空の結び目   作:夕花

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 校門を出る頃には、昼間の暑さも少しだけ和らいでいた。丘の上に建つ校舎を背に坂を下り始めると、傾きかけた日差しが道路脇の塀を長く照らしている。

 

 エレディトは同じクラスの友人と並んで歩いていた。話している内容は取り留めのないもので、片方が何かを言えば、もう片方が返す。それだけの会話だったが、日本へ来たばかりの頃より、言葉を探して黙る時間はずいぶん減っていた。

 

「エレ、それ違うって」

 

「違いますか?」

 

「違う違う。そういう意味じゃない」

 

 笑いながら訂正され、エレディトも少し笑った。まだ知らない言い回しは多い。それでも、分からなければ聞き返せばいいことも、聞き返したくらいで会話が止まるわけではないことも、少しずつ分かってきていた。

 

 坂を下りきる頃には、前後を歩いていた同じ制服の姿も減っていた。交差点を越えるたび、それぞれの帰宅方向へ分かれていき、エレディトたちも途中で大きな通りから一本脇へ入る。

 

 そこだけ、周囲の音が少し遠くなった。

 

 住宅が途切れているわけではない。ただ、道路に面した入口が少なく、通り抜ける車もほとんどない。少し先まで歩けばまた人の多い道へ出るが、その短い区間だけは、下校時でも人影が薄かった。

 

 友人は気にした様子もなく歩き続けていた。エレディトも、この道そのものを意識したことはなかった。

 

 だから、最初に足を緩めたのは友人の方だった。

 

「……なあ、エレ」

 

「はい?」

 

 返事をすると、友人は前を向いたまま、わずかに顎を上げた。

 

「あの人、エレのこと見てない?」

 

 エレディトも視線を向ける。

 

 少し先に、男がいた。

 

 歩いているわけでも、道端で何かをしているわけでもない。進行方向から少し外れた位置に立ち、こちらを見ていた。距離があるため細かな表情までは分からないが、その顔が自分たちの方へ向いていることだけははっきりしていた。

 

「知り合い?」

 

 友人に訊かれ、エレディトは男を見たまま記憶を探った。

 

 知らない。

 

 日本へ来てから会った覚えもなければ、それ以前に見た顔とも思えなかった。何か用があるのかとも考えたが、男は声を掛けるでもなく、ただこちらを見ている。

 

「いえ。知りません」

 

 そう答えて友人の方へ顔を向けた。

 

 直後、重い音がした。

 

 何かを叩いたような、短く鈍い音だった。

 

 エレディトが目を戻した時には、友人の身体が横へ崩れていた。何が起きたのか理解するより先に鞄が舗装へ落ち、続いて膝が折れる。

 

「――っ」

 

 反射的に手を伸ばしたが、支えきれなかった。友人の身体が地面へ倒れ、エレディトはその場にしゃがみかける。

 

 そこで、ようやく男がすぐ近くにいることに気づいた。

 

 さっきまで距離があったはずだった。

 

 どれだけ離れていたのかを正確に測っていたわけではない。それでも、友人へ返事をするために一度視線を外した、その僅かな間に詰められる距離ではなかったように思えた。

 

 男は倒れた友人を見ていない。

 

 視線はエレディトへ向いていた。

 

 エレディトはしゃがみ込む動きを止め、身体を起こした。足元には友人が倒れている。呼び掛けたい。状態も確かめたい。それでも、目の前の男から視線を外すことができなかった。

 

 近くで見ると、男の顔には傷があった。その一点に意識が引かれ、新辺で見かけたという軍人らしい人物の話が浮かぶ。

 

 写真はなく、目撃情報が同じ人物を指しているかも分からない。ただ、その話を聞いた時にも、自分は顔に傷があるという情報へ反応した。

 

 目の前の男がその人物だと確かめる材料はない。それでも、偶然通りかかった誰かだとは思えなかった。

 

 男は何も言わず、友人を倒したあともエレディトだけを見ている。

 

 その事実が、遅れて身体へ入ってきた。

 

 エレディトは一歩だけ後ろへ下がった。肩に掛けていた鞄がずれ、腕へ引っ掛かる。直そうとは思わなかった。

 

 逃げることはできるかもしれない。

 

 けれど、足元には友人がいる。

 

 自分が離れれば、この男が次に何をするのか分からない。そう考えた時点で、背中を向ける選択肢は消えた。

 

 男の重心がわずかに動いた。

 

 エレディトの身体が強張る。何をされるのかは分からない。それでも、次に狙われているのが自分だということだけは分かった。

 

 男が踏み込もうとした、その時だった。

 

「お巡りさん! こっちです!」

 

 大声が響いた。

 

 人気のない道に、必要以上によく通る声だった。

 

 エレディトは反射的にそちらを見る。道の向こうから誰かがこちらへ走ってくる。制服姿が見え、さらに近づいたところで、ようやく顔が分かった。

 

「……ヴァシリオス先輩?」

 

 声に出した直後、エレディトは男へ視線を戻した。

 

 いなかった。

 

 さっきまで数歩先にいたはずの男が、そこから消えている。

 

 エレディトはすぐに周囲へ目を走らせた。道の先、建物の間、角へ続く部分。逃げていく背中すら見えない。

 

「エレディト!」

 

 ヴァシリオスの声が近づいた。

 

 エレディトは一度だけそちらを見てから、もう一度、男が立っていた場所へ目を戻す。

 

 やはり、誰もいない。

 

 ほんの僅かに視線を外しただけだった。

 

 その短さを確かめるように数秒立ち尽くしたあと、エレディトは足元へ視線を落とした。地面には、さっきまで隣を歩いていた友人が倒れている。

 

 今はそちらが先だった。

 

 エレディトはすぐに膝をついた。

 

 

 

 

 友人の肩へ手を伸ばし、呼び掛ける。返事はない。倒れた拍子に頭を打っていないか気になったが、むやみに身体を起こしていいのか分からず、手を止めた。

 

「おい、大丈夫か」

 

 もう一度呼ぶ。今度も、はっきりした反応は返ってこなかった。

 

 そこへヴァシリオスが駆け込んできた。エレディトの横を通り過ぎるようにして倒れている生徒を見下ろし、すぐにしゃがみ込む。

 

「エレディト、こいつ友達?」

 

「はい。同じクラスです」

 

「何された?」

 

 訊かれて、エレディトは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

「殴られました。たぶん、一度だけ」

 

「たぶん?」

 

「見えませんでした」

 

 ヴァシリオスがこちらを見る。その視線には疑問が浮かんでいたが、今は追及しなかった。

 

「分かった。とりあえず救急車呼ぶ」

 

 制服のポケットからスマートフォンを取り出し、すぐに通報する。ヴァシリオスは場所を伝えながら、途中で周囲を見回した。さっきまで男がいた方向にも一度だけ目を向けたが、やはり姿はない。

 

 エレディトは友人のそばから離れず、その声を聞いていた。

 

 ヴァシリオスは電話口へ救急車の手配を求め、続けて状況を伝えていく。高校生が一人倒れていること。男に殴られたらしいこと。今いる場所。聞かれたことへ順番に答える声は普段より少し早かったが、言葉そのものは落ち着いていた。

 

 エレディトはその間も友人のそばに膝をついたまま、男が消えた方へ何度か視線を向けた。

 

 やがて通話が終わり、ヴァシリオスがスマートフォンを下ろす。

 

「エレディト。怪我してないか。何かされてないか」

 

 エレディトは自分の身体へ視線を落とした。腕にも脚にも痛みはない。男は自分へ踏み込もうとしていたが、その前にヴァシリオスの声がした。

 

「大丈夫です」

 

「ほんとに?」

 

「はい」

 

 ヴァシリオスは短く頷いた。

 

 その間にも、エレディトの頭から男の姿は離れなかった。顔の傷、一瞬で詰められた距離、友人を倒したあとにこちらだけを見ていた目。そして、声がした直後にはもういなかったこと。

 

 偶然ではない。

 

 そう考えるには、十分だった。

 

 ヴァシリオスが一度、道の広い方へ目を向ける。

 

「来るって。ちょっと掛かるみたいだけど」

 

「はい」

 

「で」

 

 ヴァシリオスはその場にしゃがんだまま、今度はエレディトを正面から見た。

 

「さっきの誰?」

 

 エレディトは答えなかった。

 

「知り合いじゃないんだよな?」

 

「……はい」

 

「さっきの男、何だったんだ」

 

 答えられないわけではなかった。

 

 自分が何を疑っているのか。新辺で聞いた話と、目の前の男をどう結びつけたのか。その先にあるものまで含めて話そうと思えば、話せる。

 

 けれど、それをヴァシリオスへ説明するには、もっと前から話さなければならないことが多すぎた。

 

 何より、まだ自分でも確かめられていない。

 

「分かりません」

 

 しばらくして、エレディトはそう答えた。

 

 ヴァシリオスが眉を寄せる。

 

「ほんとに?」

 

「……はい」

 

 返事までに間が空いた。

 

 それで何か察したのかもしれない。

 

 ヴァシリオスは少しの間こちらを見ていたが、やがて息を吐いた。

 

「まあ、言いたくないなら今はいいけど」

 

 予想していなかった言葉に、エレディトは顔を上げた。

 

「いいんですか?」

 

「よくはない。目の前で人ぶっ倒れてるし」

 

 ヴァシリオスは倒れている生徒へ視線を戻した。

 

「でも、お前に今ここで無理やり聞いてもしょうがないだろ。警察に聞かれたら、そっちにはちゃんと話せよ」

 

「……はい」

 

「あと、勝手にどっか行くなよ。救急車来るまでここにいるから」

 

 エレディトは頷いた。

 

 その直後、遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。

 

 まだ小さい。けれど、少しずつこちらへ近づいてくる。

 

 ヴァシリオスが立ち上がり、道の広い方へ目を向けた。

 

「俺、あっちで呼んでくる。エレディト、ここ頼む」

 

「はい」

 

 走っていく背中を見送り、エレディトはもう一度友人へ目を落とした。

 

 自分の隣を歩いていただけだった。

 

 それだけで、この人は倒された。

 

 エレディトは膝の上で手を握った。

 

 

 

 

 

 道の入口に救急車の白い車体が見えた。先に走っていったヴァシリオスが戻り、その後ろから救急隊員が機材を持って入ってきた。

 

 エレディトは場所を空けるために立ち上がった。膝をついていたせいで制服のズボンに細かな砂が付いていたが、払う気にはならなかった。

 

「倒れてから、意識は?」

 

 救急隊員に訊かれ、エレディトは首を振った。

 

「呼びました。でも、返事はありませんでした」

 

「何があったか分かる?」

 

「男に殴られました」

 

「何回くらい?」

 

「一回だと思います。……見えなかったので、たぶんです」

 

 救急隊員はそれ以上その場で細かく聞かず、友人の状態を確認し始めた。エレディトは数歩離れたところへ下がり、邪魔にならないように立つ。

 

 やがて友人は担架へ移され、そのまま救急車へ運ばれていった。

 

 エレディトは地面に残っていた鞄へ目を向ける。自分のものと、友人のもの。二つとも拾い上げ、肩と手に分けて持った。

 

「一緒に行くの?」

 

 ヴァシリオスが訊く。

 

「はい。付き添います」

 

「そっか」

 

 エレディトはスマートフォンを取り出した。救急車へ乗る前に、榊家へ連絡を入れておいた方がいい。

 

 友人が怪我をして、病院まで付き添うこと。帰りが少し遅くなること。

 

 必要なことだけを伝え、通話を終える。

 

「じゃあ、気をつけろよ」

 

「はい。今日は、ありがとうございました」

 

「いや。たまたま通っただけだし」

 

「それでもです」

 

 ヴァシリオスは少しだけ目を瞬いたあと、軽く手を上げた。

 

 エレディトは友人の鞄も持ったまま救急車へ乗り込んだ。

 

 

 

 

 病院へ着いてからは、言われた通りに動いた。友人はそのまま処置へ回され、エレディトはしばらく待つことになった。

 

 自分にできることは、もうほとんどなかった。それでも、すぐに帰る気にはなれない。

 

 少し前まで友人は隣を歩いていただけだった。それなのに倒された。男は友人ではなく、自分を見ていた。最初から、ずっと。

 

 その事実だけが、時間が経つほどはっきりしていった。

 

 友人が処置を受けていることを確認し、エレディトはようやく病院を出た。友人の鞄はそのまま病院側へ預け、自分の鞄だけを肩に掛ける。

 

 外へ出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 

 榊家へ向かって歩きながら、エレディトは何度も同じことを考えた。

 

 自分の隣にいた人が巻き込まれた。

 

 そこだけは、考え直しても変わらなかった。

 

 榊家の前まで来ると、エレディトは門の前で一度足を止めた。

 

 短く息を吐き、表情を整える。

 

 それから門を開け、家の中へ入った。

 

 

 

 

 その日は、まっすぐ帰るつもりではなかった。

 

 ヴァシリオスは校門を出たあと、いつもの帰宅方向から少し外れて商店街の方へ向かっていた。急いでいるわけでもなく、特に誰かと待ち合わせているわけでもない。少し寄ってから帰る。それだけのつもりだった。

 

 学校を離れるにつれて、周囲を歩く生徒の数は減っていく。大きな通りから一本外れれば、聞こえるのは車の走行音と、遠くから届く人の声くらいになる。

 

 その途中で、ヴァシリオスは足を止めた。何か聞こえた。

 

 声でも金属音でもない。何かがぶつかったような、短く重い音だった。少しだけ迷ってから音のした方へ視線を向けると、自分が進む道から外れた細い通りの奥へ続いている。

 

 気のせいなら、そのまま通り過ぎればいい。そう思ってもう一度歩き出しかけたところで、今度は人の気配が気になった。

 

 ヴァシリオスは通りの入口まで寄り、奥を覗いた。

 

 最初に見えたのは、地面に倒れている制服姿だった。その近くにもう一人いる。一瞬誰だか分からなかったが、少し横顔が見えたところで気づいた。

 

 エレディトだった。

 

「……は?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 エレディトの少し前に、見覚えのない男がいる。

 

 距離は近い。

 

 何をしているのかまでは分からない。ただ、倒れている生徒がいて、エレディトがいて、そのすぐ近くに知らない男がいる。

 

 しかも、空気が明らかにおかしかった。

 

 エレディトは男の方を向いたまま動かない。普段学校で見る様子とは違う。それだけは、離れたところからでも分かった。

 

 ヴァシリオスは反射的に周囲を見た。警察も大人もいない。いるのは自分だけで、まともに近づいていい状況なのかも分からない。

 

 それでも、何もしないという選択肢はなかった。

 

 一歩踏み出しかけて、止まる。

 

 男の方が先に動いたように見えた。

 

 考えるより早く、ヴァシリオスは声を張った。

 

「お巡りさん! こっちです!」

 

 自分でも、かなり大きな声が出たと思った。

 

 本当に警察がいるわけではない。ただ、そこまで考える余裕もなかった。相手が少しでも止まればいい。逃げるなら、それでもいい。

 

 叫びながら走り出す。

 

 エレディトがこちらを見る。

 

 男の姿は、次の瞬間には見えなくなっていた。

 

 どこへ行った。

 

 ――軍人って、マジだったのかよ。

 

 前に聞いた話が、唐突に頭へ浮かんだ。

 

 ヴァシリオスは走りながら周囲へ目を向けたが、追う気にはならなかった。倒れている生徒が先だった。

 

「エレディト!」

 

 近づくと、エレディトもすぐに膝をついた。

 

 倒れている生徒は同じ学校の制服を着ている。顔に見覚えはない。

 

「エレディト、こいつ友達?」

 

「はい。同じクラスです」

 

 返事はすぐに返ってきた。

 

 ヴァシリオスは倒れている生徒とエレディトを交互に見る。

 

「何された?」

 

「殴られました。たぶん、一度だけ」

 

「たぶん?」

 

「見えませんでした」

 

 見えなかった、という言葉が少し引っ掛かった。

 

 けれど、今聞くことではない。

 

「分かった。とりあえず救急車呼ぶ」

 

 スマートフォンを取り出し、すぐに通報する。

 

 場所を説明し、倒れているのが高校生であることを伝える。殴られたらしいことも話した。聞かれたことへ答えながら、ヴァシリオスは何度か通りの奥へ目を向けた。

 

 男は戻ってこない。

 

 それでも、完全にいなくなったとは思えなかった。

 

 通報を終えたあと、エレディトに怪我がないことだけは確認した。見た限りでは問題なさそうだったが、顔はいつもと違う。驚いているだけではなく、何かを考え続けているように見えた。

 

 そのままにしておく気にもなれず、ヴァシリオスは訊いた。

 

「さっきの誰?」

 

 エレディトは答えなかった。

 

「知り合いじゃないんだよな?」

 

「……はい」

 

「さっきの男、何だったんだ」

 

 また、間が空いた。

 

「分かりません」

 

「ほんとに?」

 

「……はい」

 

 その返事をそのまま信じる気にはなれなかった。何も知らないというより、話すつもりがないように見える。

 

 けれど、無理に聞いたところで話すとも思えない。そもそも、自分が聞き出したところで、あの男をどうにかできるわけでもない。

 

 ヴァシリオスは息を吐いた。

 

「まあ、言いたくないなら今はいいけど」

 

 このあと警察に聞かれた時にはきちんと話すことと、救急車が来るまでは勝手に動かないことだけ伝えた。

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 

 

 

 しばらくして、道の入口に救急車が見えた。

 

 ヴァシリオスは入口まで出て手を上げ、救急隊員を案内する。戻ってくると、エレディトは倒れている友人のそばに残っていた。

 

 救急隊員が到着してからは、状況が一気に動いた。

 

 ヴァシリオスも聞かれた範囲で、自分が見たことだけを説明する。通りを覗いた時には生徒が倒れていて、エレディトと見知らぬ男が近くにいたこと。声を掛けたあと、その男はいなくなっていたこと。

 

 それ以上は分からない。

 

 分からないことを、分かったように話すつもりもなかった。

 

 搬送の準備が進む間、エレディトは自分と友人の鞄を拾い、二つとも持った。付き添っていくつもりらしい。

 

 少し離れたところで電話もしていた。内容までは聞こえない。

 

 やがて二つの鞄を持ったまま救急車へ向かう。

 

「じゃあ、気をつけろよ」

 

「はい。今日は、ありがとうございました」

 

「いや、俺は別に」

 

「それでもです」

 

 ヴァシリオスは少しだけ目を瞬いたあと、軽く手を上げた。

 

 エレディトは友人の鞄も持ったまま救急車へ乗り込んだ。

 

 救急車の扉が閉まる。

 

 少しして、車体が動き出した。

 

 ヴァシリオスはその場に残り、見えなくなるまでそれを見送った。

 

 静かになった道へ視線を戻す。さっきまで、ここに男がいた。

 

 自分が見たのはほんの少しだけで、何をしたのかも、誰なのかも分からない。

 

 ただ、倒れている生徒とエレディト、その前に立つ男を見た瞬間、関わらない方がいいものだと思った。

 

 それでも、エレディトはあそこにいた。

 

 ヴァシリオスはしばらく道の奥を見たあと、ようやく踵を返した。

 

 商店街へ寄る気は、もうなくなっていた。

 

 

 

 

 翌朝、エレディトはいつもと同じように学校へ行く支度をした。制服を着て鞄を持ち、榊家を出る時間も普段と変えなかった。

 

 学校へは行かない。

 

 だからといって、家を出てすぐ鏡峰へ向かうつもりもなかった。登校する生徒の多い時間に制服姿で学校とは違う方向を歩けば、誰かに見られるかもしれない。それも昨日のうちに考えていた。

 

 しばらくは普段と同じ道を進み、人の流れが分かれるところから脇へ入る。学校の近くや生徒の多い場所を避けながら鏡峰方面へ回れば遠回りにはなるが、それでよかった。以前走った時に見た道も、いくつか覚えている。

 

 歩きながら、昨日のことが何度も頭へ戻ってきた。

 

 友人は、ただ隣を歩いていただけだった。それだけで倒された。

 

 あの男が誰なのか、新辺で聞いた話と関係があるのかはまだ確かめられていない。ただ一つ、自分の近くに誰かがいれば、その誰かが巻き込まれるかもしれないということだけは分かっている。

 

 昨日は、そうなった。

 

 エレディトは鞄を持ったまま走り始めた。

 

 鏡峰方面へ向かう道は以前にも走ったことがあり、その時、さらに奥へ入った先に人の気配がほとんどない場所があることも見ていた。

 

 伐採場の木材置き場。

 

 誰かと一緒に来る場所ではない。今は、それでよかった。

 

 やがて周囲から建物が減り、代わりに木々の影が増えていく。舗装された道を外れ、以前通った道筋を辿ると、積まれた木材が見えてきた。

 

 エレディトは足を止めて周囲を見回した。

 

 人はいない。

 

 少なくとも今は、誰かを巻き込む心配をしなくていい。

 

 鞄を地面へ置き、しばらくその場に立った。ここまで来る間、何度も考えていたのは、なぜあの男が自分の前に現れたのかということだった。

 

 新辺で聞いた軍人らしい人物の話。顔の傷。そして昨日、自分のすぐ近くまで来た男。同じ人物だと確かめたわけではないが、偶然として切り離すには重なりすぎている。

 

 考えていくと、さらに前のことへ行き着いた。

 

 ブラショヴェアヌ家では、親族の死亡や行方不明が続いている。そして今、自分には〈継承〉がある。歴代当主が持っていた記憶と経験を受け継ぐ力だ。

 

 なぜ、それが今の自分にあるのか。

 

 そこまで考えれば、親族に起きたことと〈継承〉を完全に別のものとして扱う方が難しかった。もちろん答えを知っているわけではないし、昨日の男が何者なのか、親族に起きたことへ関わっているのかも分からない。

 

 それでも、自分が狙われているのだとすれば。

 

 その理由として、〈継承〉はあまりにも大きい。

 

 エレディトはそこで一度、考えを止めた。

 

 こうして手元にある情報を切り分け、繋がるものと繋がらないものを見ていくことにも、自分一人だけの経験が使われているわけではない。

 

 〈継承〉によって残っているのは出来事の記憶だけではなく、どう考え、どう判断し、どう動いたのかという、歴代当主が積み重ねてきた経験そのものだった。

 

 ならば、昨日の男とまた会うことになっても、何もできないままでいる必要はない。何かを一から覚える必要があるわけでもなかった。

 

 できることは多い。たぶん、自分がまだ確かめていないものまで含めれば、かなり多い。

 

 問題は、それを今の自分がどこまでできるのかだった。歴代の当主ができたことを知っていても、自分の身体が同じように動くとは限らない。

 

 知っていることと、できることは違う。

 

 まず、それを確かめる。

 

 自分の中にあるものを一つずつ試し、今の自分でできるもの、できないもの、できても扱いにくいものを見分けていく。その中から、一番使えるものを選ぶ。一番、自分に合うものを。

 

 エレディトは積まれた木材の向こうへ視線を向けた。

 

 昨日までとは違うことを始める。

 

 そのために、ここへ来た。

 

 まずは、自分が何を持っているのか。

 

 そこからだった。

 

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