転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
伊賀の山の寺の庭には、まだ雪が残っていた。
「
「知らなーい♡」
「打て」
杖が背中に落ちるたびに数を数えて、十五で数えるのをやめた。
朝宗が筆を置いて、床几から立った。
「言え。判官はどこへ逃げた」
「言うわけないでしょ」
「そなたは弓取りだそうだな。屋島の扇の」
朝宗が手を振ると、侍たちが私の右手を雪の上の板に押さえつけた。
杖が振り上げられる。
「っ! それはやめて!」
「ようやく泣きが入ったな。どうだ、言うか?」
弓が引けなくなる。
それでも言えば、あの二人が捕まる。
「言うわけないでしょ、ばーか♡」
「やれ」
風を切る音がした。
* * *
闇の中に、光が差した。
蔵の戸が開くと、灯の光と一緒に冷たい秋の風が
「何を祈って待っているか知らぬが、教えてやろうか」
あれから三度目の秋になる。朝宗は思い出したようにこの蔵へ来ては、私の顔を眺めていく。
「なにを」
「貴様を助けに来る者はおらん。皆、死んだからだ」
朝宗は帳面を開いて、灯にかざした。
「今年の
息がうまく吸えなかった。
「ついでに教えてやろう。
干し柿を頬張っていたチビの、笑い声だけが浮かんだ。
朝宗は床に転がった私の弓とその横の一本きりの矢を、
「射損じたら弓を折って腹を切る、と八幡に誓ったそうだな。三年もくれてやったのに、まだ折らぬのか。どうした、やらんのか。そうか。できぬのか。その動かぬ手ではな!」
笑い声と一緒に戸が閉まり、蔵の中はまた真っ暗になった。
手など、とうに治っている。
治っていないのは、私の心だ。
「ずるいよ、みんな。私より先に行っちゃうなんて」
筵の端を手で探ると、文が指に触れた。暗くて読めなくても、中身は全部覚えている。
だから九郎様の名も弁慶さんの名も、どこにも書かなかった。
書き損じが何十枚も重なっている。昼のあいだだけ、戸の隙間から一筋の光が床に差す。潰れた右手の代わりに左手で筆を握り、その光の中で昔の字に似せようと何度も書き直した。
『私はおうちまで逃げ切ったよ。偉いでしょ♡ でも家の周りにお侍がずっと張りついてて、門から一歩も出られないの。退屈で死にそう』
逃げ切ったのは嘘だ。
けれど、門から一歩も出られないのも、退屈で死にそうなのも、本当だった。
『チビとはもう会えたかな。落ち着いたら、みんなでいつか会いに来てね』
そう書いた時、チビはもうどこにもいなかった。
『もう一人のメスガキより』
清書した一枚を、朝宗は灯にかざして鼻で笑った。
「めすがき、とは何だ。打たれすぎて、頭までいかれたか」
そう言って、そのまま下野へ送らせた。
書き損じを一枚、握りつぶした。その下から、返事を取り出す。見えなくても、分かる。表書きは『もう一人のメスガキさんへ』。九郎様の字で一行、その下に大きくて不格好な字でもう一行。
『メスガキは、ハゲと二人で暮らしてます♡』
『退屈でいい。退屈なら、死なねえ』
この返事も朝宗が先に読んだ。「何だ、これは。童の手習いか」と、蔵の床へ放っていった。
返事を初めて読んだ時、私は笑った。悔しくもない自分に驚いたのを、今でも覚えている。
あの二人が笑って暮らしているなら、それでよかった。
その二人が、もういない。
壇ノ浦で私とチビの前に立ってくれたあの背中が、まだ目に焼き付いている。
最後にあの人と話したのは、吉野の寺の門だった。
「九郎様と喧嘩したら、いつでも私のとこに来てね♡」
「行かねえよ」
すぐに返ってきた。分かっていて、聞いた。
「知ってるよ。お幸せにね♡」
背伸びして、頬に唇を当てた。あの人の剃り残しの髭が、ざらりと唇に触れた。九郎様と声が重なって、二人とも同じ顔で赤くなって、おかしくて声を立てて笑った。笑っていれば、泣いているのを見られずに済んだ。
あれが、私の言えた全部だった。
筵に横になったまま、文を胸に載せた。
退屈なら、死なねえ。あの人はそう書いてくれた。
でも、退屈だと書き送る相手は、もう誰もいない。
なら、もう死んでしまおうか。
いっそ、この弓で。
寝たまま弓を両手でたわめて折ろうとしても、握った指が固まって力が入らない。一本きりの矢を拾って喉に当てても、手が震えて肌を掻くだけだった。
「弁慶さん、助けて」
声に出したら、涙が止まらなくなった。文を抱いたまま、泣きながら眠った。
* * *
それから何日経ったのか、分からない。下女の置いていく粥にも手をつけず、筵の上で目を開けているのか閉じているのかも分からなくなっていた。
「なに。顔色、悪いよ」
「黙れ」
「何が、あったの」
「黙れと言っている!」
朝宗の背の向こうで、遠く何かが割れる音がした。
馬のいななき。人の怒鳴り声。刀の打ち合う音が、門の方からだんだんこちらへ近づいてくる。
「与一っ! どこだぁっ!」
まさか。
そんなはずはない。だって、皆死んだって。
でも、あの声を私が聞き違えるはずがない。
「ええい! 閉めろ! 入らせるな!!!」
朝宗は戸を叩き閉めると、隅の
蔵の中が、また真っ暗になった。闇の中、戸の脇で朝宗の荒い息が聞こえ、刀を抜く音がした。
戸の向こうで、あの人の声がする。
戸が開いたら、あの人が斬られる。
起き上がれないはずの体が、起きた。
手探りで、床の弓と矢を掴む。
真っ暗で、弓も自分の手も見えない。この蔵の中なら、目を閉じていても分かる。
目を閉じた。
弦に指をかけると、また耳の奥で杖が鳴った。指が固まりかける。
まともに引けなくていい。この一本だけでいい。
荒い息の聞こえる方へ弓を引く。三年ぶりの弦が震える指に食い込む。
それでも、放った。
闇の向こうで短い声に続いて、重いものが倒れる音がした。
次の瞬間、戸が長持ごと外から破られた。
目を開けると光がまぶしくて、また細めた。
なだれ込んだ火の光の中に、戸口いっぱいの大きな影が立っている。
「助けに来たぞ」
剃り上げた頭が、逆光の縁で光っていた。
次回はこの救出劇の裏側を、とある仏師の目線でお届けします。お楽しみに!