空の結び目   作:夕花

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 二学期初日の教室は、朝から少しだけ騒がしかった。

 

 夏休みの話をまだ続けている声。提出物を鞄から探す音。開いた窓から入る風は九月になってもぬるく、机の上のプリントを揺らしている。

 

「ちづる、これ後ろ回して」

 

「はい」

 

 綾乃から受け取った紙を後ろへ渡す。

 

 千綴の机にも、すでに何枚かの配布物が重なっていた。

 

「初日から多いね」

 

「毎回こんなもんでしょ」

 

「休み明けだから多く見える」

 

「それはあるかも」

 

 綾乃が一枚ずつ確認し始める。

 

 その向こうでは、環がヴァシリオスの机に置かれた何かを覗き込み、すぐに興味をなくしたように顔を背けていた。

 

 休みを挟んでも、教室の空気はあまり変わらない。

 

 前の扉が開く。

 

「席着けー」

 

 山田先生の声に、生徒たちがそれぞれの席へ戻った。

 

 出席を取り、提出物を確認すると、二学期最初の連絡は学校行事、委員会、今月の予定へと続いた。千綴も必要なところだけ手帳へ書き込んでいく。

 

「あと一つ」

 

 先生が手元の紙へ目を落とした。

 

「二学期から、交換留学生を一人受け入れることになった」

 

 何人かが顔を上げる。

 

「うちのクラス?」

 

「いや、一年」

 

 少し広がりかけたざわめきが、それだけで落ち着いた。

 

「どこから来るんですか?」

 

「ルーマニア。ヨーロッパの東の方だな」

 

「へえ」

 

 短い声が返る。

 

 千綴の手が止まった。

 

 ルーマニアと聞いて、夏休みの終わりに見かけた青年が頭に浮かんだ。

 

 早朝の道で二度すれ違った、明るい髪の青年。

 

 その後、この学校で教師と一緒に歩いているところも見た。

 

 交換留学生かもしれない。

 

 あの時は、そこまでしか分からなかった。

 

「市の国際交流の一環だ。校内で困ってたら、普通に手を貸してやってくれ」

 

 それ以上話を広げず、次の連絡へ移った。

 

 教室の関心もすぐに別のものへ流れていく。

 

 千綴も手帳へ視線を戻した。

 

 まだ、あの青年だと決まったわけではない。

 

 

 

 

 二限の休み時間。

 

 千綴が飲み物を買って教室へ戻ると、ヴァシリオスがスマートフォンを見ながら環に何かを話していた。窓側には休み時間のざわめきが残り、机の間を行き来する生徒の声が重なっている。

 

「そういえば、新辺も外国人増えたよな。駅前とか、前より見る」

 

 ヴァシリオスが画面から顔を上げた。

 

「市の交流事業じゃない?」

 

 綾乃が横から言った。

 

「学校にも来たくらいだし」

 

「まあ、それだと思うけど」

 

 ヴァシリオスが指で画面を送る。

 

「前に話したサプリ、あれも最近また見るんだよな」

 

「ああ、新辺で流行ってるってやつ?」

 

 千綴が訊く。

 

「そう。SNSでも前より増えてる」

 

 画面を向けられ、千綴は少しだけ覗き込んだ。

 

 商品そのものを大きく写した投稿ではない。名前もよく分からない。ただ、短い書き込みの中に、それらしい話題が何度か混ざっている。

 

「……関係あると思ってる?」

 

「分からん。たまたまかもしれない」

 

 ヴァシリオスが画面を戻し、そのままスマートフォンを机へ伏せた。時期が重なって見えるだけで、それ以上の根拠はない。

 

「まあ、俺はよく分からんものよりプロテインでいい」

 

「まだ飲んでるの?」

 

 千綴が訊く。

 

「当然」

 

 ヴァシリオスが胸を張る。千綴はその様子を少し眺めてから言った。

 

「全然変わってないな」

 

「変わってる!」

 

「どこが?」

 

「見ろ、この辺」

 

「分かんない」

 

「見る気あるか?」

 

「ない」

 

 環が横で吹き出した。

 

「バカ、前も同じこと言ってた」

 

「積み重ねが大事なんだよ」

 

「見た目に出てない積み重ね」

 

「タマは黙ってろ」

 

 予鈴が鳴る。

 

 環は笑ったまま自分の席へ戻り、ヴァシリオスも不満そうにスマートフォンをしまった。

 

 サプリの話も、それで終わった。

 

 

 

 

 午前の授業が終わるチャイムが鳴った。

 

 教室の空気が一気にほどけ、弁当や財布を手にした生徒たちが動き始める。

 

「今日どうする?」

 

 綾乃が振り返った。

 

「生徒会室で食べようかな。悠司にも聞いてみる」

 

 千綴がスマートフォンを取り出す。

 

「じゃあ私も行く」

 

「俺も」

 

 ヴァシリオスが財布を掴み、環も当然のように立ち上がる。

 

「私も」

 

「結局いつものメンバーじゃん」

 

 綾乃が笑い、教室のあちこちで動き始めた生徒たちの間から弁当を取り出した。

 

 千綴が短くメッセージを送ると、すぐに返事が来た。

 

「悠司も生徒会室で食べるって」

 

「決まり」

 

 綾乃も弁当を持って立ち上がった。

 

「じゃあ売店寄ってから行こ」

 

 昼食を買う千綴、環、ヴァシリオスに付き合い、四人で売店へ向かった。

 

 昼休みの売店前はすでに人が多い。

 

 パンや弁当を手に取る生徒の間を抜け、千綴も並んだ商品の前へ進んだ。

 

「何これ」

 

 一つの弁当で手が止まる。

 

 ――深海魚(ダゴン)の唐揚げ弁当。

 

「深海魚?」

 

 環が横から覗き込む。

 

「食えるの?」

 

「売ってるんだから食べられるでしょ」

 

「おすすめです」

 

 カウンターの向こうから声がした。

 

 見慣れない人物が立っている。

 

 名札には、無亞(ナイア)とあった。

 

 その顔を見たヴァシリオスが、ふいに眉を寄せる。

 

「……九頭龍?」

 

「誰?」

 

 千綴が振り返る。

 

「いや……」

 

「無亞です」

 

 カウンターの向こうから淡々と返された。

 

 ヴァシリオスが一瞬黙る。

 

「……ですよね」

 

 環が吹き出した。

 

「何してんの、バカ」

 

「いや、似てたんだよ」

 

「誰に?」

 

「だから九頭龍に」

 

「知らないって」

 

 千綴はそこで話を切り、唐揚げ弁当を手に取った。

 

「私はこれにする」

 

「本当に買うんだ」

 

「気になるし」

 

 会計を済ませる。

 

 売店を離れる頃には、ヴァシリオスももう何も言わなかった。

 

 生徒会室へ着くと、悠司が先に来ていた。

 

「お疲れ」

 

 悠司が顔を上げる。

 

「お疲れ。遅かったな」

 

「売店混んでた」

 

「あとヴァシリオスが変なこと言ってた」

 

 環が鞄を椅子の背へ掛けながら、すぐに付け足す。

 

「余計なこと言うな」

 

「何したんだよ」

 

 悠司が笑い、千綴たちが持ってきた昼食へ目を落とす。

 

「後で話す」

 

「話さなくていい」

 

 綾乃が空いている椅子を引き、五人で机を囲めるように整えた。

 

 

 

 

 千綴が弁当の蓋を開けると、綾乃がすぐに覗き込んだ。

 

「普通だ」

 

「何を期待してたの」

 

 衣のついた唐揚げがいくつか並んでいる。

 

「それが深海魚?」

 

「らしい」

 

 千綴は一つ口へ運んだ。

 

 少し弾力はあるが、味付けは普通の唐揚げだった。

 

「どう?」

 

「普通においしい」

 

「じゃあ一個ちょうだい」

 

「やだ」

 

「即答」

 

 綾乃が笑いながら自分の弁当へ戻る。窓から差す昼の光が、机の上に並んだ弁当箱の蓋を白く照らしていた。

 

 向かいでは、悠司がさっきの話を思い出したようにヴァシリオスを見る。

 

「で、売店で何があったんだ?」

 

「別に何もない」

 

「九頭龍がいたって」

 

 環が言った。

 

「だから、いたとは言ってない。似てたんだよ」

 

「誰だよ、九頭龍って」

 

 悠司が眉を寄せる。

 

「前に見たことあるやつ」

 

「それを売店の人と見間違えた?」

 

「見間違えたというか――」

 

「名札は無亞だったよ」

 

 千綴が唐揚げを食べながら言う。

 

「ほら」

 

「いや、だから俺も分かってるって」

 

 箸を持ったままの四人の視線が、同時にヴァシリオスへ集まる。

 

 ヴァシリオスがそれに気づいて箸を止めた。

 

「……もういい」

 

「何だったんだよ」

 

 悠司が笑う。

 

「俺が聞きたい」

 

 それ以上、話は続かなかった。

 

 弁当を食べながら、夏休みの宿題の話や、二学期の予定へ話題が移っていく。

 

 食べ終えた容器が少しずつ片づき、昼休みも残り少なくなった頃だった。

 

 廊下から二人分の足音が近づいてくる。

 

 足音は生徒会室の前で止まった。

 

「ここが生徒会室です」

 

 扉の向こうから鈴の声がした。

 

 続いて、扉が開く。

 

「私も生徒会に入ってるので、何か困ったことがあったら――」

 

 鈴は机を囲む五人を見て、「あれ?」と目を瞬かせた。

 

「鈴、お疲れ」

 

「お疲れさまです、弥生先輩、守屋先輩。今日は皆さんでいるんですね」

 

 千綴が声を掛けると、鈴は室内を見回してから少し横へずれた。その後ろにいた青年が見える。

 

 明るい髪。

 

 夏休みの早朝、何度かすれ違った顔。

 

 青年も千綴を見た。

 

 二人の視線が止まる。

 

「あ」

 

 千綴の口から声が出た。

 

 青年が少し目を見開いた。

 

「……朝」

 

「やっぱり、あの時の」

 

 鈴が二人を交互に見る。

 

「知ってるんですか?」

 

「知ってるっていうほどじゃないけど。朝、何回かすれ違ってる」

 

「ぼくも、見ました」

 

 青年が言う。

 

 日本語は自然だった。

 

「そうだったんですね」

 

 鈴は少し驚いたあと、すぐに頷いた。

 

「お昼のあと、少し学校の中を案内してたんです。ここも、困った時に来られる場所なので」

 

「なるほど」

 

 千綴は青年を見る。

 

 近くで向き合うのは初めてだった。

 

 その距離になって、朝に感じた引っ掛かりがもう一度意識へ触れた。

 

 鈴の隣に立つ肩の位置も、制服の皺も、明るい髪の流れもはっきり見えている。目の前にいるのは、間違いなく一人だ。

 

 それなのに、意識を向けた時だけ、一人分の輪郭の奥へ何かが幾重にも重なっているように感じる。

 

 別々のものが混ざっているのか、一つの中にいくつもあるのか。それすら分からない。

 

 ただ、不快ではなかった。嫌な気配も、危険な圧迫感もない。

 

「弥生先輩?」

 

 鈴の声で、千綴は瞬きをした。

 

「ん? ごめん」

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫。ちょっと考え事」

 

 もう一度確かめようとはしなかった。

 

 分からないなら、今はそれでいい。

 

「せっかくだし、挨拶していく?」

 

 鈴が青年へ訊く。

 

「はい」

 

 青年は姿勢を正した。

 

「エレディト・ブラショヴェアヌです。一年です。よろしくお願いします」

 

「弥生千綴。二年。よろしく」

 

 千綴も名乗り、それから少し考えた。

 

「エレディトでいい?」

 

「はい」

 

「じゃあ、エレディト。よろしく」

 

 悠司、綾乃、環、ヴァシリオスも順に名前を告げる。

 

 エレディトは一人ずつ顔を見ながら、小さく頷いていった。

 

 最後にヴァシリオスへ視線を戻す。鈴とエレディトはまだ扉の近くに立ったままで、机を囲む五人との間には少しだけ距離があった。

 

「あなたも、留学生ですか?」

 

 一瞬、部屋が静かになった。

 

「いや」

 

 ヴァシリオスが胸を張る。

 

「生粋の日本人。アイム・ジャパニーズ」

 

 エレディトが一度瞬きをした。

 

「日本語で分かります」

 

 環が先に吹き出し、綾乃も箸を止めて口元を押さえる。鈴は扉のそばで困ったように笑っていた。

 

「ヴァシリオス、恥ずかしい」

 

「なんでだよ。親切だろ」

 

「ぼく、日本語は大丈夫です」

 

 エレディトも少しだけ笑う。

 

「お、話分かるな」

 

 ヴァシリオスは椅子の背から身を起こし、さっきまでより明らかに近い調子で言った。

 

「よろしく、エレディト」

 

「よろしくお願いします」

 

「そこはもう少し軽くていいぞ」

 

「急に馴れ馴れしいな」

 

 悠司が横から言う。

 

「交流だよ、交流」

 

「便利な言葉にするな」

 

 机を囲んだ空気が少しだけほどける。エレディトもその輪の中で、表情を和らげていた。

 

「朝、走っていますね」

 

 今度はエレディトが千綴へ言った。

 

「そっちも。最近よく会うなとは思ってた」

 

「ぼくもです」

 

「毎朝?」

 

「だいたいです」

 

「じゃあまた会うかもね」

 

「はい」

 

 短いやり取りの間にも、先ほどの感覚は意識の端に薄く残っていた。一人なのに、一つにまとまりきらない。けれど、それが何なのかはまだ分からない。

 

 鈴が時計を見る。

 

「そろそろ戻った方がいいですね」

 

「はい」

 

 まだ初日で、次の授業の準備もある。

 

「じゃあ先輩たち、またあとで」

 

「うん」

 

「失礼します」

 

 エレディトも軽く頭を下げる。

 

 二人が廊下へ出ると、扉が閉まり、その向こうで足音が遠ざかっていった。

 

 初対面は、それだけだった。

 

「思ったより日本語普通だったね」

 

 綾乃が言う。

 

「ヴァシリオスより通じてた」

 

 環が続ける。

 

「どういう意味だ」

 

「そのまま」

 

 いつもの会話が戻る。

 

 千綴は空になった弁当箱を閉じた。

 

 さっき感じたものについては口にしなかった。自分でもまだ何だったのか分からず、近い距離から話した時に感じたことだけ覚えておけばいい。

 

 予鈴が鳴る。

 

「そろそろ戻ろう」

 

 悠司が立ち上がった。

 

 それぞれ椅子と机を戻し、昼食を片づけていく。

 

 千綴も弁当を鞄へしまった。

 

 廊下へ出る頃には、エレディトと鈴の姿はもう見えなかった。

 

 千綴はさっきの感覚を無理に形にせず、自分の教室へ戻った。

 

 

 

 

 終礼が終わり、教室から人が流れ始めた。千綴も鞄を肩へ掛け、廊下へ出る。

 

 窓の外から短い笛の音とボールを蹴る音が聞こえた。階段を下り、昇降口を出たところで何となくグラウンドへ目を向けると、何人かがサッカーをしている。その中にヴァシリオスの姿があった。

 

 大きな声を出しながら走り、少し離れたところへボールを送る。その先で受けたのは、明るい髪の一年生だった。

 

 エレディト。

 

 昼休みに生徒会室で会ったばかりの顔が、今はグラウンドを走っている。

 

 ボールを受け、近くの生徒へ返す。誰かに声を掛けられれば振り向き、短く答える。

 

 昼に見た時より、ずっと学校の中へ溶け込んで見えた。

 

 千綴はその様子を少しだけ眺めた。エレディトはこちらには気づかない。

 

 今日は丘平商店のアルバイトがある。

 

「あ」

 

 時間を思い出し、千綴はスマートフォンを見る。

 

 まだ遅刻するほどではないが、のんびりしている時間でもなかった。

 

 グラウンドから視線を外すと、背後でもう一度ヴァシリオスの大きな声が聞こえた。千綴は少し歩調を速め、学校を後にした。

 

 

 

 丘平商店へ着く頃には、午後の日差しも少し傾いていた。

 

 制服から着替え、エプロンをつける。

 

「店長、入ります」

 

「はいよ。千綴、先にそっちお願い」

 

「了解です」

 

 店内には、夕方前のゆるい客足が続いていた。

 

 千綴は空いた棚を確認し、商品を補充していく。冷蔵ケースの扉が開く音。レジの電子音。入口の引き戸が動くたび、外のぬるい空気が少しだけ入り込んだ。

 

 夏休み中とやることは変わらない。

 

 ただ、今日から学校が始まった分だけ、一日の長さが少し違って感じる。

 

 客が途切れたところで、千綴は段ボールを畳んだ。

 

 畳んだ段ボールをまとめ、千綴は店の奥へ運ぶ。

 

 戻ってくると、巴がレジ横の小物を整えていた。

 

「そういえば、今日、学校に交換留学生が来たんですよ」

 

「エレディト?」

 

 あまりに普通に名前が返ってきて、千綴の足が止まった。

 

「……知ってるんですか?」

 

「知ってるも何も、うちで預かってるよ」

 

「え?」

 

 巴が顔を上げる。

 

「市の受け入れ家庭のやつ。うちの空いてる部屋を貸してる」

 

 千綴は一度、店の奥へ視線を向けた。

 

 もちろん、そこから生活側が見えるわけではない。

 

 丘平商店で働いていても、今までエレディトを見かけなかった理由はそれで分かった。

 

「全然知らなかった」

 

「店と家は別だからね。千綴がこっちにいる時間に、わざわざ店まで来る理由もないし」

 

「確かに」

 

 昼休みに初めて名前を知った相手が、思っていたより近いところで生活していた。

 

 千綴は少し意外に思いながら、空いた買い物籠を重ねる。

 

「今日、学校で初めて話しました」

 

「どうだった?」

 

「普通に日本語上手でした。昼に少し話しただけですけど」

 

「そう。ならよかった」

 

 巴は短く頷いた。

 

「まあ、家の連中の方が大変だけど」

 

「大変?」

 

「息子ができたみたいに喜んでる」

 

 巴が小さく息を吐いた。

 

 嫌そうというより、少し呆れている顔だった。

 

「歓迎するのはいいんだけどね。ちょっと張り切りすぎ」

 

「店長は?」

 

「私も歓迎してるよ」

 

 巴はすぐに答えた。

 

「ただ、普通にしてた方が本人も楽でしょ」

 

「それはそうかも」

 

 千綴は笑う。

 

 入口の引き戸が開いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 二人の声が重なる。

 

 話はそこで途切れ、千綴は店の仕事へ戻った。

 

 

 

 外が暗くなる頃には、客足も落ち着いていた。

 

 最後の片づけを終え、千綴はエプロンを外す。

 

「店長、上がります」

 

「お疲れ。気をつけて帰りな」

 

「はい。お疲れさまでした」

 

 店の外へ出る。

 

 昼間の熱がまだ舗装に残っていたが、風は少しだけ軽くなっていた。

 

 商店街の照明が点き、閉まり始めた店のシャッターがところどころで音を立てている。

 

 千綴が鞄を持ち直した時、少し離れたところから足音が近づいてきた。

 

 一定の間隔で、舗装を蹴る音。

 

 走ってきた人影が街灯の下へ入る。

 

 明るい髪が見えた。

 

「あ」

 

 千綴が声を漏らす。

 

 相手も速度を落とした。

 

「弥生先輩」

 

「エレディト」

 

 昼に続いて、今日二度目の対面だった。

 

 エレディトは軽く息を整えながら、千綴の後ろにある丘平商店を見る。

 

「ここに、いたんですね」

 

「私、ここでバイトしてるから」

 

「そうなんですか」

 

「さっき店長から聞いた。エレディト、榊家(さかきけ)で預かってるんだって?」

 

「はい。お世話になっています」

 

 それだけ言って、エレディトは小さく頭を下げた。

 

「まさかこんな近くにいるとは思わなかった」

 

「ぼくもです」

 

 一拍置いて、千綴が言う。

 

「放課後、サッカーしてたね」

 

「見ていたんですか?」

 

「少しだけ。バイトがあったから、すぐ出たけど」

 

「ヴァシリオス先輩に誘われました」

 

 短い沈黙が落ちる。

 

 気まずいものではなかった。

 

 店の前を自転車が一台通り過ぎ、少し遅れてチェーンの音が遠ざかる。

 

「じゃあ、私は帰るね」

 

「はい。お疲れさまでした」

 

「エレディトも。走りすぎないように」

 

「気をつけます」

 

 千綴は片手を軽く上げ、その場を離れた。

 

 振り返らず、そのまま自宅の方へ歩いていく。

 

 

 

 千綴の姿が見えなくなってから、エレディトは一度だけ夜空を見上げた。

 

 学校の初日は、思っていたより静かに終わった。

 

 鈴は校内を案内してくれた。ヴァシリオスは放課後にサッカーへ誘ってくれた。昼に会った千綴たちも、必要以上に構えず接してくれた。

 

 知らない場所へ来た緊張が、少しだけ薄くなっている。

 

 昼、生徒会室で千綴と向き合った時、彼女の中にも普通とは違う何かを感じた。何なのかは分からない。

 

 それでも不思議と警戒する気にはならず、むしろ少し安心した。

 

 もちろん、すべてが軽くなったわけではない。

 

 知らない街での生活も、これからの学校も、まだ始まったばかりだ。

 

 エレディトは息を吐き、榊家の方へ歩き出した。

 

 玄関の明かりが見える。

 

 その灯りの下へ入り、扉を開けた。

 

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