続きはありません
でももしかすると新しい小説を書き始めるかもしれません
期待しないでください
最終話「球が閉じた日」
初代会長から、四百年あまりが過ぎた。
その日、勇払平野の小さな部屋には、十人ほどの人間しかいなかった。大きなホールも、式典も、カメラもない。机の上には、湯気の立つお茶と、古いモニターが一台あるだけだった。窓の外では、風車がいつものように回り、ソーラーパネルが朝の光を受けている。創業の地は、もうすっかりきれいになっていた。不法投棄の山があったことなど、若い社員は、資料でしか知らない。
私は、DSP社の最後の会長だ。初代会長の血を引いているわけではない。初代の意思は、血ではなく、会社の中で受け継がれてきた。会長が代わり、社長が代わり、技術者が代わっても、守られてきた約束が、一つだけある。目立たず、着実に。派手なことをしない。人の夜を、明るくする仕事だけをする。その約束が、四百年間、この会社を動かしてきた。
モニターには、隣の恒星系が映っていた。恒星の周りを、ソーラーセイルが何層にも回っている。その上に、フレームが組まれ、シェルが張られていく。ダイソンスフィア。それは、初代会長がゲームの中で夢見た、恒星を包む発電所だった。最初は、ただのセイルの群れだった。やがて、フレームができ、少しずつ球の形になっていった。私が生まれるずっと前から、工事は続いていた。私の父の代でも、祖父の代でも、終わらなかった。だから、私たちは、完成を見られるとは思っていなかった。いつも、そう言われてきた。完成までは、まだ何百年もかかる、と。
だが、その日は、来た。
管制室からの通信が、静かに入った。隣の恒星系の建設現場からだ。イカロス型の建設機が、最後の一枚を運んでいる。最後のシェルだ。それが固定されれば、球は閉じる。
誰も、カウントダウンをしなかった。誰も、拍手の準備をしなかった。技術者の一人が、モニターを見つめながら、言った。
「最後の一枚、固定されました」
もう一人が、続けた。
「球、閉じました。エネルギー回収、正常です」
それだけだった。部屋に、しばらく沈黙が流れた。恒星の光は、もう逃げない。球が、その光を集め、電力に変え、遠い地球へ、そして、VRの世界を動かす計算機へと送り始めた。何百年もかけて、少しずつ増えてきた電力が、その日、ついに完成形になった。だが、地球の明かりは、派手に瞬いたりはしなかった。もともと、球は部分的に動いていたからだ。最後の一枚は、欠けていたピースを埋めただけだった。それでも、私たちは知っていた。これで、もう足りない、という時代が、終わったのだと。
私は、机の引き出しから、封筒を取り出した。初代会長が残した、封印された手記だ。歴代の会長だけが、球が完成した日に開くことを許されていた。四百年間、誰も開かなかった。
手記は、短かった。達筆ではない、現場の人間の字だった。
「俺は、ただの工場労働者だった。三十五歳で、工場を辞めて、北海道の誰も欲しがらない土地を買った。趣味のPCゲームで覚えたことを、現実でやってみただけだ。最初は、スクラップを売って、百万円稼ぐことが目標だった。ダイソンスフィアなんて、生きている間には、絶対に終わらないと思っていた」
「だから、もしこの手記を読んでいる人間がいるなら、頼みがある。俺の名前で、 monument を作るな。球に、俺の名前を付けるな。DSP社も、球が完成したら、役目を終えたものとして、終わらせてくれ。会社が、永遠に残るための会社になってはいけない。球は、誰かのものじゃない。これから生まれる子どもたちの、明かりだ」
「俺の暮らしは、質素だった。軽自動車に乗って、インスタント食品を食べて、それで十分だった。金が目的じゃなかった。ただ、誰かの夜が、少しでも明るくなれば、それでよかった。ダークフォグが来たときも、国会に呼ばれたときも、同じ気持ちだった。守りたいのは、会社じゃない。人だ」
「ゲームのことは、もう話してもいい。ただし、飾るな。ただの工場労働者が、ゲームで覚えた生産ラインを、現実で回してみただけだ、と。それで、十分だ」
私は、手記を読み終えて、しばらく目を閉じた。初代会長は、とっくに死んでいる。妻も、子どもも、とっくにいない。だが、この手記の声は、まるで隣の部屋から聞こえてくるようだった。目立たず、着実に。その言葉が、四百年間、会社を支えてきた理由が、よく分かった。
その日の午後、私は、最後の会長として、社員に告げた。DSP社は、解散しない。だが、役目を終える。会社としてのDSP社は、ダイソンスフィアの維持を担う、小さな財団に姿を変える。球の所有権は、特定の企業や、特定の国のものにはしない。地球と、隣の恒星系と、そこに暮らす人々の、共有のインフラとして、公開する。社員は、財団に残ってもいいし、新しい仕事に移ってもいい。誰も、置いていかない。
社員たちは、驚かなかった。むしろ、ほっとした顔をしている人もいた。四百年間、ずっと「いつか終わる」ことを前提に働いてきたのだから。終わることが、敗北ではないことを、私たちは知っていた。
夕方、勇払平野の施設の前で、一人の子どもが、母親に聞いていた。見学に来た、地元の子だ。
「ダイソンスフィアって、誰が作ったの」
母親は、答えに困って、私を見た。私は、笑って答えた。
「たくさんの人と、一人の、目立たない人だよ」
子どもは、納得したのか、していないのか、風車を見上げていた。風車は、今日も回っている。初代会長が、夜勤の合間に建てたわけではない。だが、その風車の系譜は、初代の風車から、ずっとつながっている。
夜、部屋に戻ると、モニターには、球が映っていた。恒星を包む、巨大な球。華々しい、と言えば、華々しい。だが、その光は、静かだった。爆発も、歓声もない。ただ、光を集め、電力を送り続けている。
イカロスの役目は、そこで静かに終わった。DSP社の役目も、そこで静かに終わった。
だが、その光は、これから生まれる子どもたちの夜を、ずっと照らし続けるだろう。誰の名前も付いていない、ただの明かりとして。
それで、十分だった。