フェイト・テスタロッサ・ハラオウン。彼女は国連災害対策本部EXCEEDZ極東支部の執務官の一人であり、普段は支部の女子寮にて私生活を送っている。
穏やかで理知的で、誰が相手であろうとも公平かつ公正な態度を崩さない、絵に描いたような公人だ。十三歳の幹部という複雑な立場にあるのだが、親友にして組織のマスコット的キャラクター・高町なのはの助けもあり、プライベートも楽しく大過なくやれている。
──だが、それはそれとして。
執務官としての立場上、本人の資質や性格に関係なく、嫌われ者を演じざるを得ない状況もやはり訪れるものだった。例を一つ挙げるのならば、寮の公序良俗を明らかに乱す因子。
それを見つけてしまったのなら、早期に綱紀を正す為、私生活へ多少介入する事も止むを得ないのではあるが──
──あはは。わたし程度の力では、離島生まれで離島育ちの天然ガール。もといシイナさんを止めるだなんて不可能ですし、もうどうにでもなればいいんですよ──
今のフェイトはこの通り、心身ともにぐずりと溶け落ちたように脱力し、久瀬シイナに手を取られずるずるずるずるずる引かれるままとなっていた。
難敵とされていたつがいの原種・三号と四号を無事駆除し、フェイトがなのはとお泊りをしたすぐ翌日の事である。
侵略種に脅かされたこの世界を変えられる、陰の救世主的存在であり。
良くも悪くもコミュ力がありすぎて、寮での生活と実家での生活。段々と、その区切りが曖昧になってきてしまってる、十七歳の元気印な女の子こと久瀬シイナ。
その朝彼女が着ていた物は、上半身は丈が短くおへそがもろに見えてしまう、楽ではあるが下着に近い少し以上にえっちなシャツ。
下半身は、白くて綺麗で健康的で鍛え抜かれた脚全体がほとんど丸出しになっている、やはり楽ではあるのだけれど下着同然といっていい、フィット感あるショートパンツ。
彼女はそれだけを身に付けた状態で、女子寮内の自室から、よりにもよって男性陣も使ってる寮の共用食堂にまで向けてほいほい歩み出してしまってたのだ。
──シ、シイナさんってば、なんていやらしい格好なのでしょう!
わたしの部下には自制なき隊員なんて一人たりともいはしません。十三歳にはまだ早い、ゴニョゴニョでモニョモニョな、言葉にし難い間違いなんて犯す筈もありません。
ですがそれはそれとして、今の貴女はとってもとってもマジでほんとにえっちです! ゴニョモニョなアレなんて起こらないってちゃんと信じてはいますけど、その格好で男性の目が多くある場に出すなんて許す訳にはいきませんー!
──などという内心を表に出しはしなかったけど、フェイトは執務官の義務として彼女をやんわり止めにかかった。妄想は控え目にして、ちゃんと真面目にかかったのではあるけれど、シイナのあまりの天然ぶりに十秒保たずに無事撃沈。
すっかりと放心し、ずるずるずるずるずる成すがまま、シイナにしっかり手を握られて食堂へまで引きずられつつあったのだ。
今朝のフェイトは、昨夜のイチャ甘かつベタ甘でとろけるほどに幸せだったお泊りに、もうしばらくの間だけ浸っていたかっただけである。また仕事を頑張る為に、最後に朝食の間だけ、なのはといっしょに二人の世界でイチャ甘したかっただけなのだ。
なのにどうして、ささやかな願望があまりに無為に潰されて、代わりにこんなにろくでもない事態になったのか。
フェイトにも、それがどうしてかは分からない。ただ、このままでは一分後には、えっちな部屋着のシイナによって、朝の共用食堂の和やかな空気が凍り付く。
みんなただ、今日一の英気を養いに来ただけなのに、八神はやて総督と極東支部局長ルーク・アンダーソン。トップ二人まで交えての緊急会議にすら成りかねない。最悪に最悪が重なれば、人類の希望を自らの手で追放する事態すらあり得てしまう。
──けどここに、その危機的にして地獄的状況を喰い止めた、一人の少女の姿があった。
「あーっ! そうですそうですようやく思い出しましたあーっ!」
そう叫ぶと共に、シイナを女子寮廊下の窓際にまで追い詰めたのは、屈指のS級魔導士にしてEXCEEDZ調査隊員の主戦力。
ついさっきまで、フェイトといっしょに手を引かれシイナの隣で歩いてた。
フェイトがいっしょに幸せに浸っていたかった、親友高町なのはなのである。
「あーっ! そうですそうですようやく思い出しましたあーっ!」
親友が叫ぶと同時、引かれていた手を離されたのをきっかけに、フェイトは放心から目覚める事が出来ていた。
「思い出しましたよシイナさん! セツナさんのお心遣いを忘れたら、『めっ!』なんですからねっ!」
それは、眉間にぐっと力を入れこんでみせてでの、可愛いらしくて高い声での一喝だった。
なのはは小柄かつ童顔にして、仕事と遊びの境界線が少しばかり曖昧な全力全開人生エンジョイガールである。
よって、どう頑張ろうとも怒鳴るにはいまいち迫力に欠けてしまう。
けれど彼女は、指を切っての約束という己が使命と勢いだけでこの状況を押し切った。廊下を真っ直ぐ突き進む、純粋すぎる十三歳。後ろ歩きに後退をする、子供に弱い十七歳。
なのははシイナを窓際にまで追い詰めて、両手で以って両手首を抑えつけ、動き自体をがっちり封じ込めてしまってた。
ほんわかとした友人の突然の変調。それをすぐ目前にして、背中を窓に押し付けられて、シイナは眼がきょろきょろ泳ぎ明らかに戸惑ってしまってる。一時的ではあろうけど、混乱と動揺とが重なって、シイナは思考と動きの双方がガチリと止まってしまっていた。
目が覚めたフェイトには、今繰り広げられている状況が何なのか、理解出来てる訳じゃない。
けれど、意味は分からなくっても、これがシイナを阻止出来る千載一遇である事は十全に直感出来ていた。
離れた距離はおおよそにして五メートル。
『──ちょ、なのは!? シイナさんに突然何を!?』そう叫び、思わず二人に駆け寄りかけたフェイトなのであったけど、その直感あってこそ下手に刺激をすべきでないと留まる事が出来たのだ。
そして、千載一遇は二度ないという理解も十分あったゆえ、フェイトはここで横槍なんて許す訳にはいかなかった。
「──ねえ、なになにどうしたの? 朝一からなんの騒ぎ?」
「──あらら、久瀬ちゃんとなのはちゃんにトラブルが…?」
自販機や観葉植物の陰。共用トイレの出入り口や廊下の曲がり角だとか。
耳を研ぎ澄ませてみると、寮の廊下のそこかしこから、ひそひそとした囁き合いが聞こえてくる。
現在時刻朝七時。女子寮の寮生達が起き出して、各々が食堂にまで、向かって然るべき時間である。
先のなのはの怒鳴り声が聞こえたならば、普通は思わず振り返ってみてしまう。シイナががっちり抑え込まれているこの状況を見たならば、好奇心が刺激されても当然の事である。
秩序だった寮内での、朝一からの予想外のイベント。それを前に、無粋であるとは分かっていても、人は誰もが無粋な野次馬になりかねない。
それは、社会性ある人間として、どうにもならない業だとすらも言いきったってよいものだった。
無論、執務官たるフェイトとて──理性的で理知的で抑制上手な人間とはいえど、本質的には普通の人と大して変わりなどしない。
例えば一つ。フェイトはなのはがセクハラに──もとい、はやての趣味の胸揉み被害に遭ってる場を、
『わあ、わあ、わあ!? す、凄い…! お友達同士だからって、あんなに大胆なスキンシップが…!?』とドキドキしながら見入ってしまい、案の定隠れてガン見している姿を視線を感じたなのはが発見。
『見てないで助けてよー!』と怒りのバインドを施されはやてに差し出された事がある。
結果、より酷くって卑猥な揉まれ方をした。のぞき見なんて姑息な行為は二度とするまいと誓った。
例えば一つ。機会があればいっしょに剣の稽古をしてもらってる、武人仲間のシグナム。彼女が己が主人であるはやての要望に逆らえず思う存分揉まれている場をまたもやこそこそ見物をしてしまい、
『ぶ、武人の誇りが汚された〜…!』と泣かせてしまった事もある。二度とすまいと誓ったのに、大人の胸が揉みしだかれて激しく揺れ動く様に完全に目を奪われた結果である。
償う為に身を差し出して、またもや無駄に胸を揉まれた。今度こそ本当に、野次馬だとかのぞき見だとか武人らしからぬ真似はしないんだって深く心へ刻み込んだ。
──とまあこの通り、全然そつがないようでいて、なかなかどうしてやらかしだらけなフェイトの人生ではあるのだけれど──とにかく今は過去の自分を棚上げにして、彼女は己が両眼へと一つの意思を詰め込んだ。
執務官の一人として、込めた意思を刃に変えて、廊下のそこかしこに散らばっている十人ほどの野次馬にまで眼光による言葉を送った。
『──皆さん、執務官として忠告させて頂きます。これは興味深い見世物とかではありません。解決次第、二人を連れてわたしもそちらへ向かいます。なので皆さん、直ちにこの場を静かに離れ、いつも通りに食堂へ行き朝食を済ませて来て下さい』と、とっさに威嚇し言葉を送ってみせたのだ。
そして、多少の野次馬根性を発揮していようとも、彼女ら寮生はEXCEEDZに選抜された非常に優秀な隊員だった。
声も文字も一切介さなかろうと、向けられたフェイトの意思をほぼほぼ正確に読み取って、
『はあい。見たかったけど、フェイちゃん執務官のご命令とあらば』
『その代わり、話せる範囲で構いませんから後で教えて下さいねー』と、やはり眼だけで返事を返し。
自販機や観葉植物の陰。共用トイレの出入り口や廊下の曲がり角。他、寮の廊下のそこかしこから、本当に音の一つも立てもせずその場を瞬時に去って行った。
後には気配も何もない。フェイトも思わず感嘆しため息すらも漏らしてしまう、見事な隠密術だった。
──全くしょうがない人達ですねえ。
年が倍は離れてますし、マスコット扱いのなのはといると、わたしもまとめてマスコット扱いされている感がありますし。
わたしこれでも幹部の一人なんですが、やっぱり微妙になめられてもいますよねえ。幹部がこれだと秩序を乱す要因になりかねなくもないですが、だからといって強権的に振る舞って委縮させてしまうのも全然本意じゃないですし。
指示を下せば余さず聞いて頂けて、一から十までまともに実行して頂けてるし、そうやってお茶を濁されてるっぽくすらありますよねえ。
寮生達を見送って、ため息混じりの苦笑が漏れてしまうフェイトであったのだけれども、この場はまあ良しとした。
後はともかく、誰かが外から戻ってくる気配とか、お寝坊さんが後から起き出してくる気配とか、そういうのに警戒をして。
決着が着くまでの間、シイナさんとなのはには、誰かの余計な横槍なんて絶対入れさせないように気を張っていればいい。
静かに呼吸を整えて、そう考えたフェイトなのであるけれど──これより五秒と経たない内に、彼女は知らず犯してしまってた致命的なミスにより、想定外の激しい苦痛に耐え忍ぶハメとなる。
それは、遠目に見学する分には、可愛らしくて微笑ましい少女同士の戯れに見えたのかもしれない。
けれど、もしもそれらのやり取りが、もしも何かの間違いで間近で向けられてしまったのだとしたら。
「え、えーと。ごめんなのちゃん。あたしもしかしてなのちゃんに、知らない内にすっごく悪い事しちゃってた…?」
「ちょ、それはダメですよ!? シイナさん、少し前にわたしに話してくれたじゃないですか! セツナさんとの思い出話! セツナさんがお料理中に配達の人が来て、シイナさんが受け取りに出た話──!」
高町なのは。彼女は一見、小柄で幼い普通の女の子に見えたって、時空管理局の一員として次元絡みの災厄と戦い抜いた真なる歴戦の勇者である。
そんな彼女が力を溜めて、気合いと共に言葉を発したとしたならば。
何かのミスで万が一、一般人がそれを間近で受けてしまったのだとしたならば、容姿のギャップも相まって思わず腰が砕けてしまう事だろう。
対する久瀬シイナとて、幼い頃から祖父に仕込まれ鍛え続けられてきた、女性ながらにソロでも十分戦える非常に優秀なハンターだった。
ちょっとやそっとのトラブルで心を揺るがせたりはせず、仮に揺さぶられたのだとしても一秒あればそれを抑え込んで戦える。才と経験、指導者全てに恵まれた、現代の勇者とすら言える少女なのだ。
しかし、若さと善の性質ゆえに人の三倍お人好しな面もあり、特に子供が関わると判断ミスも多くなる。
それは、今現在の相方とて例外には成り得ずに──脆い普通の人間として、侵略種との戦いを幾多も生き延びてきた強靭な精神が、目前の少女の声で一事とはいえ揺らいでいる。
シイナは自身の両腕を、年下の友人にして年下の先輩であるなのはに押さえ込まれてしまったままで、なかなか事態を把握出来ずにいる。
なのははそれに苛立って、ますます声を荒げているように見えるけど──少し離れて見守っている、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン執務官は違っていた。
フェイトとなのは。二人は互いにかけがえのない四年来の親友だ。
ジュエルシードの所有を巡り、多くの衝突を経た果てに二人は気持ちを理解し合い、数多くの戦いで背中を任せ合いながら生きてきた。
そんなフェイトだからこそ、他の者では見分けられないなのはの事を読み取れる。
なのはの瞳、声の色、魔力の流れと安定度。
すぐ傍で、自分の目で見て耳で聞き、それらを総合的に考えてみたならば、なのはが本気で怒っている訳ではない事はフェイトにならばすぐに分かった。
「いいですかシイナさん、今からヒントを二つばかりお出します! 一つはスターライトブレイカー! もう一つは、涼しくて着やすくて楽ちんすぎる部屋着です! 一分以内にきちんと思い出してくれないと、わたし今度こそ本気で怒っちゃいますからね!」
「一分で!? なのちゃん、あたしみたいなバカを相手に一分以内は厳しいけれど!? えーとえーと、頑張れあたし思い出せ! 部屋着とスターライトブレイカーと、セツナと料理と宅配便に一体なんの関連が──!?」
スターライトブレイカーだとは、いささか以上に物騒ではあるけれど。
あの時、お腹を抱えて笑い転げていたフェイトには、二人が何の会話をしているのかは分からないままであったけど。
元よりこの二ヶ月間、なのはとシイナの二人が中心となり、原種や大型コロニーの駆除にまで、各方面へと出向いていってくれていたのだ。
その間に、二人だけでの会話があり、二人で協力し合って切り抜けた激しい戦いがあっただろう。
その事を。自分はなのはの親友なのに、自分だけが蚊帳の外になってしまっている事を、ちょっとだけずるいとか羨ましいとか思わなくもないフェイトであるが──いや、事実昨晩嫉妬と寂しさを拗らせてなのちゃんいじめをやらかしてはいるのだが──お仕事だから仕方がないと、割り切れないほど中身は子供じゃないのである。
そんなフェイトであるからこそ、なのはは芯から怒り狂っているようでいて、実は極めて冷静である事が一目しただけで分かってた。
あくまでも、多少年下であろうとも、シイナの一人の対等な友達として、大事な何かをどうにか思い出してもらえるよう厳しい態度で尽くしている。
それが分かっているからこそ、数歩離れてシイナとなのはの二人の事を、フェイトは放置をしておけた。
双方の友人であり、同時に上司でもある存在として、信じてしっかり腰を据え、無言で見守ってられるのだ。
──と、言いたいところであったのだけど。
清廉なる人格者であるフェイトにとって、ここからが想定外の大誤算の始まりだった。
「はいシイナさん! 早くも十五秒が経過しましたー! レイジングハート、いつでも撃てるように準備してー!」
「はいマスター。レイジングハート・ランスモード、いつでも始動可能です。支部まで破壊はしないよう、攻撃範囲は極限まで絞ります」
「ちょ、レイハ君!? 君までノリノリなのはなんなの!? そこは主人の暴走を止めるのが、忠臣ってやつの役目じゃない!?」
なのはの傍にふよふよ浮かぶ、羽を生やした赤い宝石。それを相手に、ガーッと鋭い牙を剥いてツッコんでいる、紅蓮の魔人久瀬シイナ。
いつも通りに強気なようで、あからさまに狼狽しあからさまに焦っている。
そんな彼女と正反対に、離れて見守っているフェイトの方は、一見すれば極めて沈着冷静で在るように見えていたのだけれども。
本人にも、そう在れているという自負が、ちゃんとあったのだけれども。
(──ひ、ひえええええええマズいですマズいですマズいですマズいマズいですマズいです! 一体急に何なのですか今のわたしのこの状態は!? 突然背中に脂汗が流れてきて、手足もぶるぶる震えだしているのですが!?)
実のところこの通り、この数秒で急激に、シイナよりもよっぽど酷い荒れたメンタルとなっていた。
なのはがシイナを窓際にまで追い込んだタイミング。その時点でもう既に、フェイトは胸にムズムズとした違和感を、感じていなくはいなかった。
けれどもそれから目を逸らした。そんな事よりなのはとシイナ、優先すべきはこの二人。今、彼女達から目を離してはいけないと、自分自身の変調を敢えて無視してしまってた。
そうした結果がこれなのである。
脂汗と震えに加え歯までカタカタ鳴っていて、アルフアルフアルフアルフアルフアルフアルフアルフって、心の中で愛する使い魔の名を連呼してしまってる。
持ち前の真面目さと使命感で以ってして、どうにかこうにか平静を維持してはいるものの、内心は地震と嵐と火災とに同時に見舞われたかのように激しく動揺していたのである。
本人にとってしても全くの想定外。今、フェイトの身には何が起こってしまってるのか。
人格・文武ともに優れ、希薄であった人間関係の築き方も優しい人らの助けのお陰で無事に取得していけた、稀代の天才フェイト・テスタロッサ・ハラオウン。
その幸運と、順調に回り始めた人生の歯車こそが、天才たる彼女の最大最悪の弱点であり変調の原因だった。
「三十秒経過ー! シイナさん、残り時間半分ですよ、まだ思い出せませんかー!? レイジングハート、カウントダウンを開始してー!」
「はいマスター、カウントダウンを開始します。スタンバイ・レディ。三十、二十九、二十八、二十七」
「ぎゃああー!? 今日のなのちゃん妙に意地が悪くない!? これ以上あたしの頭に余計なプレッシャーかけないでー!」
フェイトは生まれた環境の特殊さゆえに、母プレシアと使い魔アルフ、この二人以外との関係を何も持ってはいなかった。閉じた世界、閉じた人間関係以外、何も知ろうとしていなかった。
それが変わり出して以降──高町なのはを筆頭に、裁判の手助けをしている内にすっかり情が湧いてしまい、義母になる決断までしてくれたリンディ・ハラオウン提督。
おっとりしていて人当たりの良いお嬢様である月村すずか。ツンデレで面倒臭い性格が、面倒見の良さという良い方向に向かってくれた、クロノ・ハラオウン執務官とアリサ・バニングス。
他、ユーノやなのはの家族らや心の優しい人々に囲まれて、他者を相手にどう振る舞えば良いか、出会った人とどのように関わりを持っていけば良いか、持ち前の要領の良さも相まって急速に学習をしていけた。
──のであるが、その恵まれた環境こそが、フェイトの大きな弱点も同時に育んでしまってたのだ。
そう。フェイトは友人関係というものにあまりに恵まれすぎてしまったがゆえ、友人同士のケンカには全く以って無縁なままで九歳から十三歳まで生きてきた。
よって今はこの通り、
(うわあああああんやだやだやだやだケンカなんて怖いですううううううう! わたしのすぐ目の前でケンカだなんて、なのははどうしてわたし相手にこんな酷い意地悪するの!? わたし達って親友じゃなかったの!? でもわたし達は親友で、シイナさんも新しいお友達なんだから、ケンカを放って逃げたりなんて出来ないよおおおおおおおおおお!)
武具と武具、魔法と魔法を用いての戦いならば、訓練にも実戦にも慣れきっている。
執務官として人を叱責するならば。組織の中の一人として大人の争いをするならば、リンディやクロノの振る舞いや、裁判を乗り切る為の対策をする中で完璧に学習しきってた。
だけれども、経験不足と心に宿した深い優しさがあるがゆえ、フェイトは本当の本当に、友達同士の争いだけはどうしたって駄目だった。
ヴォルケンリッター、闇の書の防衛プログラム。中・大型の侵略種の大群に、それらの主たる巨大な原種。数多の強敵を前にして臆する事なく戦ってきた勇猛な姿も今はなく、ただ体面を装うのが精一杯で、心身ともにへにゃへにゃかつふにゃふにゃの状態だった。
(──そ、そうです! この状況を耐え抜く手段はありました! さっきまでそこかしこで隠れながら見物してた、野次馬の方々が残ってくれてはいませんか!?)
そう。なのはの怒りは偽りの怒りに過ぎないと、理性がしっかり解していてもとても耐えきれそうにない。本能が理屈を無視し、回れ右して脱兎の如くに逃げ出せと、うるさいくらいに激しく警鐘を鳴らしてる。
けどここに、一人だけでも構わないから野次馬が残ってくれていたのなら、フェイトにとっての状況は一気に大きく変化する。
一人だけでも部下が見ていてくれてるのなら、なのはとシイナの友達としてではなく、執務官の自分としての仮面を被って振る舞える。
もうこれ以上は情けなく、怯えたり震えたり泣きそうになったりなんてしない。友達としての自分じゃなくて、仕事人としての自分のスイッチをオンにする。部下の前で、強くて沈着冷静な国連幹部の一人となって、この状況であってでも、己が責を以ってして力強く踏ん張れる。
フェイトはそう考えて、なのはとシイナを避ける形で探知魔法を展開させたのだけれども。
(──ああ、なんて素晴らしいのでしょう! やはり皆さん、EXCEEDZの一員らしく根はとっても真面目な方々です! 一回り以上年下の、急造幹部なわたしなんかの命令をよく聞いて、一人残らず食堂にまでちゃんと行って下さっておりますよ!)
探知に希望を託してみたけれど駄目だった。
自販機や観葉植物の陰。共用トイレや共用バス、選択場の出入り口。天井裏から床下まで探してみたけど駄目だった。
何処をどう探ろうと、寮生達は誰も残ってくれてはないし誰も自分を見てはいない。今の自分は限りなく孤独だという絶望が、上から下まで彼女の総身という総身をズッタボッコに打ちのめす。
真面目に生きて真面目に働き、自分の役目をしっかり果たす。それがフェイトの信条であったのだけど、少しばかり考えがお硬すぎたのかもしれない。
サボりだって野次馬だって、少しくらいなら悪くない。頭のネジをちょっと程度は緩めたままで、いい加減に生きてみて別に構わないんじゃないか。
そのように、可能性の塊である十三歳の子供らしく、柔軟に自分を変化させているフェイトなのであるけども、それでも時は残酷かつ容赦なく不可逆のまま進んでいく。
「シイナ様、カウント残り二十です。機械の身で僭越ながら、どうか迅速に記憶を掘り出せるよう心底より願います。十九、十八、十七」
「だーかーらー、どうしてレイハ君は主人の暴走止めないの!? 願うんだったらカウントを少しはスローにしてくんない!? あたしレイハ君に、なんか恨まれる事しちゃってたあー!?」
あれこれショックを受けてたり、価値観に少しの変化が生まれ出してるその間に、残り時間はもう三分の一以下である。
なのはがシイナを抑えた腕を解く気配は全くなし。シイナもうんうん苦しそうに唸っているが、約束とやらが何なのか思い出す兆候未だなし。
フェイトの背中は脂汗でぐっしょり濡れて、両手の平も手汗でベタベタになっている。足はいよいよ隠す事など不可能であるくらい、床にへたり込んでいないのがいっそ不思議になるほどに、ガクガクブルブル派手に揺れ動いてしまってた。
なんかもう、色んな意味で自分が情けなくなりすぎて、フェイトは置かれた現状から一時逃避をするように外へと感覚を傾けてみる。
聞こえてくるのはいつも通りの生活音。
体が資本の隊員達が、早朝ランニングをしてる声。トラックが駐車場まで入って来て、物資を搬入してる音。お味噌汁の香ばしい臭いが鼻腔へ届き、非常時にも関わらず奇妙に食欲を刺激する。
それら普通の、守り抜くべきごく平穏な日常の感触が、足といっしょに折れかけていた心を少し立ち直らせた。
──ああそうです。このまま震えているだけなんて執務官としてダメなんです。
わたしはなのはをちゃんと信じていますけど、あの子の軽い暴走癖は今に始まった事でもないですし。
万が一、全力全開の一撃を本当にやらかした場合に備え、なのはをカバーしてあげる準備だけはきちんとしておかないと。
カウントダウン残り十秒。そうやって、フェイトは拳をぎゅっと握りしめ、半ば無理矢理にでも公の心を奮い立て、震える足でも一所懸命に耐え続ける。
残り七秒。フェイトの足元には既に、流れ出る大量の汗により小さな水たまりすら出来ている。六秒。それでも己が意地にかけ、気が遠くなりかけながら平然とした表情だけは崩さない。なのはとシイナの二人から目を逸らす事だってしない。
五秒。助けてと、フェイトは相棒バルディッシュの名を叫びかけた。
考え続けるシイナの両眼が渦巻きみたいにぐるぐる回る。脳がオーバーヒート気味になり、頭頂部からぷすぷす煙も上がってる。
四秒。アルフ、ごめんなさい。やっぱりわたしもう駄目かも。もしここで、わたしの心が砕け散って廃人になったのだとしても、どうか貴女は変わる事なくわたしの友達たちを助けてあげて。
意識などする事なく、フェイトの心が勝手に遺言を述べあげていく。
なのはも平気なふりをしていたが、(──あれ? シイナさんまだ思い出さないの? これ、もしかして本当に、スターライトブレイカーを撃たなくちゃ収まりがつかないやつ?)とさすがに焦りが募り出す。
三秒。フェイトの耳に何処からか、光そそがれるように柔らかなパイプオルガンの調べが届く。
シイナは頭頂部だけでは飽き足らず、耳からまでもぶすぶす黒煙が上がり出す。
二秒。現実なのか幻なのか。フェイトのすぐ目前に、オルガンの音と神々しい光を纏い、純白の翼を持った美麗な天使が降りてくる。
なのはの口は、『ごめんなさい、少し調子に乗りました。今更ですがやっぱりスタブレ撃つのは無しの方向でお願いします』と素直に降参していいタイミングをとっくに逸してしまってる。
一秒。天使が白亜の手を伸ばし、汗にまみれたフェイトの手指を慈しみの眼で掬い取り。
高町なのは、久瀬シイナ、そしてフェイト・テスタロッサ・ハラオウン。早鐘を打つ三者の鼓動が、偶然にもユニゾンを決めたその刹那。
久瀬シイナが「あ」と何かに気付いた声を上げた。
「あ」その一音を、口から発したのと同時であった。
なのはと交わした約束とはなんだったのか。それをどうにか思い出そうと、必死に脳を回転させていた顔貌が、見る見る内に真っ青に染まっていく。
カウントゼロ。レイジングハートから、それが告げられると同時。
久瀬シイナは、高町なのはの手によって、窓際にまで押さえ付けられていた両腕を、
「なのちゃん先輩ごめんなさい。久瀬隊員、ギリギリのギリギリで約束を思い出す事が出来ました…」と、いつもの彼女らしからぬ小さな声で謝って、頭を下げて解いてもらった。
それからシイナは、顔をほんのり恥ずかしそうに染め上げて、頬を両手で包み込み廊下の角に屈み込んだ。
そんな彼女を、なのはは腕を組んでジト目で上から見下ろして、
「も、もももももうっ! シイにゃさんてばようやく思い出してくれたんですねっ! わたし、ほんとのほんとにスターライトブレイカーを撃たなきゃならないとこでしたからね!? ──こほん。ではシイナさん、これからセツナちゃんの思いの為に、シイナさんがやるべき事はなんですか?」
「──はい。姉として、セツナの思いをちゃんと汲んで、身だしなみを今すぐきちんとする事です…」
「はいそうです、その通り! 分かっているなら行動です! ヘタってないで行動です! これは先輩命令ですよ! 五分以内にビシッと制服に着替えたら、わたしとフェイトちゃんでチェックして、それからいっしょに朝ご飯にまで直行です! 復唱ー!」
「はいっ! 久瀬隊員、復唱します! 久瀬隊員はなのちゃん先輩の命令に従って、今すぐ着替えてチェックを受けて、それからいっしょに朝ご飯へと参りますー!」
なのはにズバッと一喝されて、下着みたいな寝間着のシイナはビシッと直立で立ち上がる。
なのはも噛み噛みであったけど、疑問を差し込ませる隙もなく強引に押し切った。
次いでシイナは、ビシッと見事な敬礼を決め、ドタバタしながらダッシュして自室内まで飛び込んで、
「うあああ急いで着替えろ久瀬シイナー! 先輩が五分でやれって言ったんなら、そいつは一分以内でやり終えろって命じられたのとおんなじだー!」
どんがらがしゃがしゃばったーん。
閉じたドアの内側からは、着替えているとは思えないド派手な音が響いてくる。
以前にお邪魔したところ、シイナの部屋はごくごく綺麗に整理整頓されていた──のであるが、目で見らずとも音だけで、手の付け難い惨状のぐんぐん広がっていく様が、なのはの脳裏へあまりに明朗に描かれる。
噛み噛みでテンパっていたなのはとしては、五分どころか十分以上かけてくれて全然構わなかったのだけれども、明らかに過剰な解釈をされていた。
──うーん、もしかしたらわたし、焦って悪い言い方しちゃったのかも。
でも、あんなにしっかり指切りまでした約束を、あんなにさっぱり忘れられちゃってたら、セツナちゃんが気の毒になっちゃうし。やっぱり間違っていなかったとは思うけど、少しはフォローもした方がいいかなあ。
音の方向を眺めつつ、むむむと唸る高町なのは。
そんな彼女の小さな肩に、不意にどさりと寄りかかる細くて儚い何かがあった。
「──ん?」
反射的に肩口を見て確かめる。それは、説明なんて今更不要かもしれないが──心根が優しいゆえに友達同士のケンカがダメで、急激な心労によりすっかり虚脱しきってるフェイト・テスタロッサ・ハラオウンの変わり果てた姿であった。
「わ、うわーっ!? いいいい一体どうしちゃったのフェイトちゃんーっ!?」
なのはが自分の親友から、目を離していた時間は。
先日の約束を果たす為、シイナを窓際にまで押さえ込んでいた時間は、精々が一分強から二分弱。
そんな程度の短時間で、フェイトは全身びちゃびちゃの汗まみれになっており、目も虚ろに乾いてて何処を見ているのかも定かじゃない。そんな危険な状態にまで、見事に陥ってしまっていた。
間違いなく安全な筈の支部内で、魔導士としてS級であるフェイトがまさかこんな事になろうとは、いくら猛者たるなのはでも予想のしようもないのである。
──まあ心労の半分は、あたふたしているなのは自身が原因であるのだが。
──まあそれでも、悪意自体はお米一粒分すらない訳だし、敢えて告げずに流すのが大人なのだと弁えている。
そんなフェイトは、朦朧として途切れかけにある意識をどうにかこうにか振り絞り、
「──なのは、シイナさんを止めてくれてありがとね。さすがはわたしの親友よ。五分で立ち直ってみせるから、その間だけこのまま肩を──」
「フェ、フェイトちゃああーん!!?」
その言葉を最後とし、ちょっとだけ幸せそうな笑みと同時になのはの胸へと崩れ落ち、死んだように気絶した。