木材の匂いが、風の向きに合わせて濃さを変えていた。
乾ききった木の軽い匂いと、その奥に残る青さ。積み上げられた材木の間を風が抜けるたび、空気に混じる濃さだけが少しずつ変わる。
人の声はない。
学校から離れた木材置き場には、規則的に積まれた材木と、その間に残された作業用の空間がある。エレディトは、その開けた場所の中央近くに立っていた。
制服姿のまま、両手には一本の金属棒を持っている。槍ほど長くはなく、身体の前後へ無理なく切り返せる程度の長さだった。握る位置には布が巻かれ、使い続けたそこには掌の汗が染み込んでいる。
エレディトは棒を身体の正面へ置いた。
肩の力を抜いて足を開き、一歩踏み込む。前足が地面を捉えるのとほぼ同時に、棒の先端を正面へ突き出した。
腕だけでは伸ばさない。肩、腰、足を連動させ、身体の中心から前へ押し出す。伸び切る直前で止めると、今度は後ろへ戻さず、その位置から次の動作へ繋いだ。
足を入れ替えながら横へ払い、手元を返して反対側へ切り返す。金属棒が空気を切った。
そこで止める。
棒の先端がわずかに揺れていた。エレディトは呼吸を一つ整え、握った指の感覚を確かめる。
今の払いは少し大きい。
どう動けばよかったのかは分かる。けれど、その「分かる」をそのまま身体へ押しつけることは、もうしなかった。
最初は、それをやった。
〈継承〉の中に残る動きを、現在の自分へそのまま重ねようとした。踏み込みの深さも、腰を切る速さも、武器を返す位置も知っている。どうすれば次の一撃へ最短で繋がるのかも、動く前から分かっていた。
それでも、身体は同じようには動かなかった。
深く踏み込めば、その一撃は強くなる。代わりに次の一歩が遅れる。棒を速く振ろうと腕へ力を入れれば、数回は動かせても長く続かない。重心を低くすれば安定するが、低くしすぎれば方向を変える瞬間に身体が遅れる。
頭では間に合っている。
身体が間に合わない。
だから、一つずつ捨てた。
今の身体では再現できないもの。再現できても、その後が続かないもの。一度なら使えても、繰り返せば動けなくなるもの。
知っているから使うのではない。
使えるものだけを残す。
そのために、ここへ来ていた。
エレディトは棒を構え直した。今度は握る位置を少し狭める。
前へ出る。
突く。
引く。
最初の一連だけは、まだ一つずつ確かめる。横から何かが来ると仮定して棒を斜めに立て、正面から受け止めずに外へ流す。身体も半歩ずらし、空いた側へ棒を返した。
誰もいない空間を先端が横切る。
次は、同じようには区切らない。
正面から来る相手を想定して一歩下がり、追ってきたところへ棒を上げる。受けた力をそのまま止めずに流し、左足を引きながら身体を開く。その姿勢のまま、横を抜けた相手へ棒を短く返して背後へ先端を向けた。
そこで止まる。
息を吐く。
額から落ちた汗が、地面に小さな跡を作った。
肩で息をするほどではない。それでも腕は最初より重く、指先にも疲れが出ている。まだ続けられるが、同じ強さで続けられるわけではない。
最初は、動くたびに一つずつ正しさを確かめていた。
今は違う。一つ目の終わりを二つ目の始まりに使い、二つ目の姿勢をそのまま三つ目へ渡す。どこかで無理が出れば、そこで初めて止めればいい。
そうやって続けた方が、今の身体で何が残るのかが分かる。
〈継承〉の中には、もっと速い動きがある。もっと深く踏み込む動きも、一撃のあとにほとんど間を作らず次へ移る身体の使い方も残っている。
それを知っているからといって、今の自分が同じことをできるわけではない。
歴代の誰かの身体と、自分の身体は同じではない。筋力も、持久力も、手足の長さも、重心も違う。
同じ型をなぞることが目的ではなかった。
必要なのは、残された経験の中から今の自分で成立するものを選び、それを自分の動きへ馴染ませることだ。
エレディトは棒を下ろし、右手を離して指を開閉した。掌には金属の硬さが残っている。布を巻いた部分を握っていても、長く振れば圧力は消えない。指を伸ばすと、ごくわずかに震えた。
休む。
そう判断して、その場で呼吸を整える。
急ぐ必要はあった。だからこそ、限界まで動いて身体を使えなくする意味はない。
呼吸が落ち着くまで待ち、腕の重さが少し引くのを確かめる。指の震えも収まったところで、再び棒を握った。
今度は、動きを止めずに相手を置く。
正面、少し遠い位置から一人が来る。エレディトは棒の先をわずかに下げ、距離が詰まるのを待った。一歩目で正面を外し、横へ半歩。短く払って進路を変え、相手がそのまま来るなら後ろへ逃げずに半身ですれ違う。
背後へ棒を返した時には、次の相手を右側へ置いていた。
振り向きざまに受け流し、足を止めずに正面へ戻る。そこから突き、引き、払い、切り返す。
一つずつ確かめていた動きが、ようやく一続きのものとして身体の中へ収まり始めていた。
棒が空気を切る。靴底が乾いた地面を擦り、呼吸が少しずつ速くなっていく。腕の重さも戻ってくる。それでも、以前のように動作がそこで途切れることはなかった。
そこで、棒の先がわずかに下がった。想定していた位置より低い。
エレディトは動きを止め、腕の角度を確かめる。だが、問題は腕ではなく足だった。左足が少し深く入り、そのせいで身体が前へ流れている。
元の位置へ戻り、今度は踏み込みを浅くする。突いて、引き、払い、切り返すと、棒の先は狙った高さで止まった。
もう一度繰り返す。三度目には、踏み込みの深さを考えなくても足が同じ位置へ入った。
エレディトは止まらず、そのまま次へ繋げた。
知っていた動きが、そのままできるようになったわけではない。
今の自分にできる動きが、分かってきた。
歴代の経験は答えを代わりに出してはくれない。それでも、何を見ればいいのかは残っている。足、間合い、相手の重心、自分の呼吸、次へ動ける余力。その一つずつを確かめ、今の自分が実際に動いた結果を重ねていく。
棒を返した途中で、エレディトの動きが止まった。
右足を半歩引き、棒を身体の前へ置いたまま、呼吸だけを続ける。
何かを見たわけではない。
木材の向こうに人影はなく、木々の間にも動くものは見えない。風が葉を揺らし、枝同士の擦れる音がした。
それだけだった。
エレディトは顔を上げる。
視線を一か所へ固定せず、木々、材木の隙間、開けた場所の端を広く視界へ入れた。
呼吸を一つ。
棒を握る手から余計な力を抜く。
身体はすでに、次の動作へ移れる位置を取っている。
前に一度、会っている。
その時のことが残っていた。距離、立ち方、こちらへ向く視線、動き出す前の身体の置き方。何か一つだけが同じだったわけではない。ただ、周囲の静けさの中に、以前と似たものがある。
エレディトは動かなかった。
数秒待つ。風が通り、葉が鳴り、また静かになった。
自分から探しに行く必要はない。見えていない相手へ近づけば、今確保している空間を自分から捨てることになる。
そのまま待った。
やがて、木々の向こうで影が動いた。
枝の間を抜け、一人の男が姿を現す。
エレディトは棒を下ろさなかった。
男も、すぐには距離を詰めない。
前に会った男だった。
視線が、まずエレディトの手元へ落ちる。金属棒を見て、次に足元、立ち方、重心へ移り、最後に顔へ戻った。
男が口を開いた。
〔前よりいい〕
短い言葉だった。声に揶揄する響きはない。
エレディトは答えなかった。
〔動きも無駄が減った〕
男の視線が、棒を持つ手から足元へ移る。
〔身体がもう少し出来上がっていれば、もっと上まで行ける。惜しいな〕
評価するような口調だった。返事を求めているようには聞こえない。
エレディトは男を見たまま、握る位置をわずかに直した。足の幅も変え、前へも横へも動ける位置へ置き直す。
棒の先を少し持ち上げた。
男は、その変化まで見ていた。
〔そうか〕
一言だけ落とす。
それから、エレディトを正面に捉えた。
〔なら、予定どおり任務を開始する〕
エレディトは答えない。
棒の先端を、さらにわずかに持ち上げた。
男の姿が消えたように見えた。
違う。踏み込んだのだ。
そう理解した時には、すでに距離が半分以上なくなっている。
エレディトは棒を正面へ滑らせた。突くためではない。進路を塞ぐ。
男は止まらない。
棒の先端が胸元へ届くより先に身体をわずかに外へずらし、そのまま間合いへ入る。
右腕が上がり、拳が来る。エレディトは棒を立てた。
硬い音とともに金属へ衝撃が入り、腕まで痺れた。
受け止めたつもりはなかった。それでも力が真正面から残っている。
エレディトは棒を傾けながら半歩退き、拳の軌道を外へ流した。そのまま反対側を返して脇腹へ向ける。
届く。
そう思った瞬間、肘が落ちた。
棒の中ほどを上から押さえられ、先端が沈む。
押し返せば負ける。
エレディトは棒を引き、同時に身体を横へずらした。手が外れたところで距離を取る。
一歩、もう一歩と下がり、そこで止まる。
男の左足が地面を蹴った。
低い。
エレディトは棒を下げる。
脛を狙った蹴りへ斜めに差し込み、靴と金属が触れた瞬間に手首を返す。軌道は外へ逸れたが、衝撃までは消えず、腕へ鈍い重さが残った。
蹴り足が地面へ戻るより先に、男の上体が前へ入った。肩から来る。
エレディトは棒を横にして両手で身体の前へ置いたが、衝突の勢いで足が地面を滑り、背中側へ木材の山が迫った。
下がりすぎた。
右足を外へ出す。
正面をずらす。
男の身体が横を抜ける。
その肩口へ棒を振り下ろす。
片腕が上がった。
棒が前腕へ当たり、止まる。
完全に止められたわけではない。だが、そのわずかな遅れで十分だった。
男が身体を回す。
棒の先が外へ弾かれる。
戻すより先に、腹へ衝撃が入った。
息が消えた。
身体が折れる。
拳ではない。
膝だった。
見えていた。
見えていたのに、間に合わなかった。
エレディトは後ろへ下がり、空気を求める肺に任せて浅く息を吸った。腹の奥が痛む。棒を身体の前へ戻すと、男は追撃せず、一瞬だけその場に留まった。
〔今のは受ける必要がない〕
淡々とした声だった。
〔肩が入った時点で次の膝まで見える。外へ出るなら一歩早く出ろ〕
エレディトは返さない。
言い終わるのとほぼ同時に、男がまた動いた。
今度は、最初より見える。足、肩、腰。どこから動き出したかを追える。
速い。それでも一度目とは違う。
右拳。
エレディトは棒を斜めに当て、触れた瞬間に外へ流す。身体も同じ方向へ半歩ずらした。
今度は力が腕へ残りすぎない。
次は左。
上体を引く。
拳が鼻先を通る。
大きく下がらない。
棒の反対側を持ち上げ、肋へ向ける。
手が下がる。
掴まれる前に引く。
足を入れ替え、斜め後ろへ位置を変える。木材の山を背負わない場所へ戻ると、男もこちらへ向きを変えた。
〔そうだ。後ろを塞ぐな〕
エレディトは答えなかった。
短く息を吐く。
腹へ入った痛みは消えていない。深く吸えば鈍く響き、最初の一撃を受けた右腕にも痺れが残っている。それでも、次に何を見ればいいかは分かり始めていた。
男がまた距離を詰める。
今度は手が開いている。
掴みに来る。
棒か。
腕か。
どちらでもいい。
触れさせない。
エレディトは先端を低くし、伸びてきた手へ突きを合わせた。
男は手を引かず、外側から棒を払う。
エレディトは逆らわない。払われた方向へ棒を回し、その円のまま反対側から側頭部へ戻す。
頭が沈んだ。
棒が髪の上を抜ける。
低くなった身体が懐へ入る。
近い。
引く余裕がない。
エレディトは右手を離し、左手だけで棒を持った。空いた右腕を身体の前へ入れる。
腕が腰へ回る。
投げる。
足を残せば持っていかれる。
重心を落とす。
腰を引く。
片足を外へ。
それでも身体が浮いた。
止めきれない。
地面が近づく。
背中から落ちない。
身体を捻る。
肩。
腕。
順に地面へ触れる。
衝撃。
転がる。
すぐに起きる。
男はもう近い。
エレディトは膝立ちのまま棒を横へ払い、足元を狙った。
一歩引かせる。
初めて、こちらの攻撃で距離が開いた。
その間に立ち上がる。
肩が痛む。呼吸も乱れた。それでも棒は手の中にある。
〔受け身は悪くない。ただ、投げられてから考えるな。掴ませた時点で遅い〕
言っていることは正しい。
だから、次は変える。
男が踏み込んだ。
手が伸びる。
今度は突かない。
届く前に自分から横へ出る。
腕が追ってくる。
そこへ棒を差し込む。
肘の外側。
押すのではなく、進む方向だけを少し変える。
身体が半歩流れる。
空いた側へ回る。
棒を返す。
肩。
防がれる。
分かっていた。
そのまま引き、次の一撃を待たずに距離を取った。
呼吸。
足。
位置。
木材。
逃げ道。
確認する余裕は、まだない。
男は止まらない。
拳は逸らし、蹴りには外へ出る。掴みに来れば先に位置を変え、返した棒を止められれば無理に押さず引く。
同じような攻防が、何度も続いた。
エレディトの呼吸は荒くなり、汗が顎から落ちる。制服の背中が肌へ張りつき、右腕の痺れも肩の痛みも消えていない。腹へ入った膝のせいで、深く息を吸うたび鈍い痛みが返ってくる。
それでも、最初ほど一回ごとの動きに力を使わなくなっていた。
初めは、男が動くたびに大きく避けていた。速さも、どこまで踏み込んでくるのかも、次がどれほど早いのかも分からなかったからだ。
今は違う。
拳ならどこまで届くか。蹴りなら、その一歩先まで。掴みに来る時は肩の入り方が少し違い、投げへ繋ぐなら身体が近づく前に腰の位置が変わる。
何度か見て、受けて、間違えた。その全部が、今の判断へ残っている。
歴代の誰かが知っていた相手ではない。
今、目の前にいる男を、自分自身が知り始めている。
右から入ってくる。
エレディトは棒を上げ、拳が触れる直前に角度を変えた。正面から止めず、必要な分だけ逸らす。身体も半歩だけずらせば、拳は肩の横を抜ける。
続く左も、大きく下がる必要はなかった。首を引くだけで軌道から外れ、空いた脇へ棒を短く返す。
肘が下がって防がれる。そこで無理に押さず棒の先を足元へ変えると、男が足を引いた。
追わず、自分の位置へ戻る。以前より動作が少ないぶん、呼吸も残る。
男がわずかに目を細めた。
〔今のはいい。二手目を当てにいかなかったのも正しい〕
エレディトは何も言わなかった。
次の攻防でも、身体の使い方はさらに小さくなった。右拳を棒の中央で斜めへ流し、続く蹴りは一歩だけ外へ出て避ける。以前なら安全のためにもう一歩下がっていた距離だが、今は必要ないと分かる。
蹴り足が戻る。
その戻りに合わせて踏み込む。
棒を突く。
男が身体をずらした。
先端が服を擦る。
当たらない。
それでも、初めてこちらの攻撃で明確な回避を引き出した。
エレディトは追わなかった。届かなかった棒をすぐ守れる位置へ戻し、男の次の動きを待つ。
受け、逸らし、避け、返す。攻防そのものは止まっていない。
それでも、エレディトの中にはわずかな空白が生まれていた。
何が来るか分からず、一手ごとに身体全部で反応する時間ではない。男の動きが始まるまでに、次の一手を選ぶ余裕がある。
呼吸は苦しく、腕も重い。肩も腹も痛む。体力が戻ったわけではない。
それでも、頭の中から余計なものが少しずつ消えていた。
大きく避ける必要はない。
全部を止める必要もない。
当てることだけを考える必要もない。
必要な分だけ動き、次へ繋がる位置へ戻る。
それだけで消耗は変わる。
男が左足を前へ出した。
エレディトは一度だけそこを見て、すぐに顔へ視線を戻す。肩、腰、手、構えを一つの流れとして捉えながら、次の動きを待った。
棒を握る手から、余計な力が抜けていた。
男が踏み込む。右拳へ棒を斜めに差し込み、触れた瞬間に軌道を外へ流す。身体も半歩だけずらせば、拳は肩の横を抜けた。
続く左は首を引いて外し、そのまま棒を脇腹へ返す。肘で防がれると押し込まず、足元へ軌道を変えた。男が一歩引いても追わず、自分の位置へ戻る。
今では、そこまでの一連を考え込まずに繋げられる。
相手の動きが遅くなったわけではない。自分の身体が急に強くなったわけでもない。何度か受け、避け、失敗したことで、どこまで動けば足りるのかが分かり始めていた。
その分だけ、戦う以外のことへ意識を向ける余地がある。
〔なぜ、僕なんだ〕
男の表情は変わらない。
〔何がだ〕
〔僕を狙う理由だ〕
会話をしていても、エレディトは構えを崩さない。男も同じだった。
〔回収対象だからだ〕
それだけだった。
エレディトは眉を寄せる。
〔それは答えになってない〕
〔俺に必要な答えとしては十分だ〕
言葉が終わる前に、また距離が縮まった。
拳を逸らし、蹴りには半歩外へ出る。返した棒は止められ、そのまま距離が開いた。
エレディトは呼吸を一つ整えた。
〔誰が決めた〕
〔依頼元だ〕
〔誰だ〕
〔知らない〕
あまりにも即答だった。
誤魔化しているようには聞こえない。
〔知らない?〕
〔任務に必要な情報じゃない。対象を連れて帰る。それで足りる〕
男がまた入ってくる。
エレディトは言葉に意識を取られず、肩と腰を見る。掴みに来ると読んで先に外へ出ると、伸びた腕の外側へ棒を差し込んだ。
伸びた肘の外側へ棒を差し込み、押さえつけず進む方向だけを変える。男の身体がわずかに流れたところへ、そのまま棒を脇腹へ返した。
鈍い音がした。浅い。それでも、確かに触れた。
男の身体がわずかに止まる。
エレディトは追撃せず、すぐに棒を戻した。呼吸は荒いが、まだ考えられる。
〔僕の家族については〕
視線が一瞬だけこちらへ戻る。
〔何を聞きたい〕
〔狙われたのは僕だけか〕
右拳を棒で流し、続く左を避ける。その攻防の間にも、男の返答は変わらなかった。
〔親族に同じ系統がいることは聞いている〕
〔それ以上は〕
〔知らない〕
〔行方不明になった人間についても?〕
〔知らない〕
また即答だった。
エレディトは歯を食いしばる。
感情が先に出かけても、足までは止めない。
男が入る。近い。
エレディトは棒を横にして受けたが、重い。腕が沈み、足が滑る。
さっきまでと違う。
エレディトは棒をすぐ傾け、力を逃がしながら距離を取った。正面から残った衝撃が、右腕の痺れを一気に強くする。
男が追ってくる。
速さが変わった。
ほんの少し。
それだけで、さっきまで成立していた間合いが狭くなる。
エレディトは一歩大きく下がった。
〔……変えたな〕
男は否定しなかった。
〔時間を使いすぎた〕
声色は変わらない。
〔確保条件を変更する〕
意味を問い返す必要はなかった。
次の一撃で分かる。
拳を棒で逸らす。同じ動きのはずなのに、腕へ残る衝撃が違った。肩まで突き抜け、棒が手の中で強く震える。
正面から受けてはいけない。
判断はすぐに出る。
次の蹴りには半歩では足りず、一歩外へ出る。靴先が制服の裾を掠めた。
当たれば、ただでは済まない。
伸びてくる腕を外へ避ける。今度はその移動まで追われ、棒を差し込んでも進路を変えきれない。
肩がぶつかった。
身体が流される。
木材の山が視界へ入る。
後ろ。
近い。
横へ逃げる。
棒の先が積まれた木材へ触れ、乾いた音を立てた。
すぐに離れる。
男が入る。拳は受けず身体ごと外へ逃がし、続く蹴りへ棒を斜めに当てて流す。衝撃で腕が痺れ、棒が震えたが、手は離さない。
男の次の一歩が来る。
エレディトは下がった。
そこで一度だけ距離が開く。エレディトは浅く息を吸い、握った棒の位置を戻した。右腕の痺れは強くなっている。肩も腹も痛む。それでも、どこを逸らし、どこで退けばいいかという判断そのものはまだ崩れていなかった。
問題は、その判断に身体がついてくる時間だった。
男がまた踏み込む。
さっきまであった余裕が、少しずつ削られていく。何が来るかは分かる。次も読める。それでも、判断してから身体がそこへ届くまでのわずかな時間が、先ほどより確実に重くなっていた。
右肩が入り、拳が来る。エレディトは棒を上げて触れた瞬間に流した。
動きは合っている。だが腕が追いつかず、軌道が浅い。拳が肩を掠めた。
身体が横へぶれる。
次の左も見えている。避ける方向も分かる。それなのに足が半拍遅れ、拳が頬の横を通った。風圧だけで顔が揺れる。
返した棒も狙いが低い。
男は簡単に避けた。
〔疲れてきたな〕
返事をする余裕は、もうなかった。
距離が開いた一瞬に、エレディトは浅く息を整える。深く吸えば腹が痛む。肩も痛い。右腕の痺れは取れず、指の感覚も少し鈍い。
それでも棒は握れる。
まだ使える。
男が来る。
エレディトは棒を前へ出して牽制した。外へずれる。その動きも、次に入ってくる位置も、もう知っている。
右。
先に身体を向ける。
判断は合っていた。
それでも拳が棒へ届く方が早い。
金属音とともに棒が手の中で跳ねた。握り直した直後には左手が伸び、先端側を押さえられる。
押し返さず、手を滑らせて片手を離し、棒を回して拘束を外す。
成功したはずなのに、その一連を処理している間に男の身体はもう近くまで入っていた。膝を避けようと腰を捻り、腹への直撃だけは外したが、腿へ衝撃が入る。
足が抜け、膝をついた。
立て。
頭ではすぐに出る。身体が一拍遅れた。
男は前にいる。
エレディトは膝立ちのまま棒を横へ払い、足元を狙った。
一歩引かせる。
その隙に立つ。
右脚が重い。
力は入る。
まだ動ける。
だが、さっきと同じではない。
〔まだ動ける〕
称賛でも、確認でもあるような声だった。
エレディトは返さない。
〔なら続ける〕
距離が開いているのは、ほんの数歩分だった。エレディトはその短い間に息を吐き、痺れた指へ力を戻す。腿へ受けた衝撃のせいで右脚は重く、踏み直すたびにわずかな遅れが出る。それでも、まだ立てる。棒も持てる。目の前の動きも追えている。
また来る。拳は逸らしても完全には流しきれず、腕へ衝撃が残る。続く蹴りには痛めた腿が遅れ、靴先が脇腹を掠めた。
身体が回る。それでも倒れずに立て直すが、男はさらに距離を詰めてくる。休む時間がない。
エレディトは下がる。
一歩。
もう一歩。
わずかに間ができたところで、息を吐く。呼吸を整えるには短すぎる。それでも視線だけは周囲へ動かし、木材の位置と左へ抜ける空間を確かめた。
逃げ道は見えている。
問題は、そこまで身体を動かし続けられるかだった。
そこへ動く。
足はまだついてくる。
男の右腕が上がった。
次は大きい。
棒を斜めに構える。
正面で受けるな。
流せ。
分かっている。
拳が来る。接触の瞬間に手首を返し、肩を逃がして身体を外へずらす。
動作は合っている。それでも衝撃は残り、棒が強く鳴った。両腕が沈み、足が滑り、呼吸が詰まる。
男は止まらない。
次の一歩。
距離を取る。
足が重い。
遅い。
もう目の前にいる。
左手。
打撃。
上体を引く。
わずかに足りない。
拳が胸元を掠め、制服が引かれる。
身体が後ろへ傾いた。
体勢が崩れる。
まずい。
次が来る。
右脚が地面を蹴る。
身体が前へ入る。
回避方向は分かる。
左。
そこへ出ればいい。
エレディトは左足へ力を入れた。
動かない。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、足が遅れた。
その間に距離がなくなる。
拳が来る。
避けられない。
棒を上げる。
間に合わない。
「エレディト!」
声が飛んだ。
聞き慣れた日本語。
木々の向こう。
走ってきた誰かの声。
エレディトには反応する余裕がない。
だが、男の動きがほんのわずかに鈍った。
拳が止まったわけではない。視線が大きく逸れたわけでもない。
それでも、これまで一度もなかった遅れだった。
ほんの一瞬。
それだけで足りた。
エレディトは左へ身体を投げた。
拳が頬の横を抜ける。
風が耳を打つ。
地面を踏み直す。
よろめく。
棒を身体の前へ戻す。
呼吸が乱れる。
視界の端。
木材の向こうに、制服姿の少女がいる。
見間違えるはずもない。
千綴だった。