第四話です。
勝手に弟子入りしてきた美少女について行った刀也。
ようやく彼は知ります。
拾ってくれた相手が、この世界でどんな扱いをされているのかを。
「師父」
「その呼び方、本当に続けるの?」
「師は師だ」
「俺、まだ弟子入り認めた覚えないんだけど」
「では、認められるまで師父と呼ぶ」
「理屈がおかしい」
梔子刀也が何度目か分からない抗議をしたものの、ハクア・シラサギが考えを改める様子はなかった。
旧シノノメ遺跡群を離れてから、すでに一時間ほど歩いている。
一億年後の地球。
そう理解したところで、目に映るものを素直に地球のものだと思えるかは別問題だった。
刀也の頭上では、翼を広げれば小型飛行機ほどありそうな鳥が旋回している。少し離れた場所には青白い毛を持つ小動物の群れが走り、木々の隙間には、花なのか虫なのか判断に困る発光体がふわふわと漂っていた。
道らしきものもない。
それなのにハクアは迷いなく森の奥へ進んでいく。
刀也もその後ろについて歩いていたが、しばらくすると自分自身の身体に意識が向いた。
「…………おかしいよな」
「何がだ」
「いや、俺」
刀也は歩きながら自分の両手を見る。
指を握る。
開く。
何の違和感もない。
「一億年寝てたんだよな?」
「装置の記録が正しいのであれば、そうなる」
「だったら俺、こんな普通に歩けるのおかしくない?」
目覚めた直後から、ずっと引っかかっていた。
寝たきりになった人間は筋力が落ちる。
それくらいは刀也にも分かる。
コールドスリープがどんな技術だったのかは知らないが、少なくとも一億年眠った人間が、目覚めた直後から森の中を一時間も歩き続けるのは明らかに普通ではない。
そもそも一億年どころか。
「俺、腹も減ってないんだよな」
刀也は腹へ手を当てた。
研究施設で目覚めた直後には喉の渇きを感じた。
口の中も乾いていた。
しかし、あれから水を飲んでいないにもかかわらず、耐え難いほどの渇きにはなっていない。
空腹に至っては、ほとんど感じなかった。
「普通なら腹ペコどころじゃないだろ。一億年分食べてないんだから」
「一億年分を食べる必要はないと思うが」
「分かってるよ!」
真面目に訂正されてしまった。
「そういう話じゃなくてさ。何かこう、もっと身体がボロボロになっててもおかしくないっていうか」
腕を回してみる。
肩は痛くない。
膝も平気。
走れと言われれば、おそらく普通に走れる。
疲労らしい疲労も、今のところ足に僅かな重さを感じる程度だった。
しかも先ほどは、羞恥のあまり本当に血まで吐いた。
それなのに現在は胸も胃も痛くない。
「俺の身体、どうなってんだ?」
呟く。
冗談めかした声にはなったが、内心ではかなり気味が悪かった。
コールドスリープ装置が完璧に肉体を維持していた。
そう考えれば説明はできる。
だが。
一億年である。
そんな装置が、廃墟になった施設の中で一億年ものあいだ正常に動き続けたというのか。
「師父」
「だからその呼び方……何?」
「手を」
「手?」
「出してくれ」
刀也が右手を差し出すと、ハクアはその手首を掴んだ。
「何してるの?」
「診ている」
「診察できるの?」
「簡単なものならば」
ハクアは刀也の手首に指を当て、しばらく黙る。
「脈は正常だ」
「だろうね。俺も元気な感じするし」
「体温も異常なし。気の巡りは――」
「気?」
「…………妙だ」
「そこで止まらないでくれる?」
ハクアが僅かに眉を寄せた。
「気が乏しい」
「それって悪いこと?」
「本来ならば」
「本来なら?」
「この程度であれば、先ほどの森を歩くだけでも息が上がる」
「え」
「まして妖魔の瘴気に晒され、我の極星凍剣術の余波を受け、その後も一刻近く歩き続けている。普通ならば多少の不調は出る」
「俺、普通なんだけど」
「だから妙だ」
「怖いこと言うなよ……」
ハクアはしばらく刀也を見たあと、手を離した。
「少なくとも今すぐ倒れる兆候はない」
「その言い方も怖いんだけど」
「だが無理はするな」
「してないよ。むしろ何でこんな元気なのか俺が聞きたい」
刀也は再び歩き始めた。
考えても答えは出ない。
義母が何かした。
あのコールドスリープ装置に秘密がある。
あるいは一億年という異常な時間そのものに原因がある。
どれも今の刀也には確かめようがなかった。
「まあ、元気なら今はいいか」
「よくはない」
「今調べようがないんだから仕方ないだろ」
「それはそうだが」
「ハクアって意外と心配性?」
「師の身を案じるのは弟子として当然だ」
「そこへ全部繋げるな」
そんなやり取りをしながら森を進む。
やがて刀也は、別の違和感に気づいた。
口の中が先ほどより乾いている。
舌で唇を湿らせる。
「……水ってある?」
ハクアが即座に振り向いた。
「喉が渇いたのか」
「ちょっと。目覚めてから何も飲んでないし」
「なぜ早く言わなかった」
「そんな怒らなくても」
「水分を失えば身体に支障が出る」
「それは一億年前から同じだよ」
ハクアが腰の小袋から細長い筒を取り出した。
竹にも似ているが、表面は青白く硬質で、蓋には細かな紋様が刻まれている。
「飲め」
「ありがとう」
受け取って一口。
「…………うま」
ただの水だった。
少なくとも味は。
冷たく、癖もない。
一口飲んだ途端、自覚していなかった渇きが一気に表へ出てきたのか、身体がもっと水を求めた。
刀也は二口、三口と飲む。
「待った」
ハクアが筒を押さえる。
「一度に飲みすぎるな」
「え?」
「長く飲食していなかった可能性がある」
「ああ……」
言われて初めて気づく。
一億年眠っていた。
その間、装置がどうやって身体を維持していたのかは知らない。
目覚めて元気だからといって、いきなり大量に飲食していい保証もない。
「ハクア、そういうところちゃんとしてるな」
「当然だ」
「でも俺の身体、今まで普通すぎたせいで忘れてた」
もう一度、少量だけ水を口にする。
すると喉から胃へ冷たいものが落ちていく感覚が、妙に鮮明だった。
「……あ」
その瞬間。
腹の奥が小さく動いた。
「ん?」
「どうした」
「いや、何か今……」
ぐう。
小さな音が鳴った。
刀也は腹を見下ろした。
「…………」
ハクアも見ている。
「腹、減ってきたかも」
「今?」
「水飲んだら急に」
それまでは眠っていた感覚が、水をきっかけに動き始めたかのようだった。
胃の奥に空洞ができたような感覚がある。
ただし猛烈な空腹ではない。
まだ「何か食べたい」と思う程度だ。
「身体が覚醒しきっていなかったのか?」
「俺に聞かれても分からないよ」
刀也は腹を撫でた。
奇妙だ。
目覚めた直後ではなく、時間が経つにつれて喉の渇きや空腹が少しずつ戻ってきている。
まるで肉体が、長すぎた眠りから段階的に通常運転へ移っているようだった。
「とりあえず家着いたら何か食べさせて」
「無論だ」
「普通のやつね」
「最良のものを用意する」
「普通って言ったよね?」
「師父へ粗末なものは出せぬ」
「今の俺に必要なの、豪華さじゃなくて胃に優しいやつだから!」
刀也は思った。
一億年後の世界で最初に欲しいものが、お粥になりそうだとは予想していなかった。
「なあ」
「何だ」
「ハクアの家って、まだ遠い?」
「もうすぐだ」
「その『もうすぐ』って何分くらい?」
「この速度なら半刻ほど」
「半刻」
聞き慣れない単位に刀也は眉を寄せた。
「だいたいどのくらい?」
「太陽がこれほど動く程度だ」
「時計がない文化圏の説明!」
ハクアが空を指差している。
現代人には非常に分かりづらい。
「もしかして時計ないの?」
「ある」
「あるんじゃん!」
「時環なら持っている」
ハクアが袖から小さな金属製の輪を取り出した。指輪より大きく、腕輪より小さい。中央部分には透明な石がはめ込まれ、その内部に数字らしき光が浮かんでいる。
どう見ても普通の時計より技術レベルが高そうだった。
「最初からそれ見せてよ」
「必要だったのか」
「むしろ太陽の位置で説明する必要がなかったよね?」
「そうか」
「そうだよ」
刀也はため息をついた。
会話は成立する。
言葉も通じる。
しかし細かい常識が絶妙に噛み合わない。
一億年という隔たりを考えれば、言葉が通じるだけでも奇跡なのだろうが、それについて考え始めると新しい疑問が十個くらい増えそうなので今は保留にした。
「ところでさ」
歩きながら、刀也は前を行くハクアの背中を見る。
「俺、まだハクアのことほとんど知らないんだよな」
「そうだな」
「職業とかあるの?」
「職業」
「仕事。普段何して生活してるの?」
刀也としては何気ない質問だった。
あれほど強いのだから傭兵や冒険者のような仕事でもしているのだろうか。腰に剣を差し、危険な禁足地へ一人で入るくらいなのだから、それらしい職業である可能性は高そうだ。
「特に何もしていない」
「無職?」
「むしょく?」
「仕事してない人」
「ならば、そうなる」
「仲間だ!」
「師父も仕事をしていないのか」
「学生だったから!」
一瞬芽生えた仲間意識は速やかに訂正しておく。
「でも生活費どうしてるんだ?」
「必要なものは持ってくる」
「どこから?」
「国から」
「…………国から?」
「そうだ」
さらりと言われ、刀也は首を傾げる。
「それって年金みたいなもの?」
「ネンキンが何かは分からぬが、各国が定期的に届けてくる」
「各国?」
「そうだ」
「一つじゃなくて?」
「少なくともこの大陸では七国。別大陸からも届く」
「待って」
雲行きが怪しい。
「なんで複数の国がハクアに生活費送ってるの?」
「我が求めたことはない」
「向こうが勝手に?」
「そうだ。断っても置いていく」
「何それ怖い」
今のところ、税金で養われているどころか複数国家から勝手に貢ぎ物を送りつけられている謎の無職である。
もっとも、先ほどの戦闘を思い出せば、ただの無職ではないことくらい分かる。
「もしかして有名人?」
「名は多少知られている」
「多少ねえ」
ハクアは自分から話を盛るような性格には見えない。
ならば本当に、少し名の知れた剣士なのだろう。
少なくとも刀也は、この時点ではそう思った。
森をさらに進むと、景色が少しずつ変わり始めた。
巨大な木々の間隔が広がり、地面には人工的に並べられた石が見えるようになる。やがて石畳らしき道が現れた。
「お、道だ」
「ここから白鷺峰へ入る」
「白鷺峰?」
「我の住む山だ」
「山に住んでるんだ」
刀也は前方を見た。
森の向こうに、巨大な山がそびえている。
頂上付近は薄い雲に隠れていた。
「…………あれ?」
「そうだ」
「いや待って。家まであとちょっとって言ってなかった?」
「言った」
「山の頂上、めちゃくちゃ遠いんだけど」
「問題ない」
「誰にとって?」
「我にとって」
「俺には大問題だよ!」
この女、自分の身体能力を基準に距離を測っている。
さっき妖魔より速く動いた人間と、現代日本の高校生を同じ基準にしないでほしい。
もっとも、一時間近く森を歩き続けている割に刀也自身もほとんど息が上がっていない。
喉の渇きと空腹は少しずつ戻ってきた。
だが肉体的な疲労だけは、やはり不自然なほど少ない。
その事実が、また胸の奥へ小さな棘として残った。
刀也が抗議しようとした、そのときだった。
ハクアが立ち止まった。
「どうした?」
「着いた」
「どこに」
山の麓である。
建物らしきものは見当たらない。
代わりに、石造りの小さな祠のようなものが置かれていた。
ハクアがその前に立ち、指先を石へ触れる。
淡い光が走った。
「え?」
次の瞬間、刀也の足元に幾何学模様が広がった。
青白い光。
円。
その内部には見たことのない文字が大量に浮かび上がっていく。
「ちょっと待て。何これ」
「転移陣だ」
「転移!?」
「動くな」
「そういう大事なことは先に――」
視界が白く染まった。
内臓が一瞬だけ浮いたような奇妙な感覚。
胃の奥がひっくり返る感触に、刀也は思わず口元を押さえた。
だが吐き気は一瞬で消えた。
光が収まる。
「――言って!」
抗議の続きを叫んでから、刀也は止まった。
「…………は?」
森が消えていた。
眼下。
遥か下方に、雲がある。
「…………」
刀也はゆっくり足元を見る。
石畳。
その先は崖。
恐る恐る近づき、下を見る。
「高っ!」
反射的に後ずさった。
山頂だった。
先ほどまで遥か遠くに見えていた山の、その頂上付近。
広大な平地が人工的に切り拓かれており、その中央に建物がある。
「…………家?」
刀也は目を細めた。
家というには大きい。
日本の城とも、中国風の宮殿とも少し違う。
黒い瓦。
白い壁。
反り返った屋根。
庭には池があり、その周囲に桜に似た白い花の木々が並んでいる。
何棟もの建物が長い廊下によって繋がり、そのさらに奥には巨大な修練場らしき空間まで見えた。
「これ、家っていうサイズじゃなくない?」
「広すぎるとは思っている」
「思ってるんだ」
「一人では使わぬ部屋が多い」
「一人暮らし!?」
「そうだ」
「この規模を一人で!?」
完全に屋敷だった。
いや、屋敷より宮殿に近い。
刀也が呆然と眺めていると、正門らしき場所から数人の人影が現れた。
「人いるじゃん!」
「管理を任せている者たちだ」
「それは一人暮らしって言わない気がする!」
近づいてくるのは男女合わせて五人。
服装はそれぞれ違うが、一番前を歩く老人だけは明らかに執事を思わせる衣装を着ていた。
白髪を後ろへ撫でつけ、背筋は真っ直ぐ。刀也たちの前まで来ると、老人は深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、剣天様」
「戻った」
「ご無事で何よりにございます」
刀也は二人を交互に見る。
聞き慣れない単語があった。
「…………けんてん?」
老人の目が刀也へ向いた。
ほんの一瞬だけ驚きが浮かんだものの、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「こちらのお方は?」
「我が師父だ」
「待って」
刀也はハクアの肩を掴んだ。
「今それ言う!?」
「事実だ」
「事実じゃない!」
「我が師と仰いでいる」
「そっちが勝手に!」
老人が目を見開いている。
後ろにいた者たちも固まっていた。
空気がおかしい。
「ハクア」
「何だ」
「その人たち、めちゃくちゃ驚いてるんだけど」
「そうだな」
「そうだな、じゃないよ」
老人がハクアへ確認するように尋ねる。
「剣天様。失礼ながら、今……師父、と?」
「そうだ」
「この御方を?」
「そうだ」
老人の視線が刀也へ戻る。
上から下まで観察された。
十八歳。
黒いシャツ。
黒いズボン。
剣も持っていない。
どう見ても世界最強の剣士の師匠には見えないだろう。
刀也自身もそう思う。
「違います」
先に否定した。
「色々あって、この人が勝手にそう呼んでるだけです」
「師父は謙虚なのだ」
「違う」
「己の功を語りたがらぬ」
「だから違うって」
「古の大先達ほど、自らを凡夫と称するものだ」
「誰がそんなこと教えた!」
刀也が頭を抱える。
老人はしばらく沈黙した後、なぜか刀也へ向かって深々と頭を下げた。
「数々の非礼、何卒ご容赦くださいませ」
「あなたまで!?」
「剣天様が師と認められた御方にございますれば」
「話を聞いて!」
駄目だ。
ハクアだけではない。
周囲まで巻き込まれ始めている。
刀也は早くも頭痛を覚えた。
「それより」
話題を変えなければならない。
「その『剣天』って何?」
今度は老人ではなくハクアを見る。
「呼び名だ」
「それは分かるよ。何の呼び名?」
「十至天の一角として与えられたものだ」
「じゅうしてん?」
知らない単語がまた出てきた。
「説明して」
「必要か?」
「めちゃくちゃ必要」
ハクアは僅かに考えたあと、老人へ視線を向けた。
「ロウエン」
「はっ」
「頼む」
「承知いたしました」
「本人が説明しないんだ」
「長くなる」
「他人に丸投げした!」
ロウエンと呼ばれた老人は咳払いを一つした。
「では、僭越ながら私よりご説明いたします。十至天とは、現在この世界において『天へ至った者』と認められている十名の超越者にございます」
「超越者」
「個として国家戦力を凌駕し、一人で戦争の趨勢を変え得る者。その力は、王侯貴族はもちろん、各国最高峰の軍勢をもってしても容易には抗し得ません」
「…………」
刀也はゆっくりハクアを見る。
本人は無表情だった。
「そして剣をもって十至天へ至った御方が、こちらにおられるハクア・シラサギ様。人々は敬意と畏怖を込め――」
ロウエンが一礼する。
「『剣天』とお呼びしております」
「…………」
刀也はもう一度ハクアを見る。
「多少有名?」
「多少だ」
「どこが!?」
叫びが山頂に響いた。
「世界に十人しかいないんでしょ!?」
「現在確認されているのは十名だ」
「それを多少って言わないんだよ!」
「そうなのか」
「そうだよ!」
道理で複数国家から定期的に物資が届くわけである。
年金でも補助金でもない。
おそらく。
「ねえロウエンさん」
「何でございましょう」
「さっきハクアが、色んな国から勝手に物が届くって言ってたんだけど」
「各国からの献上品にございます」
「献上品」
「はい」
「何のために?」
ロウエンの笑顔が僅かに固まった。
「友好の証、と申しますか」
「それだけ?」
「……剣天様に敵意がないことを確認する意味もございます」
「やっぱり!」
貢ぎ物だった。
しかもかなり切実な類の。
「ハクア、何したの?」
「特には」
「本当に?」
「数年前、一国の軍を止めた程度だ」
「軍を!?」
「隣国へ侵攻しようとしていたため、邪魔をした」
「どうやって?」
「前に立った」
「それだけ?」
「それだけだ」
ロウエンが横から静かに補足する。
「当時、侵攻軍十二万は剣天様お一人を前に進軍を断念いたしました」
「十二万!?」
「師父ならばより容易だろう」
「絶対無理だよ!」
「今は弱体化しているからな」
「その設定まだ生きてたの!?」
勘違いがまるで修正されていない。
むしろ話すほど強固になっている気さえする。
刀也は額を押さえた。
そのとき。
ぐうううぅぅぅ。
今度は先ほどとは比べものにならないほど盛大な音が鳴った。
「…………」
刀也の動きが止まった。
全員の視線が腹へ集まる。
「……来た」
「何がだ」
「空腹」
水を飲んでから、じわじわと強くなっていた。
それが今になって一気に押し寄せた。
腹の奥が絞られるように空っぽで、急に力が抜ける。
「あれ」
刀也の膝が僅かに揺れた。
「師父」
ハクアがすぐ腕を取った。
「大丈夫。立てる」
「顔色が落ちた」
「マジ?」
額に薄い汗が浮かんでいる。
さっきまで平然と森を歩いていたのが嘘のようだった。
「急に腹減った……」
自覚した途端、身体が食事を要求し始めたらしい。
胃が痛いというより、中身が完全に空になっている感覚がある。
「ロウエン」
ハクアの声が僅かに鋭くなった。
「食事を」
「ただちに」
「待って」
刀也が止める。
「いきなり肉とか大量に出すのやめてね?」
「肉がお嫌いで?」
「好きだけど、一億年ぶりの一食目だから!」
自分で言って、ものすごい表現だと思った。
「消化にいいもの。柔らかくて、味が濃すぎないやつ。量も最初は少なめで」
「承知いたしました」
ロウエンは事情を尋ねることなく一礼した。
さすがである。
「水も少しずつで」
「心得ました」
「助かります……」
刀也は息を吐く。
妙だった。
空腹そのものは普通だ。
むしろ普通すぎる。
なのに、その訪れ方だけが異常だった。
まるで目覚めてから数時間をかけて、身体の機能が一つずつ起動しているかのように。
刀也は自分の腹へ手を当てた。
「……俺、本当に人間のままだよな?」
誰にも聞こえない程度の声で呟いた。
返事はない。
ただハクアだけが、僅かに刀也へ目を向けた。
「…………待って」
空腹で思考が鈍りかけたところで、先ほどの話を思い出す。
「世界に十人しかいない超越者」
「そうだ」
「国の軍隊より強い」
「概ね」
「王とかより立場が上?」
「上という表現は正確ではない」
ロウエンが説明を引き継ぐ。
「十至天はいずれも国家の制度外にある御方々。王が十至天へ命を下すことも、十至天が王へ命を下すことも本来はございません。ただし現実として、十至天の意向を無視できる国家は存在しないでしょう」
「なるほど」
つまり形式上は別枠。
実質的には、とてつもない影響力を持つ。
そこで刀也は、もう一つ気づいてしまった。
「……そんな人が」
ハクアを見る。
「俺を師匠って呼んでる?」
「師父だ」
「細かい訂正いらない!」
ロウエンたちを見る。
全員こちらを見ている。
先ほどまでの疑念は薄れつつあった。
代わりに何か別のものが生まれている。
敬意。
畏怖。
あるいは純粋な好奇心。
「ちょっと待って」
刀也の頬が引きつる。
「これ、人に知られたらどうなる?」
ロウエンは答えなかった。
ハクアも黙る。
「何で黙るの?」
「多少騒ぎになる」
ハクアが言った。
刀也は先ほどの会話を思い出す。
『名は多少知られている』
「ハクアの『多少』はもう信用しない」
「そうか」
「ちなみにロウエンさん」
「はい」
「正直に教えてください」
「何なりと」
「これが世間に広まったら?」
老人は少し考えた。
「各国王家、武門、宗派、学術院、商会、場合によっては他の十至天からも問い合わせが殺到するかと」
「…………」
「そして剣天様の師ということであれば、その素性を探ろうとする者も多数現れましょう」
「…………」
「少なくとも大陸全土に名が広まるのは時間の問題かと」
「ハクア」
「何だ」
「絶対に人前で師父って呼ぶな」
「なぜだ」
「俺は静かに暮らしたい!」
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
「不安しかない!」
そこで再び腹が鳴った。
先ほどより短い。
しかし切実だった。
「……あと、その前に飯」
「すぐ用意させる」
「本当にお願い」
今度ばかりは刀也も強がれなかった。
目覚めてからずっと、身体が異様なほど元気だった。
だから空腹も渇きも、どこか他人事のように考えていた。
しかし今になって、肉体がようやく自分へ訴え始めている。
水が欲しい。
食べ物が欲しい。
休みたい。
ごく当たり前の、人間らしい欲求。
それを感じられたことに、刀也はほんの少しだけ安心していた。
同時に。
一億年の眠りから覚めてなお、これだけで済んでいることへの気味の悪さも消えてはいなかった。
「では中へ」
ロウエンに促され、刀也はハクアの屋敷へ足を踏み入れた。
一億年後に目覚め。
世界最強格の剣士と出会い。
自分の黒歴史が失伝武術として残っていることを知り。
その世界最強格から勝手に弟子入りされた。
しかも自分の身体には、どうやら自分でも分からない何かが起きている。
「もう十分だろ……」
今日だけで一年分くらい驚いた。
だから、この先はせめて胃に優しい食事をして、普通の寝床で休みたい。
そんなささやかな願いを抱いていた刀也だったが。
屋敷の奥へ案内される途中。
長い廊下の壁に飾られている一枚の古い掛け軸を見て、足が止まった。
「…………」
黒い紙に、銀色の文字。
中央に描かれた、星を背負う剣士。
その下に記された一文。
『凍てつく星辰を戴きし者、万象を白き終焉へ導かん』
「…………嘘だろ」
「師父?」
ハクアが振り返る。
刀也は震える指で掛け軸を指した。
「それ、何?」
「極星凍剣術の開祖が残したとされる聖句だ」
「…………」
知っている。
あまりにも知っている。
なぜなら。
「それ……」
刀也の顔から血の気が引いた。
さっき空腹で悪くなった顔色が、今度は別の理由でさらに悪くなる。
「俺がノートの表紙に書いたやつなんだけど」
極星凍剣術だけではない。
技名だけでもない。
もしかすると。
自分が十四歳のころに生み出した黒歴史そのものが、一億年後の世界で想像以上に広く根を張っている。
その可能性に。
刀也は、ようやく気づき始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ハクアの正体が判明しました。
世界に十人しか確認されていない超越者「十至天」。
その一角――『剣天』ハクア・シラサギ。
そんな人物が突然「師父」と呼び始めたので、刀也の平穏な生活はすでにかなり危険です。
そして今回は、一億年眠っていたはずの刀也の身体にも少し触れました。
目覚めた直後から異様なほど元気だった一方で、水を口にしたあたりから喉の渇きや空腹が徐々に戻り始めています。
単純にコールドスリープ装置のおかげなのか。
それとも別の理由があるのか。
そして最後に、さらに嫌なものを見つけました。
どうやら刀也君の黒歴史、一つの剣術だけでは済まないようです。
次回、第5話。
一億年後に残った「極星凍剣術」の歴史と、刀也にとって一億年ぶりとなる食事です。