
階段の分かれ目で、スネイプが足を止める。
「教科書の見本は、授業の前に見ておいて。作りながら探すと遅いから」
「そうする」
ルークは鞄を持ち直した。
「ありがとう。時間、取らせた」
スネイプは少し目を細めた。
それから、ルークの持っている教科書を見た。
「次は、固まる前に止めればいい」
ルークは笑った。
「止める場所は増えた」
「覚えていればね」
スネイプは階段を下りていった。
黒いローブの裾が角を曲がるまで見送り、ルークは上へ向かった。
「ウォルフ」
声がしたのは、談話室へ戻る手前だった。
ジェームズとシリウスが廊下の窓際にいた。ジェームズは壁へ肩を預け、シリウスは窓の桟に腰を掛けている。
さっきまで何か話していたらしかったが、ルークが近づくと二人とも黙った。
「どうだった、魔法薬学」
「分かった。たぶん」
「エバンスは教えるのも上手いからな」
ジェームズが言った。
ルークは頷く。
「リリーも。あと、スネイプって人」
ジェームズの顔から笑みが消えた。
「誰?」
「セブルス・スネイプ。図書館にいて、教えてくれた」
シリウスが窓の桟から下りた。
靴底が石床を打った。
「何を?」
「魔法薬学」
「それだけか」
尋ね方が変わっていた。
ルークは二人を見た。
ジェームズの口が細く結ばれている。シリウスは腕を組んだ。
「何かあるのか?」
「ある」
ジェームズがすぐに言った。
「あいつとは、あまり関わらない方がいい」
「どうして」
「付き合ってる連中がよくない。本人もだ」
ルークは鞄の紐から手を離した。
「何をしたの?」
ジェームズとシリウスが一瞬目を合わせる。
答えたのはシリウスだった。
「闇の魔術に首を突っ込んでる。あいつの周りにも、そういうのが好きな奴らがいる。人に使って面白がるような連中だ」
「スネイプも使ったのか」
「少なくとも、嫌がって離れる気はないらしいね」
ジェームズの声は硬かった。
「スリザリンだから言ってるんじゃない。あいつらは、マグル生まれをどう扱ってもいいと思ってる」
「リリーは?」
ジェームズが眉を寄せた。
「リリーが、何?」
「あの人はマグル生まれなのか?」
「そうだよ」
「一緒にいた。友達なんだろ」
「だから、あいつは──」
ジェームズが言いかけ、口を閉じた。
シリウスが続ける。
「あいつがエバンスをどう扱うかと、ほかの奴をどう扱うかは、同じじゃない」
ルークは黙った。
リリーへ向けた黒い目を思い出した。
それから、目の前のジェームズを見る。
眉が寄り、唇に力が入っている。今は似ていない。
さっき図書館で見つけたことは、言わなかった。この顔に向かって口に出すことではない気がした。
「死喰い人って、聞いたことあるだろ」
ジェームズが言った。
ルークは頷く。
列車で聞いた言葉だった。
「知ってる」
「僕には、あいつらがなりたがってるものは、それに見える」
廊下の向こうで、誰かが笑った。
足音が二つ近づき、角の手前で別の方向へ消えた。
ルークはジェームズの目を見ていた。
「本人が、そう言ったのか?」
「そこまで言わせないと分からないか?」
声が少し大きくなった。
シリウスがジェームズを見る。
ルークは一歩も動かなかった。
「俺は今日、知り合ったんだ」
ジェームズの口が閉じる。
「何も知らない。だから聞いてる」
しばらく、誰も話さなかった。
先に息を吐いたのはジェームズだった。
「……そうだな」
彼は髪へ手をやり、今度はかき上げずに下ろした。
「でも、気をつけろ。薬を教えてもらったからって、何でも信じるなよ」
「何でもは信じてない」
「ならいい」
シリウスが扉の方へ顎を向けた。
「分からないことがあれば、ほかにも聞ける相手はいる」
ルークは頷いた。
それから、二人の間を通って入口へ向かった。
背中に視線が残っていた。
振り返らなかった。
翌日の魔法薬で、ルークは最初に色見本を見た。
ベンが隣から覗き込む。
「今日は何を作る?」
「授業と同じもの」
「前回もそのつもりだった?」
ルークが無言で見ると、ベンは自分の教科書へ戻った。
材料を切る。大きすぎるものを脇へ分け、同じくらいに揃える。火をつけ、鍋を載せた。
いつもより、待つ時間が長く感じられた。
何もしないでいると、火を強めたくなる。隣の鍋が先に変わり始めると、余計にそう思った。
ルークは杖へ手を伸ばさず、羊皮紙を見た。
色を先に見る。匙に取る。
黄色くなり始めたところで、少しすくった。鍋の中では暗く見えた液体が、匙の上では薄く広がる。
見本を確かめる。まだ少し違う。もう少し濃くなるまで待つべきだと判断した。
「何してるんだ?」
「色を見てる」
「僕にも見せて」
ベンが身を寄せたので、ルークは匙を真ん中へ動かした。
「鍋の中だと濃く見えるんだって」
「ああ。本当だ」
もう少し待った。
次に取ったものは、見本に近かった。砂時計には、まだ砂が残っている。
ルークはそれを見たあと、鍋の火を落とした。
最後の材料を入れても灰色にはならなかった。
匙を動かすと、液体の表面に跡ができ、ゆっくり消える。
ルークは鍋の底まで確かめた。
「今回は動くな」
ベンが言った。
「見れば分かる」
スラグホーンは、ルークの鍋の前で足を止めた。
匙に取り、光へかざす。
「うん。少し濁りがあるが、ずいぶんよくなった。こちらはちゃんと瓶へ移せそうだね」
「はい」
「どこを変えた?」
「火を落とすところです。時間になる前に、色が変わってたので」
「結構。その判断を覚えておくように」
スラグホーンが離れると、ベンがルークの羊皮紙を引き寄せた。
「それ、あとで見せて」
「字が読めれば」
「読めないところは聞く」
ルークは瓶へ薬を注いだ。
底に残ったものも、鍋を傾ければ流れた。
それを見て、少し笑ってしまった。
昼食へ向かう途中、玄関ホールの向こうにスネイプがいた。
同じ寮の上級生が二人、一緒に歩いている。何かを言われ、スネイプは口元を歪めた。離れていたので、何を話しているかは聞こえなかった。
ルークの足が少し遅くなる。
死喰い人。
昨夜のジェームズの声を思い出した。
隣のベンが大広間へ入っていく。ルークも続こうとしたとき、スネイプがこちらを見た。黒い目が、ルークの手にある教科書へ落ちる。
「どうだった?」
彼が尋ねた。
一緒にいた二人も振り向いた。
ルークはその顔を見てから、スネイプへ答えた。
「固まらなかった」
「色は?」
「少し濁った。先生は、前よりいいって」
スネイプは小さく頷いた。
「じゃあ、次は刻んだ材料を見直せばいい」
「うん」
ルークは一歩だけ近づいて言う。
「教えてくれて、ありがとう」
スネイプの隣で、一人が退屈そうに体の向きを変えた。
スネイプはそちらを見ずに答えた。
「礼は昨日も聞いたよ」
「今日、できたから」
黒い目が戻ってくる。
一瞬だけ、昨日、図書館で見たのと同じように口元が緩んだ。
「そう」
それだけ言って、スネイプは仲間たちと歩いていった。
ルークは大広間へ入った。
グリフィンドールの席では、ベンが隣の場所を空けている。その少し先に、ジェームズたちがいた。
ジェームズはこちらを見た。今のやり取りが見えていたのかは、分からなかった。
ルークが座ると、ベンは皿を押して寄越した。
「どうした?」
「何が」
「立ってたから」
「別に」
パンを一つ取る。
向こうでは、シリウスが何か話していた。ジェームズがそちらへ向き直り、笑う。
少し離れた席にはリリーがいた。友人の話を聞きながら、頷いている。
昨日は、その三人とも、自分に時間を使ってくれた。
ルークは鞄から魔法薬の教科書を出した。頁の間に挟んでいた羊皮紙が、机へ落ちる。
自分の大きな字の横に、細く、傾いた文字があった。
煮立てない。スネイプが書き直してくれたところだ。
「それ、あとで貸してくれるんだろ?」
ベンが言った。
ルークは羊皮紙を拾った。折れていた端を指で伸ばし、教科書へ挟み直す。
「うん」
返事をしてから、まだ何も書いていない余白に目を落とした。
薬のことなら、次に聞くことがあった。それ以外にも聞きたいことができていた。けれど、昨夜のジェームズの顔を思い出すと、口に出す言葉はすぐには決まらなかった。