『上杉家の天才双子の弟は、五つ子たちを見捨てない』 作:夜幻
「……じゃあ、始めるぞ」
風太郎がテーブルの上に五冊の問題集を並べた。
数学、英語、国語、理科、社会。
五人分。
それぞれの名前が表紙に書かれている。
「うわぁ……」
四葉が露骨に顔を引きつらせる。
「これ、全部やるんですか?」
「全部だ」
「ひえぇ……」
「大げさね、四葉」
一花が頬杖をつきながら笑う。
「でもまあ、確かに多いよね」
「多いとか少ないとかいう話じゃない」
風太郎は腕を組んだ。
「お前らは五人とも、現状のままじゃ進級すら危うい。まずは基礎から叩き直す必要がある」
「またそれ?」
二乃が眉をひそめる。
「人の成績を勝手に見て、危ないだの何だの……。ほんっと失礼よね」
「事実を言っているだけだ」
「そういうところが嫌いなのよ!」
「はいはい」
二人の間に、いつものような火花が散る。
その隣で、孝鷹は苦笑していた。
「風太郎」
「あ?」
「ちょっとだけ順番を変えない?」
「順番?」
「うん」
孝鷹は五冊の問題集を指差した。
「いきなり全部やるんじゃなくて、まず五人が『どこで止まってるのか』を探そう」
「……そんなことしている時間があるのか?」
「あるよ」
即答だった。
風太郎が孝鷹を見る。
「お前は甘すぎる」
「かもしれない」
孝鷹は笑った。
「でも、できないところを知らないまま問題を解かせても、たぶん途中で嫌になる」
「……」
「だったら、最初に迷子になってる場所を探そう」
風太郎は黙った。
やがて、ため息をつく。
「……好きにしろ」
「ありがと、兄さん!」
「礼を言うな。別に認めたわけじゃない」
「はいはい」
孝鷹は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、五人も少しだけ表情を緩める。
「じゃあ、一人ずついこうか」
孝鷹は最初に四葉へ向き直った。
「四葉」
「はい!」
「この問題、解いてみて」
渡されたのは数学の一次方程式。
四葉は勢いよく鉛筆を握った。
「任せてください!」
カリカリカリ。
最初は快調だった。
ところが。
「……ん?」
手が止まる。
「どうしました?」
「えっと……」
四葉の眉間に皺が寄った。
「ここから、どうするんでしたっけ?」
「そこが苦手なんだな」
「はい……」
四葉はしゅんと肩を落とす。
「私、頭悪いので……」
その言葉に、孝鷹の表情が少し変わった。
「四葉」
「はい?」
「今の言葉、禁止」
「え?」
「『頭悪い』って、自分で自分に言うのは禁止ね」
孝鷹は四葉のノートを指で軽く叩いた。
「だって、今の四葉はちゃんと途中まで解けてたじゃん」
「……」
「できないんじゃない。『ここから先を知らない』だけ」
「……同じじゃないですか?」
「全然違うよ」
孝鷹は笑った。
「知らないなら、覚えればいい」
その言葉に、四葉が目を丸くする。
「……覚えれば」
「うん」
「できるようになりますか?」
「なるよ」
「本当に?」
「本当」
「絶対?」
「絶対」
四葉の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、やります!」
「よし!」
拳を握る孝鷹。
「その意気!」
「はい!」
「……単純だな」
風太郎が呆れたように呟く。
「兄さん、聞こえてるよ?」
「聞こえるように言った」
「ひどい!」
四葉が笑う。
その笑い声を聞きながら、孝鷹は次の問題を四葉の前に置いた。
「じゃあ、もう一回」
「はい!」
今度は、四葉が自分から鉛筆を動かし始めた。
「……なるほど」
風太郎が小さく呟く。
「最初から解法を教えるんじゃなく、本人に『できる』と思わせてから教えるのか」
孝鷹は聞こえていたが、答えなかった。
次は一花だった。
「じゃあ、お姉さんの番かな」
一花は問題集を受け取ると、軽く目を通す。
「英語ね」
「うん」
「これは……うーん」
一花は数秒考えてから、鉛筆を置いた。
「無理」
「早いな!」
孝鷹が思わず笑う。
「だって英語苦手なんだもん」
「苦手って、どこが?」
「全部」
「全部?」
「うん」
一花はにっこり笑った。
「英語って見るだけで眠くなる」
「なるほど」
孝鷹は問題文を覗き込んだ。
「一花は英単語が苦手なんじゃない?」
「……なんで分かるの?」
「問題を見たとき、文法じゃなくて単語のところで目が止まってた」
「……」
一花は少し驚いた顔をした。
「よく見てるね」
「まあね」
孝鷹は胸を張る。
「観察は得意なんだ」
「ふふっ」
一花が笑った。
「じゃあ、孝鷹くんに任せてみようかな」
「もちろん」
孝鷹は英単語をいくつか抜き出した。
「これ、全部覚えなくていいよ」
「え?」
「まず五個」
「五個だけ?」
「五個覚えたら、次の五個」
一花は目を細める。
「それならできそう」
「でしょ?」
「うん」
その隣で二乃が口を挟んだ。
「ちょっと」
「ん?」
「一花にはずいぶん優しいじゃない」
「そう?」
「そうよ」
二乃は腕を組む。
「四葉にもそうだったし」
「二乃にも同じようにするよ?」
「……」
「?」
「……別に」
二乃はぷいっと顔を逸らした。
だが、耳が少し赤い。
「じゃあ次は二乃ね」
「私はいい」
「え?」
「勉強なんて嫌いだもの」
二乃は問題集を押し返した。
「やりたくない」
「そっか」
孝鷹は無理に取らなかった。
「じゃあ、どうして嫌なのか教えて?」
「……」
「怒らないから」
「……」
「風太郎も」
「俺を巻き込むな」
「でも兄さんも聞くでしょ?」
「……まあな」
二乃はしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……馬鹿にされるのが嫌なのよ」
「誰に?」
「先生とか、周りの人とか」
二乃は視線を落とす。
「できないって分かってることを、できないって言われるのが一番嫌」
孝鷹は黙って聞いた。
それから、柔らかく笑った。
「じゃあ、俺は言わない」
「……え?」
「二乃が分からない問題を解けなくても、『馬鹿』なんて言わない」
「……」
「その代わり」
孝鷹は問題集を一冊、二乃の前へ置いた。
「分からないところは、一緒に探そう」
二乃は問題集を見つめる。
「……ほんと?」
「うん」
「絶対?」
「絶対」
「……」
二乃はしばらく黙ったあと。
「……一問だけなら」
そう言って、問題集を引き寄せた。
「よし!」
孝鷹が嬉しそうに拳を握る。
「じゃあ一問!」
「うるさい」
「ごめん!」
「……でも」
二乃は小さく笑った。
「その顔、昔から変わらないわね」
「昔?」
「……なんでもない」
二乃はすぐに視線を問題へ戻した。
孝鷹は少し首を傾げたが、追及しなかった。
次は五月。
「五月は……」
「私は大丈夫です」
「本当に?」
「もちろんです」
五月は胸を張った。
「私は勉強が好きですから」
「じゃあ、この問題」
孝鷹が数学の問題を差し出す。
五月は迷いなく解き始めた。
カリカリカリ。
そして。
「……できました」
「うん」
孝鷹は答案を見る。
「計算ミス」
「え?」
「ここ」
「……あ」
五月の顔が固まった。
「……」
「惜しい」
「……」
「五月?」
「……悔しいです」
「うん」
「すごく悔しいです」
五月は答案を握りしめた。
「勉強が好きなのに、間違えるなんて……」
孝鷹は苦笑した。
「五月」
「はい」
「勉強が好きだからこそ、間違えるのが嫌なんだね」
「……」
「でも、間違いは悪いことじゃないよ」
「……本当ですか?」
「本当」
孝鷹は笑う。
「間違いは、正解を覚えるための目印だから」
五月は黙って答案を見る。
「……目印」
「うん」
「では……」
五月は鉛筆を握り直した。
「もう一度、やります」
「うん!」
「今度こそ正解します!」
「その調子!」
そして最後に、Miku。
「……私?」
「うん」
孝鷹は一冊の問題集を渡した。
「Mikuは社会から」
「……歴史?」
「もちろん」
Mikuの目が少しだけ輝く。
「戦国時代」
「正解」
「……分かる」
「じゃあ、この問題」
Mikuは問題を読む。
『黒田官兵衛の幼名は――』
「……」
一瞬。
Mikuの鉛筆が止まった。
「……」
「どうした?」
「……孝高」
「ん?」
「黒田官兵衛の諱は黒田孝高」
Mikuは静かに答えた。
「如水は号」
「そうそう!」
孝鷹の顔が一気に明るくなる。
「さすがMiku!」
「……ふふ」
Mikuの口元がほんの少し緩んだ。
「孝鷹は、如水のこと好きだもんね」
「大好き!」
即答だった。
「黒田如水は本当にすごいんだよ! 武力だけじゃなくて、人の心を読んで、敵を味方に変えて――」
「……分かる」
Mikuの声が少しだけ弾む。
「如水は、相手を力で押さえつけるだけじゃない」
「うん」
「相手が何を考えているのかを見て、その上で動く」
「そう!」
二人の会話がどんどん加速していく。
「播磨時代の交渉も――」
「うんうん!」
「中国大返しのときも――」
「それそれ!」
「……」
風太郎が二人を見る。
「お前ら、勉強しているのか?」
「してるよ!」
「してる」
声がぴったり重なった。
風太郎は呆れたようにため息をつく。
「……まあいい」
だが。
その直後だった。
Mikuがぽつりと言った。
「……孝鷹」
「ん?」
「歴史以外も、こういうふうにできたらいいんだけど」
「できるよ」
「……簡単に言う」
「簡単じゃないよ」
孝鷹は笑わなかった。
真っ直ぐにMikuを見る。
「だから、一緒にやろう」
「……」
「歴史で覚えられるなら、他の教科にもMikuが覚えやすい形があるはずだよ」
Mikuは少し考えた。
そして。
「……やってみる」
小さな声だった。
それでも。
確かな一歩だった。
五人の前に、それぞれの問題集が開かれている。
まだ、成績が上がったわけじゃない。
まだ、勉強が好きになったわけでもない。
けれど。
「じゃあ次の問題だ」
風太郎が言う。
「全員、一問ずつ解け」
「ええ……」
一花が苦笑する。
「もう一問?」
「当たり前だ」
「はいはい」
「やります!」
四葉が元気よく手を挙げる。
「私も!」
五月も続く。
「……一問だけなら」
二乃も鉛筆を握る。
「私も……やる」
Mikuも問題集を開いた。
その光景を見て、孝鷹は満面の笑みを浮かべた。
「うん」
風太郎が横目で弟を見る。
「何だ」
「いや」
孝鷹は五人を見ながら笑った。
「やっぱり、みんなちゃんとやればできるんだなって」
「まだ一問だぞ」
「一問できたなら、次の一問ができる」
「……」
風太郎は何も言わなかった。
ただ、自分の問題集を開く。
そして五人を見渡した。
「よし。次だ」
五人の鉛筆が、一斉に動き始める。
最初はほんの一問。
けれど。
それが、五人にとっての最初の一歩だった。