第8話です。
ようやく。
本当にようやく。
刀也君が誰にも追及されず、黒歴史も目の前で実演されず、静かに過ごせる時間がやってきました。
たぶん
「……静かだ」
梔子刀也は、あまりにも久しぶりに感じる静寂の中でそう呟いた。
もっとも、彼が目覚めてからまだ一日も経っていない。
旧シノノメ遺跡群で目覚め、一億年後だと知らされ、妖魔に襲われ、十四歳の頃に考えた極星凍剣術と再会し、その使い手である世界最強格の剣士から勝手に弟子入りされた。
さらにハクア・シラサギが十至天の一角『剣天』だと判明し、屋敷では自分の黒歴史が歴史資料として保存されていた。
世界観測機構アカシック・オーダー。
その後継らしき星環院。
そして星環院の使者シオン・カルディア。
思い返すだけで胃が重くなる。
「一日で起きる出来事じゃないだろ……」
刀也は用意された客間で大の字になっていた。
畳に似た床材。
柔らかな布団。
障子のような建具。
その向こうからは夜風が入り、どこかで虫の鳴く声が聞こえる。
一億年後だというのに、妙に落ち着く。
少なくとも空を飛ぶ巨大生物や、突然凍りつく妖魔よりはずっと安心できた。
「今日はもう何も起きるなよ」
天井へ向かって呟く。
当然、返事はない。
それでいい。
今日はもう、誰とも会いたくなかった。
正確には、これ以上「あなたは古代の偉人では?」という目で見られたくなかった。
ただでさえシオンから向けられていた視線は妙だった。
ハクアが自分を師父と呼んだ瞬間など、心臓が止まったのではないかというほど固まっていた。
「絶対何か勘違いしてるよな、あの人」
刀也は寝返りを打つ。
まあ、いい。
明日の自分が何とかする。
今日の自分はもう十分働いた。
そう思って目を閉じかけたところで、部屋の外から控えめな声が聞こえた。
「刀也様」
「はい?」
「お休みの前に、湯殿はいかがなさいますか」
「湯殿?」
「はい。剣天様より、ご案内するよう申しつかっております」
刀也は数秒考えた。
そして。
「風呂?」
「左様でございます」
勢いよく起き上がった。
「入ります」
「承知いたしました」
「すぐ入ります」
一億年ぶりの風呂である。
正確には本人の感覚上、一億年ぶりではない。
眠る前日にも普通に入浴している。
だが事実だけを見れば、一億年ぶりだ。
そう考えると急に特別なイベントに思えてきた。
案内された先は、屋敷のさらに奥だった。
長い廊下を抜け、庭を横切り、小さな石橋を渡る。
「……家の中に旅館あるじゃん」
刀也は思わず呟いた。
湯殿と呼ぶには規模がおかしい。
脱衣所だけでも現代日本の大浴場並みに広い。
木製の棚には清潔な布が並べられ、奥には湯気が漂っている。
「こちらは白鷺峰の地下より湧き出る温泉にございます」
「温泉!?」
「はい」
使用人は平然と答えた。
刀也の目が輝く。
「天然?」
「テンネン、という言葉の意味は分かりかねますが、地中より自然に湧くものです」
「天然じゃん!」
さっきまでの疲れが少し吹き飛んだ。
刀也は服を脱ぎ、用意されていた薄手の衣服へ着替えると、湯殿へ向かった。
扉を開く。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
広い。
岩造りの浴槽から白い湯気が立ち上り、天井の一部が大きく開いている。
そこから夜空が見えた。
星。
刀也が知る星空とは違う。
一億年も経てば星の配置も変わる。
知っている星座は一つも見つからない。
それでも綺麗だった。
「……露天風呂じゃん」
誰もいないことを確認してから、少しだけ早足になる。
身体を洗い、足先から湯へ入れる。
「あっつ……いや、ちょうどいい」
ゆっくり肩まで沈む。
温かさが全身を包む。
「っはぁぁぁぁ……!」
声が出た。
止められなかった。
「風呂だ……!」
一億年後にも風呂がある。
温泉がある。
人類がどれほど変わっても、温かい湯に浸かる文化は残ったらしい。
その事実だけで妙に感動する。
「文明ってすげえ……」
そこまで言ってから、自分が見てきたものを思い出す。
空飛ぶ船。
転移陣。
妖魔。
剣で周囲を凍らせるハクア。
「文明なのかこれ……?」
分からなくなった。
刀也は岩へ背中を預けた。
身体が温まるにつれて、張り詰めていたものがほどけていく。
改めて自分の身体を見る。
細身。
寝る前と変わらない。
少なくとも見た目は。
「筋肉落ちてないんだよな」
一億年眠っていた。
それなのに歩ける。
走れる。
食事も取れた。
吐血までしたのに何ともない。
湯に浸かっても気分が悪くなる様子はない。
むしろ調子がいい。
食事をしてからは、身体の奥に薄く熱が残っているような感覚さえあった。
「母さん、本当に何したんだよ」
義母の顔を思い出す。
研究者。
天才。
人の話を聞かない。
そして自分を一億年眠らせた張本人かもしれない女。
「普通に起こせよ……」
一億年後では遅すぎる。
文句を言おうにも本人はいない。
さすがに一億年前の人間が生きているとは思えない。
その事実を考えると、少しだけ胸に穴が空いたような感覚があった。
刀也はそれ以上考えないことにした。
「今日は風呂を楽しもう」
両手で湯をすくう。
顔へかける。
「最高……」
十四歳の黒歴史が世界的文化遺産のような扱いを受けていることも。
世界最強格に師父と呼ばれていることも。
秘密結社の後継が現役なことも。
今だけは忘れる。
温泉は偉大だった。
どれほど浸かっていたのか。
身体が十分温まったところで、刀也は湯から上がった。
脱衣所には冷たい飲み物まで用意されていた。
「これ飲んでいいのかな」
透明な瓶に入っている。
色は乳白色。
匂いを嗅ぐ。
甘い。
一口飲む。
「……うまっ」
牛乳ではない。
だが乳飲料に近い。
「風呂上がりにこれ置く文化まで残ってるの?」
一億年の時を超えた謎の親近感だった。
刀也は腰へ片手を当てて飲み干す。
「これだよこれ」
満足した。
この世界へ来て初めて、純粋に得をした気がする。
部屋へ戻る頃には、身体だけでなく気持ちもかなり軽くなっていた。
「師父」
「うわっ!」
客間へ入る直前、突然廊下の脇から声をかけられた。
ハクアだった。
「びっくりした!」
「すまない」
「何してるの?」
「待っていた」
「俺を?」
「ああ」
「何で?」
「湯はどうだった」
「……感想聞くために?」
「そうだ」
「そこまで弟子らしいことしなくていいよ」
「弟子として師父の生活に不足がないか確認するのは当然だ」
「その弟子入り、まだ認めてないからな」
刀也は言いながらも、少し笑った。
「でも温泉は最高だった」
「そうか」
「めちゃくちゃよかった」
「ならばよかった」
ハクアの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「毎日入ってよい」
「本当に?」
「ああ」
「それは嬉しい」
刀也は素直に喜んだ。
「温泉のためならしばらくここに住んでもいい気がしてきた」
「では住め」
「決断早いな!」
「部屋はいくらでもある」
「そういう問題?」
ハクアにとっては問題ではないらしい。
「明日は何か予定ある?」
「師父の身体を診られる者を呼ぶ」
「え」
「今日の状態は妙だ」
「……やっぱり?」
「念のためだ」
「まあ、それはありがたいけど」
「その後、極星凍剣術を――」
「休ませろ!」
「明後日でもよい」
「そういう問題じゃない!」
刀也は額を押さえる。
やはり完全な静寂は長く続かなかった。
「今日はもう寝る」
「分かった」
「ハクアも休めよ」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ、師父」
「最後に付けるな」
ハクアは去っていく。
刀也はその背中を見送ったあと、客間へ入った。
布団へ転がる。
「……疲れた」
今度こそ本当に一人だ。
窓の外には見知らぬ星。
部屋の中には柔らかな灯り。
聞こえるのは夜の音だけ。
「静かだ」
少し落ち着く。
温泉のおかげか、眠気も出てきた。
刀也は仰向けになったまま天井を見る。
ぼんやりと。
今日見たものを思い返していた。
「極星凍剣術……」
まさか本当に使えるようになるとは思わなかった。
ハクアが使えば山でも凍らせそうだ。
自分には無理だろう。
「そもそも俺、剣道すらやってないしな」
授業で竹刀を握った程度。
極星凍剣術は設定を知っているだけだ。
使えるわけがない。
「…………」
そこで。
何かが記憶に引っかかった。
「剣術……」
極星凍剣術以外にも、いくつか考えた。
炎。
雷。
影。
風。
十四歳の刀也は節操なく色々作った。
だが。
その中に一つ。
変なものがあった。
「……そういえば」
刀也はゆっくり身体を起こした。
「自分だけしか使えないって設定の武術、書いてたよな……」
極星凍剣術とは違う。
誰かへ受け継がれることを前提としない。
開祖も弟子も存在しない。
使用者はただ一人。
世界において、たった一人だけが行使できる術式。
「名前、なんだったっけ」
思い出したくないような。
思い出す必要があるような。
「…………」
記憶を探る。
黒いノート。
最後のほう。
極星凍剣術を書き終えたあと。
『もし自分がこの世界にいたら』という妄想から作った。
刀也自身のためだけの武術。
「――【無為刀剣術式】」
思い出した瞬間。
「…………」
刀也は両手で顔を覆った。
「名前ぇ……」
一億年を経ても、黒歴史は黒歴史だった。
しかし今回は。
少しだけ違う。
「確か……武器はいらないんだっけ」
記憶が徐々に蘇る。
刀。
剣。
槍。
弓。
それらの形を必要としない。
『万物は刃たり得る』
そんなことを書いた。
「うわ、きっつ……」
だが。
続きを思い出す。
『無為とは何も為さぬにあらず。形を持たぬが故、あらゆる形を為す』
「…………」
十四歳の自分。
何を格好つけているんだ。
そう思う一方で。
「俺専用……」
刀也は自分の右手を見る。
極星凍剣術が現実になった。
アカシック・オーダーも現実になった。
十三の観測塔まで作られた。
なら。
「まさか、な」
笑う。
あり得ない。
そもそも無為刀剣術式は、刀也が自分自身を主人公に見立てて作った完全な妄想だった。
使用条件まで設定した覚えがある。
他人には絶対使えない。
血統でも才能でもない。
梔子刀也本人だから使える。
そんな身も蓋もない設定。
「十四歳の俺、自己評価高すぎだろ」
刀也は苦笑した。
布団へ再び横になる。
「まあ、どうせ使えないって」
目を閉じる。
眠気が戻ってくる。
そして。
刀也は気づかなかった。
右手。
指先。
ほんの一瞬だけ。
何も存在しないはずの空間に。
細い線が走った。
音もない。
光もない。
ただ。
指先の延長線上にあった蝋燭の炎だけが。
何かに斬られたように。
上下へ分かれて消えた。
刀也はすでに目を閉じていた。
だから。
それを見る者は。
誰もいなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は休息回。
刀也君、一億年ぶりの温泉をかなり満喫しました。
ようやく普通の十八歳らしい反応ができています。
そして最後。
新しい黒歴史――
【無為刀剣術式】
極星凍剣術とは違い、
「梔子刀也本人にしか使用できない」
という、十四歳らしい俺専用設定の武術です。
極星凍剣術やアカシック・オーダーが現実になっている以上、これだけが完全な空想のままとは限りません。
本人はまだ気づいていませんが。
次回、第9話。
翌朝。
一億年後初めての健康診断と、刀也自身の身体に起きている異常へ少し踏み込んでいきます。