空の結び目   作:夕花

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16-1

 休日の朝は、平日より街の動きが遅かった。

 

 千綴は一定の呼吸を保ちながら、住宅地を抜けていく。

 

 夏休みの終わり頃に走り始めた時より、身体はずいぶん慣れていた。最初は学校へ続く坂の途中で折り返していたが、今では同じ距離なら、前ほど意識して息を整えなくても走れる。

 

 だからといって、無理に速くするつもりはなかった。最初から決めていたのは、速くなることより続けることだった。

 

 靴底が舗装を叩く音に合わせて、千綴は前を見る。

 

 朝の空気は少し涼しくなっていた。夏の名残はまだ強いが、日差しが高くなる前なら走りやすい。

 

 ふと、直嗣へ相談した時のことを思い出す。新辺で見かけたという軍人らしい人物、事故で休んでいる一年生、それからエレディトに感じた説明しにくい違和感。どれも関係があるとは分からない。

 

 相談したあと、自分の中では一度区切りをつけたつもりだった。朝倉が調べてみると言ってくれた以上、今の自分にできることはない。それでも走っていると、ふと頭の中へ戻ってくる。

 

 自分から追加で連絡はしていないし、朝倉からも今のところ連絡はない。本当にただの噂で、一年生の事故も別の話で、エレディトについて感じたことも自分の異能とは関係がないのなら、その方がいいに決まっている。

 

 千綴は小さく息を吐いた。

 

「……考えすぎかな」

 

 声に出してみても、答えは出ない。

 

 相談したことを後悔しているわけではない。むしろ、分からないことを一人で抱えなくていいと分かっただけでも、前よりは楽だった。

 

 だから今は、待てばいい。そのはずだった。

 

 前方から、軽い足音が近づいてきた。

 

 千綴は顔を上げる。

 

 明るい髪が、朝の光の中で揺れていた。

 

「あ」

 

 向こうも気づいたらしい。

 

 走ってきたエレディトが、少しだけ速度を落とす。

 

「千綴先輩」

 

「おはよう」

 

「おはようございます」

 

 二人とも足は止めなかった。

 

 すれ違う直前、千綴が少しだけ顔を向ける。

 

「今日はこっちまで来てるんだ」

 

「はい。最近、前より遠くまで走るようにしています」

 

 エレディトはそう答えた。

 

 このまま反対方向へ走っていくのかと思ったが、少し進んだところで振り返る。

 

「千綴先輩は、まだ走りますか?」

 

「うん。今日はもう少しだけ」

 

「一緒に走りますか?」

 

「いいよ」

 

 エレディトが向きを変える。

 

 二人は並んで走り始めた。

 

 最初のうちは、千綴にも余裕があった。エレディトは息を乱さず、足運びも一定で、地面を蹴る音も軽い。少し速い気はしたものの、千綴も同じくらいの速さを保ってついていった。

 

 さらに進むにつれて呼吸が深くなり、脚にも少しずつ重さが出てくる。それでも隣のエレディトの様子はほとんど変わらなかった。

 

 もう少しくらいなら、と速度を落とさずにいたが、身体は正直だった。息を吸う間隔が一度崩れ、次の呼吸が少し浅くなる。

 

 エレディトがこちらを見る。

 

「千綴先輩」

 

「ん?」

 

「少し速かったですか」

 

「いや、まだ大丈夫」

 

 答えた直後、エレディトの速度がわずかに落ちた。

 

「あ」

 

「このくらいならどうですか?」

 

「……気づいてた?」

 

「少し」

 

 千綴は苦笑する。

 

「そっち、結構速いね」

 

「そうですか?」

 

「そうだよ」

 

 悔しいというより、素直に感心した。同じように走っているつもりでも、身体の使い方も持久力も違う。少し前までなら、もっと早く息が上がっていただろうし、自分も続ければ、もう少しくらいは走れるようになるかもしれない。

 

「私も、もうちょっと頑張るかな」

 

 千綴が言うと、エレディトが顔を向けた。

 

「千綴先輩も、かなり走れるようになっています」

 

「最初は学校の坂の途中で死にそうになってたからね」

 

「死にそう?」

 

「言い方。ほんとに死にそうだったわけじゃない」

 

 エレディトが少し笑った。

 

 そのあとしばらく、二人はほとんど話さずに走った。

 

 靴音と呼吸だけが続く。

 

 速度を落としたとはいえ、会話を続けながら走るほど余裕があるわけではない。

 

 道の脇に小さな公園が見えてきたところで、千綴が速度を緩めた。

 

「ちょっと休憩しない?」

 

「はい」

 

 二人は歩きに変え、そのまま公園へ入った。

 

 ベンチの近くまで行って足を止める。

 

 千綴は腰へ手を当て、ゆっくり息を整えた。

 

「やっぱり速いって」

 

「すみません」

 

「謝るほどじゃないよ」

 

 呼吸が落ち着いてから、千綴はベンチへ腰を下ろした。

 

 エレディトも少し間を空けて隣へ座る。

 

 朝の公園には、まだほとんど人がいなかった。

 

「休みの日も、朝は走ってるの?」

 

 千綴が訊く。

 

「はい」

 

「他は何してる?」

 

 エレディトが少し考える。

 

「学校のことをしたり、日本語を勉強したりします」

 

「うん」

 

「時間があれば、筋力トレーニングもします」

 

「結構ちゃんとしてるんだ」

 

「足りないので」

 

 千綴は横を見る。

 

「足りない?」

 

「体力とか、筋力とかです」

 

「十分ありそうだけど」

 

「まだです」

 

 返事は早かった。

 

 千綴はそれ以上すぐには言わず、前へ視線を戻す。

 

 学校では普通にクラスメイトと話し、ヴァシリオスに誘われてサッカーもしていた。鈴や悠司から聞いた限りでも、学校生活にはもうかなり馴染んでいる。だから休日も、友人と出掛けたり何か別のことをして過ごしているのかと思っていた。

 

「休みの日って、そういうのが多いんだ」

 

「そうですね」

 

「走ったり、鍛えたり」

 

「はい」

 

 真面目なのだと思えば、それまでだ。自分だって検査から帰ったあとすぐに走り始め、巴にも呆れられた。人のことを言える立場ではない。

 

 それでも、少し引っ掛かった。

 

「千綴先輩は」

 

「ん?」

 

「どうして走っているんですか?」

 

 千綴は少しだけ目を瞬いた。

 

「私?」

 

「はい」

 

 千綴は少し考えた。最初に走り始めた理由なら、はっきりしている。もう一度何かに巻き込まれた時、少しでも自分で動けるようにするため。逃げるためだ。

 

 けれど、そのまま答えるには、説明しなければならないことが多すぎる。

 

「今、自分にできることをしてるだけかな」

 

 言ってから、自分でも妙に簡単な答えだと思った。

 

 大げさな意味はない。走れるなら走る。分からないことは勝手に決めつけず、危ないと思ったら逃げる。相談できる相手がいるなら相談する。今の自分には、そのくらいしかできない。

 

「できることを?」

 

「うん。何かあった時に、何もできませんでしたってなるの嫌だし。でも、急に何でもできるようになるわけじゃないから」

 

 千綴は前を見たまま続ける。

 

「だから、今できることだけやっとけばいいかなって」

 

 隣から返事がない。

 

 千綴は横を見る。

 

 エレディトは少し考えているようだった。

 

「……そうですね」

 

 返事は、少し遅れて返ってきた。

 

「何?」

 

「いえ」

 

 エレディトは前を見る。

 

「ぼくは、少し違ったかもしれません」

 

 千綴は何も言わず、続きを待つ。

 

「今できることをする、というより」

 

 そこで言葉が途切れる。

 

 エレディトは一度息を吐いた。

 

「もっと、できるようにならないといけないと思っていました」

 

 千綴は隣を見た。

 

 エレディト自身も、今初めて言葉にしたような顔をしていた。

 

「だから走ってる?」

 

「それもあります」

 

「筋トレも?」

 

「はい」

 

「そっか」

 

 千綴はそれ以上、踏み込まなかった。何が理由なのか、なぜそこまでできることを増やそうとしているのか、聞こうと思えば聞ける。

 

 けれど、まだそこまでの話をする関係ではない気もした。それに、本人が今ようやく気づいたばかりのことを、こちらから無理に掘る必要もない。

 

「まあ、頑張るのは悪くないと思うけど」

 

「はい」

 

「やりすぎないくらいでね」

 

 エレディトが少し笑う。

 

「千綴先輩もです」

 

「私?」

 

「走りすぎないように、と前に言っていました」

 

「あれ私が言ったやつじゃん」

 

「だから、同じです」

 

「……覚えてたんだ」

 

「はい」

 

 千綴は少しだけ口元を緩めた。

 

 その時だった。

 

 何気なくエレディトへ視線を向けた、ほんの一瞬。明るい髪と横顔、座っている肩の線。見えているものはそれだけなのに、輪郭の奥へ何かが重なった。

 

 以前、生徒会室で近くに立った時と同じ感覚。一人なのに、一人だけでは終わらない。ただ今回は、前よりほんの少しだけ輪郭が近かった。

 

 感じた、というより――一瞬だけ、見えた気がした。

 

「……」

 

「千綴先輩?」

 

 エレディトがこちらを見る。

 

 その瞬間には、もう何もなかった。

 

「いや」

 

 千綴は前を見る。

 

「何でもない」

 

「大丈夫ですか?」

 

「うん。ちょっと考え事しただけ」

 

 意識を向ければ、もう一度分かるかもしれない。そんな考えが一瞬だけ浮かんだが、すぐにやめた。

 

 無理に確かめない。自分から使おうとしない。検査の時にも、直嗣にも言われたことだ。

 

 分からないものを、分からないまま覚えておく。それでいい。

 

 千綴は一度深く息を吐き、立ち上がった。

 

「そろそろ戻ろうか」

 

「はい」

 

 二人はもう一度軽く身体を動かし、公園を出た。

 

 少しだけ並んで走り、やがて互いの帰る方向へ分かれた。

 

「じゃあ、また学校で」

 

「はい。お疲れさまでした」

 

 千綴は片手を上げ、そのまま自分の道へ戻った。

 

 

 

 

 午後の丘平商店は、朝とは違う暑さを抱えていた。

 

 入口の引き戸が開くたび、外からぬるい空気が流れ込む。

 

 千綴はレジ横の籠を整え、空いた棚へ商品を補充していった。

 

 休日だからか、平日より客足の波が読みにくい。

 

 しばらく誰も来ないと思えば、家族連れが続けて入り、そのあとに近所の年配客が重なる。

 

「千綴、そっち終わったら飲料見て」

 

「はい」

 

 巴の声に返事をして、千綴は段ボールを畳む。

 

 朝走った疲れは、もうほとんど残っていなかった。

 

 少し脚が重いくらいで、仕事に支障が出るほどではない。

 

 冷蔵ケースの前へ移動する。

 

 減っている商品を確認し、奥から補充する。

 

 扉を開けると、冷気が腕へ当たった。

 

「気持ちいい……」

 

「そこで涼まない」

 

 後ろから巴の声が飛んでくる。

 

「涼んでないです。補充してます」

 

「今、完全に涼んでたでしょ」

 

「一秒くらいです」

 

「認めてるじゃん」

 

 千綴は扉を閉めた。

 

 巴が笑いながらレジへ戻っていく。

 

 こういうやり取りも、いつも通りだった。

 

 朝、エレディトと一緒に走ったことや、その時に感じたことは、考えようとすれば頭の中へ戻ってくる。

 

 けれど、今は仕事中だ。千綴は棚へ視線を戻した。分からないものを考え続けても仕方がない。それはもう、何度も自分へ言い聞かせている。

 

 客が一人、飲み物を持ってレジへ向かった。

 

 千綴も作業を切り上げ、別の棚へ移る。

 

 しばらくして客足が落ち着いた。

 

 レジ前も静かになり、店内には冷蔵ケースの低い作動音だけが残る。

 

 千綴は空になった段ボールをまとめ、店の奥へ運んだ。

 

 戻ると、巴がレジ横で伝票を確認している。

 

「店長」

 

「ん?」

 

「エレディトって、休みの日いつも何してるんですか?」

 

 巴の手が止まった。

 

「急だね」

 

「朝、会ったんですよ」

 

「ああ、走ってた?」

 

「はい。いつもより遠いところまで走ってるみたいで」

 

「へえ」

 

「一緒に少し走ったんですけど、普通に私より速かったです」

 

「そりゃ残念」

 

「別に勝負してないです」

 

「でも悔しそう」

 

「悔しくないですよ」

 

 巴が口元を緩める。

 

「で?」

 

「で、って?」

 

「それだけ聞きたかったわけじゃないんでしょ」

 

 千綴は一度黙った。

 

 巴は伝票へ視線を戻す。

 

「別に言いたくないならいいけど」

 

「いや、そういうんじゃなくて」

 

 千綴は少し考える。

 

「学校では、もう普通に馴染んでるんですよ」

 

「うん」

 

「クラスでも話す人いるみたいだし、放課後に友達とサッカーしてたりもして」

 

「じゃあ、学校の方は問題なさそうだね」

 

「はい。そこは別に気にしてないです」

 

 言いながら、自分でも何を聞きたいのか整理する。

 

「休みの日も走って、筋トレもしてるらしくて」

 

「へえ」

 

「結構ちゃんとしてるなって最初は思ったんです」

 

「うん」

 

「でも、話してたら、なんか……」

 

 言葉が止まる。

 

 巴が顔を上げた。

 

「なんか?」

 

「空いてる時間、結構そういうことに使ってるのかなって」

 

 千綴は自分で言ってから、少し眉を寄せた。

 

「いや、別に悪いことじゃないんですけど」

 

「そうだね」

 

「本人がやりたくてやってるなら、私が言うことでもないし」

 

「そうだね」

 

「……店長、さっきからそれしか言ってなくないですか」

 

「千綴が勝手に続けるから」

 

「聞いたの店長じゃん」

 

「私は『なんか?』って聞いただけ」

 

 巴が笑う。

 

 千綴は少しだけ肩を落とした。

 

「朝、話してたら、本人も少し焦ってるみたいで」

 

 巴の表情が少し変わった。

 

 さっきまでの軽い調子が薄くなる。

 

「本人がそう言ったの?」

 

「はっきりそう言ったわけじゃないですけど。できることを増やさないと、って思ってる感じで」

 

「なるほどね」

 

 それ以上、巴はすぐに何も言わなかった。

 

 千綴も黙る。

 

 朝、言葉を止めたエレディトの顔を思い出す。

 

「家ではどうなんですか?」

 

 千綴が訊く。

 

「普通だよ」

 

「普通?」

 

「ご飯食べるし、話しかければ話すし。うちの家族が構いすぎるとちょっと困った顔するけど」

 

「想像できる」

 

「でしょ」

 

 巴が笑う。

 

「家にいる間ずっと筋トレしてるとか、そういうことはないよ」

 

「そっか」

 

「でも、時間が空くと走りに行ったりはしてるね」

 

 千綴は小さく頷いた。

 

「やっぱり」

 

「気になる?」

 

「……少し」

 

 答えてから、自分でも曖昧だと思った。

 

 巴がこちらを見る。

 

「もしかして、気があるの?」

 

「は?」

 

「エレディトに」

 

「ないです」

 

 即答だった。

 

 巴が少し笑う。

 

「早いね」

 

「そういう意味じゃないですから」

 

「じゃあどういう意味?」

 

「だから――」

 

 千綴は言いかけて止まった。

 

 何が気になるのか。朝からずっと、自分でも完全には言葉にしていなかった。

 

 学校で孤立しているわけではなく、生活に困っているようにも見えない。榊家にも馴染んでいる。それなら、本来は何も心配する必要はない。

 

 それでも。

 

「……ちょっと、頑張りすぎてる気がするんです」

 

 口にすると、思っていたより素直な言葉になった。

 

 巴は黙っている。

 

「学校でも普通にやってて、休みの日もかなり身体動かしてて」

 

「うん」

 

「朝も、私より全然余裕あったし。体力あるんだとは思うんですけど」

 

 千綴はレジ横の小さな傷へ目を落とす。

 

「でも、できるようにならないとって言い方が、ちょっと気になって」

 

 そこまで言って、ようやく自分でも分かった。ただ珍しいからでも、留学生だからでも、異能らしい感覚を覚えた相手だからでもない。

 

 少なくとも今、胸の中に残っているものは、それとは別だった。

 

「心配なんだ」

 

 巴が言った。

 

 千綴は顔を上げる。

 

「……たぶん」

 

「たぶん?」

 

「いや」

 

 少し考える。

 

「心配です」

 

 今度は、言い直した。

 

 巴はそれを聞いて、軽く頷いた。

 

「じゃあ、誘えばいいじゃん」

 

「何に?」

 

「遊びに」

 

 千綴は一瞬、意味が分からなかった。

 

「私が?」

 

「他に誰がいるの」

 

「いや、でも」

 

「学校で友達いるんでしょ?」

 

「いますけど」

 

「だったら、別に遊びに誘ったって変じゃないでしょ」

 

「そういう問題じゃなくて」

 

 千綴は言葉を探す。

 

 自分からエレディトを遊びへ誘う。

 

 その発想が、今までほとんどなかった。

 

 学校で会えば話し、朝に会えば挨拶する。丘平商店の前で会えば、少し立ち話をする。それで十分だと思っていた。

 

「まだ、そんな長い付き合いじゃないし」

 

「長く付き合わないと遊んじゃ駄目なの?」

 

「そうじゃないですけど」

 

「じゃあいいじゃん」

 

 巴は伝票を揃えた。

 

「千綴一人でどっか連れてけって話じゃないよ。学校の友達と遊ぶ時に、一緒にどうって聞けばいいだけ」

 

「……みんなで」

 

「その方が気楽でしょ」

 

 千綴は黙った。

 

 確かに、そのくらいなら不自然ではない。ヴァシリオスとはすでにサッカーをしているし、綾乃とも昼食を一緒に取った。全く知らない相手ではない。

 

 それでも、自分から誘うとなると少し違って感じた。

 

「そんなに難しく考えること?」

 

「考えてないです」

 

「今すごい考えてる顔してるけど」

 

「店長が急に変なこと言うから」

 

「心配なら、息抜きさせればって言っただけ」

 

「簡単に言いますね」

 

「簡単なことだから」

 

 巴がそう言ったところで、入口の引き戸が開いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 二人の声が重なる。

 

 会話はそこで途切れた。

 

 千綴はすぐにレジへ戻る。

 

 買い物籠の中の商品を受け取り、飲み物、菓子、日用品と一つずつレジへ通していく。

 

「袋、いりますか?」

 

「お願い」

 

「はい」

 

 いつものやり取りを続ける。

 

 客を見送り、次の作業へ移る。

 

 そのあとも、商品を補充し、レジに立ち、空いた籠を戻して、店先を軽く掃く。店の時間はいつも通り流れていった。

 

 仕事をしている間、ずっと考えていたわけではない。

 

 けれど、ふと手が空くと、巴の言葉が戻ってきた。

 

 誘えばいいじゃん。

 

 千綴は棚の商品を整えながら、小さく息を吐いた。

 

「……遊び、か」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 すぐに手を動かし直した。

 

 まだ、何かを決めたわけではなかった。

 

 

 

 

 丘平商店を出る頃には、空の色がすっかり薄くなっていた。

 

 昼間の熱はまだ舗装に残っているが、風は少しだけ軽い。

 

 千綴は店の前で一度伸びをした。

 

「お疲れさまでした」

 

 振り返って声を掛ける。

 

 店の奥から、巴の声が返ってきた。

 

「お疲れ。気をつけて帰りな」

 

「はい」

 

 引き戸を閉める。

 

 商店街には、夕方から夜へ移る途中の空気が残っていた。

 

 まだ開いている店もあれば、シャッターを下ろし始めているところもある。自転車が何台か通り、少し離れたところでは買い物帰りらしい家族の声がした。

 

 千綴は鞄を肩へ掛け直し、自宅の方へ歩き始める。

 

 今日は朝から走り、昼には店へ入っていつも通り働いた。身体はそれなりに疲れているが、嫌な疲れではない。

 

 ただ、ふとした拍子に巴との会話が戻ってくる。

 

 誘えばいいじゃん。

 

 千綴は少し眉を寄せる。

 

「簡単に言うよな……」

 

 別に難しいことではない。それも分かっている。今度みんなでどこか行く時、一緒にどうかと聞くだけだ。

 

 まだ長い付き合いではない。学校で会えば話し、朝に会えば挨拶する。丘平商店の前で少し立ち話をしたこともある。それでも、自分から学校の外へ誘うとなると、少しだけ線を越えるような気がした。

 

 千綴は小さく息を吐く。

 

 考えすぎだ。

 

 そう思って前を見る。

 

 その時、道の向こうから足音が聞こえた。

 

 一定の間隔で、舗装を蹴る音。

 

 千綴は何となくそちらへ目を向ける。

 

 街灯の下へ、人影が入った。

 

「あ」

 

 明るい髪。

 

 朝にも見た姿だった。

 

 エレディトもこちらに気づき、少し速度を落とす。

 

「千綴先輩」

 

「また走ってるの?」

 

「はい」

 

 千綴は一瞬、返事をしなかった。

 

 朝も走っていた。それも千綴よりずっと余裕を残して。昼間に何をしていたのかは分からないが、少なくとも今また走っている。

 

「今日、朝も走ってたよね」

 

「はい」

 

「今も?」

 

「少しだけです」

 

 エレディトはそう答えた。

 

 息は上がっていない。汗はかいているが、苦しそうにも見えない。朝ならそのまま感心して終わっていたかもしれないが、今は少し違った。

 

「……少しって、どのくらい?」

 

 訊いてから、千綴は自分で少し驚いた。

 

 聞き方が、思ったより細かい。

 

 エレディトも一瞬だけ目を瞬く。

 

「まだ、そんなに走っていません」

 

「いや、時間じゃなくて」

 

 千綴は言い直す。

 

「朝も走って、今も走ってるんだなって思って」

 

「はい」

 

 千綴は足を止めた。

 

 エレディトもそれに合わせて止まる。

 

 少し離れた道路を車が通り過ぎる。

 

 その音が遠ざかってから、千綴は口を開いた。

 

「エレディト」

 

「はい」

 

「ちょっと、やりすぎじゃない?」

 

 言ってしまった。声は強くしなかったつもりだったが、思ったより真っ直ぐな言葉になった。

 

 エレディトはすぐには返事をしない。

 

 千綴は少し視線を逸らした。

 

「いや、余計なお世話かもしれないけど」

 

「いえ」

 

「まだそんなに長く知ってるわけでもないし、何して過ごすかは本人の自由だし」

 

 言葉を足すほど、言い訳みたいになる。

 

 千綴はそこで一度止めた。

 

「でも、朝も結構走ってたじゃん」

 

「はい」

 

「朝も走ってたのに、今も走ってるなら、少しくらい休んでもいいんじゃないかなって」

 

 エレディトは黙って聞いている。

 

 千綴は続けた。

 

「頑張るのが悪いって言ってるわけじゃないよ」

 

「分かっています」

 

「ならいいけど」

 

 そこで会話が止まる。

 

 街灯の下で、二人の影が足元へ伸びていた。

 

 千綴は少し気まずくなって、鞄の位置を直す。

 

「なんか、ごめん。急に」

 

「どうして謝るんですか?」

 

「いや。ちょっと言いすぎたかなって」

 

 エレディトは少し考えるように視線を落とした。

 

「朝の話を、考えていました」

 

「朝?」

 

 エレディトは少し間を置いてから続ける。

 

「たぶん、少し焦っていたんだと思います」

 

 その言い方は、断言というより、自分で確かめながら話しているようだった。

 

「何に?」

 

 千綴は訊いた。

 

 エレディトはすぐには答えなかった。

 

 数秒だけ沈黙が続く。

 

「うまく言えません」

 

「そっか」

 

 千綴はそれ以上追わなかった。

 

 朝と同じだった。理由まで聞けるほど、まだ近い関係ではない。ただ、本人が自分で少し気づいたなら、それでいい。

 

「じゃあ、少しだけ休むことも覚えた方がいいかもね」

 

 千綴が言うと、エレディトがわずかに笑った。

 

「千綴先輩に言われると、少し不思議です」

 

「何が?」

 

「千綴先輩も、無理をする人に見えます」

 

「私が?」

 

「はい」

 

 即答された。

 

 今度は千綴が黙る番だった。

 

「どこが」

 

「学校もあって、店でも働いて、朝は走っています」

 

「それはエレディトもじゃん」

 

「だから、同じです」

 

 言われて、千綴は返事に詰まる。

 

 朝にも似たことを言われた。走りすぎないように、と自分が以前言った言葉をそのまま返された。

 

「私はちゃんと加減してるよ」

 

「本当に?」

 

「……たぶん」

 

 言い切れなかった。

 

 エレディトが少し笑う。

 

「ほら」

 

「何、その顔」

 

「同じです」

 

「同じにしないで」

 

「でも、千綴先輩も休んだ方がいいです」

 

「それは……まあ」

 

 千綴は一度だけ空を見る。

 

 すぐに視線を戻した。

 

「お互い気をつけるってことでいい?」

 

「はい」

 

「無理しない」

 

「はい」

 

「私も」

 

「はい」

 

「そこ、二回返事しなくていい」

 

 エレディトがまた少し笑う。

 

 千綴もつられて口元を緩めた。

 

 完全に納得したわけではない。エレディトが明日から急に運動量を減らすとも思えないし、自分だって必要だと思えばまた走る。

 

 それでも、朝よりは少しだけ言葉が届いた気がした。そして、自分も見られていたことが、少し意外だった。

 

 千綴は鞄の肩紐を握り直す。

 

 そこで、巴の言葉がもう一度浮かんだ。

 

 誘えばいいじゃん。

 

 今なら言える気がした。

 

「そうだ」

 

 千綴が口を開く。

 

 エレディトが顔を上げる。

 

「今度の休み、何か予定ある?」

 

「予定ですか?」

 

「うん」

 

 ここまで言ってから、少しだけ迷った。やっぱり変じゃないか、という考えが一瞬だけ出たが、もう口にしている。

 

「みんなで、どこか遊びに行こうかなって思ってて」

 

 まだ決まっていない話だった。行き先も、時間も、誰に声を掛けるかも決まっていない。

 

 それでも、千綴は続けた。

 

「よかったら、エレディトも来る?」

 

 エレディトが少し目を見開いた。

 

「ぼくも?」

 

「うん」

 

「いいんですか?」

 

「いいから聞いてるんだけど」

 

 千綴は少し笑う。

 

「ヴァシリオスもいるし、綾乃もいるし。たぶんいつもの感じになると思う」

 

 言いながら、まだ何も決めていないことを思い出す。

 

「まあ、詳しいことはこれからだけど」

 

「行きたいです」

 

 返事は、思ったより早かった。

 

 千綴は一度だけ瞬きをする。

 

「じゃあ決まり」

 

「はい」

 

「細かいことはヴァシリオスから連絡させる」

 

「ヴァシリオス先輩から?」

 

「たぶん一番そういうの好きだから」

 

 エレディトが少し考え、それから頷いた。

 

「分かりました」

 

「じゃあ、そういうことで」

 

 千綴は片手を軽く上げる。

 

「私は帰るね」

 

「はい。お疲れさまでした」

 

「エレディトも。今日はもうあんまり走らないこと」

 

「……はい」

 

「今、間があった」

 

「気をつけます」

 

「ならいい」

 

 千綴は歩き出した。

 

 数歩進んでから、後ろを振り返る。

 

 エレディトはまだその場にいた。

 

 視線が合う。

 

 千綴はもう一度だけ手を上げ、そのまま前を向いた。

 

 帰り道を歩きながら、少しだけ肩の力が抜けていることに気づく。誘う前はあれだけ考えていたのに、口にしてしまえば、思っていたほど大げさなことではなかった。

 

 前方の信号が青へ変わる。

 

 千綴は歩調を少し速め、そのまま自宅へ向かった。

 

 

 

 

 直嗣の端末に、追加調査の途中経過が届いていた。

 

 最初に開いたのは、新辺周辺で出ている不審人物の情報だった。

 

 千綴から聞いた時点では、写真もなく、軍人らしい人物を見たという書き込みがいくつかあるだけだった。それでも調査をかけたことで、公開情報や地域の書き込み、既存の相談記録まで含めて、似た目撃が拾い直されている。

 

 直嗣は一件ずつ目を通した。

 

 明らかに特徴の違うものは、すでに候補から外されている。

 

 残っているものには、目撃された日時と場所が添えられていた。書き方も見た場所もばらついているが、その中には顔の傷について触れているものもある。

 

 ただし、鮮明な写真はない。

 

 同じ人物を見たと断定できる材料もない。

 

 直嗣は画面を指で送り、並んだ位置情報を確認する。

 

 数が増えたからといって、それだけで一人の人間へ収束するわけではない。

 

 それでも、最初に見た時よりは輪郭が出てきていた。

 

 次の資料を開く。

 

 ブラショヴェアヌ家の親族失踪について、改めて洗い直した結果だった。

 

 近年の失踪記録を中心に、発生時期と場所、その時点で確認できる状況が整理されている。

 

 直嗣はしばらく読み進めたあと、一つの項目で指を止めた。

 

 軍歴を持つ人物。

 

 複数ある記録のうち、一部からそこへ繋がる情報が出ている。

 

 まだ人物の詳細は揃っていない。

 

 各失踪とどう関わっているのかも、確認中のままだ。

 

 直嗣は少しだけ椅子へ背を預けた。

 

 新辺では、軍人らしい人物の目撃が複数残っている。

 

 ブラショヴェアヌ家の失踪側にも、軍歴を持つ人物へ繋がる情報が出てきた。

 

 同じ言葉が、二つの調査に現れた。

 

 だからといって、そこで結び付けることはできない。

 

 軍歴を持つ人間など一人ではない。新辺で見られた人物が本当に軍人なのかも、まだ確認できていない。

 

 共通点が一つ出ただけだった。

 

 直嗣はもう一度、二つの資料を見比べた。

 

 新辺側では、残っている目撃について日時と位置の整理を続ける。顔の傷について触れた情報も、同じ人物を示しているのか確認する。

 

 家系側では、軍歴を持つ人物の所属記録を洗い、除隊後の足取りまで追うことになっている。

 

 そこまで確認してから、直嗣は端末を机へ置いた。

 

 最初に千綴から話を聞いた時より、材料は増えている。

 

 ただ、まだ一本の線にはならない。

 

 今はそれでいい。

 

 二つを別々に追い、人物の情報が揃ったところで照合する。

 

 結論を先に作る必要はなかった。

 

 直嗣は少しして端末を取り直し、追加確認中の項目へ目を戻した。

 

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