祭りが終わって数日した夕方、千綴のスマートフォンに朝倉から連絡が入った。
窓の外では、向かいの建物の壁が西日に照らされていた。開けた窓から風は入ってくるものの、昼の熱を含んだ空気はまだ重い。
ベッドの上で畳んでいた洗濯物を脇へ寄せ、千綴は届いたメッセージを開いた。
『検査の日程が決まった』
その下には集合する時間と、一泊二日になること、必要な持ち物が簡潔に書かれていた。以前に聞いていた話から、大きく変わったところはない。
初日の朝は朝倉が迎えに来るらしい。
千綴は日付を確かめてから、了承する旨を返した。
送信したところで、机の端に置いた赤い鈴が目に入る。
夏祭りの夜から、そこに置いたままだった。
手を伸ばしかけたとき、スマートフォンがもう一度震えた。
『巴さんにも伝えておいてくれ』
千綴は鈴から手を離し、巴とのやり取りを開いた。文章を打ち始めたものの、途中で指を止める。
少し考えてから文字を消し、そのまま通話を押した。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れたラジオの音が向こうから流れてきた。
『もしもし』
「店長、今大丈夫ですか?」
『うん。どうしたの?』
「前に話してた検査、日程が決まりました」
ラジオの音が少し遠くなり、代わりに何かを置く音が聞こえた。
『いつ?』
千綴は画面に戻り、朝倉から届いた日程を伝える。
『一泊するんだ』
「はい。朝倉さんが迎えに来てくれるそうです」
『そっか』
短い返事のあと、少しだけ間が空いた。
店の中で誰かが歩いているのか、電話越しに小さな物音が続いている。
「行ってきます」
『……うん』
止められるとは思っていなかった。それでも、巴が何か言おうとしてやめたことくらいは分かる。
『前の日、シフト入ってたよね』
「入ってます」
『休んでもいいよ』
「検査するだけですよ」
『それは分かってるけど』
千綴は思わず笑った。
「普通に行きます。体調悪かったら、そのとき言いますから」
『そういうところは律儀なんだから』
呆れたような声だったが、いつもの調子に戻っていた。
その向こうで店の戸が開く音がする。
『あ、お客さん来た。じゃあまた明日ね』
「はい。お疲れさまです」
通話が切れた。
千綴はスマートフォンをベッドへ置き、改めて机を見る。
赤い鈴は、西日の中で静かに影を落としていた。
当日の朝、千綴は一泊分の荷物を入れた鞄を肩に掛け、丘平商店へ向かった。
日差しはすでに強かったが、商店街にはまだ朝の空気が残っている。夏祭りのために吊られていた提灯は外され、通りはいつもの姿へ戻りつつあった。
店の前まで来ると、巴が飲料ケースを運んでいた。
「おはようございます」
「あ、おはよう。今日だったね」
巴はケースを店先へ置き、千綴の肩に掛かった鞄へ目を向けた。
「もう行くの?」
「朝倉さんが、そろそろ来ると思います」
「じゃあ中で待ってなよ。朝から暑いでしょ」
巴がもう一つのケースへ手を伸ばす。
「手伝います?」
「今から検査に行く人はいいの」
「これ運ぶくらいなら変わらないですよ」
「いいから」
そう言いながら持ち上げた巴に先回りして、千綴は店の戸を押さえた。
「それくらいはさせてください」
「はいはい。ありがと」
店内へ入ると、冷房の風と一緒にラジオの声が聞こえてきた。天気予報では、今日も気温が上がると言っている。
千綴がレジ脇へ鞄を置いたところで、店の外を一台の車がゆっくり通り過ぎた。
少し先で止まり、間を置いて運転席の扉が閉まる音がする。
「来たかな」
巴が戸口へ顔を向けた。
ほどなくして朝倉が姿を見せた。
「おはよう」
「おはようございます、朝倉さん」
千綴が返すと、朝倉は軽く手を上げ、そのまま巴へ向き直った。
「おはようございます」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
巴が頭を下げる。
「はい。明日まで、こちらで見ます」
「お願いします」
短いやり取りのあと、巴は千綴を見た。
「何かあったら、ちゃんと言うんだよ」
「分かってます」
「無理もしない」
「しません」
すぐに返すと、巴の眉がわずかに上がった。
「その返事がちょっと怪しいんだけど」
「なんでですか」
「普段の行い?」
「そんなに信用ないです?」
千綴が言うと、巴は笑いながら首を振った。
「逆。信用してるから言ってるの」
その言葉に返すものを探しているうちに、朝倉が腕時計へ目を落とした。
「そろそろ出るぞ」
「あ、はい」
千綴は鞄を肩へ掛け直す。
戸口まで歩いてから振り返ると、巴はいつものようにレジの横に立っていた。
「じゃあ、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
学校や買い物へ送り出すときと変わらない声だった。
千綴は小さく手を上げ、朝倉と一緒に店を出た。
車が丘平を離れてしばらくすると、窓の外から見覚えのある景色が少しずつ減っていった。
千綴は助手席に座り、流れていく住宅や店を眺めていた。大きな道路へ入ってからは車の数が増え、信号で止まるたびに、夏の日差しがフロントガラスの向こうで白く反射する。
「朝倉さん」
「ん?」
「結構遠いんですか?」
「そこまででもない」
「朝倉さんの『そこまで』って信用していいんですかね」
運転席から、ちらりと視線が向く。
「どういう意味だ」
「一時間くらいなら近いって言いそうなので」
「言わない」
即答され、千綴は少し笑った。
車が再び動き出す。
「そういえば、場所ってまだ聞いてませんよね」
「聞いてないな」
「私が聞いてないんじゃなくて、朝倉さんが言ってないんです」
「着けば分かる」
「それ、教えてないのと同じですよ」
朝倉は答えず、前を走る車に合わせて速度を落とした。
千綴もそれ以上は聞かなかった。
窓の外を眺めているうちに、住宅の並びが途切れ、広い敷地を持つ建物が目につくようになる。いつの間にか、千綴には現在地が分からなくなっていた。
やがて朝倉がウインカーを出し、大きな通りから脇道へ入った。
道路に沿って低い塀が続いている。
その向こうに見えるのは、灰色がかった建物だった。病院のようにも、会社の施設のようにも見える。入口を示す大きな看板はなく、道路沿いにも施設名らしいものは見当たらない。
千綴が窓の外へ目を向けていると、車は塀の切れ目に設けられたゲートの前で止まった。
朝倉が窓を開ける。
係員が近づき、短く言葉を交わしたあと、朝倉が何かを差し出した。千綴からはカードの端だけが見えた。
確認はすぐに終わった。
前方のバーが上がり、朝倉が車を進める。
千綴は何となく後ろを振り返った。
通り過ぎたゲートが閉じ、その向こうにあった道路が塀に隠れていく。
「……こういう感じなんですね」
思わず口にすると、朝倉が前を向いたまま答えた。
「何を想像してた?」
「もう少し普通に入れるところかと」
「普通に入れたら困るだろ」
「それは、まあ」
言われてみればそうなのだろう。
けれど、頭で分かっていたことと、実際にゲートの内側へ入る感覚は少し違った。
車は建物の脇へ回り、数台の車が並ぶ駐車場で止まった。
エンジンが切れると、それまで気にならなかった空調の音まで消え、車内が急に静かになる。
「着いたぞ」
「はい」
千綴はシートベルトを外し、鞄を持って車を降りた。
冷房に慣れた肌へ、外の熱気がまとわりつく。
先に歩き出した朝倉を追い、建物の正面へ向かう。
近くまで来ても、外壁には施設名を示すものが見当たらなかった。何人かが出入りしているが、白衣姿ばかりというわけでもなく、服装だけでは何をする場所なのか分からない。
正面のガラス扉まで来ると、朝倉が脇にある端末へカードをかざした。
短い電子音が鳴る。
わずかに遅れて扉が開き、中から冷えた空気が流れてきた。
朝倉が先に入る。
千綴はその背中を追いかけながら、一度だけ外を振り返った。
夏の日差しに照らされた駐車場の向こうで、さっき通ってきたゲートが小さく見えている。
それから前へ向き直り、建物の中へ足を踏み入れた。
扉の内側へ入ると、正面には受付があり、その奥から左右へ廊下が伸びていた。
外から見たときと同じく、目を引くような表示はほとんどない。壁にある案内も番号と記号が中心で、それだけを見ても何の部屋がどこにあるのか千綴には分からなかった。
朝倉は受付へ向かい、千綴もその後についていく。
「お待ちしていました」
受付の女性は朝倉を見ると軽く会釈し、続けて千綴へ視線を移した。
名前を確認され、事前に登録されていた内容といくつか照合する。最後に差し出されたのは、首から下げる来訪者用のカードだった。
「施設内ではこちらを携帯してください。それと、携帯電話などの通信機器はこの先へ持ち込めません」
「あ、はい」
千綴は取り出しかけたスマートフォンを戻す。
受付の脇にある小さな部屋へ案内され、鞄ごとロッカーへ入れた。中へ持っていけるのは、必要なものだけだった。
「飲み物とかも?」
「向こうにある」
朝倉が答える。
「結構厳しいんですね」
「そういう場所だからな」
ロッカーを閉める。
鍵ではなく、渡されたカードをかざすと電子音が鳴った。
そのまま受付へ戻り、今度は奥にある扉の前で朝倉が自分のカードをかざした。
扉が開く。
千綴も続こうとすると、受付の女性に呼び止められた。
「弥生さんは、ご自身のカードでお願いします」
「あ、すみません」
千綴は一歩戻り、自分のカードを端末へかざす。
短い電子音。
今度は扉が開いた。
「一緒に入っちゃ駄目なんですね」
「誰がどこへ入ったか残る」
朝倉はそれだけ言って先へ進む。
千綴は首から下げたカードを見た。
ただの入館証だと思っていたが、少し違うらしい。
廊下へ入ってからも、扉を通るたびに朝倉はカードを使った。千綴のカードで開く場所もあれば、朝倉が先に操作しなければ進めない場所もある。
試しに千綴が先にカードをかざした扉では、低い電子音とともに赤い表示が点いた。
「あ」
「そこはお前の権限じゃ開かない」
「先に言ってくださいよ」
「勝手にやったのはお前だろ」
後ろから職員らしい男性が通り過ぎる。
千綴は何事もなかったようにカードから手を離した。
「今の見られました?」
「見られたな」
「恥ずかしい」
「不審者扱いされなくてよかったな」
「朝倉さんが横にいるのに?」
「だからだ」
からかわれているのか本気なのか分からない。
千綴が朝倉の横顔を見ていると、その少し先から声が飛んできた。
「ナオ」
朝倉の足が止まった。
壁際に立っていた男が、こちらへ片手を上げている。
明るい髪に白衣。その下には襟付きのシャツを着ているが、白衣の袖は肘近くまで無造作に捲られていた。
「久しぶり」
「その呼び方、まだやってるのか」
「気に入ってるからね」
「お前が気に入ってどうする」
「じゃあナオツグにする?」
「悪化してる」
千綴は二人を見比べた。
朝倉が露骨に嫌そうな顔をしている。
それを見た男の方は、むしろ楽しそうだった。
「で」
男の視線が千綴へ向く。
「君が弥生千綴さん」
「はい」
「フィン・バレン。今日の担当」
差し出された手を握る。
「よろしくお願いします」
「よろしく。ナオから怖い人だって聞いてる?」
「聞いてません」
「よかった。まだ間に合う」
「何がだ」
朝倉が横から口を挟む。
「第一印象」
「もう手遅れじゃないですか?」
千綴が言うと、フィンが一瞬止まり、それから笑った。
「いいね。二日間なんとかなりそう」
「何の心配してたんですか」
「ナオの知り合いだから、もっと堅い子かと」
「お前、俺を何だと思ってる」
「堅い人」
「そのままだろ」
二人のやり取りを聞きながら、千綴は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
ここへ来てから、ゲートも受付も廊下も、何となく気を張るものばかりだった。
フィンだけが妙にそこから浮いている。
「資料は?」
朝倉が訊く。
「昨日の分まで見てる。事件のときの記録も」
フィンは持っていた端末を軽く上げた。
「だから引継ぎは大丈夫。あとはこっちでやるよ」
朝倉は頷き、千綴を見る。
「俺は施設内にいる。何かあればフィンに言え」
「分かりました」
「じゃ、預かった」
「物みたいに言わないでください」
「ちゃんと返すよ」
「そういう問題でもないです」
朝倉が小さく息を吐く。
「頼む」
「はいはい」
フィンが軽く手を振る。
朝倉が廊下の向こうへ歩いていくのを見送ってから、千綴は隣を見る。
「仲いいんですね」
「長いからね」
「朝倉さん、嫌そうでしたけど」
「あれが通常運転」
「本人に言ったら怒りません?」
「怒らせるところまでセット」
「面倒くさい人だ」
「ひどいなあ」
そう言いながら、フィンは楽しそうだった。
着替えを済ませて案内されたのは、天井の高い広い部屋だった。
床には何本か線が引かれ、壁際には用途の分からない器具が並んでいる。
フィンは部屋へ入るなり、端末を操作した。
「じゃ、走って」
「いきなり?」
「朝から元気そうだから」
「検査の説明とかないんですか?」
「走ったあとに聞けばいいよ」
「普通、先じゃないですか」
「じゃあ説明するね」
フィンが顔を上げる。
「向こうまで走って戻ってくる」
「それは見れば分かります」
「説明したのに」
「雑すぎません?」
笑いながら言われ、千綴は諦めて線の前へ立った。
距離はそれほどない。
一度息を整え、床を蹴る。
向こうの線を越えて身体を返し、そのまま戻る。
止まったところでフィンを見ると、端末へ何か入力していた。
「もう一回?」
「いや、次」
「一回だけなんだ」
「たくさん走りたい?」
「別に」
「じゃあ次」
そこからしばらく、千綴はフィンの指示に従って身体を動かした。
走ったかと思えば、その場に立ったまま待たされる。目を閉じた状態で姿勢を保ち、別の場所では壁際の器具へ手を置くよう言われた。
力を入れると、まだ余裕があるうちに止められる。
「もういい」
「まだいけますけど」
「知ってる」
「じゃあ何で止めるんですか」
「壊したらナオに請求することになるから」
「私じゃなくて?」
「君に請求したら怒られそう」
「誰に」
「ナオと、たぶん巴さん」
千綴は器具から手を離した。
「店長まで資料にあるんですか?」
「そこまではないよ。今のは勘」
「適当じゃないですか」
「当たってた?」
否定できず、千綴は次の場所へ移動した。
軽口を挟みながらも、フィンの視線は意外なほど細かかった。
千綴が動くたびに端末へ何かを残し、同じ動作を繰り返させるときも、少しだけ立つ位置や向きを変える。
何を測っているのか訊けば、答えてくれることもある。
けれど、肝心なところでは笑って誤魔化された。
「はい、休憩」
言われて壁際の椅子へ腰を下ろす。
フィンから渡された水を飲みながら、千綴は息を整えた。
「健康診断とは全然違うんですね」
「健康かどうかは別で見られるからね。僕が知りたいのは、君がどう動くか」
「普通に動いてると思いますけど」
「今のところはね」
「それ、何か出てほしい言い方じゃないですか?」
「何か出た方が来てもらった意味はある」
「こっちは複雑なんですけど」
「大丈夫。何も出なくてもナオには『よく頑張りました』って報告しとく」
「子供扱いしてません?」
「してないしてない」
明らかにしている。
千綴が睨むと、フィンは笑いながら端末へ視線を戻した。
その表情が、一瞬だけ止まる。
画面を指で戻し、同じところをもう一度見る。
「……?」
「どうしました?」
「んー?」
フィンは顔を上げると、いつもの調子に戻っていた。
「もう少し休んだら続き」
「今、なんかありました?」
「休憩中に仕事してただけ」
「怪しい」
「疑り深いなあ」
千綴は水をもう一口飲んだ。
それ以上訊いても答えそうになかった。
午前中は、そのまま似たような検査が続いた。
ただ、同じことを延々と繰り返すわけではない。
身体を動かしていたかと思えば、次の部屋では椅子に座らされ、何もせず待つ。
目を閉じる。
音が鳴る。
何かに触れる。
フィンは千綴の答えよりも、その前後の動きを見ていることが多かった。
途中から千綴も、何が正解なのか考えるのをやめた。
分からなければ分からないと言う。
気になれば気になったと言う。
それだけでいいらしい。
昼前になって、フィンが端末を閉じた。
「午前はここまで」
「結局、何かありました?」
「いっぱい」
「いっぱい?」
「記録が」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
フィンは笑いながら扉を開けた。
「午後、少し面白くなるかもよ」
「検査する側だけじゃないですか、それ」
「どうだろうね」
また誤魔化された。
昼食を取る場所には、白衣姿の職員だけでなく、千綴と同じような来訪者用カードを下げた人もいた。
窓際の席へ座り、食事を始める。
朝から動いていたせいか、思っていたより腹が減っていた。
フィンは午後の準備があると言って席を外している。
千綴は一人で食べながら、何となく周囲を眺めた。
休憩時間らしい話し声。
食器の触れる音。
窓の向こうには、建物に囲まれた小さな中庭が見える。
ここだけ見れば、普通の研究施設や会社の食堂と大して変わらない。
廊下を、職員らしい女性が歩いていく。
その隣に少年がいた。
千綴より明らかに年下で、同じように首からカードを下げている。
子供も来るんだ。
そう思っただけで、千綴は視線を食事へ戻した。
施設なのだから、自分以外の検査対象がいてもおかしくはない。
それより、午後に何をさせられるのかの方が今は気になった。
午後、フィンに連れていかれたのは午前とは違う小さな部屋だった。
机を挟んで椅子が二つ置かれている。
「座って」
「今度は走らない?」
「たぶん」
「たぶん?」
「予定では」
千綴が警戒しながら座ると、フィンも向かいへ腰を下ろした。
「午前の結果を見て、ちょっと方向変える」
「何かあったんですか?」
「いくつかね」
フィンが端末を机へ置く。
「まず、昨日ここへ来たとき――じゃないな。今朝、丘平商店を出たところから思い出してみて」
「思い出す?」
「うん。目閉じて」
千綴は言われた通り瞼を閉じた。
丘平商店。
巴。
朝倉の車。
走り出したところから、順番に思い返す。
「今、どこ?」
「車の中です」
「ナオは?」
「運転席」
「巴さんは?」
「店です」
「場所、分かる?」
「そりゃ分かりますよ」
「じゃあ、そのまま続けて」
車が丘平を離れる。
大きな道路。
知らない景色。
ゲート。
建物。
フィンは途中で何度か質問を挟んだ。
誰がどこにいたか。
どちらへ動いたか。
どのくらい離れていたか。
千綴は覚えている範囲で答える。
「じゃあ、もう少し前」
「前?」
「最近、人を見失ったことある?」
閉じた瞼の裏で、記憶を探す。
すぐに浮かんだのは、夏祭りの人混みだった。
行き交う浴衣。
屋台の灯り。
その向こうに見えた、小さな背中。
鈴の音。
「……います」
「その人、最初どこにいた?」
千綴は記憶の中の場所を指した。
「そのあと?」
「人の間に入って……見えなくなりました」
「探した?」
「少し。追おうとはしたんですけど」
フィンから返事がない。
千綴は目を閉じたまま待った。
「もう一回。その子が見えなくなったところから」
言われた通り、人混みの向こうを思い返す。
いたはずの場所。
動いた方向。
最後に見えた背中。
鈴の音だけが、妙にはっきり残っている。
「……分からないです」
「うん」
短い返事のあと、端末を触る音がした。
「目開けていいよ」
千綴が瞼を開く。
「これ、記憶の検査?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「まだ内緒」
「午後もこれかあ」
「嫌そうだね」
「答え教えてくれないから」
「テストじゃないからね」
フィンは端末へ視線を落とした。
何度か画面を切り替える。
さっきまで笑っていた口元が、少しずつ動かなくなる。
右手が上がり、親指の爪のあたりを軽く噛んだ。
千綴はその様子を見る。
「フィンさん?」
「ん」
返事はしたが、視線は画面から動かない。
しばらくして親指を離し、フィンは椅子から立った。
「部屋変えよう」
「急ですね」
「確認したいことできた」
「何を?」
「それを今から見る」
今度は誤魔化さなかった。
次の部屋には、何もない空間と、壁際にいくつかの衝立があった。
フィンのほかに、職員が二人待っている。
「何するんですか?」
「簡単。目を閉じて、人がいると思った方向を教えて」
「それだけ?」
「それだけ」
「音で分かりません?」
「最初はそれでもいい」
千綴は部屋の中央に立った。
目を閉じる。
フィンの声が少し離れた場所から聞こえる。
「始めるよ」
足音がする。
右。
誰かが歩いている。
止まった。
「そこ」
千綴が指す。
「はい次」
「合ってた?」
「まだ言わない」
「やっぱり」
何度か繰り返す。
最初は音を追えば分かった。
やがて床に柔らかいものが敷かれ、足音が小さくなる。
それでも完全には消えない。
千綴は耳を澄ませる。
「そこ?」
指したあと、自信がなくなる。
「次」
正解は教えられない。
さらに条件が変わった。
耳を覆うものを渡される。
「ここまでします?」
「嫌ならやめる?」
「やりますけど」
「じゃ、それで」
耳を塞ぐ。
周囲の音が遠くなる。
目を閉じると、自分の呼吸ばかりが気になった。
何も分からない。
誰かが動いたのかさえ分からない。
千綴はしばらく待つ。
右。
ふと、そう思った。
理由はない。
音も聞こえていない。
けれど、意識がそちらへ引かれる。
千綴は右を指した。
返事は聞こえない。
そのまま待つ。
今度は左後ろ。
少し遠い。
千綴は指す。
次。
分からない。
千綴は手を下ろしたまま首を振る。
何度か続けたところで、肩を軽く叩かれた。
目を開ける。
フィンが目の前に立っていた。
耳を覆っていたものを外す。
「どうでした?」
「休憩」
「そこじゃなくて」
「僕も確認したいから」
フィンの声から、さっきまでの軽さが少し消えていた。
端末を持って部屋の隅へ移動する。
職員二人もその周囲へ集まった。
千綴には画面が見えない。
小声で何か話している。
しばらくして、フィンの親指がまた口元へ上がった。
「……やっぱりか」
小さく聞こえた。
千綴は椅子から身を乗り出す。
「何か出たんですか?」
フィンがこちらを見る。
少し考えてから、いつもの笑みが戻った。
「もう一個やろう」
「答えは?」
「それ終わったら」
「ちゃんと教えてくださいね」
「終わったらね」
「今度こそですよ」
「はいはい」
千綴は立ち上がった。
最後の確認には朝倉も呼ばれた。
「なんで朝倉さん?」
「知ってる人の方がいいから」
フィンが答える。
朝倉は事情を聞いているらしく、千綴とは少し離れた位置に立った。
「今度も目閉じて」
「はい」
「ナオが動く。どこにいると思うか指して」
「朝倉さん、足音消せるんですか?」
「消せない」
「じゃあ同じじゃないですか」
「だからこれ」
フィンが先ほどと同じものを渡してくる。
「また耳塞ぐんだ」
「あと、ナオ」
「何だ」
「静かにね」
「分かってる」
千綴は耳を塞ぎ、目を閉じた。
何も見えない。
音も遠い。
朝倉が最初にどこにいたかだけは覚えている。
しばらく待つ。
分からない。
動いたのか。
まだそこにいるのか。
考えないようにする。
午前中から何度も言われた。
気になったら、それを言えばいい。
右前。
千綴は指す。
少しして、今度は後ろ。
指を動かす。
その次は分からない。
さらに次。
近い。
そう思った瞬間、千綴は一歩横へずれた。
肩のすぐ横を何かが通ったような気がした。
反射的に振り向きそうになり、目を閉じたまま止まる。
左。
すぐそこ。
指を向けた。
肩を叩かれる。
目を開けると、朝倉が左側に立っていた。
「……いた」
耳を覆っていたものを外す。
「いましたよね?」
「ああ」
朝倉が答える。
千綴はフィンを見る。
フィンは笑っていなかった。
端末の画面を見つめ、親指を噛んでいる。
何度か画面を切り替え、朝倉へ見せた。
「午前のこれ。午後の最初。それと今」
「再現したのか」
「条件はまだ荒いけどね」
「他の感覚は?」
「潰した。少なくとも今回の条件では、視覚と聴覚だけじゃ説明できない」
千綴は二人の会話を聞いていた。
「……あの」
二人がこちらを見る。
「そろそろ私にも分かるようにお願いします」
フィンの表情が緩んだ。
「あ、ごめん」
「忘れてました?」
「ちょっと楽しくなってた」
「検査されてるの私なんですけど」
「そうだった」
「ひどい」
フィンは端末を脇へ置き、千綴の前へ来た。
「まず、異能かどうか」
さっきまでの軽口とは違い、言葉がはっきりしていた。
「これはもう、異能として見ていい」
千綴は一度瞬きをした。
「……あるんですか。私に」
「ある」
今度は迷わなかった。
「偶然とか、勘がいいとかじゃなくて?」
「それだけで説明できる範囲は越えてる。条件を変えても同じ方向の反応が出てるし、普通の感覚だけでは拾えないところでも再現した」
千綴は自分の手を見る。
見た目は何も変わらない。
当然だった。
それでも、事件のあとからずっと曖昧だったものに、初めてはっきり線が引かれた気がした。
「じゃあ、何の異能なんですか?」
「そこなんだよねえ」
急にフィンの声が戻った。
「え?」
フィンは端末を持ち上げ、困ったような、どこか楽しそうな顔をする。
「分類できない」
「……あれだけやって?」
「あれだけやったから、分類できないって分かった」
「そんなことあります?」
「ある。少ないけど」
フィンは画面を指で送りながら、また親指を口元へ寄せる。
「人の位置を拾ってるようには見える。でも、それだけって決めるには変なところがあるし、既存の感知系にそのまま入れるのも気持ち悪い」
「気持ち悪いって」
「研究者的にね」
少し考え、フィンが顔を上げた。
「もしかしたら、今までにない分類かも」
「そんな軽く言うことですか?」
「まだ『かも』だからね」
横で朝倉が息を吐いた。
「余計な期待を持たせるな」
「夢がないなあ、ナオは」
フィンは笑ってから、端末を閉じた。
「まあ、名前をつけるのは後でいい」
その声はまだ軽い。
けれど、千綴を見る目はさっきまでとは違っていた。
「異能なのは確定。それで今日は十分」
千綴は小さく息を吐いた。
「分かったことより、分からないことの方が多いんですね」
「うん。でも昨日――じゃない、今朝ここに来たときとは違う」
フィンが人差し指を立てる。
「君には異能がある。そこはもう疑わなくていい」
その言葉が、思ったより静かに胸へ落ちた。
嬉しいのか。
不安なのか。
自分でもよく分からない。
ただ、事件のときに感じたものが気のせいではなかったことだけは、少しだけ安心した。
「で」
フィンが続ける。
「今日はここまで」
「終わり?」
「検査はね」
「明日も同じことするんですか?」
「しない」
即答だった。
千綴が顔を上げる。
「明日は、異能がある人として帰る前に、知っておいてもらうことをやる」
「知っておくこと?」
「それは明日」
「またそれですか」
「一日くらい楽しみにしてよ」
フィンが笑う。
朝倉はもう出口へ向かっていた。
「部屋に戻って休め。今日は疲れただろ」
「朝倉さんまで」
千綴は立ち上がり、二人の後を追った。
扉を出る前に、さっきまで立っていた部屋を一度だけ振り返る。
何もない床。
白い線。
衝立。
目を閉じれば、そのどこかに誰かがいることを、自分は確かに拾っていた。
どうして分かるのかは、まだ分からない。
何と呼ぶのかも決まっていない。
それでも、自分の中にあるものが異能だということだけは、もう曖昧ではなかった。
翌朝、千綴が指定された部屋へ入ると、フィンはすでに中にいた。
昨日まで使っていた端末は机の上に置かれ、その横には見慣れないものがいくつか並んでいる。
手のひらほどの金属片。細い棒。透明な板。
どれも用途が分からない。
「おはよう」
「おはようございます」
千綴は机の上を見た。
「今日は検査じゃないって言ってましたよね」
「言ったね」
「これ、検査道具にしか見えないんですけど」
「失礼だなあ。教材」
「余計に怪しい」
フィンは笑い、空いている椅子を指した。
「まあ座って。今日は昨日より楽だから」
「昨日も最初そんな感じじゃなかったですか?」
「昨日は走ったでしょ。今日は走らない」
「本当に?」
「午前中は」
「午後は走るんだ……」
千綴が座る。
フィンは向かいには座らず、机の端へ軽く腰を預けた。
「昨日の結果、夜のうちにもう一回見た」
「分類できました?」
「できなかった」
「即答」
「朝までに新しい学問体系は作れなかったね」
「期待してません」
「残念」
フィンは肩をすくめる。
冗談めかしてはいるが、昨日のように端末を何度も見返す様子はなかった。
「だから昨日言った通り。異能なのは確定。何系かは保留」
「はい」
「で、今日から君は『自分に異能があると知ってる人』になる」
千綴は少しだけ姿勢を正した。
「昨日までは違ったんですか?」
「昨日の朝までは、あるかもしれない人。今はあると分かってる人」
フィンは机の上の金属片を指先で転がした。
「この差、意外と大きいよ」
金属片が一度止まり、また転がる。
「まず一個。試したくなる」
千綴は何も言わなかった。
「昨日みたいなことが、自分だけでもできるか。どこまで分かるか。誰なら分かるか。何メートルまで届くか」
「……まあ、ちょっとは」
「でしょ?」
フィンが笑う。
「でも、やらない」
「駄目なんですか?」
「少なくとも、今はね」
軽かった声が少しだけ落ち着く。
「君の異能は、何を拾ってるのかまだ分からない。昨日は人の位置に反応してるように見えた。でも、本当に人そのものを見てるのかは未確定」
「それは昨日も言ってましたね」
「そう。だから自分で試すと、何をやってるのか分からないまま誰かを対象にすることになる」
千綴は昨日の検査を思い返した。
目を閉じ、朝倉の位置を指した。
あのときは施設の中で、フィンが見ていた。
「ここなら止められるし、記録も取れる。でも外ではそうじゃない」
「はい」
「もう一個」
フィンが指を二本立てる。
「人前で使わない」
「使い方も分からないのに?」
「今はね。でも分かるようになったときのために先に言っとく」
フィンは金属片を机へ置いた。
「異能は、一般には知られてない。知られないようにしてる」
「それは聞いてます」
「じゃあ話が早い」
フィンは頷く。
「見せびらかさない。動画に撮らない。ネットに上げない。友達に『ちょっと見てて』もなし」
「そこまでしませんよ」
「みんな最初はそう言うんだよ」
「本当に?」
「今のはちょっと盛った」
「どこまで本当なんですか」
「大事なところは全部」
千綴は小さく息を吐いた。
フィンは笑っていたが、そのまま話を続ける。
「事故とか事件とか、使わなきゃ危ない状況まで我慢しろって話じゃない。そこは別。でも、面白半分で使うものじゃないってこと」
「はい」
「特に君は、まだ止め方も分からない」
「止め方?」
「昨日、位置が分かったとき。自分で『今から使う』ってやった?」
「……してないです」
「でしょ」
千綴は少し考えた。
気づけば、分かっていた。
事件のときもそうだった。
「勝手に使ってる?」
「可能性はある」
フィンはそこで断定しなかった。
「だから、しばらくは何か変な感じがしたら覚えておいて。場所とか、そのとき何してたとか。無理に再現しなくていい」
「メモしておく感じですか?」
「そう。できればあとで僕らに教えて」
「分かりました」
「じゃ、それで」
「急に真面目ですね」
「褒めただけなのに」
フィンが不満そうな顔をする。
千綴はもう慣れ始めていた。
「じゃあ次」
フィンが机から離れ、壁際に置かれていた小さな台の前へ移動した。
「異能を見る練習」
「見る?」
「昨日まで君は、自分の異能を調べられる側だったでしょ。今日は逆」
台の上には何もない。
フィンはその前に立ち、千綴へ手招きした。
「よく見てて」
千綴は椅子から少し身を乗り出した。
何が始まるのかと思った次の瞬間、台の上に小さな光が走った。
「……え」
透明に近い結晶が、何もなかった場所から伸びている。
最初は指先ほどだったものが、ゆっくりと枝を増やしながら広がっていく。光を受ける角度が変わるたび、表面に白い筋が走った。
フィンが指先を動かす。
結晶の枝が一度止まり、今度は横へ伸びた。
細かった先端が厚みを増し、小さな板のような形へ変わっていく。
千綴は思わず立ち上がった。
「これが?」
「異能」
フィンはあっさり答えた。
「分かりやすいでしょ」
「分かりやすすぎる」
「昨日の君と違ってね」
「悪かったですね」
千綴は台へ近づく。
結晶はまだそこにある。
「触っていいですか?」
「どうぞ」
指先で触れる。
冷たい。
硬い。
見た目だけのものではなく、ちゃんとそこにある。
「作ったんですか?」
「そう見える?」
「……見えます」
「じゃあ、もう一回」
フィンが軽く手を上げる。
今度は台ではなく、少し離れた床に結晶が生まれた。
床から細い柱が伸びる。
途中で二つに分かれ、その片方が千綴の前へ向かって曲がった。
千綴が一歩下がる。
結晶は追いかけるように伸びることはなく、その場で形を変えただけだった。
「動いてる?」
「どう思う?」
フィンは答えない。
結晶の先端がさらに伸び、床に置かれていた軽い箱へ触れた。
そのまま押す。
箱が少し滑る。
千綴は目を細めた。
さっきまでなら、物を動かしたように見えたかもしれない。
けれど今は違う。
「……箱を動かしたんじゃない」
「ん?」
「結晶で押した?」
フィンの口元が上がった。
「いいね」
「やっぱり」
「見たままを一回疑うの、大事」
フィンは結晶を細く伸ばし、箱の横へ回り込ませる。
押す方向が変わり、箱も横へ動いた。
「こうすると、遠くから物を動かしてるようにも見える」
「でも実際は、触って押してる」
「そう」
フィンは一度手を下ろした。
「じゃあ次」
今度は、千綴から見て右側の床に結晶が伸びた。
フィンが少し身体を動かす。
結晶も形を変える。
千綴はその動きを追った。
伸びる。
曲がる。
厚くなる。
細くなる。
何かを作っているというより、ひとつの塊をその場で組み替えているようにも見える。
「すごい」
「もっと褒めてもいいよ」
「そこは普通に受け取るんですね」
「褒められ慣れてるから」
「何に?」
フィンは一瞬だけ間を置き、妙に芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「人生?」
「怪しい」
「細かいことはいいの」
千綴は笑いながらも、視線を結晶から外さなかった。
フィンは結晶を細くしたかと思うと、今度は一気に厚みを持たせた。
同じ量のものが、形だけを次々に変えているように見える。
「まだ何か分かる?」
「……作って終わりじゃない」
「うん」
「形も変えられる」
フィンは答える代わりに、結晶の先を小さく枝分かれさせた。
「今日はそのくらいで」
「全部は教えてくれないんですね」
「最初から答え知ってたら、見る意味なくなるでしょ」
結晶が小さく畳まれるように形を変え、その場から消えた。
「実戦で相手が能力説明してくれる保証ないからね」
フィンは楽しそうに笑った。
部屋を移ると、今度は朝倉が待っていた。
白衣も端末もない。
動きやすそうな服装で、壁際に立っている。
「朝倉さんまで着替えてる」
「午後の準備もある」
「やっぱり走るんですか?」
「走るかもな」
「フィンさんが午前は走らないって」
「午前はな」
「二人とも同じこと言う」
フィンが横で笑った。
「仲良くなってきたでしょ」
「誰と誰が」
朝倉が返す。
部屋の床には柔らかいマットが敷かれていた。
「ここからは、異能者に会ったときの話」
フィンが千綴の横へ立つ。
「正確には、危ない異能者に会ったとき」
「会いたくないです」
「僕もおすすめしない」
「じゃあ終わり?」
「そうはいかない」
朝倉が口を挟む。
「お前はもう一度巻き込まれてる」
千綴は黙った。
その一言で、少しだけ空気が変わった。
「だから最低限だ」
「……はい」
朝倉が千綴の前へ出る。
「まず覚えろ。異能者を相手に勝とうとするな」
「いきなりそれ?」
「勝てる前提で考える方がおかしい」
「ナオ、もうちょっと優しく言おうよ」
「事実だろ」
「事実だけど」
フィンが千綴を見る。
「要するに、一番は逃げること」
「それは分かります」
「じゃあ、どう逃げる?」
訊かれて、千綴は少し考えた。
「距離を取る?」
「半分正解」
フィンが指を一本立てる。
「相手の異能が分からないなら、距離を取れば安全とも限らない」
「遠くまで届くかもしれない」
「そう」
「じゃあどうするんですか?」
フィンは朝倉を見る。
朝倉が壁際に置かれていた簡単な衝立を一つ動かした。
千綴と朝倉の間に置く。
「見えない場所へ動く」
朝倉が言う。
「遮蔽物を使う。人の多い方へ行く。出口を探す。一つの場所に留まるな」
「能力が分からないなら、まず相手がやりたいことをやりにくくする」
フィンが続ける。
「見えない。追いにくい。狙いにくい。これだけでも違う」
「でも、追跡できる異能だったら?」
「そのときは別の手を考える」
「結局、能力次第じゃないですか」
「そうだよ」
フィンはあっさり認めた。
「万能な対処法なんてない」
千綴は少し拍子抜けした。
もっと、異能者には異能者用の決まった対策があるものだと思っていた。
「だから見る。考える。分からないなら逃げる」
フィンが三本指を立てる。
「あと、無理しない」
「それ四つ目」
「細かいなあ」
「大事なんじゃないんですか?」
「大事」
笑いながら答える。
朝倉が千綴の前へ立った。
「次は、逃げられない距離まで入られた場合だ」
「護身術?」
「ああ」
千綴は朝倉を見る。
体格差がある。
分かってはいたが、正面に立たれると余計に大きく感じる。
「これ、朝倉さん相手にやるんですか?」
「そうだ」
「勝てる気しないんですけど」
「さっき言っただろ。勝つな」
朝倉が片手を差し出した。
「逃げるために使う」
千綴はその手を見る。
フィンが横から口を挟む。
「大丈夫。ナオ、見た目より加減できるから」
「見た目よりは余計だ」
「じゃあ見た目通り?」
「黙ってろ」
千綴は思わず笑った。
朝倉がこちらを見る。
「笑ってる場合か」
「すみません」
「来い」
「はい」
千綴は一歩前へ出た。
朝倉が差し出した手を、千綴は少し警戒しながら見た。
「掴まれるところから?」
「そうだ」
「普通に?」
「普通に」
言われるまま右手を出す。
朝倉の手が手首を掴んだ。
強く締められているわけではない。それでも、引こうとすると簡単には抜けなかった。
「力で外そうとするな」
「もうやってました」
「見れば分かる」
横からフィンが覗き込む。
「今の顔、すごく『絶対抜く』って顔してた」
「そんな顔してました?」
「してたしてた。舞台なら分かりやすくて助かるくらい」
「舞台?」
「はい、ナオ先生。続けてどうぞ」
「お前が止めたんだろ」
朝倉は呆れたように言いながら、千綴の手首を掴み直した。
「まず、腕だけで引くな。身体ごと向きを変える」
朝倉がゆっくり動きを見せる。
掴まれている手を無理に引かず、身体を半歩ずらす。相手の腕が伸びる方向へ合わせるように動くと、さっきより手首にかかる力が減った。
「ここで抜く」
「あ」
今度は簡単に外れた。
「もう一回」
「はい」
掴まれる。
千綴はさっきの動きを思い出しながら身体をずらした。
少し早すぎた。
朝倉の手がついてくる。
「違う」
「難しい」
「相手の腕を見ろ」
「顔じゃなくて?」
「近すぎるときは手だ。何をされてるかを先に見ろ」
もう一度。
今度は手首だけを引かず、朝倉の腕が伸びる方向へ身体をずらす。
力が緩む。
抜く。
「今の」
「そうだ」
千綴が少し笑う。
「できた」
「一回な」
「褒めてくださいよ」
「よくできました」
横からフィンが拍手する。
「フィンさんじゃなくて」
「難しい注文だなあ」
朝倉は取り合わず、次は千綴の肩へ手を置いた。
「押された場合」
「まだあるんですね」
「最低限だけだ」
今度は身体の向きを変える。
正面から受け止めない。
押し返さない。
一歩ずれて、道を作る。
どの動きも、相手を倒すためのものではなかった。
何度か繰り返すうちに、その違いが千綴にも分かってくる。
距離を作る。
向きを変える。
走れる場所を空ける。
それだけだ。
朝倉が最後に腕を伸ばしてきた。
千綴は半歩ずれ、手を外す。
そのまま朝倉の横を抜けた。
「止まれ」
声に足を止める。
振り返ると、朝倉が頷いた。
「今のでいい」
「逃げるところまで?」
「そこまでが一つだ」
フィンが壁際から言う。
「護身術って聞くと、相手を倒す技を想像する人多いけどね。今日やってるのは全部、逃げるため」
「朝倉さん倒すとか無理ですし」
「ナオは教材としてちょっと規格外」
「お前が呼んだんだろ」
「説得力あるでしょ?」
「ありすぎます」
千綴は息を整えながら答えた。
短い休憩のあと、フィンは壁際に置かれていた衝立を二枚、部屋の中央へ動かした。
「次は見る方」
「見る?」
「さっき君がやったでしょ。今度はナオにやってもらう」
朝倉が部屋の端へ移動する。
フィンは反対側。
その間に衝立と、低い台が置かれていた。
「模擬戦ってほど大げさじゃない。ナオは向こうの扉まで行く。僕は邪魔する」
「朝倉さん、異能使わないですよね」
「使わない」
「僕は使うけどね」
「不公平じゃないですか?」
「だから戦わない。ナオも逃げるだけ」
フィンが片手を上げる。
朝倉は何も構えず、扉だけを見た。
「始め」
朝倉が動く。
同時に、進行方向の床から結晶が伸びた。
朝倉は止まらない。
半歩だけ進路を変え、結晶の横を抜ける。
その先にもう一本。
今度は低い壁のように広がった。
朝倉が衝立の裏へ入る。
「はい、止め」
フィンの声で朝倉が止まった。
「千綴さん。今ならどこ行く?」
「え」
「ナオの位置から」
千綴は部屋を見る。
正面は結晶で塞がれている。
右へ出ればフィンから丸見えだ。
左には衝立が続いている。
「……左?」
「なんで?」
「隠れたまま動けるから」
「じゃ、続き」
フィンが手を下ろす。
朝倉が左へ動いた。
衝立の陰を抜け、次の遮蔽物へ移る。
その間、結晶は増えなかった。
開けた場所へ出た瞬間、床に新しい結晶が生える。
朝倉はすぐに戻った。
「止め」
千綴は今の場所を見る。
フィン。
朝倉。
衝立。
結晶。
「もう一回、最初から」
配置を戻す。
同じように朝倉が走る。
正面に結晶。
方向を変える。
また結晶。
衝立へ隠れる。
止まる。
千綴は眉を寄せた。
「……今、出なかった」
「何が?」
「結晶」
フィンは答えず、朝倉へ顎を向けた。
「続けて」
朝倉が衝立から顔を出す。
少し離れた床に結晶が生まれた。
引っ込む。
増えない。
反対側から出る。
今度はそちらに生える。
千綴はフィンを見る。
「見えてるところにしか出してない?」
フィンの眉がわずかに上がった。
「そう見えた?」
「二回とも」
「じゃあ、それ覚えといて」
「答えは?」
「今はいらない」
朝倉が衝立の向こうから言う。
「止めたままでいいのか」
「あ、ごめん」
「フィンさんが止めたんでしょう」
「そうだった」
再開する。
今度は最後まで止めなかった。
朝倉は遮蔽物を渡り、開けた場所だけ一気に抜ける。
結晶が進路へ伸びるより先に、扉へ手をかけた。
「終了」
フィンが手を叩く。
朝倉が戻ってくる。
「今ので、何見てた?」
千綴は少し考えた。
「朝倉さんがどこに逃げるかと……フィンさんがどこ見てるか」
「うん」
「結晶だけ見てたら、たぶん分からなかった」
フィンは笑った。
「それでいい」
それ以上は説明しなかった。
千綴はもう一度、部屋の中を見た。
結晶の残った場所と、何も起きなかった衝立の裏。
さっきまで同じ部屋だったのに、少しだけ見え方が変わっていた。
午後に入ると、訓練は少しだけ実践に近くなった。
千綴は入口近くに立ち、朝倉は部屋の中央。
フィンは壁際で腕を組んでいる。
「目的はあの扉まで行くこと」
フィンが反対側を指した。
「ナオは止める側」
「止めるって」
「捕まったらやり直し」
「異能は?」
「ナオは使わない」
「それならまだ」
千綴が言い終える前に、朝倉が一歩出た。
「始まってるぞ」
「えっ」
千綴は反射的に後ろへ下がった。
正面から抜けようとしても無理だ。
午前に教わった通り、朝倉の手ではなく身体全体を見る。
左側に衝立。
右には広い空間。
迷った一瞬で朝倉が距離を詰める。
千綴は右へ走った。
朝倉も動く。
速い。
「ちょっと!」
「喋る余裕あるねえ」
フィンの声が飛ぶ。
「フィンさん、見てないで!」
「応援してる」
「役に立たない!」
朝倉の手が肩へ伸びる。
千綴は身体を沈めるようにずらし、手を避けた。
そのまま衝立の裏へ回る。
朝倉から一瞬見えなくなる。
出口は向こう。
反対側へ抜ける。
あと数歩。
朝倉が回り込んできた。
「うそ」
手首を掴まれる。
千綴は止まらず、午前中に繰り返した動きを使う。
腕を引かない。
身体をずらす。
力が抜ける方向へ動いて手を外す。
抜けた。
扉へ手を伸ばす。
「はい、終了」
フィンが手を叩いた。
千綴は扉に手をついたまま、息を吐いた。
「疲れた……」
「でも抜けた」
振り返る。
朝倉はほとんど息も乱していない。
「絶対手加減しましたよね」
「当然だ」
「ですよね」
「本気でやったら訓練にならない」
それは分かる。
それでも、途中で捕まれた手を外せたことは少し嬉しかった。
「今ので十分だ」
朝倉が言う。
「勝とうとするな。抜けたらそのまま離れろ」
「はい」
フィンが横から手を叩く。
「ちゃんと逃げ切ったしね」
「応援しかしてなかったじゃないですか」
「精神的支援」
「いらないです」
「放っとけ」
朝倉が横を通り過ぎる。
「ナオまで冷たい」
千綴は息を整えながら、少し笑った。
「じゃあ、今日はここまで」
フィンが言ったときには、千綴の背中に薄く汗が滲んでいた。
「最後にもう一個あると思ってました」
「やりたい?」
「遠慮します」
「即答だ」
千綴は床の端に座り、水を飲んだ。
朝倉は衝立を元の位置へ戻している。
床に残っていた結晶も、いつの間にか消えていた。
訓練を終えたあと、三人は昨日とは別の小さな部屋へ移った。
机の上には千綴の来訪者カードと、何枚かの書類が置かれている。
フィンが椅子へ座り、千綴と朝倉も向かいに腰を下ろした。
「これで今回の予定は全部終わり」
「やっと」
「寂しい?」
「ちょっと疲れました」
「正直でよろしい」
フィンは書類を一枚めくる。
「昨日の判定は変わらない。異能あり。分類は保留」
「はい」
「今後、勝手に試さない。変な反応があったら覚えておく。困ったことがあったらナオ経由でもいいし、こっちへ連絡」
「分かりました」
「人前で不用意に使わない。そこも昨日と同じ」
「はい」
フィンは書類へ印をつけた。
「昨日の朝よりずいぶん異能者らしくなった」
「実感ないですけど」
「そのくらいでいいよ」
フィンの手が止まった。
「異能があるからって、急に別の人間になるわけじゃない」
千綴はフィンを見る。
さっきまでの冗談っぽさは残っているが、声は静かだった。
「できることが一つ増えたかもしれない。それがまだよく分からない。今はその程度で考えといて」
「はい」
「で、分からないから調べる。必要ならまた来てもらう」
「次は日帰りでお願いします」
「善処します」
「泊まりになるやつだ」
「鋭くなったなあ」
朝倉が横から書類を一枚取った。
「次が決まったら俺から連絡する」
「分かりました」
フィンは千綴のカードを指で押す。
「これは受付へ返却。ロッカーの荷物も忘れないで」
「スマホ、やっと返ってくる」
「二日間なくても平気だった?」
「全然平気ではないです」
「若者だ」
「フィンさん何歳なんですか」
「それは国家機密」
「絶対違う」
「ほら、帰るぞ」
朝倉が立ち上がる。
「ナオ、最後まで冷たいなあ」
「二日付き合っただけでも感謝しろ」
「またね、千綴さん」
フィンが軽く手を上げる。
「次はもっと面白いの用意しとく」
「普通のでお願いします」
「普通の異能検査って難しい注文だなあ」
千綴は苦笑しながら立ち上がった。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
フィンも今度はふざけず、短く頷いた。
「――あ、そうだ」
千綴が顔を上げる。
「最後に一個」
「まだ何かあるんですか?」
「検査じゃないよ」
フィンが部屋の空いた方へ視線を向けた。
床に、小さな結晶が生まれる。
細い枝が伸びた。
一本が二本に、二本が四本に分かれ、透明な線が放射状に広がっていく。
先端がさらに細かく枝分かれした。
照明を拾った結晶が、一瞬だけ白くきらめく。
音のない花火が、そこに開いた。
「……綺麗」
「でしょ」
フィンが満足そうに笑う。
「遊ぶために使うなって教えたばかりだろ」
朝倉が言う。
「これは見送り」
「何が違う」
「気分」
結晶の花がゆっくり形を崩し、小さく畳まれて消えていく。
千綴は最後までそれを見ていた。
受付へ戻り、来訪者カードを返す。
ロッカーへ自分のカードをかざすと、昨日と同じ電子音が鳴った。
扉を開ける。
鞄。
スマートフォン。
見慣れた私物が並んでいる。
千綴はスマートフォンを手に取り、電源を確かめた。
画面が点く。
届いていた通知が一気に並んだ。
「うわ」
「後で見ろ」
「分かってます」
鞄へ入れる。
ロッカーを閉め、受付の女性へ会釈する。
外へ続くガラス扉の前で、朝倉がカードをかざした。
扉が開く。
冷えた空気の向こうから、夏の熱が流れ込んできた。
千綴は一歩外へ出る。
眩しさに目を細めた。
二日前と同じ駐車場。
同じゲート。
同じ建物。
来たときには、何をする場所なのかも分からなかった。
今も分からないことは多い。
自分の異能が何なのか。
なぜ発現したのか。
どこまでできるのか。
それでも、何も分からなかった二日前とは少し違う。
「朝倉さん」
「ん?」
「店長に、ちゃんと帰るって連絡していいですか?」
「車乗ってからにしろ」
「はい」
千綴は鞄の中のスマートフォンへ手を伸ばしかけて、やめた。
朝倉の後を追い、駐車場へ向かう。
背後でガラス扉が閉まった。
標本家《コレクター》編 完