翌朝、目を覚ましたとき、腕に少しだけ重さが残っていた。
布団の中で右腕を持ち上げ、手を握ったり開いたりする。
「……遊びすぎた」
ボウリングか、卓球か。それともバッティングセンターで調子に乗ったせいか。
たぶん全部だ。
千綴は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。画面には、昨夜のうちに増えた友人たちのやり取りが残っている。綾乃が送った写真にヴァシリオスが何か言い返し、その横で悠司が短い返事だけを返していた。
そこに混ざっている自分の姿を見て、千綴は少しだけ口元を緩めた。
昨日は楽しかった。
それだけ確認して、スマートフォンを伏せる。
今日は今日で、やることがある。
カーテンを開けると、朝から容赦のない日差しが窓いっぱいに差し込んできた。
*
夏休みの学校は、普段より音が遠かった。
廊下を歩いていても、聞こえてくるのは蝉の声と、どこかの運動部が上げる掛け声くらいだ。教室の扉はほとんど閉じられ、開いている窓から風が抜けるたび、掲示物の端がかすかに揺れている。
千綴は生徒会室の扉を開けた。
「おはようございます、弥生先輩」
「おはよう、鈴」
机に向かっていた鈴が顔を上げる。
室内には鈴しかいなかった。
千綴は鞄を置き、自分の席へ向かう。机の上には、確認待ちの書類が二つと、付箋の貼られたファイルが一冊。
「会長は?」
「さっきまでいたんですけど……」
鈴が窓の外を見る。
その視線を追って、千綴も窓際へ寄った。
校舎とグラウンドの間を、見覚えのある背中が横切っていく。手には何か長いものを抱えていた。
「今度は何してるの、あの人」
「用務員さんに捕まったみたいです」
「逆じゃない?」
鈴が小さく笑った。
千綴は席へ戻り、ファイルを開く。
夏休み中でも、生徒会の仕事がなくなるわけではない。
むしろ二学期へ向けて確認しておかなければならないことは細々と残っている。提出された書類に目を通し、抜けている箇所へ付箋を貼る。鈴がまとめた一覧と照らし合わせ、必要なものだけ脇へ分けた。
窓の外から、弓を放つ乾いた音が聞こえた。
千綴の手が止まる。
もう一度。
少し間を置いて、また一つ。
「環、今日も来てるんだ」
窓から弓道場までは見えない。それでも、あの音を聞けば分かる。
千綴は手元の書類へ目を落とした。
「これ終わったら、ちょっと見てこようかな」
*
弓道場の中は、外とは違う静けさがあった。
蝉は鳴いている。
風も通っている。
それなのに、環が弓を構えると、その周囲だけ音が一歩遠ざかったように感じた。
千綴は邪魔にならない場所に腰を下ろしていた。
弦が鳴る。
矢が走り、的へ届く。
乾いた音が遅れて耳へ入った。
「おお……」
思わず声が漏れる。
射を終えた環が、こちらへ顔だけを向けた。
「何、その反応」
「いや、ちゃんとやってるなと思って」
「何しに来たのよ」
「応援」
「仕事は?」
「終わらせてきた」
環は少しだけ目を細め、それから次の矢へ手を伸ばした。
千綴はその様子を眺める。
環が構える。
さっきまで話していた顔から、余計なものが消える。
また弦が鳴った。
*
机の上に広げた問題集へ、シャープペンシルを置いた。
千綴はそのまま机へ突っ伏す。
「暑い……」
エアコンは動いている。
動いているのだが、数字と文章ばかり追っていると、それとは別のところから疲れてくる。
顔だけ横へ向けると、ベッドの端に昨日から置いたままの鞄が見えた。
その向こう、クローゼットの中には浴衣がしまってある。
祭りの日に着るものだ。
確認しようかと思って、やめた。
まだいい。
代わりにスマートフォンを手に取る。
ちょうど通知が入った。
『明日、空いてる?』
綾乃からだった。
千綴は問題集を見る。
まだ残っている。
もう一度、スマートフォンを見る。
『昼からなら』
返信はすぐに来た。
『決まり』
「早いって」
誰もいない部屋で言ってから、千綴は笑った。
*
「それ、ちづるに似合うと思う」
「買わないよ」
「まだ何も言ってないけど」
「顔に書いてある」
綾乃が手にしていた帽子を戻す。
二人で歩く店内には夏物の服が並び、入口近くには祭り向けなのか、髪飾りや小さな巾着までまとめて置かれていた。
「浴衣あるんだよね?」
「ある。去年の」
「じゃあ髪飾りくらい変えれば?」
「見てるだけ」
「それ、買う人の言い方」
「綾乃が買わせようとしてるだけでしょ」
二人で棚を覗き込む。
ガラス玉のついた簪が照明を受けて揺れていた。
千綴は一つを手に取り、少し眺めてから元へ戻す。
「ほんとに買わないの?」
「今日は息抜き」
「買い物に来て買わないの?」
「見るだけでも買い物」
「強い」
綾乃が感心したように頷いた。
店を出ると、外の熱気が一気にまとわりついてきた。
「暑っ」
「次、涼しいとこ」
「賛成」
二人は顔を見合わせ、そのまま次の店へ逃げ込んだ。
*
「無理するなよ」
「してません」
「その返事する奴が一番怪しいんだよ」
丘平商店のレジ越しに、巴がじろりと千綴を見る。
久しぶりに着たエプロンの紐を結び直しながら、千綴はため息をついた。
「本当に大丈夫ですって」
「ならいいけどな」
巴はそれ以上言わなかった。
店先の冷蔵ケースへ飲料を補充する。
箱を開け、一本ずつ棚へ並べていく。冷気に触れていたペットボトルの表面が、すぐに白く曇った。
入口の戸が開く。
「いらっしゃいませ」
考えるより先に声が出た。
自分でも少し驚く。
客は近所の顔見知りで、千綴を見ると「あら、戻ったの」と笑った。
「はい。今日からまた」
そんなやり取りをして、会計を済ませる。
次の客が来る。
品物を補充する。
レジを打つ。
巴に頼まれて、奥から段ボールを一箱運ぶ。
やっていることは、以前と何も変わらない。
それが妙に心地よかった。
夕方になると、商店街の軒先に吊られた提灯が目につくようになった。
まだ明るい。
けれど日が傾くにつれ、赤と白の色だけが少しずつ濃くなっていく。
「もうすぐだな」
巴が店先から外を見た。
「ですね」
「祭り、行くんだろ?」
「みんなで」
「なら、当日は入れなくていい」
「最初からそのつもりです」
「お前な」
千綴は笑いながら、空になった箱を畳んだ。
*
夜。
風呂を上がってから、千綴はクローゼットを開けた。
奥から浴衣を取り出す。
去年着たものだ。
畳んだままベッドへ置き、帯と一緒に一度広げて確認する。
問題はなさそうだった。
スマートフォンが震える。
友人たちのグループに、新しいメッセージが入っていた。
『集合、予定通りでいい?』
綾乃。
続いてヴァシリオス。
『俺は大丈夫』
少し遅れて環。
『練習終わったら向かう』
悠司からは、しばらく返事がなかった。
千綴は浴衣を畳み直しながら待つ。
やがて通知が一つ増えた。
『先に始めてて。俺は神社にいる』
千綴は画面を見て、短く笑った。
『了解』
送ってから、浴衣を椅子の背へ掛ける。
窓の外では、夏の夜が静かに続いていた。
遠くから、祭囃子の練習らしい音が聞こえてくる。
笛と太鼓。
風に乗って届いては、途切れる。
千綴は窓際へ寄った。
丘の向こうにある鏡峰の方角は、ここからでは見えない。
それでも、音だけは届いていた。
祭りは、もうすぐそこまで来ていた。
夕方になっても、昼間の熱はまだ街のあちこちに残っていた。
千綴は鏡の前で帯の位置を確かめ、最後に髪を整えた。
去年も着た浴衣だった。
新しいものではない。それでも、普段着とは違う布の重なりや、歩くたびに足元へ触れる裾の感覚には、毎回少しだけ落ち着かないものがある。
椅子の背には、昼のうちに用意しておいた小さな巾着が掛かっていた。
財布。
スマートフォン。
ハンカチ。
家の鍵。
中身をもう一度確認してから、千綴は巾着を手に取った。
窓の外から、かすかに太鼓の音が届いている。
何日か前までは、遠くで練習しているだけだった音だ。
今日は違う。
窓を開けると、日が傾き始めた街の向こうに、赤や白の提灯が点々と見えた。駅前から続く通りにも人の姿が増えている。普段なら買い物袋を提げた近所の人が歩いている時間なのに、今日は浴衣姿の親子や、連れ立って歩く学生の方が目についた。
千綴は窓を閉めた。
「よし」
誰に聞かせるでもなく言って、玄関へ向かった。
アパートを出たところで、空はまだ明るかった。
西へ傾いた日差しが建物の壁を橙色に染めている。けれど、商店街へ近づくにつれて、昼とは別の明るさが増えていった。
軒先に並んだ提灯には、もう灯りが入っている。
帰省から戻った日に見たときは、まだただ吊られているだけだった。
それが今は、通りの奥まで連なっている。
赤と白の光の下を、人が途切れず流れていた。
商店街の店先も普段とは違う。惣菜屋は揚げ物を表へ並べ、菓子屋の前には子供向けのくじが置かれ、酒屋では冷やした飲み物を大きな桶へ沈めている。
その中に、見慣れた丘平商店もあった。
店先へ簡易の台が出され、巴が冷えた缶やペットボトルを並べている。
「店長」
「おう」
顔を上げた巴は、千綴を見るなり作業の手を止めた。
「ちゃんと祭りの格好してるじゃん」
「しますよ、それくらい」
「似合ってる似合ってる」
「軽いなあ」
「褒めてんだから受け取っとけ」
巴は笑いながら、冷蔵ケースから一本の水を取り出した。
「持ってけ」
「いや、払いますって」
「今日くらいいい。どうせこのあと食うんだろ、色々」
「それとこれとは別じゃないですか」
「細けえな。じゃあ従業員割引」
「休みの日ですけど」
「元気そうで安心した記念」
「何ですか、それ」
結局押し切られ、千綴は水を巾着へ入れた。
「ありがとうございます」
「無茶すんなよ。人すごいからな」
「分かってます」
「あと、浴衣で走るな」
「……分かってます」
少し間が空いたせいで、巴が目を細める。
「今、一瞬走る可能性考えただろ」
「考えてません」
「ならいい」
絶対に信じていない顔だった。
千綴は苦笑しながら店を離れた。
駅前へ近づくほど、人の密度が上がっていく。
鏡峰神社の祭りとはいっても、人が集まるのは神社の境内だけではない。
丘平側から鏡峰へ向かう通りにも屋台が並び、途中の広場や商店街まで祭りの範囲に入っている。道路の一部は車両通行止めになり、普段なら車が行き交う道の中央を、人が横に広がって歩いていた。
焼きそばのソース。
炭火の煙。
甘い綿菓子。
どこかから流れてくる笛の音。
匂いも音も、一つに混ざっている。
千綴は待ち合わせ場所へ向かった。
駅前の時計が見える辺りで、先にこちらへ手を振ったのは綾乃だった。
「ちづるー!」
「見えてるって」
人の向こうから大きく手を振っている。
綾乃も浴衣だった。普段より落ち着いた色合いなのに、本人が着ているせいかあまり大人しくは見えない。
その隣に環がいる。
環は屋台で買ったらしい冷たい飲み物を片手に持って、ぼんやり人の流れを眺めていた。
「もう買ってるし」
千綴が近づくと、環が視線だけこちらへ向ける。
「暑かったから」
「待ち合わせ前でしょ」
「待ちながら飲んでる」
「そういう問題?」
「ちづる、似合う」
唐突に言われ、千綴は言葉を止めた。
「……ありがとう」
「私も言おうと思ってたのに」
綾乃が不満そうに口を挟む。
「じゃあ言えばいいでしょ」
「似合ってる。すごく」
「はい、ありがとう」
「反応違わない?」
「気のせい」
三人で話していると、少し離れたところから背の高い男が人の間を抜けてきた。
「悪い。遅れた?」
ヴァシリオスだった。
「ぎりぎり」
環が即答する。
「まだ時間前だろ」
「私たちより遅い」
「それはお前らが早いだけだ」
「バカなのに遅い」
「関係ないだろ、それ」
いつものやり取りを始めた二人を見て、千綴は笑った。
ヴァシリオスは浴衣ではなかった。涼しそうな半袖のシャツに動きやすそうなパンツという、普段より少しだけ整えた格好だ。
こちらを見たあと、綾乃、環と順番に視線を向ける。
「三人とも浴衣なんだな」
「どう?」
綾乃がその場で少しだけ袖を広げる。
「似合ってる」
「もっと何かないの?」
「え?」
「感想」
「似合ってる、でよくないか?」
「減点」
「厳しくない?」
ヴァシリオスが本気で困った顔をする。
環が飲み物のストローをくわえたまま言った。
「勉強不足」
「祭りで何を勉強するんだよ」
「女心」
「それ学校で教えてくれないだろ」
「自習」
「無茶言うな」
千綴は耐えきれずに吹き出した。
「もういいから行こう。ここにいても人増えるだけだし」
「賛成」
綾乃がすぐに千綴の横へ並んだ。
四人は人の流れに乗って、鏡峰方面へ歩き始めた。
まだ神社までは距離がある。
それでも通りの両側には、すでに屋台が並んでいた。
たこ焼き、焼きそば、串焼き、フランクフルト。
少し先には金魚すくいと射的。その向こうでは、小さな子供が光る玩具を振り回している。
「先に食う?」
ヴァシリオスが言った。
「始まって三分で?」
千綴が聞き返す。
「だって匂いするだろ」
「その理屈なら最後までずっと食べることになるよ」
「祭りってそういうもんじゃないのか?」
「半分くらいは合ってる」
環が頷いた。
「猫、お前は味方なのか敵なのかどっちだ」
「面白い方」
「最悪だ」
結局、最初に止まったのは串焼きの屋台だった。
ヴァシリオスが買った一本を、環が当然のように一口もらう。
「お前、自分の買えよ」
「一口でいい」
「それ毎回やったら俺のがなくなるだろ」
「じゃあ守れば?」
「祭りで串焼きを防衛することになるとは思わなかった」
千綴と綾乃は、その横で焼きとうもろこしを半分ずつにしていた。
「これ、浴衣で食べるのちょっと危ないね」
綾乃が慎重に持ち直す。
「今さら?」
「醤油ついたら終わる」
「だからさっきから私、綾乃の袖見てる」
「え、ほんと?」
「もう二回入りそうになってた」
「言ってよ!」
「止めてたでしょ」
千綴が袖の端を軽く持ち上げる。
綾乃は自分の袖ととうもろこしを見比べてから、少し考えた。
「ちづる、食べさせて」
「嫌」
「即答」
「自分で食べなさい」
向こうでヴァシリオスが笑う。
「お前らも大変だな」
「何その他人事みたいな顔」
綾乃が言う。
ヴァシリオスはまだ何か返そうとしていたが、横から人の流れが強くなり、自然と一歩車道側へ寄った。
「こっち詰まってる。中入った方がいい」
言いながら、自分が人の多い側へ回る。
千綴たち三人を歩道寄りにし、そのまま歩調を合わせた。
それがあまりに自然だったので、千綴も最初は何も言わなかった。
しばらくしてから、綾乃が気づく。
「中村くん、今日なんか紳士じゃない?」
「今日なんかって何だよ」
「いつもより」
「いつも紳士だろ」
「それはない」
環が言う。
「猫、お前さっきから俺に厳しくない?」
「いつも通り」
「なら余計悪い」
ヴァシリオスは文句を言いながらも、前から来た家族連れを避けるときにはまた外側へ動いた。
千綴はその背中を見て、少しだけ笑う。
「何だよ」
「別に」
「今笑っただろ」
「紳士だなと思って」
「だろ?」
急に機嫌が直った。
「単純」
環の一言で、また崩れた。
通りを進むにつれて、提灯の数が増えていった。
店の軒先だけではない。
道の上にも紐が渡され、左右から吊られた灯りが頭上を連なっている。
空は少しずつ青さを失い、屋台の照明が目立ち始めていた。
途中の広場では、子供たちが小さな太鼓を叩いていた。
揃っているような、揃っていないような音に、周囲の大人たちが笑いながら拍手を送っている。
「こういうの、昔からあるの?」
ヴァシリオスが綾乃に聞いた。
「祭り自体は昔から。今みたいな形になったのがいつかまでは知らないけど」
「へえ」
千綴は人の流れの先へ目を向けた。
「今日、悠司どこにいるんだ?」
「神社じゃない?」
「この人混みで探せる?」
環が前を見る。
神社へ近づいているはずなのに、人の頭ばかりで先が見えない。
「向こうから見つけてくれるでしょ」
綾乃が軽く言った。
「仕事してんだぞ」
「守屋くんなら私たち見つけても仕事優先するよ」
「それはそう」
全員が妙に納得した。
参道へ入る手前で、環が足を止めた。
「射的」
視線の先に屋台がある。
「急だな」
「やる」
「大会の練習してた人が祭りでまで狙うの?」
千綴が言うと、環は首を傾げた。
「別物」
「そういうもの?」
「ちづるもやる?」
「私はいい」
「逃げた」
「何から」
「勝負」
「してないでしょ」
環はもう屋台へ向かっている。
ヴァシリオスが後を追った。
「じゃあ俺やる」
「バカは三発でいい」
「何でお前が決めるんだよ」
「ハンデ」
「俺が負ける前提なの腹立つな」
千綴と綾乃は少し離れて見ていることにした。
結果は、環が小さな菓子を一つ落とし、ヴァシリオスは一発目を大きく外したあと、二発目で軽い箱を倒した。
「見たか」
得意げに振り返る。
「三発目残ってるよ」
「もう勝っただろ」
「まだ」
「勝負に厳しいな、お前」
三発目は、景品の端をかすめただけだった。
環が黙って手を出す。
「何だよ」
「戦利品」
「俺のだぞ」
「勝った方がもらう」
「そんなルール聞いてない」
「今できた」
「横暴すぎる」
結局、箱の中身が小さなラムネ菓子だと分かると、環は一粒だけ取って返した。
「いらないなら取るなよ!」
屋台の前でヴァシリオスの声が響いた。
参道へ入ると、さらに人が増えた。
石畳の両側に屋台が続いている。
頭上には提灯。
境内の方角から太鼓と笛が重なって聞こえ、ときどき拍手や歓声が混ざった。
千綴は歩幅を少し狭くした。
慣れない下駄で、普段と同じようには歩けない。
すぐ横を通り過ぎようとした人と肩が触れそうになり、身を引く。
「大丈夫?」
綾乃が振り返る。
「平気。下駄がちょっと」
「だからゆっくりでいいって」
「俺、荷物持つか?」
ヴァシリオスが言う。
「巾着しかないけど」
「じゃあ持つ」
「それはいい」
「何でだよ」
「自分で持てる」
「そういう問題じゃ――」
「ヴァシ」
前から声が飛んだ。
ヴァシリオスがそちらを見る。
人の流れの脇、関係者用らしい細い通路に悠司が立っていた。
普段着ではない。
神社側の揃いの法被を着て、片手に紙の束を持っている。
「お、悠司」
「お前ら、来てたのか」
「来るって言っただろ」
「そうじゃなくて、もうここまで来てたのかって意味だ」
悠司は四人を順番に見て、それから千綴たちの浴衣姿で一瞬だけ目を止めた。
「……似合ってるな」
「今の間なに?」
綾乃がすぐに拾う。
「別に何もない」
「守屋くん、言い慣れてないでしょ」
「うるさい」
耳が少し赤くなった気がした。
環が面白そうに眺めている。
「悠司、忙しい?」
千綴が聞く。
「まあな。今から向こうの配置確認。終わったらまた別のところ」
「祭り楽しんでる場合じゃないね」
「毎年こんなもんだよ」
「本人が祭り回れないの、どうなんだ?」
ヴァシリオスが言う。
「別にいい。子供の頃からやってるし」
悠司はそう答えながら、通路の向こうへ視線を向けた。
誰かを待たせているらしい。
「悪い、もう行く」
「働け働け」
綾乃が手を振る。
「お前は他人事だと思って」
「だって今日は遊びに来てるし」
「こっちは遊びじゃないんだよ」
「知ってる」
楽しそうに返され、悠司はため息をついた。
そのとき、奥からもう一人、法被姿の男性が歩いてきた。
「悠司、そろそろ――」
言いかけて、こちらを見る。
「友達か?」
「兄貴」
悠司が短く紹介した。
「こんばんは。兄の
「こんばんは。お邪魔してます」
「逆じゃないですか?」
千綴が言うと、征一郎が笑った。
「それなら、お互い様かな」
「兄貴、もう行かないと」
「ああ。悪い」
征一郎は四人へ軽く頭を下げた。
「人が多いから、気をつけて楽しんで」
「はい」
悠司もつられるように一歩下がる。
「あと、参道の奥、今かなり詰まってる。境内入るなら右側から回った方がまだ動く」
「了解」
ヴァシリオスが答えた。
「じゃあな」
「がんばって、守屋くん」
「お前ほんと気楽だな」
綾乃に最後の一言を残し、悠司は兄と一緒に人の向こうへ消えていった。
「似てたね」
綾乃が言う。
「兄弟だし」
千綴が返す。
「雰囲気」
「悠司が尊敬するの分かる気はする」
ヴァシリオスが二人の消えた方を見る。
環がその横で呟いた。
「バカも見習えば」
「何をだよ」
「落ち着き」
「今の流れで俺に来る?」
また四人の歩みが始まった。
悠司に言われたとおり右側へ回ると、少しだけ流れが緩かった。
それでも境内へ近づくほど、肩と肩の間隔は狭くなっていく。
鳥居の向こうは、提灯の光で明るかった。
石段の手前には行列ができ、参拝を待つ人が何列にも並んでいる。
少し外れた場所では御守りや縁起物が並び、その隣で子供たちが親に何かをねだっていた。
「先に参る?」
綾乃が聞く。
「今行ったらかなり待つぞ」
ヴァシリオスが列の先を見る。
「あとでもいいんじゃない?」
千綴も同意した。
「じゃあ食べる」
環が言う。
「さっき食べたでしょ」
「串焼き一口とラムネ一粒」
「数え方が細かい」
「腹減った」
「猫って燃費悪いの?」
ヴァシリオスが聞いた。
「バカよりはいい」
「何で俺基準なんだよ」
そう言いながら、本人も屋台の列を見ている。
「何食う?」
「結局あんたもじゃん」
千綴が笑った。
四人は境内脇の屋台が集まる一角へ入った。
綾乃はりんご飴。
環は焼きそば。
ヴァシリオスは大きな肉串。
千綴は少し迷って、かき氷を選んだ。
「その色すごい」
綾乃が千綴のカップを見る。
「普通のブルーハワイでしょ」
「舌、青くなるよ」
「綾乃のりんご飴よりは安全」
「何が?」
「浴衣」
「それまだ言う?」
綾乃は笑いながら、りんご飴を慎重に口へ運んだ。
すぐ隣では、ヴァシリオスが肉串を環から遠ざけている。
「今回はやらんぞ」
「まだ何もしてない」
「目が狙ってる」
「一口」
「自分の焼きそば食え」
「交換」
「何とだよ」
環が焼きそばの容器を差し出す。
ヴァシリオスは一瞬考えた。
「……一口ずつな」
「成立」
「交渉うまいな」
千綴が言う。
「最初からこれ狙いだったんじゃない?」
綾乃も笑う。
「猫、恐ろしい奴だな」
「今さら」
祭囃子が近くで鳴った。
会話が一瞬、太鼓の音に飲まれる。
千綴はかき氷のスプーンを口に運びながら、境内を見渡した。
人がいる。
本当に、どこを見ても人がいる。
子供の手を引く親。
浴衣姿の学生。
仕事帰りらしい格好のまま屋台へ並ぶ人。
観光客らしい集団。
知らない顔ばかりなのに、不思議と雑然としているだけには見えなかった。
屋台の灯り。
人の声。
太鼓。
笛。
煙。
食べ物の匂い。
全部が重なって、今夜だけの街を作っている。
「ちづる?」
綾乃に呼ばれ、千綴は顔を戻した。
「何ぼーっとしてるの」
「いや。人、多いなって」
「今さら?」
「分かってたけど、ここまでとは思わなかった」
「毎年こんな感じだよ。今日は多い方かも」
鏡峰で育った綾乃にとっては、見慣れた景色なのだろう。
「千綴の地元の祭りは?」
ヴァシリオスが聞く。
「もっと小さいよ。こんなに屋台もないし」
「神社?」
「神社も使うけど、それだけじゃないかな。地域全体でやる感じ」
「ここも似たようなものじゃない?」
綾乃が言う。
「規模が全然違う」
千綴は笑った。
故郷の祭りを思い出す。
山の暗さ。
古い石段。
提灯。
大人たちが昔から知っている手順で動いていく様子。
同じ「祭り」でも、ここはずっと明るく、開けている。
けれど。
太鼓の音を聞きながら境内を見ていると、ほんの少しだけ似たものもある気がした。
何が、と聞かれても説明はできない。
千綴はそれ以上考えるのをやめ、溶けかけた氷を口へ運んだ。
日が完全に落ちると、祭りの景色はもう一度変わった。
空の青さが消え、頭上の提灯と屋台の裸電球が主役になる。
人の顔も、建物も、木々も、明るい場所だけが浮かび上がって見える。
四人は境内を一度抜け、参道の別側へ回った。
そこで水風船の釣りを見つけた綾乃が立ち止まり、今度は千綴まで巻き込まれた。
「一個だけだからね」
「そう言う人が一番本気になる」
「ならない」
三分後。
「ちょっと待って、今の絶対いけたでしょ!」
紙のこよりが切れ、水風船が水面へ落ちる。
綾乃が横で笑っていた。
「本気じゃん」
「違う。今のは納得いかないだけ」
「もう一回やる?」
「やる」
「ちづる、負けず嫌い」
「違うって」
結局二回目で一つ釣り上げた。
青い水風船を手に立ち上がる。
「取った」
「嬉しそう」
「普通」
「顔が違う」
「うるさい」
環は少し離れた場所からその様子を眺めていた。
「何?」
「ちづる、祭り楽しんでる」
「悪い?」
「別に」
環は少しだけ口元を上げた。
「いいんじゃない」
その言い方が妙に素直で、千綴は返事に迷う。
「……環も楽しみなさいよ」
「楽しんでる」
手にはいつの間にか、狐の面があった。
「いつ買ったの、それ」
「さっき」
「全然気づかなかった」
「バカが肉食べてるとき」
「俺を時間の基準にするな」
ヴァシリオスが後ろから言う。
環は狐の面を顔の横へ斜めに当てた。
「似合う?」
「猫なのに狐」
「両方」
「欲張りだな」
ヴァシリオスが笑う。
環はそのまま面を頭の横へ掛けた。
祭りはまだ終わる気配がなかった。
むしろ夜が深くなるにつれ、人は増えているように見えた。
境内へ戻る道で、前方が急に詰まった。
「止まった?」
綾乃が背伸びする。
人垣の向こうから、太鼓の音が近づいてくる。
さっきまで境内の奥で鳴っていたものとは違う。
もっと低く、腹に響く音。
続いて、周囲から歓声が上がった。
「何か通るみたい」
前の人が話している声が聞こえた。
人の流れが左右へ割れ始める。
ヴァシリオスがすぐに後ろを振り返った。
「こっち寄れ。真ん中いると挟まれる」
千綴と綾乃が道の端へ寄る。
環も続いた。
その直後、向こうからまとまった一団が見えた。
揃いの法被。
担がれた大きな飾り。
提灯。
掛け声。
それを見ようと、周囲の人が一斉に動いた。
千綴の前を親子連れが横切る。
「千綴、こっち」
ヴァシリオスの声がした。
「分かってる」
一歩、そちらへ寄ろうとする。
けれど下駄では、思ったほどすぐに動けない。
右から人が来た。
避ける。
今度は左から、子供の手を引いた女性が通る。
千綴は足を止めた。
ほんの数秒だった。
前を見る。
綾乃の浴衣が、人の肩越しに見えた。
その少し先に環の狐面。
ヴァシリオスの頭も見える。
まだ近い。
千綴は人の切れ目を待った。
太鼓が鳴る。
掛け声が上がる。
目の前を、何人もの人が横切った。
視界が途切れる。
また一歩進む。
さっき綾乃がいた場所へ向かう。
けれど、人の流れが今度は逆側から押し寄せた。
「すみません」
肩が触れそうになった相手を避ける。
水風船が手元で揺れる。
千綴は切れないよう指へ紐を巻き直した。
その直後、横から押された人を避けた拍子に、指から紐が抜けた。
「あ」
水風船は人の足元を跳ね、すぐに人波の向こうへ見えなくなる。
追いかける余裕はなかった。
千綴は顔を上げる。
「綾乃?」
声は太鼓に消えた。
少し先へ進む。
さっきまで見えていた狐面がない。
「環?」
返事はない。
ヴァシリオスなら背が高い。
この程度の人混みなら、少しくらい離れても見つけられるはずだった。
千綴は周囲を見回した。
いない。
一度立ち止まり、背伸びする。
提灯。
人の頭。
屋台の灯り。
知らない顔ばかりだった。
「……え?」
スマートフォンを出そうとして、巾着へ手を入れる。
そのとき。
さっきまで腹に響いていた太鼓の音が、ふっと遠くなった。
止まったわけではない。
祭囃子も聞こえている。
人の話し声もする。
なのに、急に一枚薄いものを隔てた向こう側から聞いているような距離ができた。
千綴は手を止めた。
顔を上げる。
人はいる。
屋台もある。
提灯も、変わらず灯っている。
それでも。
「……綾乃?」
もう一度呼んだ。
今度は、自分の声だけが妙にはっきり耳へ残った。
返事はなかった。
返事はなかった。
千綴はしばらく、その場に立っていた。
人はいる。
すぐ横を、浴衣姿の親子が通り過ぎる。少し離れた屋台では、店主らしい男が何かを焼いている。提灯も灯っているし、参道の先には鳥居も見える。
何もなくなったわけではない。
だからこそ、すぐには異変だと思わなかった。
「……はぐれたか」
口に出してみる。
それが一番普通の答えだった。
千綴は巾着からスマートフォンを取り出した。
画面は点いた。
時刻も表示されている。電波も立っている。
友人たちのグループを開き、綾乃へ通話をかける。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
「人多いしな……」
一度切り、今度はヴァシリオスへかける。
こちらも呼び出し音だけが続いた。
環も同じだった。
千綴は画面から顔を上げた。
胸の奥に、まだ不安と呼ぶほどではない小さな引っかかりが生まれる。
ヴァシリオスなら、はぐれたと気づけばまず周囲を探すだろう。綾乃も環もいる。誰か一人くらい、スマートフォンを見るはずだ。
けれど、三人とも出ない。
メッセージを送る。
『どこいる? 私、はぐれたみたい』
送信。
表示は変わらない。
千綴はもう一度、周囲を見回した。
人波はさっきより薄くなっていた。
ほんの少しだけ。
境内へ向かう人も、屋台の前に立つ人もいる。それでも、数分前まで肩が触れそうなほどだった混雑が嘘のように、ところどころに空間ができている。
道幅が広がったわけではない。
人が減っている。
太鼓の音は聞こえていた。
ただ、遠い。
同じ境内のどこかで鳴っているはずなのに、山の向こうから響いてくるように輪郭がぼやけている。
千綴は小さく息を吐いた。
「……落ち着け」
自分へ言い聞かせる。
知らない場所ではない。
鏡峰神社の境内だ。
少なくとも、そう見える。
なら、待ち合わせ場所へ戻るか、分かりやすい場所に留まればいい。
千綴は来た道を振り返った。
そこで、一度足を止めた。
さっき通ったはずの屋台が、見つからなかった。
水風船の屋台。
その隣にあった射的。
さらに向こうに、串焼きの赤い暖簾。
どれもないわけではない。
似たような屋台は並んでいる。
けれど、配置が違う。
「……こっちじゃなかった?」
自分が向きを間違えた可能性を考える。
振り返る。
鳥居がある。
境内がある。
石段がある。
見慣れているはずのものが全部そろっているのに、どこを基準にすればいいのかが急に曖昧になった。
それでも、道に迷ったとき特有の感覚とは少し違う。
千綴は昔から、道に迷うことが少なかった。
初めての場所でも、どちらから来たか、どちらへ戻ればいいかはなんとなく分かる。
今も方向は分かっている。
丘平はあちら。
駅はさらにその先。
神社の本殿は背後。
分かっているのに。
そこへ続く道だけが、うまく重ならない。
千綴は眉を寄せた。
以前なら、ただ気味が悪いと思ったかもしれない。
今は、その違和感を無理に否定する気にはなれなかった。
見えているものと、自分が知っているものが、ほんの少しだけ噛み合っていない。
それだけは分かる。
千綴はスマートフォンを握ったまま、ゆっくり歩き始めた。
走らない。
巴に言われたから、というだけではない。
ここで焦って動けば、余計に分からなくなる気がした。
屋台の明かりの下を、一つずつ確かめるように進む。
焼きそば。
飴細工。
金魚すくい。
お面。
どれも祭りにある普通のものだ。
ただ、お面の屋台の前で千綴は足を緩めた。
並んでいる面が、少し妙だった。
狐。
ひょっとこ。
おかめ。
そこまでは普通だ。
けれど、その間に、見たことのない顔がいくつも混じっていた。
鳥のように細長いもの。
目だけが大きく開いたもの。
笑っているのか怒っているのか分からないもの。
何かの郷土面かもしれない。
そう考えれば済む程度だった。
それでも千綴は、少しだけ長く見てしまう。
「買うのかい」
屋台の奥から声がした。
千綴は顔を上げた。
店主らしい老人が座っていた。
「いえ。見てただけです」
「そうかい」
それだけだった。
売り込むでもない。
どれが似合うとも言わない。
老人はすぐに視線を外し、手元の扇子でゆっくり風を送っている。
千綴もその場を離れた。
数歩進んでから、何気なく振り返る。
お面の屋台は、まだそこにあった。
老人もいる。
おかしいことはない。
なのに、胸の奥の引っかかりだけは消えなかった。
境内の端まで来ると、人の声がさらに遠くなった。
提灯は続いている。
その灯りの下を、ぽつぽつと人が歩いている。
さっきまでの賑わいを知っているだけに、妙に広く見えた。
千綴はスマートフォンを見る。
返信はない。
もう一度通話をかけようとして、指を止める。
画面の時刻が、さっき見た数字と同じだった。
「……え?」
見間違いかと思う。
数秒待つ。
数字は変わらない。
千綴は無意識に息を止めた。
さらに待つ。
変わらない。
けれど、画面そのものは動いている。通話もできた。操作も受け付ける。
時計だけが進んでいない。
「やめてよ……」
思わず声が低くなる。
嫌な記憶が、すぐ近くまで浮かびかけた。
公園。
雨。
自分の身体が、自分のものではなくなっていく感覚。
千綴は首を振った。
違う。
今は違う。
痛みはない。
息もできる。
身体も動く。
誰かに狙われている気配もない。
怖さだけで、同じものにしてはいけない。
千綴はスマートフォンをしまった。
そのとき。
ちりん。
小さな音がした。
鈴。
千綴は顔を上げた。
少し先。
参道から外れた細い道の入口に、小さな人影が立っていた。
子供だった。
何歳くらいなのかは、遠目では分からない。
祭りの子供らしく浴衣を着ている。
顔には面。
ただし正面からではなく、斜めにずらして着けていた。
口元だけが見えている。
千綴が見ていることに気づいたのか、子供は少し首を傾げた。
「……こんばんは」
千綴が声をかける。
「こんばんは」
返事があった。
普通の声だった。
男の子とも女の子とも、すぐには判断できない。
千綴は少しだけ安心した。
「一人?」
子供は答えなかった。
代わりに、千綴の手元を見る。
「迷った?」
「……たぶん」
自分で言ってから、少し変な返事だと思った。
子供の口元がわずかに笑う。
「たぶん?」
「友達とはぐれたの。ここ、鏡峰神社で合ってるよね」
「そうだよ」
即答だった。
「だよね」
千綴はもう一度、周囲を見る。
「じゃあ、私が迷っただけか」
「うん」
子供はあっさり頷いた。
「でも、帰る道は知ってるでしょ」
千綴は返事をしなかった。
知っている。
そのはずだ。
方向も分かる。
なのに、道だけが合わない。
子供は千綴の沈黙を見て、また少し首を傾げた。
「祭り、まだ見てない?」
「見たよ。結構回った」
「こっちは?」
「こっち?」
子供は細い道の向こうを指した。
提灯が並んでいる。
その先にも屋台の明かりが見える。
さっきまでは気づかなかった。
「そっちにもあるの?」
「あるよ」
「……友達探してるんだけど」
「いないよ」
千綴の表情が止まる。
「何で分かるの?」
子供は答えない。
代わりに言った。
「すぐ戻れるから」
「それ、信用していいの?」
「だめ?」
逆に聞かれた。
困る。
千綴は子供を見る。
逃げる様子もない。
手招きもしない。
ただそこに立っている。
怪しい。
普通に考えれば、かなり怪しい。
知らない子供について行く理由などない。
千綴はそう思った。
思ったのに。
なぜか、この子供が自分をどこか危険な場所へ連れていこうとしている感じはしなかった。
勘。
そう言ってしまえばそれだけだ。
最近、自分の「勘」を以前と同じように扱っていいのか分からなくなっている。
だからこそ、無条件に信じるつもりもない。
「先に一つ聞いていい?」
「なに?」
「あなたも迷子?」
子供は少し考えた。
「違うよ」
「家の人は?」
「いるよ」
「どこに?」
子供は境内の方を指した。
けれど、誰か特定の人を示しているようには見えない。
「ちゃんと帰れる?」
「帰れる」
「ならいいけど」
千綴はため息をついた。
立場が逆な気がする。
「ちょっとだけね」
「うん」
「変なところ行ったら戻るから」
「うん」
「あと、友達探すのが先」
「分かった」
本当に分かっているのか怪しい。
それでも子供は歩き出した。
千綴は一歩遅れて、その後を追った。
細い道を抜けた先にも、祭りはあった。
最初に見えたのは、提灯だった。
低い位置に吊られた灯りが、道の両側へ続いている。
屋台もある。
人もいる。
けれど、先ほどまでの祭りとはどこか違っていた。
音が静かだ。
話し声がないわけではない。
笑い声も聞こえる。
金魚をすくう水の音も、屋台で何かを焼く音もする。
それなのに、すべての音が互いにぶつからず、それぞれ少し離れた場所で鳴っているように感じる。
人の数も多すぎず、少なすぎない。
誰かと肩が触れることもない。
屋台の間隔も、少し広い。
「……こんなところあったんだ」
「あるよ」
「毎年?」
「毎年」
子供は迷わず進む。
千綴は周囲へ視線を巡らせた。
参道の石も、境内の木も知っているものと似ている。
けれど、一本の木の位置が違う気がする。
石灯籠も、さっき見たものより古く見える。
提灯に書かれた文字も、読めるものと読めないものが混じっていた。
見慣れない旧字なのかもしれない。
崩し字なのかもしれない。
それ以上の何かなのかもしれない。
「ねえ」
「なに?」
「ここ、いつもこんな感じ?」
「こんな感じって?」
「……静か」
子供は少し考えた。
「今日はにぎやかだよ」
千綴は足を止めかけた。
今までいた祭りと比べれば、どう考えても静かだ。
けれど子供にとってはこちらが普通なのかもしれない。
「そっか」
それだけ返した。
説明を求めても、たぶん今はうまくいかない気がした。
少し先に、飴細工の屋台があった。
店先に並ぶ形が妙に細かい。
鳥。
魚。
狐。
蛇。
その中に、見覚えのない生き物が混ざっている。
角がある。
羽もある。
けれど鳥ではない。
千綴が見ていると、子供が言った。
「欲しい?」
「見るだけ」
「さっきもそう言ってた」
千綴は子供を見る。
「……さっき?」
「お面」
一瞬、言葉が出なかった。
「見てたの?」
「見てたよ」
「どこから」
子供は答えず、歩き出す。
「ちょっと」
千綴も追う。
「それ、普通に怖いんだけど」
「こわい?」
「怖いというか……怪しい」
「ふうん」
「気にしないの?」
「しない」
「強いなあ」
思わず苦笑した。
不思議な子供だ。
何を聞いても、必要なことだけ答える。
それなのに、会話が成立していない感じもしない。
少し先で、子供が足を止めた。
輪投げだった。
景品は小さな木彫りの動物や、色のついた石、鈴、紐飾り。
子供が千綴を見る。
「やる?」
「私?」
「うん」
「さっき水風船で結構本気出したんだけど」
「みずふうせん?」
「知らない?」
子供は首を傾げた。
「こっちにはないの?」
「あるかも」
「曖昧だなあ」
千綴は笑った。
屋台の前へ立つ。
店番の女性が、何も言わず三本の輪を差し出した。
値段を聞こうとして、子供が先に何かを置いた。
小さな丸いもの。
硬貨に見えた。
「え、待って。私が払う」
「いいよ」
「よくない。子供に払わせられないでしょ」
「ぼくのだから」
初めて、自分を指す言葉が出た。
千綴は一瞬だけ子供を見た。
けれど、面に隠れて表情はよく分からない。
「じゃあ、あとで返す」
「いらない」
「そこは返させて」
子供は答えなかった。
千綴は輪を受け取る。
一投目。
外れた。
「……今のは距離確認」
二投目。
小さな木彫りの鳥の角に当たり、跳ねる。
「惜しい」
子供が言う。
「分かってる」
三投目。
千綴は少しだけ狙いを変えた。
投げる。
輪は一度傾き、奥に置かれた小さな鈴の前へ落ちた。
入ってはいない。
「だめか」
そう言ったとき、店番の女性がその鈴を取った。
千綴へ差し出す。
「え?」
女性は何も言わない。
「入ってないですよ?」
返事はない。
代わりに、子供が受け取った。
「もらえるって」
「いや、でも」
「いいんだよ」
子供は鈴を千綴へ渡す。
指先に乗るほど小さい。
鈴には、細い紐が結ばれていた。
ただの蝶結びではない。
何本かの紐を重ねたような、見たことのない結び方だった。
ちりん。
手の中で小さく鳴る。
「……ほんとにもらっていいの?」
店番の女性を見る。
女性は笑った。
それだけだった。
千綴は少し迷ってから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
鈴を巾着へ入れようとして、子供が言った。
「落とさないでね」
「うん」
千綴は紐を巾着の持ち手へ軽く結んだ。
「これなら大丈夫」
子供はそれを見て、満足したように頷いた。
千綴はもう一度、鈴を見る。
何の変哲もない、小さな鈴。
なのに。
その結び目だけが妙に目へ残った。
それから二人は、いくつかの屋台を見て回った。
子供は食べ物にはほとんど興味を示さなかった。
代わりに、面や玩具、飾り物の屋台ではよく足を止めた。
千綴は途中で小さな焼き菓子を買った。
形は丸い。
味は、どこか懐かしい。
「これ何?」
店主に聞いたが、返ってきた名前は聞き取れなかった。
もう一度聞こうかと思って、やめた。
食べられないものではない。
甘くて、少し香ばしい。
「食べる?」
子供に差し出す。
「いい」
「本当に何も食べないね」
「食べたよ」
「いつ?」
「さっき」
「私と会う前?」
「うん」
ならいいか、と千綴は残りを食べた。
歩いているうちに、不安は少しずつ薄れていた。
おかしい。
それは変わらない。
スマートフォンの時計は止まったまま。
友人からの返信もない。
祭りの配置も違う。
目の前の子供も、普通ではない気がする。
それでも、怖くはなかった。
むしろ。
子供と歩いていると、知らない場所へ迷い込んだというより、昔からそこにあった場所へ、今まで気づかず通り過ぎていただけのように感じる。
千綴はその感覚を言葉にしようとして、やめた。
たぶん、うまく言えない。
「お姉ちゃん」
子供が呼んだ。
「なに?」
「祭り、好き?」
「好きだよ」
千綴は少し考えてから答えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「楽しいし。友達と来るのも好き。でも、地元の祭りは子供の頃、ちょっと面倒だった」
「どうして?」
「決まりが多かったから」
思い出す。
この道は通るな。
ここから先へ入るな。
この時間には橋を渡るな。
祭りの夜には、呼ばれても振り返るな。
大人たちは理由を説明しなかった。
昔からそうだから。
決まりだから。
それだけだった。
「今思うと、意味があったのかもしれないけどね」
「あるよ」
子供は即答した。
千綴は横を見る。
「分かるの?」
「決まりには、だいたいあるよ」
「だいたい?」
「なくなったのもある」
「意味が?」
「うん」
子供は前を向いたまま歩く。
「意味がなくなっても、決まりだけ残ることもある」
千綴は少し驚いた。
子供の口から出るには、妙に大人びた言葉だった。
「誰かに教わった?」
「みんな知ってるよ」
「みんなって?」
また答えはない。
千綴は苦笑した。
「ほんと、答えたくないことには答えないね」
「聞かなくてもいいことだから」
「それ、自分で決めるの?」
「うん」
「強い」
どこか環に似ている。
そう思って、少し笑った。
子供が千綴を見る。
「何?」
「友達思い出した」
「さがしてる人?」
「うん。その一人」
「大事?」
「大事だよ」
今度は迷わず答えた。
綾乃。
環。
ヴァシリオス。
悠司。
ほかにもいる。
会長や鈴。
巴。
家族。
直嗣。
事件の前からいた人も、事件のあとに知った人もいる。
千綴は自分でも気づかないうちに、ずいぶん多くの顔を思い浮かべていた。
「いっぱいだね」
子供が言った。
千綴は足を止めた。
「……何が?」
「大事な人」
子供も止まる。
面の下から見える口元は、笑っているようにも見えた。
「分かるの?」
「顔に出てた」
「ほんとに?」
「うん」
「なら、まあいいけど」
千綴は少しだけ警戒を解いた。
自分の考えを読まれたのかと思った。
そんなことがあり得ないとは、もう言い切れない。
けれど、今のところ子供から敵意は感じない。
「あなたは?」
「なに?」
「大事な人」
子供は少し考えた。
それから周囲を見た。
祭り。
提灯。
屋台。
境内。
木々。
その全部を見ているようだった。
「いるよ」
短い答えだった。
千綴はそれ以上聞かなかった。
どれくらい歩いたのか、分からなくなった頃。
子供が足を止めた。
前には、鳥居があった。
さっき見たものより小さい。
朱色ではなく、暗い木の色をしている。
その向こうには石段が続いていた。
「ここまで」
子供が言う。
「ここまで?」
「うん」
「友達のところに戻れるの?」
「戻れるよ」
千綴は鳥居の向こうを見る。
石段の先は暗い。
祭りの明かりが届いていない。
「そっち?」
「違う」
子供は反対側を指した。
千綴は振り返る。
さっきまで歩いてきた祭りがある。
提灯。
屋台。
人。
同じ景色。
「戻るだけ?」
「うん」
「それで?」
「帰れる」
信用しろという方が難しい。
千綴は腰へ手を当てた。
「私、結構歩いたと思うんだけど」
「歩いたね」
「戻るの?」
「うん」
「最初から言ってよ」
「祭り見たかったでしょ」
千綴は言葉に詰まった。
確かに、途中からは自分も普通に楽しんでいた。
「……まあ、そうだけど」
子供が笑った。
千綴もつられて息を漏らす。
「ほんと不思議な子」
「お姉ちゃんも」
「私?」
「うん」
「どこが」
子供は答えなかった。
代わりに、千綴の巾着へ視線を落とす。
結んだ鈴が、かすかに揺れている。
「それ、持っててね」
「これ?」
「うん」
「何か意味あるの?」
子供は少し考えた。
答えるのかと思った。
けれど。
「なくさないで」
それだけだった。
「……分かった」
千綴は鈴へ触れた。
冷たい金属の感触。
普通の鈴だ。
「あなた、名前は?」
今まで聞いていなかったことに気づく。
子供は少しだけ首を傾げた。
「名前?」
「そう。私は弥生千綴」
千綴はいつものように、きちんと名乗る。
「あなたは?」
子供の口が開きかける。
その瞬間。
「――づる!」
遠くから声がした。
千綴は反射的に振り返った。
聞き覚えのある声。
「……綾乃?」
もう一度。
「千綴!」
今度ははっきり聞こえた。
ヴァシリオス。
さらに別の声も重なる。
「ちづる!」
環。
「みんな?」
千綴は一歩、声の方へ進んだ。
祭りの音が急に近くなる。
太鼓。
笛。
人の話し声。
屋台の呼び込み。
それまで薄い膜の向こうにあったものが、一度に耳へ戻ってきた。
千綴は思わず顔をしかめる。
「うるさ……」
目の前を、浴衣姿の人が横切る。
一人。
二人。
その後ろにも、何人もいる。
肩が触れそうになる。
「すみません」
避ける。
顔を上げる。
人が多い。
さっきまでの静かな祭りが嘘のように、境内は人で埋まっていた。
「千綴!」
すぐ近くから声がした。
「ヴァシリオス!」
人の間から、背の高い姿がこちらへ向かってくる。
その後ろに綾乃と環もいた。
「いた!」
綾乃が千綴の腕をつかむ。
「どこ行ってたの!?」
「いや、私もそれ聞きたいんだけど」
「急にいなくなるから!」
「人に流されて――」
「流されてって、すぐ後ろ見たらいなかったんだぞ」
ヴァシリオスが息を切らしている。
いつもの調子より、少し声が強い。
「電話も出ないし」
「かけたよ、私も」
「来てない」
「え?」
「何回もこっちからかけた」
千綴は巾着からスマートフォンを取り出す。
画面を見る。
時刻。
動いている。
さっきまで止まっていた数字が、普通に進んでいた。
通知も一気に入る。
不在着信。
綾乃。
ヴァシリオス。
環。
メッセージも何件も届いている。
「……今、来た」
「今?」
綾乃が覗き込む。
「電波悪かったんじゃない?」
環が言った。
「境内、人多いし」
「それならまだ分かるけど」
千綴は画面を見つめる。
自分が送ったメッセージには、今になって送信済みの表示がついた。
さっきまで送れていなかったのかもしれない。
そう考えれば説明できる。
時計のこと以外は。
「本当に大丈夫か?」
ヴァシリオスが顔を覗き込む。
「うん。怪我もしてない」
「どこまで行ってた?」
「……境内の、向こう」
「向こう?」
ヴァシリオスが千綴の背後を見る。
「そっち、何もないぞ」
「え?」
千綴も振り返った。
そこには木々があった。
境内の端。
立入を避けるための低い柵。
その向こうに暗い林が続いている。
細い道はない。
提灯もない。
屋台もない。
小さな鳥居もなかった。
千綴は黙った。
「……千綴?」
綾乃が呼ぶ。
「さっき、ここに道なかった?」
「道?」
「屋台が並んでて」
三人が顔を見合わせる。
ヴァシリオスが慎重に言った。
「俺ら、ずっとこの辺探してたけど……そんなの見てないぞ」
環が柵の向こうを見る。
「林だけ」
「だよね」
千綴は呟いた。
自分でも、何を期待していたのか分からない。
見間違い。
勘違い。
人混みに流されて、別の場所を歩いていた。
そう言われれば、それが一番自然だ。
けれど。
「子供は?」
「子供?」
綾乃が聞き返す。
千綴は自分のすぐ横を見る。
誰もいない。
人はいる。
通り過ぎる人も、立ち止まる人もいる。
けれど、面を斜めに着けた子供はいなかった。
「……いない」
「誰かと一緒だったの?」
「さっきまで」
千綴は周囲を探す。
お面の屋台。
似たものはある。
けれど、さっき見た屋台とは違う。
あの子供の姿もない。
「どういう子?」
ヴァシリオスが聞く。
「浴衣で、面つけてて……」
そこまで言って、千綴は止まった。
祭り会場でその説明は、あまりに当てにならない。
周りを見れば、似たような子供はいくらでもいる。
ただ。
あの面だけは、たぶん見れば分かる。
「探す?」
綾乃が聞く。
千綴は少し迷った。
そして首を振る。
「……いや。大丈夫」
「でも」
「あの子、自分で帰れるって言ってたから」
「知り合い?」
「今日初めて会った」
「それ大丈夫か?」
ヴァシリオスが真顔になる。
「私も途中で同じこと思った」
「途中じゃ遅いだろ」
「でも、変なことはされてないよ」
「そういう問題じゃ――」
言いかけたヴァシリオスが止まる。
千綴の巾着を見た。
「それ、さっきあった?」
「何が?」
「鈴」
千綴は視線を落とした。
小さな鈴。
複雑に結ばれた紐。
そこにある。
幻でも、見間違いでもない。
千綴は指先で触れた。
ちりん。
小さく鳴った。
「……なかった」
綾乃が言う。
「最初、こんなの付けてなかったよね」
「うん」
「買ったの?」
環が聞く。
「もらった」
「子供に?」
「正確には、輪投げの屋台でもらった」
「輪投げ?」
三人の視線が揃う。
千綴は自分で言っていて、説明するほど変になっていくのが分かった。
「えっと……」
どこから話せばいいのか分からない。
時計が止まったこと。
屋台の配置が違ったこと。
知らない祭り。
面。
子供。
鈴。
全部話したとして、自分でも説明できない。
千綴は一度息を吐いた。
「あとで話す」
そう言った。
「……今は大丈夫?」
綾乃が心配そうに見る。
「うん。今は大丈夫」
少しだけ考えて、付け足す。
「怖い感じじゃなかったから」
三人は納得していない顔だった。
特にヴァシリオス。
けれど、千綴が本当に怪我をしていないことを確認すると、それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、とりあえず人少ないところ行こう」
ヴァシリオスが言う。
「今度は絶対はぐれるなよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「今度は私も気をつける」
「そうじゃなくて、俺らも気をつける」
少し強い声だった。
千綴はヴァシリオスを見る。
彼はすぐに視線を逸らした。
「……探すの、結構大変だったから」
「ごめん」
「謝らなくていい。事故みたいなもんだし」
環が横から言う。
「ヴァシ、泣きそうだった」
「泣いてねえよ!」
「顔」
「普通だっただろ!」
「必死」
「それはそうだろ!」
綾乃が吹き出した。
千綴も少し遅れて笑う。
張りつめていたものが、ようやく緩んだ。
「ごめん。ありがとう」
「だから謝んなって」
「ありがとうはいいでしょ」
「それは……まあ」
ヴァシリオスが頭をかく。
環が狐面の横からじっと千綴を見る。
「ほんとに平気?」
「うん」
「ならいい」
環はそれだけ言った。
綾乃はまだ腕を離していない。
「綾乃」
「何?」
「もう離しても逃げないよ」
「だめ」
「何で」
「また消えたら困る」
「消えてないって」
「私たちから見たら消えたの」
その言葉に、千綴は一瞬だけ返せなくなった。
消えた。
大げさな言い方のはずなのに。
今は、妙に引っかかる。
「……じゃあ、しばらくそのままでいい」
「うん」
綾乃は満足そうに頷いた。
四人は境内の端を離れ、人の流れが少し緩い場所まで戻った。
そこから先は、また普通の祭りだった。
屋台の声。
太鼓。
笑い声。
提灯。
何も変わらない。
千綴は何度か振り返った。
けれど、さっきの道は見つからなかった。
鳥居も。
静かな屋台も。
面をつけた子供も。
全部、人の向こうへ消えてしまったようだった。
しばらく歩いたところで、ヴァシリオスが足を止めた。
「飲み物買おう」
「また?」
千綴が言う。
「お前探して喉乾いたんだよ」
「それ言われると何も言えない」
「私もほしい」
綾乃が手を上げる。
「猫は?」
「ラムネ」
「さっき飲んでなかったか?」
「別腹」
「飲み物に別腹あるの?」
いつもの会話。
いつもの調子。
千綴はそれを聞きながら、巾着の鈴へそっと触れた。
ちりん。
祭囃子に紛れれば、誰にも聞こえないほど小さな音だった。
それでも千綴には、はっきり聞こえた。
その後、四人は改めて本殿へ向かった。
混雑はまだ続いていたが、さっきより列は少し短くなっている。
今度は千綴が真ん中だった。
前に綾乃。
後ろに環。
ヴァシリオスは列の外側。
「これ、完全に囲まれてない?」
「安全策」
綾乃が振り返る。
「逃亡防止」
環が言う。
「私は何なの」
「重要人物」
「それ、絶対意味違うでしょ」
ヴァシリオスが笑った。
順番が来る。
四人で並び、賽銭を入れる。
鈴を鳴らす音が重なる。
千綴は手を合わせた。
何を願うか少し迷う。
事件が終わったこと。
友人たちとこうして祭りへ来られたこと。
これから検査があること。
自分に何が起きているのか、まだ分からないこと。
いくつも浮かんだ。
結局。
これからも、こういう時間がありますように。
そんなことを願った。
目を開ける。
隣で綾乃も顔を上げる。
「何お願いした?」
「言わない」
「えー」
「綾乃は?」
「秘密」
「じゃあ聞かないでよ」
「聞くのは自由」
「ずるい」
参拝を終え、列から外れる。
千綴は本殿を振り返った。
鏡峰神社。
昼間に見れば、古い神社の一つだ。
悠司の家。
地域の祭りの中心。
それ以上でも以下でもないと思っていた。
けれど今夜だけは、少し違って見えた。
長く残っているものには、長く残るだけの理由がある。
さっき子供が言った言葉を思い出す。
決まりには、だいたい意味がある。
意味がなくなっても、決まりだけ残ることもある。
では。
意味が残ったまま、理由だけ忘れられているものもあるのだろうか。
「千綴」
声に振り返る。
少し離れたところに悠司がいた。
法被姿のまま、こちらへ歩いてくる。
「見つかったって聞いた」
「誰から?」
「兄貴。境内で友達とはぐれた女子がいるって話が回って、特徴聞いたらお前っぽかった」
「そんな大事になってたの?」
「人多いからな。迷子も珍しくないけど、一応」
悠司は千綴の顔を見る。
「大丈夫か?」
「うん」
「怪我は?」
「ない」
「ならよかった」
短く息を吐く。
それだけで、悠司も心配していたのが分かった。
「ごめん、仕事増やした?」
「俺は増えてない。兄貴たちが少し探したくらい」
「それ増えてるじゃん」
「気にすんな」
悠司の視線が千綴の巾着へ落ちた。
「それ」
また鈴だ。
「何?」
「……いや」
悠司は少しだけ眉を寄せた。
「見たことある?」
千綴が先に聞く。
「紐がちょっと古い結び方に見えたから」
「古い?」
「たぶん。祭具とかに使うやつに似てる気がしただけ」
千綴は鈴を見る。
「神社の?」
「うちのとは違うと思う」
「そっか」
「どこで買った?」
「買ってない。もらった」
「誰に?」
千綴は少し迷った。
「……子供」
悠司の眉がさらに寄る。
「知り合い?」
「今日会った」
「何で知らない子供から鈴もらってるんだよ」
「話すと長い」
「長いならあとで聞く」
「聞くんだ」
「そりゃ聞くだろ」
悠司は真顔だった。
千綴は笑う。
「分かった。今度ね」
「忘れるなよ」
「うん」
奥から悠司を呼ぶ声がした。
「守屋ー!」
「今行きます!」
返してから、悠司は四人を見る。
「悪い、まだ戻る」
「仕事がんばって」
綾乃が手を振る。
「お前、さっきと同じこと言ってないか?」
「応援は何回してもいいでしょ」
「気楽だなあ」
悠司は呆れながらも笑った。
「じゃあ、また学校で」
「うん」
背を向ける。
数歩行ってから、悠司が振り返った。
「千綴」
「何?」
「今度は、ちゃんと一緒にいろよ」
「分かってる」
「ならいい」
それだけ言って、今度こそ仕事へ戻っていった。
祭りの終わりが近づく頃には、人の流れも少しずつ出口へ向かい始めていた。
四人も神社をあとにする。
途中で環が買った狐面は、まだ頭の横に掛かったままだった。
綾乃は最後に綿菓子を買い、ヴァシリオスは「さすがにもう食えない」と言いながら焼きそばの屋台を目で追っていた。
「見てるじゃん」
千綴が言う。
「見るだけ」
「私と同じこと言ってる」
「見るだけなら無料だろ」
「でも買いたそう」
環が言う。
「買わない」
「あと五秒」
「何のカウントだよ」
「五、四」
「やめろ」
「三」
「買わないって」
「二」
「……一個だけなら」
「負けた」
「お前が煽ったんだろ!」
結局、ヴァシリオスは焼きそばを一つ買った。
四人で笑いながら歩く。
千綴はその中で、何度か鈴の音を聞いた。
歩くたび。
巾着が揺れるたび。
ちりん。
小さな音がする。
誰も気にしていない。
千綴も、もう立ち止まらなかった。
神社から少し離れたところで、綾乃が足を緩めた。
「私、こっち」
鏡峯家へ戻る道を示す。
「今日は楽しかったね」
「うん」
「途中、ほんとにびっくりしたけど」
「ごめんって」
「責めてないよ」
綾乃が笑う。
「でも、ちづるが見つかったとき、ちょっと変な顔してた」
「どんな?」
「なんていうか……迷子から戻ってきたっていうより、夢から起きたみたいな」
「何それ」
「私も分かんない」
綾乃は少し考えた。
「でも、怖そうではなかった」
千綴は返事をしなかった。
その通りだった。
怖くはなかった。
奇妙だった。
理解できなかった。
説明もできない。
それでも、あの場所を思い出したとき最初に出てくる感情は、恐怖ではない。
「綾乃」
「ん?」
「鏡峰神社って、昔から何か変な話ある?」
「変な話?」
「昔話とか。神隠しとか、祭りの夜だけ何かあるとか」
「急にどうしたの」
「ちょっと気になって」
綾乃は首を傾げた。
「昔話なら色々あると思うよ。鏡峰って古い地区だし。うちにも古い資料とかあるし」
「家に?」
「たぶん。おじいちゃんに聞けばもっと知ってると思う」
「そっか」
「調べる?」
「今すぐじゃなくていい」
千綴は鈴へ触れた。
「そのうち、ちょっとだけ」
「じゃあ今度うち来る?」
「いいの?」
「資料見るくらいなら。勝手に触れないやつもあると思うけど」
「そこはちゃんと聞く」
「ちづる、そういうところ真面目だよね」
「当たり前でしょ」
「じゃあ、またね」
「うん。また」
「今度は消えないでね」
「まだ言う?」
「しばらく言う」
綾乃は笑いながら手を振った。
千綴も手を振り返す。
環とヴァシリオスもそれぞれ声をかけ、三人で再び歩き出した。
鏡峰の南側へ進んだところで、今度は環が足を止める。
「私はこっち」
丘平との境に近い住宅地へ続く道だった。
「じゃあね」
「うん。おやすみ」
「またな」
環が狐面を揺らして手を振る。
残った千綴とヴァシリオスは、そのまま交差点の方へ歩いた。
祭り帰りの人影は少しずつ減っていく。
幹線道路へ出てからもしばらく、二人の帰る方向は同じだった。
やがて、千綴のアパートへ向かう道の前で足を止める。
「私、こっちだから」
「ああ」
ヴァシリオスが道の先を見る。
「着いたら連絡しろよ」
「ここからすぐだよ」
「すぐでも」
「分かった」
「じゃあな」
「うん。またね」
ヴァシリオスはそのまま新辺方面へ歩いていった。
千綴も背を向け、自宅へ続く住宅地へ入る。
祭りの音は、少しずつ遠ざかっていった。
夜の住宅地は静かだった。
さっきまでの人混みが嘘のように、聞こえるのは虫の声と、自分の下駄が地面を打つ音だけ。
ちりん。
鈴が鳴る。
千綴は足を止めた。
街灯の下で、巾着の持ち手へ結んだ鈴を見る。
小さい。
どこにでもありそうな形。
けれど紐の結び方だけは、やはり見覚えがない。
指でなぞる。
一本が輪になり、別の一本をくぐり、さらに折り返されている。
無理に解こうとすれば、たぶん簡単に崩れる。
千綴は触るのをやめた。
「なくさないで、か」
子供の声を思い出す。
名前は聞けなかった。
正体も分からない。
そもそも、本当にそこにいたのかさえ、説明できない。
それでも鈴は残っている。
千綴は顔を上げた。
夜空が広がっていた。
祭りの明かりから離れた分、星が少しだけよく見える。
あの賑やかな祭りのすぐ隣に、もう一つ、静かな祭りがあった。
そう思えてならなかった。
同じ神社で、同じ夜だったはずなのに。
確かめる方法はない。
千綴はまた歩き出した。
ちりん。
小さな音がついてくる。
不気味ではなかった。
むしろ、帰り道を確かめるような音だった。
千綴は振り返らない。
そのまま、いつもの自分の部屋へ向かって歩いていった。