『上杉家の天才双子の弟は、五つ子たちを見捨てない』 作:夜幻
テストまで、あと三日。
「よし。今日はここまでにする」
上杉家のリビングに、風太郎の声が響いた。
机の上には参考書と問題集。
五人分のノートには、以前とは比べ物にならないほど多くの書き込みがある。
「えっ、もう終わりですか?」
五月が顔を上げる。
「終わりだ。むしろ、ここから先まで詰め込んだら効率が落ちる」
「さすが風太郎君。珍しくまともなこと言うね」
「珍しくは余計だ、一花」
風太郎が眉間に皺を寄せる。
その横で、孝鷹は大きく伸びをした。
「ふぁ~……!」
「孝鷹、眠いの?」
「ちょっとだけ。でも、それ以上に身体を動かしたい!」
そう言った瞬間だった。
孝鷹のスマートフォンが震える。
「あ、部長からだ」
「部活か?」
「うん。明日、練習試合なんだ」
その言葉に、四葉が勢いよく立ち上がった。
「練習試合ですか!?」
「うん。弓道部の」
「見たいです!」
即答だった。
「四葉、食いつくの早すぎ」
二乃が呆れたように言う。
「だって孝鷹さん、弓道部のエースなんですよね! 一度見てみたいです!」
「まあ、俺としては見られるの恥ずかしいけどね」
「嘘つけ」
風太郎が即座に突っ込んだ。
「お前、褒められるとすぐ調子に乗るだろ」
「そんなことないって!」
「昨日、俺が『今回の教え方は悪くなかった』って言ったら、三十分くらいニヤニヤしてただろ」
「だって兄に褒められるの嬉しいじゃん!」
「そこを否定しろ!」
リビングに笑い声が広がる。
その様子を見ていた五人も、自然と表情を緩めていた。
「……でも」
五月が小さく手を上げる。
「勉強の息抜きになるのでしたら、私も見てみたいです」
「五月まで?」
二乃が少し意外そうに振り返る。
「はい。ずっと机に向かっているだけでは、かえって疲れてしまいますから」
「それなら私も行く!」
一花が手を挙げる。
「お姉さん、弟くんの勇姿を見届けちゃおうかな」
「私も行きます!」
四葉が元気よく続く。
「……私も」
最後に三玖が呟いた。
全員の視線が三玖へ集まる。
「……なに?」
「いや、三玖も来るんだなって」
「……孝鷹の弓道、見たいから」
そう言って、三玖はそっと視線を逸らした。
その耳が、ほんの少しだけ赤くなっている。
「じゃあ決まりだね!」
孝鷹が笑った。
「明日はみんなで応援してよ!」
「任せてください!」
「まあ、暇つぶしにはなるわね」
「ふふっ。楽しみだね」
「……うん」
五人それぞれの返事が重なった。
風太郎だけが、ため息をつく。
「……お前ら、テストのこと忘れてないだろうな?」
「もちろんです!」
「本当に?」
「もちろんです!」
「四葉、お前は特に怪しい」
「ええっ!?」
また笑い声が起きた。
翌日。
学校の弓道場。
孝鷹は弓道着に着替えながら、いつものように笑っていた。
「いやー、今日はちょっと緊張するなぁ」
「孝鷹さんでも緊張するんですか?」
四葉が目を丸くする。
「そりゃするよ。俺だって普通の人間だからね」
「……でも」
五月が孝鷹を見る。
「昨日、風太郎君が『孝鷹は試合になると別人みたいになる』と言っていました」
「風太郎が?」
「余計なこと言いやがって」
後ろから風太郎が現れた。
「実際そうだろ」
「そうかな?」
「そうだ」
風太郎は腕を組む。
「普段はあんなに騒がしいくせに、弓を持った途端に周りが見えなくなる」
「いやいや、ちゃんと見えてるよ?」
「そういう意味じゃねぇ」
風太郎が呆れたように言う。
「集中力が異常なんだよ」
「へぇ……」
二乃が興味深そうに孝鷹を見る。
「それはちょっと見てみたいかも」
「二乃まで?」
「何よ」
「いや、珍しいなって」
「……別に。ちょっと興味があるだけよ」
そう言いながら、二乃は孝鷹から目を逸らさない。
少し離れた場所では、三玖が静かに弓を眺めていた。
「……黒田如水も、弓を使ったのかな」
「そこ?」
一花が苦笑する。
「三玖らしいけど」
「……戦国時代の武将が使った武器は気になる」
「なるほど」
孝鷹は笑った。
「じゃあ今日の俺は、黒田如水の代わりに頑張るよ」
「……うん」
三玖は小さく頷いた。
やがて、試合が始まった。
観客席から、射場を見る。
孝鷹が立っている。
「……あ」
五月が声を漏らした。
さっきまで笑っていた孝鷹が、静かに目を閉じている。
呼吸を整える。
一歩。
また一歩。
弓を構える。
その瞬間。
表情が変わった。
「……」
いつもの明るい笑顔は消えている。
けれど、冷たいわけではない。
ただ、目の前の一本に全神経を集中させている。
二乃は、思わず息を止めた。
「……何よ、あれ」
「二乃?」
「……反則じゃない?」
一花が首を傾げる。
「何が?」
「普段あんなにニコニコしてるくせに……」
二乃は頬杖をついた。
「弓を持ったら、急にあんな顔するなんて……」
「ふふっ」
一花が小さく笑う。
「二乃、顔赤いよ?」
「赤くない!」
「赤いよ」
「うるさい!」
その横では、三玖も孝鷹から目を離せずにいた。
「……綺麗」
「三玖?」
「弓を引く動き」
三玖は小さく呟く。
「無駄がない。力任せじゃなくて……全部、必要なところだけ動いてる」
「へぇ」
「……孝鷹らしい」
そして五月は、じっと孝鷹を見つめていた。
弓を引く。
狙いを定める。
静寂。
次の瞬間――。
放たれた矢が、的の中心へ吸い込まれた。
「……!」
四葉が立ち上がった。
「すごいです!」
「四葉、座って」
「あっ、すみません!」
周囲から小さな拍手が起こる。
孝鷹は一度だけ息を吐いた。
そして、次の矢を番える。
二射目。
三射目。
一本、また一本。
矢が的を捉えていく。
「……本当に上手いんだ」
一花が感心する。
「ただ上手いだけじゃないですね」
五月が続けた。
「毎回、同じように見えて……微妙に違う」
「へえ。五月、よく見てるじゃない」
二乃が言う。
「はい。孝鷹君は、毎回自分の状態を確認しているんだと思います」
五月は真剣だった。
「風の強さや、自分の呼吸。姿勢。そういうものを全部考えて……それでも最後は、自分を信じて放っている」
「……五月」
「はい?」
「なんか、すごく詳しくなってない?」
「えっ?」
五月が固まる。
「い、いえ! 別に私は……!」
「ふふ」
一花が笑う。
「五月も孝鷹のこと、よく見てるんだね」
「そ、そういう意味ではありません!」
慌てる五月。
その様子を見ながら、二乃は小さく笑った。
「……まあ、分からなくもないけど」
「二乃まで!?」
「だって……」
二乃は再び射場を見る。
「……あれは、ずるいでしょ」
その視線の先で。
孝鷹は最後の一本を放っていた。
的の中心。
静かに矢が刺さる。
試合終了の合図。
孝鷹が深く礼をした。
そして――。
「よっしゃあああっ!」
突然、両手を上げて笑顔になった。
「勝ったぁ!」
「……」
「……」
「……」
五人が一斉に沈黙する。
さっきまでの凛とした空気が、一瞬で消えた。
「……戻った」
一花が呟いた。
「いつもの孝鷹さんです!」
四葉が笑う。
「なんだよ、その言い方!」
孝鷹が笑いながら近づいてくる。
「いやー、緊張した!」
「全然そう見えなかったけど」
二乃が言う。
「本当? 手、めちゃくちゃ震えてたんだよ」
「嘘」
「本当だって!」
孝鷹は両手を広げる。
「ほら!」
「……分からないわよ」
二乃がその手を見る。
「でも……」
「ん?」
「……かっこよかった」
「え?」
二乃は一瞬固まった。
「……な、なんでもない!」
「今、かっこいいって――」
「聞き間違いよ!」
二乃は顔を真っ赤にして背を向けた。
「二乃?」
「近寄らないで!」
「なんで!?」
孝鷹が困ったように笑う。
三玖はその様子を見て、小さく笑った。
「……二乃、素直じゃない」
「三玖!」
「でも」
三玖は孝鷹を見る。
「……本当に、かっこよかったよ」
「三玖まで!?」
今度は孝鷹の顔が赤くなる。
「ありがとう!」
嬉しそうに笑う。
「いやー、頑張ってよかった!」
その笑顔を見て、三玖は少しだけ目を細めた。
――やっぱり。
昔から変わらない。
自分たちが何かを頑張ったとき。
孝鷹は、いつも嬉しそうに笑ってくれる。
それが、三玖には嬉しかった。
「孝鷹君」
五月が声をかける。
「ん?」
「これ……」
五月が差し出したのは、タオルだった。
「汗、かいていますから」
「ありがとう!」
孝鷹は素直に受け取った。
「助かるよ、五月」
「……はい」
五月の胸が、小さく跳ねる。
「それと、水もあります」
「本当に?」
「はい」
「ありがとう!」
孝鷹が嬉しそうに受け取る。
「やっぱり運動した後の水って美味しいなぁ!」
「……ふふ」
五月は思わず笑った。
「何?」
「いえ……孝鷹君は、昔から変わらないなと思って」
「そうかな?」
「はい」
五月は、昔の京都を思い出す。
困っていた自分に笑いかけてくれた男の子。
何も否定せずに、話を聞いてくれた男の子。
そして今も。
こうして笑っている。
「……これからも」
「ん?」
「頑張ってくださいね」
「もちろん!」
孝鷹は胸を張った。
「でも、その前に!」
ぐうううう……。
「……」
全員が孝鷹を見る。
「お腹空いた」
「……ふふっ」
一花が吹き出した。
「台無しだよ、孝鷹」
「だって弓道って結構お腹減るんだよ!」
「……仕方ないですね」
五月が鞄を持ち直す。
「でしたら、何か食べに行きませんか?」
「いいの!?」
「私も行きたいです!」
「私も!」
「……私も」
「まあ、いいんじゃない?」
二乃も頷いた。
風太郎は呆れたようにため息をつく。
「お前ら、明後日テストだからな」
「分かってるよ」
孝鷹は笑った。
「今日はちゃんと息抜き。帰ったら勉強!」
「本当だな?」
「本当!」
そして孝鷹は、五人を見る。
「次は、みんなの番だよ」
「……?」
「テスト」
孝鷹は拳を握った。
「今度は五人が、頑張った成果を見せる番!」
四葉が笑顔になる。
「はい!」
五月も頷く。
「……分かりました」
二乃は少しだけ目を逸らして。
「……まあ、やってあげるわよ」
三玖は静かに。
「……うん」
一花も笑う。
「じゃあ、頑張ろっか」
風太郎は五人を見渡した。
以前とは違う。
誰も「勉強なんて嫌」と言わない。
誰も逃げようとしない。
まだ完璧ではない。
それでも――。
五人は、自分たちの足で前へ進み始めている。
「よし」
風太郎が問題集を抱え直す。
「明日から総仕上げだ」
「ええっ!?」
「休みは今日だけだ」
「風太郎君、鬼!」
「うるせぇ!」
その横で、孝鷹は声を上げて笑った。
――テストまで、あと二日。
五人の努力が、いよいよ試される。