MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
「私も考えたのですが、洗脳が解除されたウィドウさん達をすぐさま人間の社会に戻すのは、その後の生活の観点から見て難しいでしょう。
ですので、私の交流がある別の惑星で、いったん静かに暮らして心身を癒すのはどうだろうと思います。彼女たちの身柄は、このレッドルームの要塞アセットとともに、その星へ隠遁します」
「……アスガルドに引き渡すの?」
ナターシャが緑色の眸を僅かに細め、かつてロンドンやニューヨークの空で神々と渡り合っていた私の背景からを逆算して問いかけてきた。
「いいえ。かつてシールドの裏で協力していた宇宙の難民、スクラル人の皆さんに生存個体数ゼロの無人の惑星を紹介したことがあります。彼らのインフラであれば、彼女たちの面倒を見てもらうことは十分に確率の高い計算ルートです」
「……は? 宇宙人に星を紹介するとか、ちょっと意味不なんだけど……」
エレーナは私の常識を完全に置き去りにしたマクロな事態の前に、激しい戦慄を眸に灯して頭を抱え込んだ。
「とはいえ、ベローワさん」
私は彼女の動揺を無視し、次のインデックスをナターシャへと流し込んだ。
「誘拐されて洗脳された人たちを、このままシールドの生き残りや公的機関に素直に引き渡したところで、組織の派閥交代や別の裏切り者によって暗殺者として再利用されるのは、過去のヒドラの例を見ても確定したお約束です。
ナターシャさん、どうでしょう。この清算ルートであれば、全員の生存ログが完璧な黒字で維持されますが」
ナターシャは少しの間沈黙し、それから妹の肩をそっと抱き寄せると、フッと確かな大人の信頼を込めて笑った。
「ええ。誰も触れられない星の裏側へ隠匿して、少しずつ社会復帰の道を整えていく。」
「ちょっと待って」
エレーナがその金髪の頭を抱えたまま、私の冷酷なそろばんを強硬に遮るようにして、悲痛な声を張り上げた。
「そいつを、そのドレイコフの頭だけをあんたのサーバーだか何だかのパーツとして持っていっちゃうなら、アレクセイの社会復帰はどうなるわけ!? そいつを公式に罪に問うて無実を証明する話は一体どこに消えちゃったのよ!?」
もっともな、人間としてのまっとうな権利の主張。だが、そのエレーナの鋭いノイズを耳にした私の脳内CPUは、1ミリの処理遅延も挟まずに、完璧な上書きの式を弾き出した。
「極めてシンプルな、大人の嘘ですよ、ベローワさん」
私は完璧なエリンの無表情のまま、赤い瞳を冷たく細めた。
「ドレイコフの身柄そのものをロシア政府や公的機関に引き渡せば、あの要塞も引き渡さないわけにはいかなくなり100%再利用される。
それは保護したウィドウの追跡を許したり、次のウィドウを生み出すかもしれず先ほど却下した絶対的な大赤字です。
ならば、彼の『肉体』を引き算したまま、彼の『公式な罪』だけを世界へ放流・固定すればいい」
私はハック完了したレッドルームのメインコンソールを指先で冷たく弾いた。
「すでに、彼の最高管理権限、および過去数十年分の暗殺治験データは、私の独立生体サーバーへ100%綺麗なデータとして同期を完了しています。これより、私が構築した生体サーバーの処理能力、および後方支援者のヴィジョンの知性をフル稼働させ、ドレイコフ本人の『声紋』と『生体デジタル署名』を完全にハック・偽造します」
網膜の端に、J.A.R.V.I.S.の応答ログが滑らかに明滅する。
「彼の声と署名を使って、『すべての罪を告白し、アレクセイ・ショスターコフ氏に被せた罪は100%の捏造であったことを証明する』という、完璧な自白公式アーカイブを、ロシア政府および国際安全保障理事会のメインサーバーへ直接インジェクションします。
同時に、公式のログ上では『レッドルームは制御不能なエネルギー暴走によって完全に爆散し、ドレイコフの肉体は分子レベルで気化消滅した』という偽造の死亡診断書を出力・固定する。これで、身柄やこの要塞が再利用されるリスクは完全に0%に抑え込まれる」
私は缶コーラを一口啜り、血の通わない平坦な声音を凍りついた回廊に落とした。
「ロシア政府は、世界中へ暴露されたドレイコフの自白と不正ログの不名誉を覆い隠すため、そのメンツの補填として、アレクセイ氏を今すぐ『無実の罪から公式に釈放・国家の英雄として復権』させる手続きを、最速で執行せざるを得なくなる。
これで、ベローワさんの言うアレクセイ氏の社会復帰の式はアジャストされます。何か不満でもありますか?」
「信じらんない。あんた、人間の法律も、国家の防衛システムも、全部ただのオモチャみたいに扱ってるわけ?」
エレーナはあまりにも完結した怪物の合理主義に完全に言葉を失い、ただ呆然と首を横に振るしかなかった。
◆ ◆ ◆
ザッ、ザッ、ザッ。
空中要塞レッドルームの広大な中央格納庫。
ハックされた幾何学的な透過ディスプレイの淡い緑の光が、そこに集められた数十名もの洗脳の解けた少女たちの顔があった。
私は金髪のボブカットを微かに夜風に暴れさせ、いつものマットな質感の黒いコートの裾を整えて、彼女たちの正面へと無音の足取りで直立した。
瞬きの回数は、一秒に〇・八回。感情の起伏を1ミクロンも映さない、血の通わない平坦な声音を、人外の喉の摩擦係数で正確に固定して滑り込ませる。
「皆さん、急な事態の変化に伴い混乱の最中だと思います。
ですが単刀直入に言います。レッドルームは今日、完全に滅びました。皆さんの暗殺履歴や公的な犯罪ログは可能な限り消去され、支配者であったドレイコフは死ぬ前に自らのすべての罪を公式に自白してくれました」
静寂が、凍りついた広大な空間を強硬に支配した。
背後では、ナターシャとエレーナのプラチナブロンドの姉妹が、銃を構えたまま静かに私の背中を見つめている。
「問題は、皆さんをこのまま、すぐさま人間の表社会に返すことは難しいということです。
家に帰りたい。家族に会いたい。故郷に帰りたい。その思いや憧憬それ自体は、私も理解できます。ですが、皆さんの身体は、遠慮なく言えば高度に調教された戦闘マシーンです。
家に帰りました、家族に温かく迎え入れられました、しかし夜中に不意に声をかけられて、生体条件反射のままにその家族を即座に殺害しました。
これでは、これからの皆さんの新生活において全く話にならない」
私の赤い瞳の光が、前方に並ぶ少女たちのガラスのような眸を冷徹にスキャンしていく。同情の湿り気も、おめでたい理想の熱も1ミリグラムも混ざっていない、ただ世界の冷酷な合理性だけのインデックス。
「皆さんには、その兵器としての牙を抜くための『時間』が必要です。ですから、ある程度こちらの事情を理解し、完璧な隠蔽を保証してくれる異星人がいる惑星で、まずは心身を休ませましょう。
もちろん、それは嫌だ、地球に残るという方は、私が個人アセットの範疇で責任を持って対応します。皆さんが望むなら、脳のニューロンの書き換えも執行しますが、その副作用の保証、および人格のバグまでは一切の責任を負いかねます。
皆さんはどうしますか? 今すぐその場で決めろとは言いませんが、時間は有限であることもまた冷酷な事実です」
淡々とした、事務的な報告書を読み上げるような宣告。
だが、その怪物の冷え切った計算の裏側にある誰も無駄に死なせない、誰も再利用させないという強固なセーフティの杭を肌感覚で察し、数十人のウィドウたちは、激しい戦慄のなかに確かな安堵のパルスを灯して、静かに頭を垂れた。
◆ ◆ ◆
ナターシャ・ロマノフの前で、エレーナ・ベローワは、自らのタクティカル・ベストのジッパーを少しだけ不器用に下げ、中から無骨なデザインのグリーンのベストを、ぶっきらぼうに姉の胸元へと押し付けた。
「……はい、あげる。これ、私が初めて自分の給料で買った、最高にポケットが多くて機能的な、格好いいベストよ。アベンジャーズの麗しき姫にはミリタリーが過ぎるかもしれないけれど」
エレーナの言葉は、相変わらず棘を貼り付けた大人の皮肉のトーンだった。だが、彼女の心音の周波数は、二度と通常の手段では会えないかもしれない異星の距離を前にして、ひどく脆く揺らいでいるのを私の生体センサーが検出した。
「ありがとう、エレーナ。最高のプレゼントね」
ナターシャはプラチナブロンドの髪を風に暴れさせながら、そのグリーンのベストを愛おしそうな眸で見つめ、自らのポケットに何か渡せるものがないかと、指先を精密に滑り込ませた。
だが、今の彼女の衣服のなかに、妹へのまっとうなクリスマスプレゼントなど残されてはいなかった。
ナターシャがポケットの底から辛うじて引き抜いたのは、シールドの支給品でもスタークのハイテクでもない、ただの使い古された、安物の金属製のオイルライター。
「私からはこれよ。……ちょっと火加減が強くて、扱いが面倒な代物だけど」
「はは……、本当に、お姉ちゃんはほんと下手くそね」
エレーナは小さく笑うと、そのライターを自分のベストの、無数にあるポケットのなかのひとつへと確実に格納した。
次の瞬間、2人の人間の姉妹は、どちらからともなく互いの身体を、その逞しい両腕でガッシリと強硬に抱きしめ合った。
私はその抱擁の時間を、完璧なエリンの無表情のまま、赤い瞳で静かにスキャンし、時計の針を1秒の遅延もなく刻み続けた。
「……ナターシャさん。別れの手続きは、現時刻を以て完了とします。これ以上の処理遅延は、私のステルス機の隠蔽マージンに不要なノイズを混ぜます」
私が冷たく声を滑り込ませた瞬間、2人はパッと、まるで寂しさを引き算するようにして身体を離した。
「行ってきて、エリン」
ナターシャはグリーンのベストを羽織り、プロのスパイとしての冷徹な顔を作り直すと、地球に残ることを自らの生存演算で選択した『9人のウィドウたち』を引き連れて、ハッチの開かれた『ステルス・アーク』のキャビンへと、無音の足取りで滑らかに移動を開始した。
◆ ◆ ◆
すべてのハッキングとドレイコフのパーツ化処理を終え、空中要塞レッドルームのメインコントロール室にて、私は空間跳躍の最終数式を起動させた。
地球に残ることを自らの生存演算で選択した3割のウィドウたちは、ナターシャと共にアジトの地上へと退避し、この要塞にはエレーナと7割の救出された少女たちが搭乗している。
「これより最大臨界で励起。……単独次元跳躍プロトコルを開始します」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な聲音。私がそう呟いた瞬間、衣服の下、全細胞の構造が1/1000秒のクロック数で強硬に破壊と再編成を開始した。
体内のフォトンブラッド生成系が通常の仕様値を遥かに置き去りにして沸騰し、室内の空気を一瞬で蒸発させるほどの白い水蒸気が立ち上る。
次の瞬間、眩い光の霧のなかから現出したのは、明るい金髪のボブカットを激しく翻し、頭に大きなピンクのリボン、そして白とピンクを基調としたフリルたっぷりのワンピースドレスを纏った私の姿――あの最終決戦形態。
「……な、何よそれ……っ!?」
目の前で起きたあまりにも場違いで、かつ空間そのものをビリビリと波立たせる怪物の羽化を前にして、エレーナはナイフを握る指先を完全に硬直させ、言葉を失って絶句した。
「空間跳躍に必要ですので、お構いなく」
私は右目に青空のクリアブルー、左目に怪物の業を灯した深く冷たい赤のオッドアイを静かに明滅させ、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。
「……あんた、……あんた一体、何歳なの……?」
エレーナの喉から、戦慄のあまり掠れきった、しかし本質的な問いが漏れ出る。
「今年で22歳になります。法的には完全な大人の仕様値です」
「にじゅうに……っ」
22歳。
その衣装とのギャップと著しい年齢の数字と、目の前で展開されている神話級の質量、オーディン・フォースのギャップに、エレーナは「にじゅうに…」とだけ呟いて完全に絶句した。
「――それでは、行きましょう。ベローワさん」
右手を虚空へ向けて滑らかに一閃させた、まさにその次のミリ秒。
ド、プゥゥゥゥンッ!!!
音も電波も外に漏らさない静寂の大爆発。空間の物理法則そのものがルーンの数式によって強硬にねじ曲げられ、純白とピンクの流体光子の極光が、全長数キロの巨大な空中要塞レッドルームの全質量を丸ごと包み込んで虚空へと収縮していった。
客観時間、わずか「1.2秒」。
巨大な城は、地球の引力という生温いインフラを完全に引き算し、何光年という距離を一瞬で置き去りにして、スクラル人たちの待つ約束の新天地――ニュー・スクラロスの座標へと、滑らかに、完璧な無傷の状態で強制転移・隠匿を完了した。
地上。
夜の湿ったアスファルトの上。
エレーナから譲り受けたグリーンのベストを羽織ったナターシャ・ロマノフ、そして地球での静かな日常を選択した9人のウィドウたちは、ただ静かに、夜空を見上げていた。
さっきまで分厚い積乱雲の奥に潜んでいたはずの、巨大な空中要塞。
それが純白とピンクの流体光子の流星となって一瞬にして夜空の雲を切り裂きながら消滅し、その美しい光の粒子が雨に混ざって消えていった。
それをプロのスパイではなくただのナターシャとして見届けフッと愛おしそうな眸を緩めた。
笑わない怪物と、新しい日常を手に入れた少女たち。すべての邪悪を引き算し終えた夜空に、冷たい雨の匂いだけが、どこまでも静かに共有されているのだった。
◆ ◆ ◆
異星間移動は地球の通常の手段、ロケットやスペースシャトルといった凡百のインフラでは100%到達不可能な壁に阻まれた手段。
かつて暗黒世界スヴァルトアールヴヘイルと呼ばれ、今はニュー・スクラロスの、ブラックホールの死の光線を優しい青白い光へと間引いた独特の空の下、冷たい風が青い宇宙植物の原生林を静かに揺らしていた。
エレーナは、スクラル人たちの暮らす緑の原生林、そして救出されたウィドウたちの先頭へと、自らの新しい役割の足取りで滑らかに歩み去っていった。
「スクラル人の皆さんには話をつけているのでご心配なく、アレクセイさんが出所出来たらまた来ますよ」
「その時はホームパーティーでもしましょう、それまでお母さんも見つけ出してといてよ!」
そう声を背中越しに返されて、私はそのまま地球に帰った。
ド、プゥゥゥゥンッ!!!
大気圏上層、世界樹の最果てに定着した建国プラント『ニュー・スクラロス』の青白い光を置き去りにして、次元の壁が再び強硬に反転ハックされた。
地球への帰還プロトコル。
私は金髪フリルの姿を解除し、元の黒いコートの仕様へと滑らかに擬態を復調させながら空中で待機している魔改造ステルス・アークの強固な鉄の機体の側へと落下。
その人外の剛腕でガシッと掴まった形で夜霧の中へと滑らかに帰還を完了した。
◆ ◆ ◆
ザザッ、とローファーの足を濡れたアスファルトへ突き、私は地上で待機していたナターシャ・ロマノフ、および地球残留を選択したウィドウたちの前へと歩み出た。
「ナターシャさん。……伝言の同期を執行します」
私は完璧なエリンの無表情のまま、冷え切った缶コーラを一口啜り、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。
「エレーナさんから、あちらの星でウィドウ達は彼女が100%責任を持ってなんとかすると。
それから、彼女が言っていました。あのうるさいオヤジが公式に釈放されたその日には、お母さんと一緒に、ホームパーティーを執行したい、と」
ナターシャがグリーンのベストの襟元を抑え、緑の瞳に言葉にならない愛おしそうな熱を灯して小さく頷く。私は視線を反転させ、後ろで怯えるように直立しているウィドウたちを赤い瞳で冷徹に射抜いた。
「そして、ここにいる皆さん。これからのあなた方の生活インフラについて、厳格な仕様値を登録してください」
エリンが言葉を投げかければアタッシュケースから彼女たちが住むためのアパートの鍵のセット、現金を彼女たちのポケットへ強硬に押し付けた。
「地味な生活と偽装就労、しばらくの間、私のウォール街の税金対策のために複数維持している、客が来ないニューヨークの寂れた喫茶店の店番として地味に暮らしなさい。
日常の再構築、 あなた方のルーツである家族の情報は、私の方で追跡しますのでまずは普通の感覚を取り戻す、学びなおすことから始めてください。
安易に高収入だからと傭兵や民間警備員といった、再び『暴力』に関わる仕事に就くことは断固として拒絶・禁止します。」
質問があればどうぞ、とエリンが言葉を投げかければおずおずと手があがるのだった。
◆ ◆ ◆
青いホログラムの光が冷たく明滅するコンパウンドのメインラボ。
「おかえりエリン」
「ただいまバナー博士」
顕微鏡のレンズから目を離したブルース・バナー博士が、手元にある莫大な額の製薬ラインの領収書の束をトントンと机に整え、深刻な大人の引きつった笑みを私へと向けた。
「今回の大量生産型中和剤の開発・量産コストの財務監査が終わったよ。君のオーダー通り、ウィドウたちの存在を世界へ一切表沙汰にしない方針の都合上、この経費は公式予算からは落とせない。……結論を言うよ」
バナー博士は眼鏡を指先で押し上げ、私の赤い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「総額450万ドル。全額、君のプライベート資金からの『完全な自腹』となる。……大丈夫かい?」
「問題ありません、バナー博士」
私は瞬きの回数を一秒に〇・八回に固定したまま、完璧なエリンの無表情で即答した。
「私の為替市場におけるアルゴリズム取引の利得からすれば、450万ドルなど、日常のセーフティを死守するための安い買い物にすぎません。その請求は正常値として受け入れ、私の個人口座から1秒で一瞬で全額補填・決済しますよ」
「買い物、ね。当たり前の日常の値段は人それぞれ違う。ウィドウ達は君が立て替えた事実を知っているのかな?君は気にしないのだろうが」
「いいえ、違いますよ、バナー博士」
私は冷え切った缶コーラを一口啜り、胃の腑がキンと冷える不快な感触を喉奥へと滑り込ませながら、平坦な声音を静かに滑り込ませた。
「あのドレイコフの空中要塞レッドルーム、あれを私の今回の労働対価として丸ごと私物化してしまいましたので、買い叩いた側の費用としては安上がりですよ」
「……は? 要塞を、私物化……?」
バナー博士は眼鏡を落としそうになって呆然と硬直。
天才の脳の全論理回路が完全にバーストし、彼の中の緑の怪物の衝動すらその不条理すぎる事後報告の前に静かに凪いでいくのを、私の生体センサーは明瞭に検出していた。
「それではお疲れ様でした。
バナー博士、今回は無茶を言ったのに協力してくださりありがとうございました。
貸し1でお願いしますね」
私は完璧なエリンの無表情のまま、黒いコートの裾を冷たく翻し、ラボの鉄扉を静かにあけ放った。
マクロな世界の邪悪はすべて世界の分母から引き算され、ナターシャの疑似家族の未来も、完璧な黒字の軌道でアジャスト確定した。
私はお母さんの待つヘルズ・キッチンの古いアパートへ、完璧な日常の記号である「ただいま」を告げるために、夜風のなかへと滑らかに歩み出すのだった。
◆ ◆ ◆
ガチャリ、と不器用な音を立てて、私は古い赤煉瓦のアパートの重い鉄のドアをゆっくりと押し開けた。
ニューヨーク、ヘルズ・キッチン。
深夜の室内に停滞していたのは、嗅ぎ慣れた安っぽい洗剤の匂いと、換気扇の低い唸り、そして微かに焦げ付いた油の匂い。
ブダペストの地から空中要塞の乗っ取り、そして何光年も離れた宇宙の最果てへの弾道往還をすべて無音で執行してきたあの地獄の盤面から、私はミリ単位の狂いもなく、完璧な黒字の軌道を描いて我が家へと帰還を完了していた。
「……おかえり、エリン。ずいぶんと遅かったじゃない」
玄関の明かりをつけた音に反応して、奥の薄暗いリビングから、エプロン姿のままソファでうたた寝をしていた母親が、眠そうに目を擦りながらゆっくりと立ち上がってきた。
私は前髪を目元にかかる長さに揃え、瞬きの回数を一秒に〇・八回に固定し、血の通わない平坦な声音をエリン・マクカシーの仕様値へと正確に同期させた。
「ただいま、お母さん。少しブダペストまでの出張手続きと害獣の処分報告書の作成に余計な処理コストを割かれてしまいました」
「害獣の処分は大変だものね。……はい、お疲れ様。座って、何か温かいものでも淹れるわね」
母親はクスクスと小さく笑うと、長机の上に一本の古ぼけたマグカップを静かに置いた。湯気と共にリビングに広がったのは、いつもの、安物の薄いコーヒーの苦い匂い。
私はソファに深く腰を下ろし、黒いコートの裾を整えると、その温かい液体をゆっくりと喉奥へ流し込んだ。胃の腑からじんわりと細胞を温めていく、不器用な人間の優しさ。
そのコーヒーの苦味を感じながら、私の脳内CPUはあのプラチナブロンドの姉妹、ナターシャとエレーナの、不器用な博愛の熱をふと思い出すようにして静かにデコードしていた。
20年以上の年月を、全く別の暗黒の檻の中で、他人の明日を奪う兵器としてすり潰されてきたかつて少女だった女性たち。その引き裂かれたカレンダーの時間を繋ぎ合わせることは、果たして本当に可能なのだろうか。
私はマグカップを両手で包み込んだまま、完璧な無表情のまま、ポツリと問いをリビングの空気に落とした。
「……お母さん。少し、事務作業の過程で不審に思った疑問があるのですが」
「ん? なに、エリン」
「もし、仮に。……幼い頃に離れ離れになって、20年以上の長い間、全く違う過酷な環境で生きてきた家族がいたとする。
その人たちが、ある日突然、また巡り合って『元の家族』に戻ろうとしたとき。……それはとても難しい作業だと思いますか?」
冷たく、血の通わない事務的な声音。
母親は、少し驚いたように首を傾げた。
それから優しく見つめ返し、静かな声をリビングに落とすようにして返した。
「そうねぇ……。20年も経っちゃったら、もうお互いにすっかり別の人間になってるんだから、昔と同じ形の『家族』にそのまま戻るなんて、まっとうな心を持った人間なら、それこそ不自然で難しいことなのかもしれないわね」
母親はクスクスと、愛おしそうに笑って、私の金髪から元の黒髪へと完全に擬態を戻したボブカットの頭を、そっと不器用な手つきで撫でた。
「でもね、エリン。元の形に戻る必要なんてないのよ。20年の空白があったって、新しく別の形で『これからまた家族になればいい』んだから。美味しいものを一緒に食べて、他愛のない話をして……そうやって新しい日常の思い出を1から積み上げていけば、いつの間にか、それがその人たちにとっての、世界で一番本物の家族の形になっていくものよ」
――脳内プロセッサに、微細な反響パルスを検出。
かつてエレーナがポケットの多いグリーンのベストを姉へ押し付け、ナターシャが安物のオイルライターを渡して補填し合っていた姿。
新天地で「お姉ちゃん」としての実務を引き受けたエレーナ、そして地球の日常を守り続けるナターシャ。彼らの支払ったコストの帳尻は、昔をやり直すためではなく、新しい明日を構築するためにこそ、完璧な黒字としてアジャストされていたのだ。
私にはその人間の精神のゆらぎを共感する回路は存在しない。
だが、母親のその言葉は、私の冷え切った論理演算回路の防壁の隙間に、決して引き算できない確かな人間らしさの余白を広げていく。
「……そうですか。もしそんな人がいたら、これからホームパーティーでもすればいいですね」
「もう、相変わらず変な子ね。ほら、冷蔵庫に昨日作ったハンバーグの残りがまだあるわよ」
「ええ。いただきます、お母さん」
私は居心地悪そうに少しだけ視線を外すと、コートを丁寧にハンガーへかけ、換気扇の唸るキッチンへと歩みを進めた。
笑わない怪物と、何も知らぬ無垢な母親。
ただただ愛おしい日常の生活音が静かに響き渡る。
お母さんの日常を守るための生存演算は、今夜も完全に、完璧な黒字のまま維持されていた。
◆ ◆ ◆
いつかの未来。
ドレイコフの自白によってアレクセイが釈放されてしばらくして。アレクセイ、『母親』のメリーナ、ナターシャ、エレーナが会食をしている。
場所は私が税金対策のマネーロンダリング用に保有している、普段は客が1人も来ない寂れた喫茶店の2階。
そこからは嗅ぎ慣れないロシア風の煮込み料理の匂いと、聞きなれない家族らしいノイズが絶え間なく漏れ出ていた。
私はそのテーブルにはつかず、黒いコートの裾を整えたまま1階のカウンター席にいた。
ストローを缶コーラから引き抜き、高カロリー栄養点滴のパックを経口補水液の代わりに無機質に喉へと流し込む。
極めて事務的な燃料給油。
「――おい、お嬢さん。2階の“国家の英雄”たちのパーティーには参加しないのか?」
カウンターの向かい側、完全に消灯した店内の暗がりの中で、無糖の缶コーヒーを啜っていた中年の男――ロシア政府から派遣されてきた、アレクセイ氏の『公式監視エージェント』が、苦笑交じりに声を落としてきた。
彼の心拍数は一分間に七十五回。
安定しているように見えて、2階から響くロシア初のスーパーソルジャーの地響きのような笑い声に対して、生身の人間としての確かな戦慄の匂いを肌から漂わせている。
「問題ありません、監視さん」
私は完璧なエリンの無表情のまま、紅い虹彩の瞳で男のサングラスを見返した。
「部外者である私があの場に混ざってもあまりにも場違いでしょう、2階にいる彼らにちょっかいをかけてくる連中を舞台袖で監視している方があるべき立ち位置です。なにより……」
私は生体組織を僅かに操作し、眼球の受光感度と聴覚を最大励起させ、天井の分子構造の隙間を透かして、2階の疑似家族のバイタルサインを断片的にスキャンし始めた。
「――美味い! 最高の味だ、メリーナ! 刑務所のクソみたいなスープに比べれば、ミレーナの味は世界一だな!」
クリーニングされた赤い戦闘服の胸元に、復権した国家の勲章をギラつかせたアレクセイが、大皿のボルシチを豪快に口へ運びながら、天井を震わせるような大声で吠えていた。
「アレクセイ、行儀が悪いわよ。あと今刑務所のスープと比べた?……ほら、エレーナ、あなたの分のサラダよ」
メリーナはエプロンを纏い、プロの生化学者ではなく主婦らしい精密な手つきで、大皿を並べていく。その向かい側の席では、エレーナから譲り受けたあのグリーンのベストを大切そうに羽織ったナターシャが、フォークを静かに動かしていた。
「ありがとう、メリーナ。……ほら、アレクセイ。いくら無罪放免になったからって、あんまりお皿を叩かないで。下の階で私の可愛い後輩が聴いてるんだから」
「ハハハ! 気にするなナターシャ、あの黒髪ボブのお嬢さんにも、後で俺から最高火力のウォッカでも奢ってやると伝えておけ! だがな、エレーナ。俺がこうして再び『レッド・ガーディアン』として日向へ戻れたのも――」
「パパ、その古い自慢話はもう聞き飽きた。……それにさ、いくら浮かれてるからって、その古臭い勲章をつけたまま食事するのは最高にダサいし、ウザイからからやめて。見てるだけで口の中が鉄の味がしそう」
プラチナブロンドの髪を短く編み込んだエレーナは、呆れたように口元を歪めながらも、その指先は、ナターシャから手渡されたあの安物のオイルライターの金属分子の冷たさを、ベストのポケットの中で愛おしそうに弄んでいた。
「エレーナ、いいじゃない。パパにとっては、それが唯一の『現役の証明』なんだから。大目に見てあげなさい」
ナターシャがワイングラスを傾けながら笑い、妹の肩をそっと優しく小突く。
ナターシャからアレクセイ、メリーナからエレーナ、そしてエレーナからナターシャへ。
20年の空白を埋めるための、不器用で、損得の帳尻が1ミリも合わない人間の疑似家族の会話の並び。
「……人間という生物の精神構造は、本当に理解しがたいバグで満ちていますね」
私は2階からの断片的な心音の揺らぎを脳内CPUで処理しながら、カウンターの上のコーラの缶を静かに弄んだ。
「たった3年間の疑似家族、それを20年も引き離され、別の暗黒の檻ですり潰されてきた個体群が、ある日突然、また『家族』を再演しようとしている」
怪物の少女は自宅にいるだろう母親の事を思浮かべる。
あれを自分が破綻しないために守護する必要があるインフラであると定義し、それ以上の何かがあるか自問自答しようとしたが、やめた。
勝った!ブラックウィドウ編完!!
段々とお気づきかもしれませんが生身の状態の身体能力≧通常ファイズになってきています。
もともとファイズの性能が低い方だからね、しょうがない…のか?
今回は夏目漱石の作品のパロ、懐かしいね