25-1
朝の坂道を、千綴は一人で上っていた。
住宅の間を抜ける坂は、学校へ近づくほど少しずつ傾斜が強くなる。歩くたび、靴底がアスファルトを捉える感触が返ってくる。
朝の空気はまだ涼しかった。
日中はまだ夏の暑さが残っていて、日差しを受ければ汗ばむほどだった。けれど朝と夕方だけは、少しずつ涼しさを取り戻しつつある。二学期に入ってから、そんな中途半端な季節が続いていた。
千綴は一定の歩幅を保ったまま、坂の先へ目を向ける。今日も授業があり、生徒会があり、放課後になればまた一日が終わる。そんな学校生活のことをぼんやり考えながら歩いていると、ふと視線が上へ向いた。
建物の向こうに、青い空が見える。以前にも同じように空を見たことがあるはずなのに、今は少しだけ違って見えた。
何が違うのか。
千綴は歩調を緩めて考えようとしたが、これといった答えは見つからない。深く追うほどのことでもない気がして、視線を戻し、そのまま坂を上っていった。
「ちづる」
後ろから声がした。
千綴が振り返る。
坂の下から、綾乃がこちらへ歩いてきていた。
「おはよう、綾乃」
「おはよう」
綾乃が小走りに追いつき、千綴の隣に並ぶ。そのまま二人で坂を上りはじめた。
「そういえば、そろそろ体育祭の種目、参加決めなきゃだよね」
「今日、決めるんだよね」
「あ、そうだった」
綾乃の声は、いつもより少しだけ張りがあった。
千綴はそれを横目に見る。
「綾乃、なんか気合入ってない?」
「そう?」
「そう」
「気のせいだよ」
綾乃はそう言って前を向いたが、口元はわずかに緩んでいた。
千綴は何も言わずに歩き続ける。
二人の前に、学校へ続く坂道が伸びていた。
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。
窓から差し込む朝の光は、夏よりもいくらか白っぽく見えた。教室の空気には、まだ昇降口を上ってきた熱がわずかに残っている。
登校してきた生徒たちの声が、あちこちから重なって聞こえてくる。千綴は自分の席へ向かい、鞄を机の横へ置いた。前の席では綾乃が机の上を整え、少し離れたところではヴァシリオスと環が話している。ヴァシリオスは身を乗り出すようにしていた。
「俺はやっぱりリレーだな」
「バカ、気が早いね」
環が机に頬杖をついたまま、欠伸交じりに返した。
「気が早いくらいでちょうどいい」
「私はパン食い競争がいい」
「猫、それも食べ物かよ」
ヴァシリオスがからかうように言う。
「食べられるし、楽そうだし」
環は特に悪びれる様子もなく答える。
千綴は自分の席に着き、今日決める種目のことを考えながら鞄の中身を机へしまった。走る種目なら、自分にもできる。
教室では、まだあちこちで種目の話が続いていた。誰がどの種目に出るか、そんな話し声が机のあいだから聞こえてくる。
やがて予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれ自分の席へ戻っていく。少し遅れて教室の前の扉が開き、山田先生が入ってくると、それまで続いていた話し声も少しずつ小さくなった。
「おはよう」
教壇に立つと、出席簿を開いた。
「じゃあ、出欠を取るぞ」
一人ずつ名前が呼ばれていく。
千綴は前を向いたまま、自分の名前が呼ばれるのを待った。
出欠確認が終わると、出席簿を閉じて教室を見回した。
「体育祭も近いからな」
「体調管理には気をつけるように。無理をして体調を崩したら元も子もないからな」
何人かが頷く。
「具合が悪いときは、ちゃんと休むこと。特に睡眠はしっかり取っておけ」
「はい」
返事がいくつか返る。
「それじゃ、今日も一日頑張ってくれ」
そう言って教壇を離れる。
教室には、再び生徒たちの声が戻ってきた。
授業開始のチャイムが鳴ってしばらくして、教室の前の扉が開き、山田先生が入ってくる。
「じゃあ、予定通り、体育祭の種目参加を決めるぞ」
教室が軽くざわついた。
黒板に種目名を書き並べていく。チョークの音が、いくつも重なる話し声の合間に響いた。
種目決めは、思っていたよりも早く進んだ。参加できる種目を確認しながら、黒板へ次々と名前が書き足されていく。
「百メートル、誰か出る?」
問いかけに声が上がり、千綴も手を挙げた。
「はい」
その名前が黒板に書き足される。
前の席から振り返った綾乃が、当然というように小さく頷いた。
次に、学年対抗リレーの話になる。
「これ、誰か出る?」
少しの沈黙のあと、ヴァシリオスが手を挙げた。
「俺が出る」
「バカ、それに出るんだ」
環がヴァシリオスへ目を向けた。
「当然だろう」
「へえ」
環はそれ以上何も言わず、面白そうにヴァシリオスを見た。
次は変わり種目の確認になり、「パン食い競争、誰か出る?」と聞かれると、環が手を挙げた。
「はい」
「西園寺さん、そこなんだ」
綾乃が振り返って言う。
「いいじゃん」
「食べられるし」
「競技だからね、それ」
「知ってる」
環は平然としていた。
二人三脚と障害物競走にも、少しずつ名前が挙がっていった。誰かが手を挙げるたび、先生が黒板の該当箇所へ短く書き足していく。
千綴はそれを黒板越しに眺めながら、誰がどこに参加するのかをぼんやり把握していく。
借り物・借り人競争には、綾乃が手を挙げた。
「綾乃、それ選ぶんだ」
「だって、何を借りることになるか分からないの、面白そうじゃない?」
「そこ?」
「そこ」
綾乃は即答した。
「最後、綱引きダッシュと大縄跳びは、クラス全員参加な」
そう言うと、特に反対の声は出なかった。
種目表には、少しずつ名前が埋まっていく。千綴は黒板を眺めながら、自分は百メートル、綾乃は借り物・借り人、ヴァシリオスはリレー、環はパン食い競争と、それぞれの予定を改めて確かめた。
体育祭という言葉だけだったものが、少しずつ自分たちの予定になっていく。
やがて種目の一覧が回収され、生徒会へ提出する準備が整えられていく。
体育祭は、まだ先だった。
昼休みになると、窓の外の日差しは朝よりもずっと強くなっていた。
弁当を広げた千綴のところへ、綾乃が椅子を寄せてきた。
「ねえ、さっきの種目決めだけど」
「ん?」
「やっぱり借り物・借り人競争、楽しそうじゃない?」
「まだ言ってる」
「だって、何を借りることになるか分からないんだよ?」
「人だったら?」
「それも面白いじゃん」
綾乃は楽しそうに笑った。
向かいでは、環がパンを食べながら二人の話を聞いている。隣では、ヴァシリオスも自分の弁当を広げていた。
「綾乃、パン食い競争にすればよかったのに」
「なんで?」
「食べ物だから」
「理由になってないよ」
環は特に気にした様子もなく、もう一口食べた。
少し遅れて、悠司が教室にやってきた。
「悪い、待たせたか」
「ううん、大丈夫」
悠司はそう言いながら、椅子を引いて腰を下ろす。
「悠司も体育祭の種目、決めたの?」
「ああ、リレーに出ることにした」
「ヴァシリオスも同じだよ」
「そうなのか」
千綴がヴァシリオスへ目を向けると、ヴァシリオスは満足げに頷いた。
「悠司も走るのか。ちょうどいい」
「無茶な作戦は立てるなよ」
「立てない」
「その返事、信用できないんだけど」
環が小さく笑った。
昼休みの教室には、あちこちから話し声が聞こえている。
体育祭の話をしている生徒もいれば、まったく別の話をしている生徒もいる。
「そういえば、先生も言っていたけど、体調には気をつけないとね」
千綴が言うと、悠司が頷いた。
「そうだな。俺のクラス、一人休んでた」
「風邪?」
「聞いてない」
そんな話の流れで、ヴァシリオスがふと口を開いた。
「季節の変わり目だからな」
「うん?」
「師走という言葉があるだろう。師走とは、季節の変わり目で体調を崩す者が増える月のことだ」
「え、そうなの?」
「そうだ。だから師走という」
「……なんか違う気がする」
綾乃が首をかしげた。
「師走は、年の暮れのことだよ。今は九月だし」
「そうなのか」
「そうだよ」
環が呆れたように付け加える。
「師じゃなくて、先生が走り回るほど忙しいから師走なんだって、前に聞いたことある」
「そうか」
ヴァシリオスは納得したように頷いた。
「では、今はまだ師走ではないということか」
「うん、全然違う」
「なるほど」
「お前、たまにそういうことを言うよな」
悠司が横で苦笑している。
「そうか?」
「そうだよ」
「中村くんって、たまに変なこと言うよね」
綾乃が笑っている。
「そうか?」
「そうだよ」
しばらくすると、ヴァシリオスが体育祭とは関係のない話を持ち出した。
「あと、聞いたか。近くの家のドアが急にピンク色になったらしい」
「はい?」
「一晩で塗り替わっていたそうだ」
「誰かのいたずら?」
「分からない。それと、その近くで青い猫みたいなものを見たという話も聞いた」
「猫、青いの?」
「らしい」
環が興味を引かれたように顔を上げた。
「なにそれ、面白そう」
「本当かどうかは知らない。ネットで見ただけだ」
窓の外では、まだ蝉の声が細く続いている。数はもう、真夏ほど多くない。
そんな話をしているうちに、昼休みは終わりに近づいていた。
放課後になり、教室を出た千綴は鞄を持ち直して生徒会室へ向かった。
廊下には、帰宅する生徒たちの声が響いている。廊下を抜ける風には、昼間よりいくらか涼しさが混じっていた。
体育祭が近いせいか、今日はいつもより残っている生徒も多かった。
生徒会室の扉を開けると、先に来ていた鈴が顔を上げた。
「お疲れさまです、弥生先輩」
「お疲れさま、鈴」
千綴は空いている椅子に座る。机の上には体育祭の種目表や参加者一覧が並び、隅には文化祭に向けた資料も重ねられていた。昼間に教室で決めた内容も、すでにいくつか反映されている。
「これ、うちのクラスの分」
千綴が自分のクラスの一覧を差し出すと、鈴は既存の表と照らし合わせていった。ペン先が紙の上を滑る音が、しばらく続く。
「一年の分もだいたい集まってます。エレディトは障害物競走でした」
「本人はそれでいいの?」
「やる気みたいでしたよ」
「鈴は?」
「借り物・借り人競争です」
「綾乃と同じだ」
「奇遇ですね」
鈴が小さく笑った。
千綴はその欄へ目を向けた。名前の横には簡潔に種目名だけが記されている。机に広げられた全体の表を眺めながら、今日決まった種目と参加者を確認していった。
しばらくして悠司も生徒会室へやってきた。
「お疲れ」
「お疲れさま」
「これ、うちのクラスの分」
悠司が持ってきた一覧を鈴へ渡し、鈴はそのまま他の表との照合を始めた。
二人分の一覧を確認し終えた頃、生徒会室の扉が開き、会長が姿を見せた。
「お疲れさまです」
千綴と悠司、鈴がそれぞれ声を掛ける。
会長は机の上の資料へ目を向けた。
「副会長、進んでる?」
「はい。今日決まった分は、だいたい整理できています」
千綴が答える。
「じゃあ、こっちを頼めるか」
「分かりました」
会長は別の資料を手に取った。
「何かあったら呼んで」
「はい」
それだけ言うと、会長は生徒会室を出ていった。扉が閉まるのを見届け、千綴はもう一度机の上の資料へ視線を戻した。
「じゃあ、続きやろう」
「はい」
鈴が頷き、悠司も資料を揃え直す。紙をめくる音だけが、しばらく生徒会室に続いた。
体育祭まではまだ少し時間がある。それでも、準備することは少なくない。作業を続けるうちに、いつの間にか窓の外はいつもより暗くなっていた。
帰り支度をしながら、千綴は小さく息を吐く。
今日は少し帰りが遅くなりそうだった。