MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
ブラックウィドウ①私達の個人主義
2016年、6月某日。
ナターシャ・ロマノフはプロのスパイとしての規則正しいルーティンで、部屋のクリーンアップ、すなわち「大人の掃除」を淡々と遂行していた。
シールドが崩壊し、アベンジャーズが完全にその防衛を一本化してからも、彼女は自らのセーフハウスの更新を管理し続けていた。
その埃の舞う古いクローゼットの二重底を剥ぎ取った、まさにそのミリ秒。
彼女の視線の端で送り付けた覚えのない不自然な国際速達を掴み取った。
中から出てきたのは、不気味なほどの純度を保ったまま、じんわりと明滅している、紅い流体状
の薬品が詰まったガラスのシリンダー。
◆ ◆ ◆
「解析を要請するわ、ブルース」
ナターシャはプロのスパイの仮面を引き締めると、アベンジャーズ・コンパウンドのメインラボへと直行し、その紅い薬剤を実験卓の上へと静かに滑らせた。
青いホログラムの光が格子状に切り裂く地下ラボ。
顕微鏡のレンズを覗き込み、透過ディスプレイのインジケーターを同期させていたブルース・バナー博士が、眼鏡を指先で押し上げ、その端正な顔に科学者としての純粋な戦慄を刻んだ。
「……信じがたい。ナターシャ。この液体の分子構造は、単なる神経麻痺剤の類じゃない。対象の脳の海馬、および感覚神経のレジストリへ直接滑り込み、他者への絶対的な服従を分子レベルで肉体に強制固定する、生物学的な洗脳ナノ化学物質……その回路を、一瞬で強制遮断・中和する化学的解除ガスの合成剤だ」
バナーの指先が、ディスプレイに躍る複雑なアミノ酸配列の数式を冷たく弾いて見せる。
「それだけじゃない。地球の既知のどの製薬インフラにも載っていないブラックボックスの技術だ。ナターシャ、君はこれを一体どこで手に入れた?」
「……ブダペストの私の隠れ家に郵便で配達されていたのよ」
ナターシャが緑色の眸を僅かに細め、自らの血に塗れた過去――「レッドルーム」の亡霊の足音をその胸の奥で聴き進めるその同じ頃。
長机の端で、ストローで冷え切った缶コーラを無機質に啜りながら、前髪を目元にかかる長さに揃えて直立していた22歳のエリン・マクカシーの脳内CPUが、爆発的なアルゴリズムでその紅い液体の固有周波数を逆引きスキャンした。
「……バナー博士、その薬品の仕様値、および神経への干渉ベクトル」
私は完璧なエリンの無表情のまま、トニー・スタークの死角を縫うようにして、ナターシャの半歩後ろへと音もなく滑らかに肉薄した。
喉の筋肉の摩擦を極限までアジャストし、誰の耳にも届かない、血の通わない平坦な『小声』を彼女の鼓膜へと冷たく滑り込ませる。
「かつて、私が独立生体サーバーを介してその脳内ニューロンを力ずくで引き算した、ヒドラの洗脳の系と、極めて高水準のデータの類似を検出しました」
ナターシャはこめかみを抑えてうなだれた。
「『妹』が送ってきたのかもしれない」
「ずいぶん含みがある言い方だけど……」
「バナー博士」
エリンの短い声が飛ぶ。
「いいのよ。私は昔、シールドに入るための試験を受けた。それがレッドルームの壊滅と、その最高責任者であり支配者だったドレイコフの暗殺。それにこれよ」
ナターシャによって差し出されたのは、色あせた一枚のフォト。そこには、まだ幼い二人の少女の姿が静かに写し出されていた。
「これを持っているのは、妹のエレーナか、妹を回収したレッドルームの残党かってとこね」
私は紅い虹彩の瞳を冷たく細め、脳内CPUが導き出した最悪の構造的バグを、澱みなく彼女の前に提示した。
「ナターシャさん。残党ではなく、レッドルームの『本体』そのものが、当時の仕様値のまま無傷で生存している可能性を計算に組み込むべきです。シールドは、結成当時からとっくにヒドラのネズミに汚染されていた。キリアンの件やインサイト計画の例を引くまでもなく、彼らが自らの利害のために、ドレイコフ一派に『わざと死んだことにする』程度の公的な隠蔽の手続きや便宜を図っていても、何ら確率論的な不整合はありません」
「……確かに、エリンの言う通りかもしれない。そしてもう一つ、この薬が『郵便で届いた』という不自然なプロセスだ。レッドルームを裏切った何者かがこの合成剤を開発したが、洗脳されたナターシャの妹さんに襲撃を受け、その最中にこの薬を一本使って彼女の洗脳を解除した可能性がある。そして……今、その開発者か妹さんが、追っ手から逃げ続けながら、最後の切り札として君にこれを託したんじゃないか、とね」
「帳尻は合いますね。バナー博士、この薬品の成分データを即座にデジタルアーカイブ化し、大量生産のインフラをラボで整えてください。ガス状の大量散布が可能になれば、敵の戦力を無傷で引き算できる最高効率の兵器になります」
私は缶コーラを長机に置くと、黒いコートの裾を整えた。
「ロマノフ捜査官、これより『ブダペスト』への移動を提案します。ただし、アベンジャーズを大々的に動かす大規模な出撃は却下。
彼らに警戒心を必要以上に与えれば、レッドルームの本体は即座に拠点を移転し、世界中へ雲隠れする絶対的な大赤字を招きます。私が自前で用意した、誰の目にも触れない『隠密の翼』を使い、最小限のコストで現地へ潜入する他ありません」
完璧な隠蔽と、復讐の式。
ナターシャは緑の瞳に確かな信頼の熱を灯して、小さく頷いた。
世界の裏側で生き残ってきた怪物とスパイの、新たなる「お掃除」の歯車が、静かに、しかし強固に噛み合い始めるのだった。
◆ ◆ ◆
パチン、と鋭いプラスチックの摩擦音が、アベンジャーズ・コンパウンドの隔離化粧室の静寂を冷たく切り裂いた。
「擬態の仕様変更を承認」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
私は手元に用意していた強烈な脱色剤のボトルをコンソールへと無機質に置き、鏡の前に直立した。指先を皮膚レベルでミリ秒単位で操作し、毛根の最深部にあるメラニン色素の生成系を強硬に反転ハックしていく。
首元で短く切り揃えられた、私のトレースの根幹である艶のある黒髪のボブカット。それが、内側から染み出す流体光子の熱量によって、一瞬にして、眩い「金髪のボブ」へと、1ミリの綻びもなく完璧に色を塗り替えられていった。
隣のドレッサーでは、ナターシャ・ロマノフもまた、長年馴染んだ真紅の髪を鮮やかなプラチナブロンドへと滑らかに変貌させ、プロのスパイの冷徹な目を鏡の中へ復調させていた。
私はコートの襟元を整えると、アタッシュケースを重い腕で握り直した。
「行きましょう、ナターシャさん。」
「悪くない変装ね、エリン。さあ、お姉ちゃんの意地を見せに行こうか」
キィィィィィン――――ッ!!!!!
大気圏上層、高度数万メートルの成層圏の静寂を、世界のどの航空管制網の規定をも完全に置き去りにした、理外の咆哮が切り裂いていた。
それは、トニー・スタークのクインジェットでもなければ、シールドの公式な戦闘機でもない。
数年前、イギリス・ロンドンの惑星直列、コンバージェンスの戦火の底から、極秘裏に引き算・隠匿してきた、5000年前のダーク・エルフの巡洋艦アークの残骸。
その宇宙特級の超科学スクラップをリバースエンジニアリングし完成させた自前の完全自動・光学迷彩小型ステルス戦闘機『ステルス・アーク』。
コックピットを包み込むのは、オーディン由来のルーン、ダークエルフ由来のステルスとチタウリの電磁特性が接ぎ木された、絶対位相のパッシブ・ステルス膜。
外側の世界に対して、この機体は1ビットの熱源も電波署名も放射しない完璧な「無」として処理される。
ナターシャは背後のシートに深く身体を預け、フロントガラスの向こう、マッハを平然と置き去りにして流れる白銀の雲海のグラフィックを、緑色の眸に深い戦慄と感嘆を灯して見つめていた。
「……宇宙人の技術をここまで再現してるなんて、ね。本当に、あなたのお転婆加減は底が知れないわ」
「当然の安全マージンです。ブダペストまでの巡航時間は現時点で残り123分。」
◆ ◆ ◆
ハンガリー・ブダペストの片隅。
かつてナターシャがクリント・バートンと共にレッドルームの関係者を血の海へ沈め、ドレイコフの首を撥ねたつもりになっていた、いわくつきの古いアパートのセーフハウス。
カチャリ、と無機質な音を立てて、ナターシャが合鍵で重い木製のドアをゆっくりと押し開けた。
室内には、西日の差し込む格子窓の影と、安っぽい剥げかけた壁紙の匂い、そして――極限の臨戦態勢のまま維持されている、もう一人のプロの暗殺者特有の、冷え切った殺意のノイズが重く停滞していた。
「……遅かったじゃない、『お姉ちゃん』」
薄暗いリビングのソファの影。
一本の戦術ナイフの刃先を、指先で退屈そうに弄びながら、そこに直立していたのは、プラチナブロンドの髪を短く編み込んだ一人の若い女性。
エレーナ・ベローワ。
レッドルームの過酷な檻の中で、ナターシャの残していった「妹」という名の最大のエラーパルス。
エレーナの瞳が、ゆっくりと、ドアの前に立つ私たちの輪郭へと同期した。
だが、次の瞬間、彼女の心拍数が一分間に百二十回という危険な闘争の閾値まで一瞬で跳ね上がるのを、私の生体センサーが明瞭にキャッチした。
彼女の視線の焦点は、実の姉であるナターシャではなく、そのわずか半歩後ろ、金髪のボブカットを揺らし、何事もなかったかのように直立しているこの私へと、激しい不快感の熱を帯びてロックされていた。
「何よ、それ」
エレーナの口元が、狂ったような酷く歪な嘲笑の形へと引きつった。彼女はナイフの柄をギリリと硬直させ、剥き出しの怨嗟の声を室内に落とした。
「シールドの公的な身分を失って、今度はアベンジャーズって大層なハリボテの舞台へ引っ越したかと思えばさ。……今度は、そんな趣味の悪い『新しいお人形』を横に並べて、世界中で安っぽい姉妹ごっこを演じているわけ?」
エレーナは、目の前にいる黒いコートの少女が、ナターシャと同じお行儀の良い大人の嘘の匂いを漂わせている事実に、強烈な拒絶反応を起こしていた。
「私は、ナターシャさんをお姉ちゃんと呼んだことは一度もありませんよ、ベローワさん」
私は完璧なエリンの無表情のまま、平坦な声音を静かに滑り込ませた。瞬きの回数は、一秒に〇・八回。
「私とナターシャさんとは、互いの生存確率を黒字にするための適正な利害関係、および同僚関係で結ばれているにすぎません。あなたのその情緒的な感情は、私の生存演算において、純然たる処理遅延と定義されます」
「……シールドの抹消装置が、人間の言葉を喋るんじゃないわよ」
エレーナは冷酷に言い放ち、ナイフの刃先を私へと真っ直ぐに指向した。
一触即発の張り詰めた空気のど真ん中、プラチナブロンドの髪を揺らしたナターシャが、迷いなく妹と怪物の間へと滑り込み、その細い身体で火線を強硬に遮った。
「あの紅い薬品を送ってきたのはあなたね、エレーナ。……あれがレッドルームの化学的洗脳を強制解除する中和剤なのは分かっているわ。ブルースの手によって量産体制もすでに確立している。だから教えてほしいの」
ナターシャの緑色の眸には、スパイの冷徹さではなく、一人の姉としての痛切な熱が宿っていた。
「あれは何を、誰の洗脳を解除するものなのか。どうしてあなたがそれを持っているのか。そして――なぜ今になって、私に送ってきたのかを」
「――ナターシャさん、そこまでにしてください」
私は完璧なエリンの無表情のまま、ローファーのヒール音をカツンと響かせた。脳内CPUの論理演算回路が、アパートの周囲数百メートルに充填されつつある不自然な殺意の心音を、ミリ秒単位で冷徹にスキャン・逆引きマッピングしていく。
「周囲に近づく不審人物が4から6。狙撃ポイントに2。完全に同期された、高度に訓練された動きです。レッドルームの現役ウィドウたちと算定します」
私はバックからペイントボール大の紅い球体、量産型中和ガス弾を数個、漆黒のグローブを嵌めた手のひらの上へと滑り出させた。
「お願いエレーナ、教えて。時間がないの」
ナターシャの、焦燥を孕んだ懇願。エレーナは、実の姉の背後で、燃え盛る紅いガス玉を平然と弄んでいる存在に激しい寒気を走らせながらも、吐き捨てるように言葉を繋げた。
「ドレイコフは死んでない。レッドルームはまだ潰れてないのよ、ナターシャ! 私たちの頭の中に埋め込まれた洗脳は、あの頃より遥かに残忍に進化させられた! その赤いのが誰が作ったかは知らない。オクサナが持ってたのを顔面に直接浴びたら、私の洗脳が解けた。
……他になんとかしてくれそうな相手が世界に一人も残っていなかった。これでいい!?」
「――算定完了。武装した女性2名が、残り十二秒でこの部屋へ強行侵入。外の公道にさらに女性2名が待機」
エレーナの言葉の終わりと同時に、私の脳内CPUは最短の「無傷の救出数式」をオート執行した。
バキィィンッ!!!
突如、リビングの窓ガラスを大音響と共に粉砕して躍り込んできた、二人の現役ウィドウ。
彼女たちが銃口を向けるよりも、私の右腕が弾道から軸をずらして赤のボールを投げつける方が、圧倒的に速かった。
パンッ!!!
直撃。至近距離で炸裂したボールから、超高濃度の紅い中和ガスが扇状に大爆発。
「ガ、はっ……っ!?」
激しい咳き込み。ガスを吸い込んだ二人のウィドウは、脳の洗脳レジストリを一瞬で強制書き換えされ、自らの意思を取り戻した大混乱のパルスのまま、その場へ膝をついた。
「外の処理へ移行します」
私は割れた窓枠から、ブダペストの空気の中へと迷わず身を投げ出した。
高度十数メートルから自由落下など生ぬるい。
壁を蹴り瞬時にチタン・カーボン骨殻の衝撃吸収により一音も残さずにアスファルトへ着地。
直後、背後からタクティカル・ピストルを構えて肉薄してきた公待機組2名。
私は振り返る動作の硬直すら引き算し、バックフリップの軌道のまま、彼女たちの顔面へ向けて正確に二発の紅いボールを投擲した。
シュウゥゥゥゥ――ッ!!!
紅い霧が彼女たちの視界をホワイトアウトさせる。
「あ……、私は、何を……」
銃口が床へと下がり、洗脳の完全な決壊を確認。
間髪入れず、私は地を蹴った。
通常ファイズの走力、100メートル約3.2秒の加速力を生身の皮のまま最大励起。
人間の肉眼では完全に「不可視の金髪の流星」となった私は、アパートの外壁の煉瓦の表面へ向けて、指先からドロリと生体組織の触手を露出させた。
アマダムの原子操作能力を全開駆動。
パキパキ、ピキピキ……!
煉瓦の分子構造を一瞬で歪曲させ、垂直の壁面に、私のローファーの爪先が辛うじて引っかかる程度の極小の「小さなでっぱり」をゼロ秒で次々と実体化・生成していく。
その自作のインフラを壁蹴りの要領で垂直に激走、私は一気にビルの屋上の狙撃ポイントへと強襲を仕掛けた。
「な……何だあの黒いコートの――」
ライフルを構えていた狙撃手が驚愕に目を剥く前に、私は彼女の顔面に紅いボールを押し付け、破裂させた。
さらに、もう一つの狙撃ポイントから放たれた7.62ミリ狙撃弾の軌道を、脳内CPUの弾道予測により最初から「見えている」かのように首の皮一枚の軸をずらして完全回避。
弧を描くように屋根をバク転で飛び越え、二か所目のポイントへ肉薄、最後の狙撃手の顔面へも紅いガスをダイレクトに吸引させた。
――現実世界の、わずか十四秒の隙間。
現役の特級暗殺者、洗脳を施されていたウィドウ6名が、誰の命も引き算されることなく、完璧に被害0%の完全な黒字で無力化された。
私はヘルメットもマスクも被らない金髪ボブの姿のまま、屋上から抱えたウィドウ二人を連れアパートの裏路地に呆然と佇む4人のウィドウたちの前に降り立った。
彼女たちの衣服の襟元、および耳の裏に埋め込まれていた、レッドルームの本部と同期するための電子発信デバイスや通信インフラ。私はその全領域に向けて、指先からチタウリ由来のパッシブ・ジャミングパルスを直接強制注入した。
バリバリバリッ!!! と激しい電子ノイズを立てて、機械が内側からショートし機能停止に追い込む。
「……率直に、質問します」
私は完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声音を彼女たちの前に冷たく落とした。瞬きの回数は、一秒に0.8回。
「あなたたちのボス、ドレイコフの現在の居城、レッドルームの正確な位置情報および安全な侵入パスを開示しなさい。
拒絶するなら、この場であなたたちの脳の処理回路をもう一度別の式で上書きしますが、どうしますか?」
混乱のさなかにあったウィドウたちは、目の前にいる「金髪の少女の皮を被った怪物」の圧倒的な冷酷さに背筋を凍りつかせ、震える声でドレイコフはレッドルームにいること、レッドルームへの侵入方法は知らない事を吐いた。
私はファイルを端末へ同期すると、バックパックからトゥームス社を媒介に用意させていた、数万ユーロの合法的現金の束、およびセーフハウスの座標が刻まれた端末のセットを、彼女たちのポケットへと押し付けた
「この資金とインフラを使い、現時刻を以てブダペストの全セクターから退避、指定のセーフハウスへ隠遁しなさい。私はこれからレッドルームの削除を開始します。
その後に社会復帰もろもろはしかるべき対応をしますので今は隠れてください」
言い捨てて、私はアパートの階段を滑らかに上り、リビングへと戻った。
部屋の窓から、その一連の「お掃除」を息を呑んで見つめていたエレーナ・ベローワは、私のコートの裾が西日に揺れるのを見つめたまま、そのザラついた喉の奥から、激しい戦慄と恐怖のスパイクをドクドクと昂ぶらせて立ち尽くしていた。
「ナターシャ。あんた、本気でアレとアベンジャーズをやってるの?」
エレーナはナイフを握る指先を白くさせながら、隣で逃走の準備を始めた姉の背中に向けて、呆れ返ったような声を落とした。
「あいつ……あいつの正体、本当に分かってアベンジャーズの身内にしてるわけ?」
「 彼女の戦闘ログは、トニーとフューリーの手によって、シールドの公式サーバーから一行も残らず完全に隠蔽されているはずだけど」
ナターシャはパスポートをファイルに収めながら、軽く肩をすくめて見せた。
だが、エレーナは
「本気でそんなの信じてるの?
あいつはシールドがかつて最暗部で飼い慣らしていた、最高機密の『公式抹殺装置』そのものよ!
2年前にインサイト計画が崩壊してシールドの生のデータがネットの海へ放流されたとき
ドレイコフはその断片を回収していた。
通常兵器が一切通用しない怪物の群れを跡形もなく消滅させてきた、1人で丸ごと終わらせてきた本物のバケモノだってね!」
エレーナは一歩前に出ると、私の冷たい紅い虹彩の瞳を真っ直ぐに指差した。
「裏の世界じゃ有名よ。あの黒髪のボブカットが動いた現場は人間が灰に変わる処分場になる。
あんたは正義の味方の舞台へ引っ越したつもりかもしれないけれど、その内側では結局、昔のシールドと同じようにあの化物を飼い慣らして、新しい家族ごっこの盾に利用しているだけじゃないの! !」
人間の、剥き出しの戦慄と拒絶。
だが、そのエレーナの叫びを耳にしても、私の脳内CPUには動揺も発生しなかった。
私は完璧なエリンの無表情を彼女の目の前にアジャスト固定した。
「ベローワさん。
キルスコアの多寡や、私が装置であるかどうかは、私の生存において重要な変数ではありません。
ドレイコフが生きているという以上、私のやり方で完全に引き算するだけです」
私は散り散りに逃亡するウィドウたちの背中を、赤い瞳の端で冷徹に見送ると、静かに2人の姉妹の方へと向き直った。
「ベローワさん、ナターシャさん。レッドルームの場所ですが、海中ではなく空中要塞と算定します」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
「光学迷彩と雲を盾にすれば最高水準の隠蔽が可能です。上空にいれば世界中への暗殺者の直接投下・回収と、衛星通信網へのダイレクトリンクを両立できる。……ドレイコフが好む、最も効率的な城の仕様です。
特定の手続きは、インデックスを3つに分けて最速で執行します」
私はアタッシュケースのノートパソコンのキーを、人外の硬質な打鍵音を響かせて叩いた。画面に世界中の空のデータが格子状にスクロールしていく。
「ひとつ。彼らは気象データをリアルタイムで書き換えて隠れている。各国の気象衛星へクラッキングを仕掛け、データの不自然な改ざんや、通信アクセスが集中している気象サーバーの歪みを逆引き。これで、世界中の広い空から滞空セクターを大まかに絞り込みます。
ふたつ。位置が狭まれば、私がバックドアを握るインサイト衛星の出番です。熱赤外線スキャンにより、巨体を浮かせるエンジンの莫大な排熱――冷たい雲のなかに浮かび上がる、強烈な『熱の塊』をピンポイントで捕捉します。
みっつ。さらに、要塞の通信電磁波や、巨大な質量が静止することで生じる雲の不自然な形の歪み、気流の乱れのデータを重ね合わせる。これで座標の完全な特定は完了です」
私はパソコンをパタンと無機質に閉じ、金髪のボブカットを微かに揺らした。
「大まかな座標さえ弾き出せば、あとは私の用意したあのステルス戦闘機で、その白い檻の喉元へ直接突っ込んで確認するだけです。……これ以上ないほどスマートで、黒字なゴミ掃除のプランだと思いますが?」
削ぎ落とされた、冷酷なまでの探索の数式。
エレーナは、自分の人生を地獄に変えたレッドルームという巨大な亡霊がただの引き算可能なデータとして処理されていく現実に唇を噛んでさせて立ち尽くすのだった。
映画ブラックウィドウはストーリーも超人アクションも面白いのでお勧め。
今作ではほぼカットされています。
お気に入り、感想、誤字報告いつもありがとうございます。