空の結び目   作:夕花

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標本家編
プロローグ


 硬い靴音が、夜道を叩いていた。

 

 一度、二度。

 

 角を曲がるたびに遠ざかり、途切れかけては、また聞こえる。

 

 その間隔は、少しずつ長くなっていた。

 

 疲れてきたのだろう。

 

 人は追い詰められると、余計なものから捨てていく。

 

 体裁。他人への遠慮。自分だけは大丈夫だという、根拠のない思い込み。

 

 最後に残るものが、その人間の本質だ。

 

 男はそう考えていた。

 

 だから、急ぐ必要はない。

 

 夜になっても、舗装路には昼の熱が残っていた。風はなく、湿気を含んだ空気が古い住宅と倉庫のあいだに淀んでいる。

 

 その空気に、かすかな潮の匂いが混じっていた。

 

 海の近くまで来たらしい。

 

 前方で、金属が地面を跳ねた。

 

 短い悲鳴。

 

 靴音がひとつ消えた。

 

 残った片方だけが、ひどく不揃いな音を立てて遠ざかっていく。

 

 男は歩き続けた。

 

 やがて、もう一方も脱ぎ捨てられた。

 

 裸足になった足音は、ヒールほどよく響かない。それでも、荒い呼吸と、ときおり壁へ触れる音が居場所を教えてくれる。

 

 男が角を曲がると、女は行く手を塞ぐ金網を両手で掴み、扉を開けようとしていた。網目が激しく揺れ、乾いた音を立てている。

 

 鎖で閉じられていると分かると、金網に沿って走り、切れ目を探す。細身のスカートが足へまとわりつき、何度も歩幅を奪った。

 

 先には資材が積まれている。その向こうは建物の壁で塞がれていた。

 

 行き止まりだ。

 

 女は振り返った。

 

 そこで初めて、男と目が合った。

 

 驚き。

 

 疑い。

 

 それから、ようやく形を得た恐怖。

 

 男は静かに見つめた。

 

 逃げているあいだ、女は一度も彼をまともに見ていなかった。見なくても、追われていることだけは分かっていたらしい。

 

「来ないで」

 

 掠れた声だった。

 

 女は肩に掛けた鞄から携帯電話を取り出した。画面を点けようとして、一度、指を滑らせる。手のひらをスカートで拭い、震える指で緊急通報へつないだ。

 

 男は待った。

 

 女の呼吸がわずかに整う。通報さえできれば、まだ間に合うと思ったのだろう。

 

「助けてください。いま、知らない人に――」

 

 右手の甲に、何かが触れた。

 

 針先で突かれたような、ごく小さな痛みだった。

 

 携帯電話が落ちた。

 

 女は一瞬、何が起きたのか分からない顔をした。

 

 拾おうとして、右手を伸ばす。

 

 動かなかった。

 

 腕は身体の脇に垂れたまま、揺れている。握っていた感触も、指が開いた感覚もない。

 

 目には見えている。

 

 けれど、そこに自分の手があるとは感じられなかった。

 

「なに……」

 

 左手で右腕を掴もうとする。

 

 指先が触れるより先に、今度は左手の感覚が消えた。

 

 女は息を呑んだ。

 

 両腕がだらりと下がる。力が抜けたのではない。動かそうとしているのに、その意思がどこにも届かない。

 

 男は、その顔に浮かぶ変化を見ていた。

 

 理解しようとする目。

 

 理解できないという恐怖。

 

 女は金網へ背を預けた。左右へ視線を走らせる。携帯電話は足元にある。声は出る。脚もまだ動く。

 

 諦めてはいない。

 

「お金なら払うから」

 

 女は早口に言った。

 

「現金もカードもある。鞄ごと持っていっていいから。警察にも言わない。顔も見てない。だから――」

 

 男は遮らなかった。

 

 思いつくままに重ねられる言葉を、最後まで聞いた。

 

 どれも嘘だった。

 

 そして、生きるためには、どれも正しかった。

 

「よく分かった」

 

 男が言うと、女の目に一瞬だけ光が戻った。

 

「あなたが、どういう人間なのか」

 

 男が鞄へ目を向けていないことに、女はようやく気づいた。

 

 右足の感覚が消えた。

 

 裸足で地面を踏んでいたはずなのに、熱も、硬さも、足裏の傷も、突然そこから途切れた。

 

 身体が傾く。

 

 女は残った左足で踏みとどまり、肩から金網へぶつかった。腕は使えない。網目へ頬を寄せ、その向こうへ叫ぶ。

 

「誰か!」

 

 遠くで車の走る音がした。

 

「お願い、誰か――」

 

 左足からも、感覚が消えた。

 

 女の身体が沈む。

 

 金網へ肩を擦りつけながら、膝から舗装路へ落ちた。衝撃は見えた。けれど痛みはない。両脚は折り畳まれた他人の身体のように、ただそこに置かれている。

 

 男は女のそばまで歩いた。

 

 足元の携帯電話から、女を呼ぶ声が漏れていた。

 

 男は視線を落とした。

 

 画面の光と、途切れずに続く声。

 

 腰を屈め、通話を切る。

 

 光が消えたことを確かめると、立ち上がって女へ向き直った。

 

「ずいぶん遠くまで来た」

 

 穏やかな声だった。

 

 女は首だけを動かし、見上げた。

 

「いや」

 

 まだ声は残っていた。

 

「お願い。もう、来ないで」

 

 男の胸の奥で、長く疼いていたものが身じろぎした。

 

 熱に似ていた。

 

 空腹にも似ていた。

 

 だが、どちらでもない。

 

 ひとつの人間から余計なものが剥がれ、最後に残ったものが自分へ差し出される。その瞬間だけ、ずれていた世界の形が正しく戻る。

 

 男は、それを理解と呼んでいた。

 

「心配しなくていい」

 

 女の前へしゃがみ込む。

 

「もう、分からないことはない」

 

 胸の奥にあるはずの感覚が、まとめて消えた。

 

 息をしているはずなのに、肺が膨らむ感覚がない。金網へ触れているはずの背中も、舗装路へ落ちた膝も、もうどこにもなかった。

 

 首を振る。

 

 それだけが、まだ自分のものだった。

 

 誰か、助けて。

 

 声にならない願いだけが、何も感じない身体の内側で行き場を失う。

 

 額に、ごく小さな痛みが触れた。

 

 次の瞬間、瞬きさえできなくなった。

 

 恐怖も、拒絶も、意識の中には残っている。

 

 だが男には、それが見えなかった。

 

 すべてを奪ったのだから、すべてを理解したのだと思っていた。

 

 男は女の顔を見た。

 

 見開かれた目。声にならない拒絶が残る口元。

 

 その表情に合う形を、しばらく考えた。

 

 男が指先を上げる。

 

 女の身体が立ち上がった。

 

 本人の意思とは関係なく、両腕が持ち上がり、金網へ添えられる。指先は網目の向こうへ伸ばされ、片脚は逃げ出そうとした途中のように、わずかに後ろへ引かれた。

 

 細く黒いものがひとつずつ金網へ沈み、女の身体をその形に留めていく。

 

 やがて、胸の動きが止まった。

 

 男は少し離れ、出来上がったものを眺めた。

 

 胸の奥の疼きは消えていた。

 

 淀んでいた空気が、今は静かに肺へ入ってくる。

 

 男は踵を返した。

 

 遠くで車が走っている。

 

 どこかの窓が開き、笑い声が漏れ、すぐに閉じた。

 

 金網の向こうへ伸ばされた女の手は、助けを求めたまま動かなかった。

 

 けれど、その前で立ち止まる者は、まだ誰もいなかった。

 

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