「来るな!」
エレディトの声が飛んだ。
千綴は足を止めた。
名前を呼んだ直後だった。
木材の積まれた広い場所。その中央近くにエレディトがいて、その向かいに一人の男がいる。
見つけた。
そう思った安心より先に、目の前の光景が身体を強張らせた。
エレディトは金属の棒を構えている。
制服は汚れ、呼吸も荒い。立ってはいる。けれど、ただ立っているだけではないことくらい、千綴にも分かった。
男の視線がこちらを向いた。
それだけだった。
なのに、背中が冷えた。
「千綴!」
エレディトがもう一度叫ぶ。
逃げなければ。頭ではそう思い、来た道へ戻ろうと身体を向けた。
その瞬間、男が動いた。
速い。
何をしたのか追えないまま、さっきまでエレディトの前にいたはずの男との距離が一気に縮まる。こちらへ――自分へ向かっている。
千綴は息を呑み、走り出した。
間に合わない。
そう思うより先に、人影が割り込んだ。
エレディトだった。
金属音が響いた。男の腕とエレディトの棒がぶつかったように見えた直後、エレディトの身体が横へ流れる。
それでも倒れず、棒を戻して次の動きへ繋いだ。拳と棒、踏み込みが交錯し、二人は離れてはまた距離を詰める。
千綴には、一つ一つを追い切れなかった。
ただ、エレディトがずっと自分と男の間にいることだけは分かった。
「下がって!」
エレディトが叫ぶ。
千綴は一歩、もう一歩と後ろへ下がった。もっと離れなければならないのに、視線がエレディトから外れない。
男が右へ回れば、エレディトも動く。左へずれれば、また前へ出て、千綴との間へ戻ってくる。
何度か繰り返されて、ようやく分かった。
自分を庇っている。
男の視線も何度もこちらへ向いていた。そのたびにエレディトは、本来なら別の方向へ避けられそうな場面でも千綴の側へ戻ってくる。男もそれを分かったうえで動いているように見えた。
胸の奥が冷たくなる。
自分がいるからだ。
千綴が来たから、エレディトは動き方を変えさせられている。
「逃げて」
エレディトの声がした。
「できるだけ遠くへ」
分かっている。そう返そうとしても声が出ず、代わりに足を動かした。男からも、エレディトからも離れる。それでいいはずだった。
けれど、男の顔がこちらへ向いた。
次の瞬間、また距離が縮まる。
今度は分かった。
狙われている。
千綴はさっきより速く走った。それでも男の方が速い。
横からエレディトが入り、棒を男の腕へ当てて軌道をずらす。男は止まらず、さらに身体を寄せてくるが、エレディトも押されながら千綴の前を退かなかった。
「下がって!」
「分かってる!」
今度は声が出た。
千綴はさらに後ろへ下がる。
でも、何歩下がればいいのか分からない。
どこまで行けば安全なのかも分からない。
ただ遠ざかる。
男がエレディトへ向き直り、拳を伸ばす。エレディトは棒を斜めに入れて受け流そうとするが、身体が大きく揺れた。そのまま次の攻撃が続き、千綴には一つずつ追うこともできない。
それでも、見ているうちに分かってくることがあった。
エレディトの動きが、少しずつ遅くなっている。最初から余裕があったようには見えなかったが、今はさらに苦しそうだった。
男が動くたび、一歩遅れて追い、千綴の前へ戻る。棒を出して押され、それでもまた戻ってくる。
その繰り返し。
私がいるから。
千綴は唇を噛んだ。探して、見つけて、名前を呼んだ。その結果、自分は守られているだけだった。
男がまたこちらを見る。
今度はエレディトもすぐに動いた。
けれど。
遅い。
千綴にも、それが分かった。
男がこちらへ向かい、エレディトが追う。だが、その距離はさっきまでよりわずかに遠い。
千綴は逃げようと身体を向けた。来た道へ戻ろうとして、足が止まりかける。
違う。そちらではない。
理由は分からない。男はもう近い。怖くて、考える時間もない。ただ、ここにいたくないという感覚と一緒に、右へ動けという思いだけが浮かんだ。
千綴は右へ半歩出ながら身体を捻った。伸びてきた男の手が肩のすぐ横を通り、制服を掠めて身体がよろめく。
「っ……!」
倒れそうになる。
その前に金属音がした。
エレディトが追いついていた。
棒が男の腕を外へ押しやる。
千綴の前へ入る。
距離が開く。
千綴はよろめきながら立て直した。
心臓がうるさく、息も上がっている。
今のは避けたのか。いや、肩を掠めている。それでも、さっきまでならもっとまともに捕まっていたかもしれない。
「千綴」
エレディトの声。
「今の……」
「分からない」
千綴は息を整えながら答えた。
「でも、ここにいたら駄目だって思った」
エレディトは振り返らず、男から目を離さないまま棒を構えた。再び男が動き、エレディトが迎える。
千綴は二人を見た。今度は、自分も動かなければならない。
逃げ切れなくても、エレディトが間に入るまでの時間くらいは作る。
男がエレディトへ踏み込む。
拳。
エレディトが棒で逸らす。
続く動きは見えない。
ただ、男の身体がこちら側へ流れた。
胸の奥がざわついた。ここではない。
千綴は一歩、さらにもう一歩下がる。その直後に男の視線がこちらへ向き、距離を詰めてきた。
エレディトが間へ入る。今度はさっきより近い位置で間に合い、棒と腕がぶつかって男の進路がずれた。
千綴はさらに離れながら考える。今のも、たまたまなのか。まだ分からない。
次。
男とエレディトの攻防が続く。
千綴は二人を見ながら、自分の身体に意識を向けた。
男の攻撃が読めるわけではない。
それでも時々、ここにいたくない、今動いた方がいいという感覚だけが浮かぶ。
道が分かったわけではない。
ただ、こちらへ進む方が自然だと思えた。
今の感覚も、それに近い。
考えた瞬間、また嫌な感じがした。
左。
千綴が先にそちらへ動くと、男の視線が追い、すぐに踏み込んでくる。完全には離れられないほど速い。それでもエレディトが間へ入った時には、必要な移動距離が短くなっていた。
棒が男の腕を外へ流し、その間に千綴はさらに下がった。
助かった。
また。
自分だけでは避け切れていない。
でも、さっきよりエレディトが動く距離が短かった。
そのことが分かった。
千綴は息を吐いた。
できる。全部を避ける必要はない。自分で少し動いて、エレディトが間に入るまでの距離を減らせばいい。
また男が動く。千綴はエレディトの棒、男の肩や足を追った。何を見ればいいのかは分からない。それでも見続け、胸に違和感が浮かんだら動く。
それを何度か繰り返した。
一度は遅れた。
男が近づいてから動き、制服の袖を掠められた。
エレディトが割り込んだ。
別の一度は、動く方向を間違えた。
エレディトが無理にこちらへ回り込み、男の一撃を棒で受けた。
金属が大きく鳴った。
エレディトの身体が揺れた。
「ごめん」
思わず言った。
「いいから下がって」
短い返事。
責める声ではない。
それが余計に苦しかった。
千綴は歯を食いしばる。
間違えればエレディトに負担が行く。だが、動かなければもっと負担になる。
なら、やるしかない。
男とエレディト、その間を見る。まだ分からない。それでも、分からないまま拾える何かはある。
エレディトが男の拳を流す。
男が身体をずらす。
その瞬間。
胸の奥がざらついた。
千綴は先に一歩動いた。
男がこちらへ向きを変える。
やっぱり。
さらに下がる。
エレディトが横から入る。
今度は、間に合った。
余裕があるわけではない。
それでも、さっきのように身体ごとぶつかって止める必要はなかった。
棒を差し込み、男の腕を流す。
そのままエレディトも位置を戻す。
千綴はそれを見た。
少しだけ。
ほんの少しだけ、違う。
「エレディト」
呼ぶ。
返事はない。
男から目を離していない。
「私のことは大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「でも、動ける」
それ以上言う前に、男が動いた。
会話はそこで切れた。
エレディトが前へ出る。
千綴も構えるように足を開いた。
戦えるわけじゃない。
そんなことは分かっている。
殴れるわけでもない。
あの速さについていけるわけでもない。
ただ。
ここにいたら駄目だと思ったら、動く。
それだけ。
男が正面からエレディトへ入り、棒が鳴る。続いて身体が横へ流れた瞬間、嫌な感覚が来た。
千綴は下がる。男の視線が追い、こちらへ踏み込んでくるが、さらに一歩動いたところへエレディトが間へ入った。伸びた腕は棒で外れ、千綴の肩までは届かない。
次は遅れた。男が先に距離を詰め、逃げようとしても足が追いつかない。エレディトが横から棒を差し込み、どうにか間に入った。
やはり全部は無理だ。そもそも本当に分かっているのかさえ怪しく、身体もついてこない。それでも、致命的な位置から少し外れることはできる。
何度か。
少しずつ。
エレディトが全部を塞がなくても済む場面が増えていく。
千綴には、それが嬉しいというより、必死だった。
自分が一度でも止まれば、またエレディトが無理をする。
だから、見る。感じたら、動く。
男がエレディトへ向かう間は止まり、横へずれた瞬間に胸がざわつけば動く。エレディトも回り、男が追えばさらに下がる。
その繰り返しだった。
どれくらい続いたのか分からない。
長く感じる。
でも、きっとそれほど経っていない。
息が苦しい。
走ってきたせいだけではない。
怖い。
男の視線がこちらへ向くだけで身体が固まりそうになる。
それでも足を動かす。
エレディトの呼吸も、さっきより荒く聞こえた。
棒がぶつかる音が増えている。
男の攻撃を外へ流しても、エレディトの身体が大きく揺れる。
千綴が先に動いても、間へ入る一歩が遅れる。
少しずつ。
また限界が近づいている。
そう思った。
男が正面へ入り、エレディトの上げた棒を大きく弾いた。身体が横へ流れ、千綴との間が二歩ほど開く。
男がこちらを見た瞬間、嫌な感覚が一気に強まった。
来る。
千綴は左へ身体を向けて走った。方向は合っている。そう思うのに、それだけでは足りない。
男が近い。
エレディトも追っている。
遠い。
間に合わない。
千綴はさらに足を動かす。
身体が重い。
男の腕が上がる。
怖い。
避ける。
どこへ。
分からない。
ただ、ここにいたら駄目だ。
右へ。
違う。
左。
足がもつれる。
エレディトの声がした。
聞き取れない。
男がもう目の前にいる。
その時だった。
男の視線が、千綴から外れた。
ほんの一瞬。
何が起きたのか分からない。
男は攻撃へ入るはずだった身体を途中で止めるように捻り、横へ大きく跳んだ。
千綴は反射的に身を竦める。
直後。
男がいた場所を、何かが通り抜けた。
空気が鳴る。
地面が削れる。
千綴は振り向いた。
木材置き場の端。
一人の男が立っている。
見覚えがある。
電話の向こうにいたはずの人。
「朝倉さん……!」
声が漏れた。
朝倉直嗣が、そこにいた。
直嗣は一度だけこちらへ視線を向けた。
「無事か」
「はい」
「下がれ」
それだけだった。
直嗣はすぐに男へ向き直る。
両手にはトンファーがある。
千綴は後ろへ下がった。
男も追ってこない。
意識が完全に直嗣へ移っている。
エレディトは少し横へ位置を変え、まだ棒を手放していない。
直嗣が男を見る。
〔ライカー・スレイド、で合ってるか〕
英語だった。
男の目がわずかに細くなる。
〔その名前をどこで知った〕
〔調べた〕
直嗣は短く返す。
〔顔の傷まで一致してる。本人確認としては十分だ〕
男は少し黙った。
〔古い名前だ〕
〔否定はしないんだな〕
〔ライカー・スレイドなら、もう死んだ〕
千綴は息を止めた。
〔じゃあ今は何だ〕
〔亡霊とでも思ってくれ〕
直嗣が肩をわずかに回す。
〔そうか〕
次の瞬間、直嗣が踏み込んだ。
走ったトンファーを男が腕で受け、鈍い音が鳴る。返した一撃は外され、続く蹴りを片方で流しながら、もう片方を男の脇へ差し込む。男は身体を捻って避け、そのまま返した。
直嗣が受け、身体を押し戻される。
千綴には、最初から分かった。
直嗣でも押されている。
エレディトが横から棒を入れると、男はそちらへ腕を向けて払う。その隙に直嗣が入り、男が避ければエレディトは追わずに戻り、また直嗣が前へ出た。
二人で一人を攻めている。それでも男は崩れない。直嗣を正面に置きながら、エレディトが入るたびに身体の向きを切り替え、どちらの攻撃も外して返してくる。
休む間がない。それでも、まだ男の方が速い。
均衡しているように見えた。
男が一歩下がった。
初めて、自分から距離を取る。
右手が腰へ動いた。
千綴は何をするのか分からなかった。
次の瞬間、短い刃が見えた。
ナイフ。
長くはない。
けれど、ただの小さな刃物には見えない。
厚みのある刃が、男の手の中で低く構えられる。
直嗣の姿勢が少し変わった。
エレディトも棒の先を下げる。
男が踏み込み、刃が走った。直嗣のトンファーが受けると甲高い音が鳴り、流された刃はすぐ手首を返してもう一度襲う。反対側で受けた直嗣が蹴りを外すと、横からエレディトの棒が入った。
男はそれをナイフで払い、鋭い金属音を残して刃を返す。エレディトが引いたところへ直嗣が前へ入り、再びトンファーで受けた。
千綴には、さっきより危険になったことしか分からない。
刃がある。
触れれば終わる。
それでも直嗣は下がらない。
最初は、ナイフが来るたびにトンファーで受けていた。何度も金属音が鳴る。
けれど、攻防を重ねるうちに直嗣の動きが変わった。
受ける位置が小さくなる。
トンファー全体で止めていた刃を、今度は端で触れるだけで外へ流す。
次には、刃が来る前に身体が半歩ずれている。
ナイフが空を切る。
直嗣はそのまま懐へ入り、トンファーを男の腕へ向ける。男が避けた先へエレディトが棒を入れ、振り向いた男がナイフで受ける。
また金属音が鳴った。
今度は、男の動きが止まらない。
刃を滑らせる。
棒の一点へ。
甲高い音がした。
棒の先が落ちた。
千綴は、一瞬何が起きたのか分からなかった。
エレディトの手には、短くなった棒が残っている。
折れたのではない。
切れていた。
「……え」
声が漏れる。
エレディトも一瞬だけ落ちた先端を見る。
男はもう動いている。
直嗣が間へ入り、ナイフとトンファーが火花のような音を立てる。
エレディトは切断された棒を捨てた。そこから動き方を変え、正面には入らず、男が直嗣へ向いた時だけ横へ出てすぐ離れる。ナイフが自分へ向けば受けずに避け、直嗣が前へ戻れば、男の身体がそちらへ向いた隙にまた入る。
千綴には、二人が役割を分けたように見えた。
直嗣が正面、エレディトが横。一方へ刃を向ければ、もう一方が入る。
男には休む間がない。
直嗣の動きは、さらに変わっていった。
速くなったようには見えない。ただ、無駄が減っている。
大きかった踏み込みは必要な分だけになり、刃もトンファー全体で止めず、触れるだけで軌道を変える。次には刃が来る場所から先に身体がずれ、男が避ける位置へ次の一撃が置かれている。
その先にはエレディトがいる。男がそちらへ向けば、また直嗣が入る。
男の動きは忙しくなる。それでもまだ崩れない。
ナイフが走り、片方のトンファーが受けた。鋭い音とともに表面へ線が入り、次の攻防で同じ場所へ刃が触れると、その傷が深くなる。
男がさらに踏み込み、直嗣がもう片方で受ける。横から入ったエレディトへ男が刃を返し、それを避けた隙へ直嗣が入り直す。
また刃がトンファーへ触れた。
次の瞬間、一本が切れた。
先端が地面へ落ちる。
千綴はまた息を呑んだ。
直嗣は一瞬だけ手元を見て、切れたトンファーを捨てる。残った一本を構えた。
不利になったはずだった。
それでも、直嗣の動きは戦い始めた時より良くなっていた。
男のナイフが来る。直嗣はもう正面から受けず、身体を半歩ずらして刃を外し、残ったトンファーで手首へ触れるだけに留める。そのまま一歩入り、男が避けた方向へ先に身体を回した。
トンファーが肩へ向かう。
男が腕で受ける。
そこへエレディトが横から入る。
男が向き直れば、直嗣がすぐに追う。
一本失ったはずなのに、攻撃は途切れない。むしろ、二本を使っていた頃より動きが簡潔になり、必要なものだけが残っているように見えた。
男が直嗣へ斬り込む。直嗣は半歩だけ外し、胸元を抜けた刃の腕をトンファーで押す。身体が流れたところへエレディトが入り、男が振り向いてナイフを向ける。
エレディトが避けた時には、直嗣がもう次の位置にいた。男はどうにか刃を戻して間に合わせる。
直嗣が前へ出れば、男の刃がそちらへ返る。
その背後をエレディトが取る。
男が向き直れば、今度は直嗣がもう次の位置へ入っている。
動きを止める余裕がない。
千綴は、そのことに気づいた。
直嗣へ刃を返した直後には、もうエレディトへ身体を向ける。エレディトが離れれば、今度は正面から直嗣が入る。
男は一度として、同じ方向を向いたままでいられなかった。
最初は、それでも滑らかだった。刃を返し、足を運び、向きを変える。その一連に途切れはなく、二人が交互に入っても間に合わせていた。
けれど、少しずつ引っかかりが増える。
直嗣の攻撃を外した直後、右腕がほんのわずかに遅れた。次には元へ戻る。今度は左足が踏み込みで沈み、また次には何事もなかったように動く。
判断が鈍ったようには見えない。視線は次の相手を追っている。刃をどこへ返すかも迷っていない。
それでも、身体だけが時々置いていかれる。
直嗣も、その変化を見逃していなかった。
攻め方が変わる。無理に一撃を通そうとせず、男が右を向けば左へ回し、前へ出れば横へずらす。ナイフを振らせ、足を運ばせ、身体の向きを変えさせる。
そこへエレディトが入る。
男がそちらへ向けば、また直嗣が前へ出る。
繰り返すほど、二人の動きは噛み合っていった。
直嗣の一撃を避けた男が、すぐにエレディトへ刃を返す。動き出しそのものは速い。どこへ向けばいいのかも迷っていない。
それなのに、腕だけがわずかに遅れた。
次には足だった。踏み込もうとした左足が、一瞬だけ地面へ残る。ほんのわずかな遅れで、次の動作ではもう元へ戻っていた。
男の額には汗が浮かび、呼吸も少しだけ大きくなっている。それでもナイフを握る手は緩まない。
千綴には理由までは分からない。ただ、さっきまで途切れなく繋がっていた男の身体に、小さな引っかかりが増えている。
直嗣が一度だけ距離を取った。
男も止まる。
エレディトは横。
三人の間に、短い静けさができる。
直嗣が息を吐く。
〔きつそうだな〕
〔問題ない〕
〔そう見えないけどな〕
男は答えない。
ナイフを構える。
直嗣も残ったトンファーを上げる。
エレディトは少し姿勢を落とした。
男が先に直嗣へ刃を走らせる。直嗣は外しながらトンファーで手首へ触れ、返された刃にも下がらず懐へ入る。拳を避けられても、次の刃を受けずに外してさらに前へ出た。
男も返す。
千綴には、最初と同じ相手には見えなかった。
直嗣の動きから、余計なものがほとんど消えている。
速さそのものではない。
迷いがない。
次へ繋がらない動きがない。
男が避ける場所へ先に身体が動く。
そこから逃げようとすれば、エレディトがいる。
男がエレディトへ向く。
直嗣が戻る。
攻防を重ねるたび、男の身体がわずかに追いつかなくなる。その小さな遅れが、少しずつ増えていった。
直嗣が大きく踏み込んだ。
男がナイフを向ける。
直嗣は外す。
残ったトンファーが腕へ触れた。
男の身体がそちらへ向く。
エレディトが動いた。
男も気づく。
視線がエレディトへ向く。
刃を戻す。
戻らない。
直嗣がもう一度前へ出る。
男の身体がそちらへ引かれる。
その一瞬に、エレディトは懐へ入った。
何度も見てきた距離だった。どこまで入れば届くのか、どこからなら返されるのか。それを確かめる時間は、もう必要なかった。
その一歩で懐へ入り、身体の中心へ拳を打ち込む。
深く。
男の身体が、初めて完全に止まった。
音は大きくなかった。
それでも、今までと違った。
ナイフを握った右手が下がる。
足が動かない。
直嗣が一歩引く。
エレディトも離れる。
男は立ったまま動かない。
一秒、二秒。
右腕がわずかに持ち上がるが、途中で止まる。左足も踏み出そうとして、そのまま地面に残った。
やがて身体が傾き、膝が地面につく。片手をついて立ち上がろうとするが、腕に力を込めても身体は上がらない。
ナイフが手から落ちた。
乾いた音。
エレディトは動かない。
直嗣も。
男の呼吸だけが聞こえる。
やがて、支えていた腕が崩れた。
身体が地面へ落ちる。
動かない。
千綴は息を止めたまま、その姿を見ていた。
直嗣が男から目を離さず、ゆっくり近づく。
エレディトは少し離れた位置にいる。
直嗣が男のそばで止まる。
しばらく確認する。
それから、ようやく肩の力を抜いた。
「終わりだ」
千綴はその言葉を聞いて、初めて息を吐いた。
スマートフォンが震えた。
巴は画面を見て、表示された名前に少しだけ眉を寄せた。千綴から電話が来るのは、これで二度目だった。
少し前には、エレディトを最近学校で見かけないと聞かれた。家では毎朝いつも通り出ていると答え、帰ってきたら本人に聞こうと思っていたところだった。
「もしもし」
『店長』
声が硬い。
巴はすぐに表情を変えた。
「どうした?」
『エレディト、見つかりました』
「……うん」
『今、病院にいます』
巴の手に力が入る。
「怪我した?」
『はい。でも、命に関わるような状態じゃないです』
「分かった」
詳しいことを聞きかけて、やめた。今ここで全部聞く必要はない。
「どこの病院?」
千綴が場所を答える。
「今から行く」
『はい』
「千綴」
『はい』
「そこにいるんだよね」
『います』
「分かった」
通話を切ると、画面が暗くなった。
見つかった。命に関わる状態でもない。そこまでは安心していい。
それでも、怪我をして病院にいるという事実は残った。
巴はスマートフォンをしまい、そのまま病院へ向かった。
教えられた場所まで来ると、廊下の先にいた千綴がこちらへ気づいた。
「店長」
「千綴」
巴は足を止めず、その向こうを見る。
処置を終えたらしいエレディトがいた。腕や顔には傷が残り、制服もひどく汚れている。その近くには朝倉直嗣もいた。
千綴、朝倉、そしてこの状態のエレディト。
三人を見た瞬間、ばらばらだったものが繋がった。
学校では最近見かけない。家からは毎朝、制服を着て鞄を持って出ていた。その前には、友人が怪我をして病院へ付き添うと連絡があった。
今度はエレディト本人が怪我をして、千綴と朝倉と一緒に病院にいる。
何かあったのかと聞く必要はなかった。
巴はエレディトの前まで歩き、まず顔を見た。次に腕、座っている姿勢。処置は済んでいても、いつも通りだとは到底言えない。
「……入院は?」
「必要ないそうです」
「そう」
それを聞いて、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
けれど、聞かなければならないことは残っている。
「学校」
エレディトの表情が止まる。
「行ってなかったんだよね」
「……はい」
そこから先は、短く聞けば十分だった。
学校へ行かず、一人で訓練をしていたらしい。
巴は改めて、目の前に残った傷を見た。
「なんで黙ってたの」
エレディトはすぐには答えなかった。
「……強くなる必要があったからです」
そのために学校を休み、巴にも何も言わなかった。
理由は分かった。
納得できるかは別だった。
「強くなりたいのは分かった」
エレディトが顔を上げる。
「でも、何も言わずにいなくなるのは違うでしょ」
「……はい」
「毎朝、学校に行ってると思ってた。帰ってくると思ってた。だから私は、千綴から電話が来るまで何も知らなかった」
「すみません」
「謝るのは後でいい」
巴は声を荒らげなかった。今さら怒鳴ったところで、この傷が消えるわけでもない。
「次からは、どこに行くかくらい言って」
「はい」
「全部話せとは言わない。でも、学校に行くふりして、どこにいるか分からなくなるのはやめて」
少し間があった。
「……はい」
今度の返事は、さっきよりはっきりしていた。
巴はそれ以上追及しなかった。
今日、何があったのか。この傷はどうしたのか。なぜ朝倉までいるのか。聞くことはまだある。
けれど、今ここですべてを聞く必要はない。
エレディトは目の前にいる。治療も終わっている。入院も必要ない。
まずはそれでいい。
「帰れるんだよね」
「はい」
「じゃあ帰ろう。話は家で聞く」
「……はい」
巴はそこで千綴へ向き直った。
「千綴、ありがとう」
「いえ……」
千綴はそう言いながら、一度エレディトを見る。
「見つけてくれたんでしょ。だったら、ありがとうでいいよ」
千綴は少しだけ黙ってから頷いた。
「はい」
巴は朝倉にも顔を向ける。
「朝倉さんも、ありがとうございました」
「仕事です」
短い返事だった。
巴もそれ以上は聞かなかった。
もう一度エレディトを見る。
「立てる?」
「はい」
エレディトが立ち上がる。動きは鈍い。
巴は何も言わず、その隣へ立った。
「無理すんなよ」
「はい」
それだけ返ってくる。
巴は歩き出す。
少し遅れて、エレディトも隣を歩いた。