1億年後の世界はほぼ異世界   作:池ポチャ

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第9話です。

一億年ぶりの健康診断。

本人は「とりあえず健康ならいい」と思っていますが、診る側からするとそう簡単な話ではないようです。

そして同じ頃。

星環院へ戻ったシオンも、密かに動き始めます。


一億年眠った身体は、どうやら普通じゃないらしい

 

 目を覚ました瞬間、梔子刀也は天井を見つめた。

 

 知らない天井だった。

 

「…………」

 

 数秒。

 

 そして思い出す。

 

「そうだった」

 

 一億年後だった。

 

 昨日だけであまりにも色々ありすぎたせいか、眠る前には「もしかしたら全部夢だったのでは」と少しだけ期待していた。

 

 残念ながら夢ではない。

 

 身体を起こせば、そこはハクア・シラサギの屋敷に用意された客間だった。

 

 障子に似た建具の向こうから朝の光が差し込み、外では聞いたことのない鳥が鳴いている。

 

「一億年後でも朝は朝か」

 

 刀也は欠伸をする。

 

 眠った感覚は普通だった。

 

 少なくとも、一億年眠った後にもう一晩眠ることに対して身体が抗議することはなかったらしい。

 

 むしろよく眠れた。

 

 昨日は温泉にも入った。

 

 食事も摂った。

 

 布団も柔らかかった。

 

 おかげで身体の調子はかなりいい。

 

「……良すぎるくらいなんだよな」

 

 刀也は自分の腕を見る。

 

 筋肉痛なし。

 

 疲労感なし。

 

 昨日は一時間以上森を歩いたうえ、慣れない出来事の連続だった。

 

 にもかかわらず、身体は妙に軽い。

 

 空腹はある。

 

 喉も普通に渇く。

 

 眠気もあった。

 

 人間らしい欲求は戻ってきている。

 

 それなのに疲労だけが異様に少ない。

 

「コールドスリープってこんな高性能なのか?」

 

 自分で言って首を傾げる。

 

 そもそも、コールドスリープ装置が一億年間壊れずに動いていたという時点で普通ではない。

 

 しかも刀也が目覚めた研究施設は朽ち果てていた。

 

 設備のほとんどは停止していたのに、刀也自身は健康そのもの。

 

「母さんのことだから、絶対何か余計なことしてるよなあ……」

 

 義母への信頼と不信が絶妙に混ざった呟きだった。

 

 そのとき。

 

「師父。起きているか」

 

 外からハクアの声がした。

 

「起きてる。あと朝一番から師父って呼ばないで」

 

「分かった、師父」

 

「何も分かってない!」

 

 刀也が返すと、障子の向こうで少しだけ間が空いた。

 

「入ってもよいか」

 

「どうぞ」

 

 ハクアが入ってくる。

 

 今日も白と淡い青を基調とした衣装。

 

 昨日とは細かな意匠が違うが、やはり和装と中華風の服を混ぜたような独特の装いだった。

 

「朝食の前に診察を行いたい」

 

「もう来てるの?」

 

「ああ」

 

「早いな」

 

「昨夜のうちに呼んだ」

 

「仕事が早い」

 

 ハクアはこういう部分だけ恐ろしく迅速だった。

 

「どんな人?」

 

「医仙だ」

 

「…………医仙?」

 

「そうだ」

 

「普通のお医者さん呼んでって頼んだ気がするんだけど」

 

「普通だ」

 

「十至天の人が言う普通はもう信用してない」

 

 刀也は着替えを済ませ、ハクアについて客間を出た。

 

 診察用に使われているという部屋には、すでに一人の女性が待っていた。

 

 年齢は三十代ほどに見える。

 

 深緑色の長衣を纏い、黒髪を後ろでまとめている。目元は穏やかだが、刀也を見る視線は鋭かった。

 

 卓の上には薬箱らしき木箱と、刀也には用途の分からない透明な結晶板が並んでいる。

 

「この子かい?」

 

「ああ」

 

「子って」

 

「十八なら十分子供だよ」

 

「この世界だと?」

 

「私から見ればね」

 

 妙な答えだった。

 

 刀也はハクアを見る。

 

「この人、何歳?」

 

「知らぬ」

 

「百八十三」

 

「聞かなきゃよかった!」

 

 どう見ても三十代だった。

 

「若いでしょ?」

 

「基準が分からない!」

 

 女性は楽しそうに笑った。

 

「私はメイファ。医術と霊脈治療を少々やっている」

 

「梔子刀也です」

 

「聞いてるよ。一億年寝ていたって?」

 

「情報共有早いな」

 

「ハクアから夜中に直接呼び出されたからね。『師父の身体が妙だ』って」

 

 刀也はゆっくりハクアを見る。

 

「師父まで共有したの?」

 

「事実だ」

 

「事実じゃない」

 

「まあまあ」

 

 メイファが二人の間に手を入れる。

 

「夫婦喧嘩は後にしな」

 

「違います!」

 

「夫婦ではない」

 

「ハクアはそこだけ冷静だな!」

 

 朝から疲れる。

 

「じゃあ座って」

 

 刀也は言われた通り椅子へ座った。

 

「まず脈」

 

 メイファが手首を取る。

 

 しばらく指を当てたあと、反対の手も確認する。

 

「普通」

 

「それはよかった」

 

「体温も普通」

 

「よかった」

 

「呼吸、心音も特に異常なし」

 

「健康じゃん」

 

「まだ外側だけだけどね」

 

 刀也の安心を一瞬で潰された。

 

 次にメイファは透明な板を持ち上げた。

 

「これ何です?」

 

「霊相板」

 

「れいそうばん」

 

「身体の中を流れる気、霊素、魔素、血力なんかを見る道具」

 

「そんなの人間の中に流れてるの?」

 

「普通はね」

 

「普通は?」

 

 メイファが笑顔のまま刀也の胸元へ結晶板を当てる。

 

「じっとしてな」

 

 淡い光が板の中へ広がった。

 

 青。

 

 緑。

 

 黄色。

 

 いくつもの光が細い線を描く。

 

「おお」

 

 ちょっと面白い。

 

 現代日本ならCTやMRIといったところだろうか。

 

「これが俺の?」

 

「そう」

 

 メイファが板を見る。

 

「…………」

 

 表情が止まった。

 

「何?」

 

 返事がない。

 

「メイファ?」

 

 ハクアも気づいた。

 

 女性は板を裏返し、もう一度刀也の胸へ当てる。

 

「動かないで」

 

「動いてないけど」

 

 光が再び走る。

 

 メイファの眉間に皺が寄った。

 

「壊れてる?」

 

「昨日整備したばかりだよ」

 

「じゃあ俺が壊れてる?」

 

「そういう言い方をするんじゃない」

 

 メイファは今度は別の板を取り出した。

 

 同じように測る。

 

 そして。

 

「……なんだこれ」

 

「怖い言い方しないでくれる?」

 

 刀也の背中に嫌な汗が流れる。

 

「何か悪い?」

 

「悪い、とも言い切れないね」

 

「じゃあ良い?」

 

「それも分からない」

 

「一番嫌な回答だよ!」

 

 メイファは透明板を卓へ置いた。

 

「まず、あんたの身体には霊素がほとんどない」

 

「昨日ハクアにも似たこと言われた」

 

「気も薄い。魔素反応もほぼゼロ。血力も一般人以下」

 

「弱いってこと?」

 

「普通ならね」

 

 メイファは指を一本立てる。

 

「普通なら、この状態で妖魔がいる森を長時間歩いたら、まず瘴気で体調を崩す」

 

「崩してない」

 

「極星凍剣術の余波なんて浴びたら、身体の末端くらい凍傷を起こしてもおかしくない」

 

「起こしてない」

 

「一億年眠った直後なら、歩く以前に寝台から起き上がれない可能性だってある」

 

「起きた瞬間から普通に立てた」

 

「だから分からないんだよ」

 

 メイファは腕を組んだ。

 

「数値だけ見れば、あんたは弱い。驚くほど弱い」

 

「そこ強調しなくていいよ」

 

「でも肉体は健康そのもの。いや、健康というより妙に安定している」

 

「安定?」

 

「ああ。脈も呼吸も体温も、ほとんど揺らがない」

 

 メイファの表情から冗談めいた色が消えていた。

 

「昨日、本当に血を吐いたの?」

 

「吐きました」

 

「原因は?」

 

「黒歴史」

 

「病名で言って」

 

「精神的衝撃?」

 

「どの程度?」

 

「十四歳の頃に書いた恥ずかしい設定を世界最強クラスの美少女が大真面目に使ってた」

 

「……よく分からないけど、血を吐くほど嫌だったんだね」

 

「理解が早い」

 

「その後、痛みは?」

 

「なし」

 

「吐き気」

 

「なし」

 

「眩暈」

 

「なし」

 

「血を吐いた直後に歩いた?」

 

「普通に」

 

 メイファは頭を抱えた。

 

「異常だよ」

 

「やっぱり?」

 

「吐血して完全無傷なんて普通じゃない」

 

「精神が身体へ直結しすぎてるのかな」

 

「それで済めばいいけどね」

 

 今度は刀也の瞳。

 

 口の中。

 

 耳。

 

 関節。

 

 全身を細かく確認していく。

 

 どこにも異常はない。

 

「食事は?」

 

「昨日食べた。最初は空腹があまりなくて、水飲んだら急に腹が減ってきた」

 

「そこも妙だね」

 

「そうなの?」

 

「長い休眠から覚醒した直後、身体機能が段階的に戻ったと考えれば説明はできる。ただ一億年なんて前例がないから、正しいかは分からない」

 

「でしょうね」

 

「今朝の空腹は?」

 

「普通にある」

 

「吐き気は?」

 

「ない」

 

「なら食事は少量ずつ増やしていい」

 

「よかった」

 

 刀也は安心した。

 

 健康診断の目的の半分は、普通に食事していいか知ることだった。

 

「ただし」

 

「まだある?」

 

「ある」

 

 メイファが先ほどの霊相板を持ち上げる。

 

「これが一番分からない」

 

 板の中央。

 

 刀也の身体を示しているらしき輪郭。

 

 その中はほとんど透明だった。

 

 だが。

 

 胸の奥。

 

 そこに小さな黒い点がある。

 

「これ何?」

 

「分からない」

 

「医者が分からないもの俺に聞かれても」

 

「昨日の時点ではなかったかもしれない」

 

 ハクアが眉を動かした。

 

「どういうことだ」

 

「霊核でもない。魔核でもない。魂魄核とも違う。少なくとも私が見たことのあるものじゃない」

 

 メイファは板を傾ける。

 

 黒い点は光を反射しない。

 

 まるで小さな穴のようにも見えた。

 

「危険?」

 

 刀也が尋ねる。

 

「現状は分からない。ただ、それ自体から毒や瘴気は出ていない」

 

「じゃあ放置?」

 

「経過観察」

 

「現代医療でもよく聞く言葉だ」

 

「ゲンダイイリョウが何か知らないけど便利な言葉だね」

 

「俺は好きじゃない」

 

 ハクアは板を覗き込む。

 

「取り除けるか」

 

「やめて!」

 

「危険ならば」

 

「身体の中にある謎の黒い点を気軽に摘出しようとしないで!」

 

 ハクアは黙った。

 

「とりあえず様子見る。それでいいですよね?」

 

「ああ。無理に触らないほうがいい」

 

「よし」

 

 刀也は安心しかけた。

 

「あと一つ」

 

「まだ?」

 

「昨夜、部屋で何かした?」

 

「何か?」

 

「術式とか」

 

「使えないけど」

 

「剣を振ったとか」

 

「振ってない」

 

 メイファが小さな布包みを卓上へ置いた。

 

 中から出てきたのは、昨夜刀也の部屋で使われていた蝋燭だった。

 

 正確には、その残骸。

 

「これ」

 

「昨日の?」

 

「芯が縦に切れてる」

 

「…………」

 

 刀也は蝋燭を見る。

 

 確かに妙だった。

 

 芯の先だけが、薄い刃物で切断されたようになっている。

 

「使用人が今朝見つけた」

 

「誰か入った?」

 

「夜間、師父の部屋には誰も入っていない」

 

「窓は?」

 

「結界がある。侵入者があれば分かる」

 

「じゃあ自然に切れたとか」

 

「こんな切れ方はしないね」

 

 メイファが答える。

 

 刀也の脳裏に。

 

 昨夜の記憶が蘇った。

 

『――【無為刀剣術式】』

 

 自分だけが使えるという設定の武術。

 

 そのことを思い出しながら眠りについた。

 

「…………まさか」

 

「何か心当たりが?」

 

 ハクアが聞く。

 

 刀也は一瞬だけ迷う。

 

「いや」

 

 首を振った。

 

 まだ言わない。

 

 極星凍剣術の時と同じだったら怖すぎる。

 

 十四歳の自分が作った俺専用武術。

 

 そんなものまで現実になっているとすれば、刀也自身が一番受け入れたくない。

 

「とりあえず俺、病気ではない?」

 

「今のところはね」

 

「じゃあ十分」

 

「ずいぶん楽観的だね」

 

「昨日から変なことが多すぎて、病気じゃないだけで嬉しい」

 

 刀也は立ち上がる。

 

「腹減った」

 

「健康的でよろしい」

 

「朝飯行こう」

 

「その前に」

 

 ハクアが口を開く。

 

「師父」

 

「何」

 

「今日は修練を」

 

「健康診断直後に修行させる弟子がどこにいる!」

 

「異常はないと言われた」

 

「経過観察とも言われた!」

 

 メイファが声を上げて笑う。

 

 少なくとも。

 

 刀也は元気だった。

 

◆

 

 一方。

 

 白鷺峰から遠く離れた場所。

 

 星環院中央総院。

 

 大陸最大級の都市、その地下深くに存在する施設を、シオン・カルディアは一人で歩いていた。

 

 地上の星環院は巨大な白亜の建物だ。

 

 古代遺跡の研究。

 

 異常事象の調査。

 

 危険な遺物の封印。

 

 一般に知られている業務だけでも多岐にわたる。

 

 だが、その本当の中枢は地下にあった。

 

 地下一層。

 

 二層。

 

 三層。

 

 階段を下るたび警備が厳しくなる。

 

 十層より先へ入れる人間は、ごく限られていた。

 

 シオンは認証具を掲げる。

 

「特任監察官シオン・カルディア。第一秘匿書庫への閲覧を申請する」

 

『認証』

 

 無機質な声。

 

『権限を確認』

 

 重い扉が開いた。

 

 シオンは中へ入る。

 

 室内には膨大な書物。

 

 石板。

 

 結晶記録媒体。

 

 さらには用途不明の古代遺物まで並んでいる。

 

「……まさか」

 

 白鷺峰を出てから何度目か分からない言葉が漏れた。

 

 昨日。

 

 剣天ハクア・シラサギの屋敷で出会った少年。

 

 梔子刀也。

 

 黒い髪。

 

 古代の衣服。

 

 観測文字。

 

 アカシック・オーダーという名。

 

 剣天が師父と呼ぶ人物。

 

 そして旧シノノメ遺跡の起動。

 

「偶然では説明できない」

 

 シオンは書庫の奥へ向かう。

 

 目的の棚は決まっていた。

 

『始祖関連記録』

 

 そこにある資料の大半は複製である。

 

 原本は、さらに下層。

 

 院主ですら自由には触れられない最深部へ保管されている。

 

 シオンは一冊を取り出した。

 

『星環始祖秘伝・第三写本』

 

 開く。

 

 何千回と読んだ文章。

 

 だが昨日の出来事を経験した後では、まったく違って見えた。

 

『始まりの者は、我らより遥か前の世に在り』

 

『その者、星環を作らずして星環を識り、剣を取らずして剣理を知る』

 

 シオンの指が止まる。

 

「剣を取らずして、剣理を知る……」

 

 剣天。

 

 ハクア・シラサギ。

 

 彼女が刀也を師父と呼んでいた。

 

 昨日はその意味までは聞けなかった。

 

 もし。

 

 刀也が剣を持たず、極星凍剣術の真理を示したのだとすれば。

 

「…………」

 

 シオンはページをめくる。

 

『始祖、力を誇らず』

 

『己を凡夫と称し、己が生みし理すら戯れと語る』

 

 背筋に寒気が走った。

 

「戯れ……?」

 

 あの少年。

 

 アカシック・オーダーという名を口にした時の反応。

 

 重大な秘密を語っている人物には見えなかった。

 

 むしろ。

 

 恥ずかしそうだった。

 

「まさか……」

 

 シオンはさらに読む。

 

『始祖の帰還に際し、肉身は古き世の姿を保つ』

 

『星環の力を持たず』

 

『万象の力を宿さず』

 

『ゆえに愚者は彼を無力と見る』

 

 シオンの手が止まった。

 

 昨日。

 

 刀也からはほとんど力を感じなかった。

 

 気。

 

 霊力。

 

 魔力。

 

 どれも、十至天の師と呼ばれる者とは思えないほど希薄だった。

 

「……一致している」

 

 一つだけなら偶然。

 

 二つでも偶然かもしれない。

 

 しかし。

 

 多すぎる。

 

「では、本当に……」

 

 シオンは息を吐く。

 

 まだ確定ではない。

 

 自分がそう信じたいがために、都合のいい情報だけを拾っている可能性もある。

 

 だからこそ調べなければならない。

 

「始祖の名」

 

 ページを進める。

 

 ここから先はさらに古い文体になる。

 

 現代語への翻訳にも異説が多い。

 

『始祖の真名、時の彼方へ失われたり』

 

『されど、一音のみ残る』

 

『トウヤ』

 

 シオンは目を閉じた。

 

「同じだ」

 

 完全に。

 

 同じ。

 

 だが。

 

 まだ問題が一つある。

 

「梔子」

 

 姓。

 

 始祖伝承には残っていない。

 

 もし別の古代記録にその名が残っていれば。

 

 決定的な証拠になる。

 

「検索対象――クチナシ」

 

 シオンは近くの記録結晶へ手を置く。

 

 淡い光が広がる。

 

『検索』

 

『該当記録――二十三件』

 

「あるのか?」

 

 シオンの表情が変わる。

 

 一覧を開く。

 

 ほとんどは植物名。

 

 古代語由来の地名。

 

 関係がなさそうな資料。

 

 その中で。

 

 一件。

 

 異質な記録があった。

 

『旧文明終末期資料』

 

『閲覧制限――最深秘匿指定』

 

 シオンは眉を寄せる。

 

「最深秘匿……?」

 

 特任監察官である自分にも内容が表示されない。

 

 資料名のみ。

 

『KUCHINASHI PROJECT』

 

 シオンの心臓が強く脈打った。

 

「クチナシ……計画?」

 

 英字。

 

 星環院では完全には解読できていない旧文明文字。

 

 だがKUCHINASHIという音だけは転写されている。

 

「刀也殿と関係があるのか?」

 

 詳細を開こうとする。

 

『権限不足』

 

『院主級認証を要求』

 

「……やはり」

 

 ここから先は自分一人では無理だ。

 

 院主へ報告する必要がある。

 

 だが。

 

 シオンは手を止めた。

 

 昨日考えたことを思い出す。

 

 星環院は一枚岩ではない。

 

 始祖帰還を喜ぶ者。

 

 疑う者。

 

 研究対象として扱う者。

 

 権力へ利用しようとする者。

 

 そして。

 

 始祖など帰還されては困る者。

 

 数千万年続いた巨大組織である。

 

 何もないはずがない。

 

「まだ報告できない」

 

 少なくとも刀也本人の意思を確認するまでは。

 

 シオンは検索結果を閉じた。

 

「……次は」

 

 別の項目を呼び出す。

 

『無為』

 

 昨日、刀也がその名を口にしたわけではない。

 

 ただ。

 

 秘伝の中に気になる一文があった。

 

『始祖、その身に力なく』

 

『されど、その手に刃なくして万象を断つ』

 

 シオンはその文章を見つめる。

 

「刃なくして、万象を断つ」

 

 古代の比喩だと思われてきた。

 

 始祖の知恵が世界を変えたことを「刃」と表現している。

 

 それが星環院での一般的な解釈だった。

 

 だが。

 

 もし。

 

 文字通りなら。

 

「…………」

 

 昨日の刀也。

 

 武器は持っていなかった。

 

 力も感じなかった。

 

 それでも剣天が師父と呼んでいる。

 

「何を知っているんだ、あなたは……」

 

 問いは増えるばかり。

 

 そして。

 

 シオンは気づいていなかった。

 

 始祖伝承の最古写本。

 

 その最後。

 

 長年、意味不明として解読を放棄されてきた一節があることを。

 

『無為にして刃』

 

『刃にして形なし』

 

『その一念、天地を断つ』

 

 その言葉が。

 

 昨夜。

 

 白鷺峰の一室で。

 

 初めて。

 

 ほんの僅かに現実へ戻り始めていた。

 

◆

 

 健康診断を終えた刀也は、大きな器に入った朝粥を見ていた。

 

「昨日より多くない?」

 

「メイファ殿から量を増やしてよいと」

 

「やった」

 

 純粋に嬉しい。

 

 昨夜の食事では腹八分どころか五分程度だった。

 

「いただきます」

 

 一口。

 

「うまい」

 

 今日も身体は普通に食事を受け入れている。

 

 少し安心した。

 

 目の前ではハクアも食事をしている。

 

「師父」

 

「食事中くらいその呼び方やめない?」

 

「相談がある」

 

「聞くだけ聞く」

 

「無為とは何だ」

 

「ぶっ!」

 

 刀也が盛大にむせた。

 

「大丈夫か」

 

「何で!?」

 

「何がだ」

 

「何で急に無為って言った!?」

 

「昨夜、部屋の前を通った時に聞こえた」

 

「…………」

 

 刀也は固まった。

 

「俺、声に出してた?」

 

「ああ」

 

「どこから?」

 

「『そういえば自分だけしか使えない』辺りから」

 

「ほぼ全部じゃねえか!」

 

 刀也は頭を抱えた。

 

「忘れて」

 

「無理だ」

 

「そこは忘れろ!」

 

「無為刀剣術式とは何だ」

 

「名前まで聞いてる!」

 

 朝の静けさが。

 

 一瞬で消えた。

 

 刀也は知らない。

 

 星環院では今まさに。

 

『刃なくして万象を断つ始祖』

 

 という伝承が掘り起こされている。

 

 そして自分自身も。

 

 まだ。

 

 無為刀剣術式が何を意味するのか。

 

 思い出しきってはいなかった。

 

 




あとがき】

ここまで読んでいただきありがとうございます。

刀也の健康診断でした。

現在分かっているのは、身体そのものは非常に健康。

その一方で、この世界で一般的な霊素・魔素・気などは異常なほど少ない。

それなのに妖魔の瘴気や極星凍剣術の余波にもほぼ影響を受けない。

さらに体内には、既存のどの核とも異なる謎の反応が存在する。

そして昨夜、誰も触れていない蝋燭の芯が綺麗に切断されていました。

本人はまだ「無為刀剣術式」と結びつけることを避けています。

一方、シオン側では始祖伝承との一致がさらに増えました。

そして『KUCHINASHI PROJECT』という旧文明時代の最深秘匿記録も発見。

次回、第10話。

ハクアから無為刀剣術式について追及されつつ、刀也自身が「もしかして本当に使えるのでは」と初めて試す方向へ進みます。
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